No.200 2023/9/9
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 「はがき通信」のあゆみ

○1989年 創刊前のよびかけハガキ
 創刊前年の12月に向坊さんが、投稿を呼びかけるために数十名の四肢マヒ者にハガキを送られました。このハガキから、「はがき通信」は始まりました。

 いかがお過ごしですか。平成元年にちょうど、神経科学総合研究所の松井先生にお会いでき、頸損上位の我々の四肢マヒ者の情報交換誌を発行していただくことになりました。お互いに不自由な我々の交流のために協力して下さる方が現れて、こんなにうれしいことはありません。
 私の場合、受傷歴30年のC4.5ですが、7年前までコンドーム式の排尿方法を知らず、オムツをはめて外国旅行に出かけたことがありました。
 交流を通じて少しでも多くの知り合いになり、励まし合いましょう。他に頸損の方があれば、ぜひ名前と住所をお知らせ下さい。皆さんの寄稿もお待ちしています。ハガキでも電話でも結構です。合掌


○1990年 「はがき通信」創刊号の発行

 創始者は向坊弘道さんと(当時、東京都神経科学総合研究所社会学研究室に勤務の)松井先生です。四肢マヒ者が情報も少なく孤立していることを憂慮して、情報を交換して交流を深め励まし合うために、2月に“高位頸髄損傷者の通信”「葉書通信」をB4判紙の表と裏から創刊しました。
 ※2号から四肢マヒ者の情報交換誌「はがき通信」に名称変更します。

 「はがき通信」創刊号

 《ごあいさつ》

 寒中お見舞い申し上げます。
 昨年末に向坊弘道氏の「よびかけ」をお送りしてから約2カ月経ちました。よびかけ人の向坊氏は現在フィリピンに滞在中です。3月の帰国では間隔があきすぎますので、僭越ながら私が向坊氏の代行として第1号を発行させていただきます。
 「よびかけ」を郵送後、数人の方から私の研究室に賛同のお手紙やお電話をいただきました。なかには呼びかけたからには続けて発行してほしいという注文もありました。1号で中断せず、定期的に発行できるようにしたいと思いますが、そのためにも最初から欲張らず、継続できるような方法を工夫しながら、この通信を高位頸損者の情報網の1つにしていければと願っています。
 1990年2月1日 松井

○5号(1990年)からA4サイズ、7号(1991年)からB5サイズ、19号(1993年)から再びA4サイズに変更。


○1996年 無償送付から有料に変更される

 発行経費について一部のご寄付以外は、神経研社会学研究室の負担で運営されてきました。4月から松井先生が浜松医科大学看護学科に異動されることになり、無償送付できるのも38号(3月)発行までになりました。
 読者に意見を求めて、39号から継続か?継続運営するなら読者からの寄付か会費制なのか?を伺いました。多くの方から「会費制での継続を望む」との意見が届き、「会費はできるだけ低額に」という意見もあり、年間購読料を1000円にて有料継続していくことになりました。


●前列左から瀬出井さん、向坊さん、松井先生

○「はがき通信」懇親会in浜松1996
開催 43号

○1997年 「低料第三種郵便物)の認可を受け郵送費の負担が減る

 48号からは郵送料の安い「第三種郵便物認可」を受け、送付に必要な文字が入ります。誌面がA4サイズからB5サイズに変わるようになりました。

○「はがき通信」懇親会in浜松1997 開催

○1998年 「はがき通信」ホームページを開設

 6月から購読者への付加サービスおよび社会貢献として、「はがき通信」ホームページを開設しました。

○「はがき通信」懇親会in浜松1998 開催 55号

○「はがき通信」懇親会in広島1999 
開催 60号

○「はがき通信」懇親会in福岡2000 
開催 66号

○「はがき通信」懇親会in横浜2001
 開催 72号

○「はがき通信」懇親会in京都2002
 開催 78号

○2003年 「はがき通信」スタッフの全員が四肢マヒ者で構成される

○「はがき通信」懇親会inハワイ2004
 開催 88・89号

○「はがき通信」懇親会in京都2004
 開催 90号

○「はがき通信」懇親会in小倉2005
 開催 96号

○2006年 100号記念号と資金不足

 100号を記念する予定でしたが、甚だ残念ではございますが向坊さんがお浄土に旅立たれて、多くの方より追悼文が届きました。
 そして資金残高が数万円になり存続危機となる。急場をしのぐため目標額20万円の寄付金を誌面(7月25日発行)にて募ったところ、わずかの期間で65名の方から65万円(10月1日現在)もの多額の寄付金を賜りました。

○「はがき通信」懇親会in広島2006
 開催 102号

○「はがき通信」懇親会in京都2007
 開催 108号

○「はがき通信」懇親会in京都2008
 開催 114号

○「はがき通信」懇親会in東京2009
 開催 120号

○「はがき通信」懇親会in沖縄2010
 開催 122 123 124号

○「はがき通信」懇親会in横浜2011
 開催 132 133号

○「はがき通信」懇親会in福岡2012
 開催 138 139号

○「はがき通信」懇親会in広島2013
 開催 144 145号

○「はがき通信」懇親会in福島2014
 開催 150号
 (東京頸髄損傷者連絡会・神奈川頸髄損傷者連絡会・栃木頸髄損傷者連絡会・福島頸損友の会の合同開催)

○「はがき通信」懇親会in横浜2015
 開催 156 157号

○「はがき通信」懇親会in姫路2016
 開催 162号

○2017年より年間購読料を1500円に値上げしました


○「はがき通信」懇親会in広島2018
 開催 174号

○「はがき通信」懇親会in横浜2019
 開催 180 181号

○2021年度・192号(12月)まで有料送付が終了
し、購読受付停止。2022年度・193号(2月)から無償送付の開始。

○200・最終号にて紙面発行は終了


 ※新体制での始動に向けて鋭意準備中

 ◆購読者数のおおよその推移


40号 1996.7 約200名(7月現在)
41号 1996.9 約250名以上
43号 1997.1 303名
(43号から購読者と表記)
50号 1998.3 416名
51号 1998. 5 416名
52号 1998.7 424名
56号 1999.3466名
59号 1999.9 476名
62号 2000.3 490名
65号 2000.9 506名(9月現在)
71号 2001.9 515名(8.26現在)
74号 2002.3 511名(2.20現在)
76号 2002.7 510名(6.24現在)
77号 2002.9 511名(8月末現在)
78号 2002.11 508名(10.15現在)
84号 2003.11 519名(10.21現在)
90号 2004.11 518名(10.12現在)
94号 2005.7 485名(6月現在)
96号 2005.11 487名(10.26現在)
99号 2006.5 477名(4.23現在)
110号 2008.3 384名(2.18現在)
116号 2009.4 376名(3.30現在)
122号 2010.4 363名(3.25現在)
128号 2011.4 356名(3.14現在)
134号 2012.4 343名(3.19現在)
140号 2013.4 323名(3.19現在)
146号 2014.4 315名(3.19現在)
152号 2015.4 272名(3.23現在)
158号 2016.4 226名(4.6現在)
164号 2017.4 232名(3.18現在)
170号 2018.4 223名(3.22現在)
177号 2019.6 215名(3.29現在)
182号 2020.4. 203名(4.1現在)
185号 2020.10 197名(9.1現在)
194号 2022.4 190名(3.25現在)
200号 2023.7183名(3.10現在)

 コロナ感染記 

(C1.2不全麻痺)

 1月末に新型コロナウイルスに感染した経験を投稿します。頸椎損傷1.2不全麻痺です。
 
2023年1月26日(木)
乳癌の検査があり病院に行く予定でした。朝いつも通り熱を測りましたが、36.3℃でした。病院に行き、マンモグラフィー、エコー検査を受けて、夜も36.6℃でした。でも、1日中喉が乾燥していました。

 27日(金)朝起きるとすごく喉が痛く、出勤してきたヘルパーさんA事業所に防護服とゴーグルと手袋をしてもらい、熱を測ってもらうと、37.7℃あり、すぐ病院に行き、検査を受けるとインフルエンザもコロナも陰性でした。薬をもらい、ピーエイ配合錠とカルボシステイン錠とアスベリン錠とトラネキサム酸錠とロキソプロフェンNa錠とレバミピド錠。家に戻り熱を測ると、36.6℃でした。
 4社の訪問介護事業所を利用していますが、今日の事業所は利用者宅に、防護服・ゴーグル・フェイスシールド・手袋・ゴミ袋が、部屋の外に置いてあるので利用してもらいました。(金)夜もその後のヘルパーさんから念のため防護服とゴーグルと手袋をしてもらいました。37.4℃。厚着をしたり、お布団を掛けると普段から37.5℃は出る場合もあるので経過観察。

 土曜朝、36.6℃。熱がないので病院に行きませんでした。土曜夜、38.1℃。喉が痛い以外普通なので、CMで見る唾液を採取して15分でコロナの結果が解る検査キットで検査をするも陰性でした。
 日曜朝、B事業所、36.5℃。つばを飲み込むだけで喉が痛い。午後に厚生労働省が事業所に配られた検査キットをヘルパーさんが持っていたので、鼻腔内の細胞を採取して検査しても陰性でした。日曜夜35.8℃。

 月曜朝、A事業所、35.8℃。朝、喉が痛いので再び病院へ。インフルエンザの検査を受けたらコロナの陽性でした。病院の先生が、「先週の金曜日に喉が痛いときからコロナに感染していたね。木曜日まで隔離して過ごしてください」

 そうなると、各事業所と訪問看護などへ連絡。対応はさまざまで、従業員の生活を守るために訪問中止になる事業所と、別室待機でおむつ交換と食事介助の最小限で防護服・ゴーグル・フェイスシールド・手袋で対応してくれる事業所とありました。来ていただいたAとC事業所の9名のヘルパーさんには、本当に感謝しています。

 感染しないように、健康に日々気をつけて生活していたつもりですが、どこで感染してしまったのか……。家族もAとC事業所は、全員陰性でした。空気感染なのか、物に菌が付着していたからなのか、不思議でした?!人が出入りする以上、覚悟はしていたものの12月にコロナのワクチンを基礎疾患枠で5回目打てていたからなのか、去年肺炎球菌のワクチンを打ったからからなのか、38.1℃の発熱が1回と焼けるような喉の痛みだけで生還できたのは、奇跡でした。
 2回目の病院の検査でコロナ陽性になり、前回の薬+ツムラ桔梗湯エキス顆粒が追加されて飲むようになってから劇的に喉の痛みが回復しました。薬剤師さんが桔梗湯エキス顆粒を白湯に溶かして、喉全体に桔梗湯(ききょうとう)エキスの白湯が染みわたるように錠剤を飲むと良い、とえてくれました。
 頸椎損傷でコロナに感染しても後遺症なくて良かったです。ケアに入っていただいたヘルパーさん・家族も感染することなく1週間乗り切れました。

静岡県:ロッツォ

 八十路を生きる 

 (83歳、頸損歴33年、C3-5、♂)

 余命5年……と言われて退院し30余年、83歳になる。両親、妻と子供2人の6人暮らしであったが、今は同い年の妻と老々2人暮らし。
 週2回の外出日は、電動車いすで1人でリハビリ通院、町内散策、ショッピング。時には頼まれて小中学校に総合学習のお話ししに出かけたり、けっこう自分なりに充実した時期もあった。そうそう、夕方になると、仕事帰りの妻を迎えに、リハビリを兼ねて手動車いすを漕いで、陸橋の傍で暮れなずむ山並みを見ながら待った日々も懐かしい。
 振り返れば、「はがき通信」とのご縁は受傷8年後、妻の友人が頸損者(S.K氏)のホームヘルパーをしていたことから紹介されて、1997年45号に「歯科医院で気分が悪くなり転倒」というタイトルで自己紹介を兼ねて初投稿してからである。

 それから2年後の還暦目前に参加し、60号にも投稿した受傷後初めての小旅行、懇親会in広島(1999)が忘れられない。妻の協力は勿論だが、ホームヘルパーIさんの「便の心配してたら何処にも行けんよ、行こう! 私も行くけん」の一言が肩を押してくれて実現したものであった。案の定、懇親会での発表途中から突然の便意、発表をそこそこに済ませてトイレに飛び込み最悪を逃れたことであった。当時は、多少脚の踏ん張りができて、移乗も比較的楽にできたから良かったものの、今だったらと思うとゾッとする。
 受傷以来収尿管理についてはユリドーム(コンドームタイプの男性用排尿器)を使用しているので、装着部の皮膚管理には気を遣う。就寝時はウロガードを使用していたが炎症を起こしがちで、尿器に換えたが容量が足りず、途中で捨尿に家族の手を煩わせるのが心痛であった。そこで出会ったのが4号掲載の故向坊氏の通信である。ここからヒントを得て考案したのが147号に投稿した「改造尿器」であり161号に投稿した通常尿器と安楽尿器をコラボした「改造尿器DX」である。以来、夜の収尿でトラブルや心痛はない。
 毎号楽しみに拝読してきたが、排便コントロールに関するものが結構多かったし、注目してきたが、こればかりは〝個性〟ゆえに永遠のテーマではないだろうか。未だに確立していない。
 老化を感じたのは76号で投稿した「老化かな~!」で書いたが、還暦過ぎて間もない62歳であった。意思を伝えようとするが名前や言葉が出て来ない、「……?」言葉探しをしている間にタイミングを逃がして、シラケ鳥が飛んでいくというやつである。

 八十路に入ると、それらに加えて身体の拘縮を少しずつ感じるようになった。先ず肩甲骨が張り付いて腕の可動域が狭くなり、使っているヤマハの簡易電動車いすのジョイスティック操作が無意識でもできていたのが、今は肩甲骨を強く意識して腕を動かさないとできない。握力・感覚が鈍りフォーク、スプーンをときどき取り落とす。片方の腕がほとんど動かせなくなった。プッシュアップができなくなって不安定になった体位を戻せず痙性が怖い。体幹が硬くなり前屈ができない。これらは、車いす操作を手動から電動にした頃から徐々に始まっていたのではないか。簡易電動ユニットにする時、その気になればレバーを切り替えて手漕ぎができるから……これが甘かった後の祭り。

 いつも妻は、就寝ケアのヘルパーが帰ってしばらくして私の隣りにあるベッドに休みに来るのだが、今夜はまだ来ない。午前3時、まだ廊下の灯りが点いたままで、来た気配はない。急に胸騒ぎを覚える。以前、転倒して動けず発見がもう少し遅かったら脱水症状で危ないところだったことがあったからだ。時が経つにつれ心配は募る。
 一緒になって今年は60年、半分以上の年を重度障害の私の面倒を見るのに費やした。退職したら2人で好きなことをしようと話したこともあったのに……夫が俺じゃなかったら楽しい人生を歩んでいるだろうか……、想いは際限なくネガティブ思考に落ちていく。
 一睡もせず迎えた朝の6時、まだ来ない。万一の時の連絡と手配、起床ケアに来るヘルパーには一番に別室を覗いて119番してもらおうと半ば腹を括った。我ながら不思議な心境になっていた。8時半、微かな足音がして戸が開き、何時も一番にするお茶の入った水筒を持って妻が入って来た。歓喜と極度の緊張からの解放、その瞬間の気持ちは思い出すことはできても言語に表すことは不可能である。手を握り、堪えることができない滂沱(ぼうだ)号泣、自らとは思えなかった。(これも自分のせい……というのが頭のどこかにあり)一晩何をしていたのかは訊いていない。笑顔の多くは妻に行くのか、他の人との間では出なくなった。近々、介護保険の認定調査を受ける予定だ。せっかくの八十路、仲良く歩んで行きたい。

 「はがき通信」スタッフの皆さん長い間ご苦労様でした、そしてありがとうございました。今後も、友人仲間としてお付き合いいただければ幸いです、よろしくお願いします。
 

佐賀県:K.N.

「はがき通信」60号「素敵な記念と思い出」
はがき通信−60号-1ページ (normanet.ne.jp)

「はがき通信」147号「改造尿器」
normanet.ne.jp/~hagaki-t/pcc147a.html

「はがき通信」161号「改造尿器DX」
normanet.ne.jp/~hagaki-t/pcc161a.html

 「はがき通信」ありがとうございました 

(66歳、C4、頸損歴30年目、人工呼吸器、電動車イス使用)

 私の「はがき通信」への初投稿「人工呼吸器とさよならする方法を教えてください」(73号2002/1) を読んでみました。「はがき通信」の存在は、受傷2年目の1994年秋に東京都リハビリテーション病院入院中に知ったようです。その後、2000年春にインターネットを使えるようになって、さらに投稿までは1年半かかっています。

 前記73号に書いたのですが、「はがき通信」の項目別検索で「人工呼吸器」を拝見し、カフ付き気管カニューレからカフなし気管カニューレに変更してもらうことによって、それまでのか細い声とは比較にならない声を得たのでした。施設で生活していた私が今、地域に移行して訪問介護事業所経営兼総務係という仕事ができるようになるための大きな一歩でした。

 私の記録によれば、今回で「はがき通信」への投稿が46回になります。その内容は、地域移行~仕事をするための一歩一歩でした。「受傷後初めての一泊旅行」(84号)、「リクライニング車イスで新幹線に乗る」(103号)、「『はがき通信』懇親会in沖縄に参加」(123号)、「人工呼吸器を使いながら飛行機に乗る」(124号)、「受傷後初めての3泊4日」(162号)等です。
 特に、沖縄の懇親会への初参加においては、種々のトラブルの結果、那覇の国際通り800mを、人工呼吸器を使えない状態でギャッチアップ・ダウン繰り返して電動車イスで行進し、レセプション会場に1時間ほども遅刻してしまいました。到着しても酸欠状態でか細い声しか出なかったので、皆さんにご心配をおかけし、話しかけてもらっても、まともに返答さえできなかったのでした。しかし、懇親会に参加することに意義があると言っていただき、それからは懇親会が私の毎年の目標と楽しみになりました。

 そして懇親会には、2010年沖縄、2011年横浜、2012年福岡、2013年広島、2014年福島、2015年横浜、2016年姫路、2019年横浜と8回参加させていただきました。懇親会は、宿泊する毎年の唯一の機会であり、皆さんの元気な顔を拝見して、私も元気をいただいたのでした。主催いただいた方々には心から感謝申し上げます。

 今号で「はがき通信」が終了することを残念に思います。しかしながら、編集部の方々には30年以上も続けてこられた方もおられると伺って驚くばかりです。原稿集め、校閲、編成、ホームページ作成等々、納期も意識しつつ気苦労が多かったことでしょう。本当にご苦労様でした。地域移行できるということさえ知らなかった私をここまで導いてくれた「はがき通信」ありがとうございました。
 (2023年4月8日記)

新潟市:T.H.


●福島懇親会・左からHさん、Sさん

「はがき通信」73号人工呼吸器とさよならする方法を教えてください
はがき通信−73号−1ページ (normanet.ne.jp)

「はがき通信」84号「受傷後初めての一泊旅行」
normanet.ne.jp/~hagaki-t/pcc84a.htm

「はがき通信」103号「リクライニング車イスで新幹線に乗る」
normanet.ne.jp/~hagaki-t/pcc103a.htm

「はがき通信」123号「『はがき通信』懇親会in沖縄
に参加」
normanet.ne.jp/~hagaki-t/pcc123a.htm

「はがき通信」124号「人工呼吸器を使いながら飛行機に乗る」
normanet.ne.jp/~hagaki-t/pcc124a.htm

「はがき通信」162号「受傷後初めての3泊4日」
normanet.ne.jp/~hagaki-t/pcc162a.html

 「はがき通信」にいただいた思い 

(60代、女性、ロシア春夏脳炎罹患後30年、諸後遺症)

 1993年に私は高熱・頭痛などで倒れました。一命は取り留めましたが諸障害が残り、車いすユーザーになりました。半年後に判明した病名はロシア春夏脳炎(ダニ媒介ウイルス性脳炎)でした。
 1995年にリハビリを受けるために某大学附属病院へ行き、そこのOT(作業療法士)の方から、四肢麻痺者の情報交換誌「はがき通信」を受け取りました。これこそが
、その後の私の生きる姿勢に大きな影響を与えたのです。
 重度障害者になってからも、私は温かい家族に恵まれながら自宅で過ごしています。重度訪問介護や居宅介助を利用してはいるものの、今も夫の全面的な協力の下、私は生活しています。最初の頃は「負けるもんか!」を心の中で繰り返していたけれど、それでも世間から離れてしまった私なんか忘れ去られていくのだろうという思いを打ち消すことはできませんでした。色とりどりに輝く街を見ると自分ひとりだけがモノクローム。悔しくて寂しくてたまらず、焦りは募るばかり。
 「はがき通信」と出会うまでは悶々とした思いを抱えていました。けれど2ヵ月に1度、通信との逢瀬を重ねるうちに、私は惚れ込んで選んだ北海道の片隅で生き直そうとする気持ちを強くしていきました。

 岐路に立つとき
(1999.9.12)
突然の暗闇
何も見えない
手足も動かず、声も出ず
心は悲鳴を上げ続けた
次第に現実は全貌を現す
非情な事実に
自分が何処にいるのか

時間は過ぎていった
おごりもてらいも、つぶされて
ひたすらに自分を見つめる時間
気づくと
ここは岐路
人として誇りを持って生き抜くか
全てを諦め、暗闇に身を潜めるか

長い沈黙
ためらいと恐怖の繰り返し
顔をそむけたら負ける
自分に負ける

今は前だけを見つめよう

◆1995年

・地元の上磯町(現北斗市)体育館を使用するに当たり身障者用トイレ設置の必要性と、近所の高齢者向けデイサービス利用(当時、自分は40歳過ぎだったが)の許可を願い出ようと、上磯町長に面談を申し込み、快諾を得る。これ以降、上磯町は With You(後述)の活動にも理解を示してくださっている。
・件のOTさんから九州のFさんを紹介されていたので、連絡を取り、SHIFT7を送っていただき、「はがき通信」へ原稿を送る。
・北海道厚沢部町(現在は七飯町に移転)の「工作室はらっぱ」さんに坐位保持装置を作っていただく。

◆1996年

・友人の好意で入手したパソコンを始める(足でフットマウスを使ってクリックバレットで入力)。
・「はがき通信」で私の名前を見つけた北海道江別市のKMさんよりメールをいただき、北海道四肢・体幹麻痺の会を知る。これが私の視野を広げる第一歩となる。
・秋、地元での自分の居場所を作ろうと思い立ち、上磯町内の中途重度身障者数名に声をかける。このときに上磯町の保健婦さんと保健福祉課の課長さんがご助力くださった。

1997年
・春、翌年の車いす更新を踏まえ、自分の生活にあった車いすを検討すべく、札幌円山の北海道立心身障害者総合相談所(以下「総合相」と記す)へ行き、脚駆動式の屋内用と屋外用の電動車いすを作成する方向で考えることになる。
・夏、「With You〔中途重度身障者の会〕」の会報第1号を発行。言い出した責任上、会長となる。
・初秋、脚駆動式車いす「FWC(Fot Wheel Chair)」が届く。ハイバックの傾きと移動のしやすさに感激。そして晩秋、電動車いすヤマハのJWⅠ入手。右手で操作練習を繰り返すが思うように動かせず、左手の緊張が次第に強くなり、後に苦労することになる。

◆1998年
・春、足操作タイプ電動車いす模索のため、再び総合相へ。
・5月、「With You」の会則ができ、設立総会を行う。
・6月、ニセコにて行われたパソ通のわがままねっと(札幌市KM代表が主宰)のオフラインミーティングに参加。
・7月、待望の足操作タイプ電動車いすが完成。ほぼ期待通りの出来。一人で操れる車いすは、私にまた新しい世界を広げてくれそうな予感がする。
・11月1日、函館芸術ホールにてハープ奏者の池田千鶴子さん(地元の社会福祉法人「侑愛会」の関係で知り合う)のご協力を得て「With You 発足記念コンサート」開催。成功裡に終わる。

◆2010

侑愛会のピア・カウンセラーとなる。

◆2012年
 With You〔中途重度身障者の会〕はWith You〔前向きな障害者と仲間達〕に名称変更。今年、創立25周年を迎え、会員70名、会報95号を数えるまでになった。冬期間以外の毎月、バーベキュー、食事、ドライブ、芸術鑑賞、勉強会などを行ってきた。コロナ禍になってから、会報発行以外の活動は中止している。

◆2016~2018年
の2年間、第5期北海道障害者会議に参加。

◆2014年
度から現在まで9年間、渡島圏域地域づくり委員を務めている。

◆四半世紀も経てば健康な人だって体は変わる。まして障害がある分だけ無理を掛けるから更に支障は出てくる。ご多分に漏れず私も車いすには何度も手を入れてきた。そして最初のFWC考案・製作者エンジニアの西村重男さんと坐位保持装置の考案・製作者「工作室はらっぱ」の村上眞人さんが、この3年半程かけて丹念に試行を繰り返し、世界で1台のFWCあつこSP.を完成!電動車いすもリニューアルしてくださった。

 「はがき通信」に背中を押された第Ⅰ期の1995~1998年に、私は現在、使用している車いすの原型と出会い、地元で障害者の会を作ることができました。この事は私が障害者として生きていくために欠くべからざるポイントとなりました。
 そして21世紀になってから2014年9月までの第Ⅱ期には、「はがき通信」から得た、思い、経験、知識、発想などを読んで、喜怒哀楽を皆様と共に感じているような気持ちになりながら、わずかずつでも進む勇気をいただいて、With Youの他にもトライできそうな事をやってきました。「はがき通信」には数回程の投稿をしてはみるものの、何やら的外れで稚拙な文章になってしまうのでした。

 魅力的なメンバーの皆様は雲の上の方々でした。ところが初めて「はがき通信」を手にしてから、約20年経った2014年10月に《2014年「はがき通信」懇親会 in 福島》が開催されることを知りました!絶対に行くと決めた私は、JRで福島までの切符を手配しました。
 あの1泊2日の旅は忘れられません。ずっと憧れていた皆様とお目にかかって、お話しする機会をいただて、私にとっては本当に得難い体験でした。わずかな時間を共にしただけで有頂天になり、再会を約束して別れてきました。あの日から少し自信を持って、「はがき通信」と歩き始めた第Ⅲ期の私がいました。
 それなのに世の中、何が起こるか分かりません。相次ぐ自然災害、何かある度に「あの人は大丈夫かしら?」と気を揉むだけで月日は流れていきました。現在はコロナ禍で、普段でも外出が困難な私達は軟禁状態にあります。

 そして、ついに「はがき通信」が本号で最終号となってしまうことに大きなショックを受けました。全国誌だから、きっと今に後任者に手を挙げる若者がいるに違いないと信じていたけれど・・・。
 編集者の瀬出井さん、藤田さんのお二方を始めとして、「はがき通信」を33年にも渡って営々と受け継がれて来られた方々に、勇気と知恵と生きる意味を考えるベースをいただき続けてきた一読者から、謹んで敬意と感謝を申し上げます。
 誠にお疲れ様でございました。素晴らしい言葉、情報、そして皆様との出会いを、本当にありがとうございました。
 また、いつかどこかでお目に掛かる機会がございますことを、心よりお待ち申し上げております。

北海道:A.S.

 歩きたいARUKITAIある期待

 (60代、男性、受傷後20年+、C5/6)

20年前、国リハを退院し妻と二人で新しい生活を始めました。四肢マヒ者の衣・食・住と医・職・自由に関する情報を求めていた私にとって、「はがき通信」はまさに宝の山でした。ネット版のバックナンバーをむさぼるように読みました。自分を襲った悲劇には泣かなかった私が他人の体験談に涙をこぼしていました。
自分の心身を管理し新しい環境に対応するために課題の解決を迫られる毎日でした。全ての課題を解消する根本的かつ最善の解決策が身体機能の回復であることは初めから分かっていました。在宅生活を始めたころ、こんなことを思っていました:

 “頸髄の損傷に伴う四肢の麻痺により歩くことを奪われても、「歩きたい」という強い願望と「自分だけは特別で、……」というある期待、この2つのARUKITAIが自分の中に渦巻いています。
救急病院では心の平穏を保つことが、リハビリ病院では現実的な選択を行うことが最も重要でした。在宅にあっては個人差が出てきます。自己責任での能力向上を目指すかどうかです。だからこそ、自分の意志で脚を動かせるようになった時、すなわち不全麻痺となった時、歩くことは夢や希望でなく必然なのだと自分自身に思い込ませます。
ところが、脊髄損傷に伴う不全麻痺の者が歩きを取り戻す方法は確立していません。自ら探し求め、自身で試し、工夫を重ねます。脊髄損傷以外のケースにも回復のヒントを求めます。万能の処方箋(しょほうせん)はないのでしょう。「人生に公式なし、されど人生に解答あり」という言葉があるように、それぞれが自分の問題の解答を探し求めることになります。
いずれにしても、能力とやる気と危機感が不可欠です。一つ目は身体能力です。随意に動かせる筋肉の量が多ければ多いほど有利です。二つ目は鍛錬の仕方を工夫し、継続していく意志の力です。三つ目は人間を駆り立てる最も強い感覚です。「歩けない限り、……」という思いは一日も早い歩行能力の奪還、すなわち新たな歩行術の獲得を自分自身に迫ります。”

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20年の間に、職場復帰と定年退職、三度の転居を経験しました。週一の訪問リハと週五の妻のアシストによる立位訓練は続けていますが、「歩きたい」という悲壮感はもはやありません。自分も環境もいろいろ変わりましたが、「はがき通信」が隔月のお楽しみであることは変わりませんでした。発行を裏方として支えてこられたスタッフの皆様には心から感謝しています。
私もDRYの名前で何度か掲載していただきましたが、編集担当の瀬出井さんと藤田さんには投稿のたびに気持ちの良いお便りをいただきました。お二人の成し遂げたことはまさに偉業です。私は神による奇跡は信じませんが、善い行いには善い報いがあると信じます。これが現在の「ある期待」です。

福岡県:DRYことT@KC

 かけがえのない仲間たち

 “何事にも終わりがある”。その言葉に助けられたことが幾度もありますが、まさか支え助け続けられた「はがき通信」に、そんなときが近づいているなんて……瀬出井さんから、何年も前から編集担当の後任者を探しているけど見つからない、と聞いていました。パソコン音痴につき、私が手を上げられないのが心苦しいばかり。200号まで頑張ってくださった瀬出井さんや藤田君には、感謝の言葉しかありません。ありがとうございました。

 「はがき通信」は、私を育ててくれました。懇親会でお会いした面々はより親近感を覚え、悩み事やたわいもない話をメールや電話で話し、心が豊かになるのですよね。いつまでもいつまでもかけがえのない仲間たちです。
 「はがき通信」を初めて手にしたのは今から27年前、不安いっぱいの在宅生活を控えた病院のリハビリ室。PT・OTの先生から手渡されました。開いてみると、楽しく当たり前の生活を過ごされている驚きの数々、希望が見えた瞬間でした。
 在宅生活が始まってからも悩みが尽きず、「はがき通信」が頼りでした。そんな中、広島にも頸髄損傷者の会『広島頸損ネットワーク』を立ち上げ、会報誌と共に活動が始まりました。「はがき通信」と合わせて心強さ倍増!


●2001年10月娘と初新幹線で横浜懇親会

 それから数年後、「はがき通信」懇親会が広島で開催されて、懇親会初参加。会報誌を読んでいるからか、初対面という緊張感はなく、すぐに打ち解け会話がはずみます。皆さんの明るい笑顔と活動的な姿に背中を押され、高校生の娘と2人で車いすになってから初めての新幹線に乗り、翌年開催された横浜懇親会(2001)へ。今から思えば無謀だったなぁと笑ってしまいますが、とても自信となりました。
 これをきっかけに可能な限り懇親会に参加し、誌面で興味を持った記事の投稿者から、もっと具体的に話を聞いたり、たわいもない日常生活の笑い話や旅行等の情報を得たり。会報誌はもちろんのこと、懇親会を楽しみにまた1年頑張ろう!と思うようになりました。

●宮島で記念撮影

 向坊さんの行け行けGO!GO!にはいつもドキドキでしたが、振り返れば私を大きく成長させてくださったように思います。懇親会での発表、いきなりの司会依頼、広島懇親会(2006)で宮島へ行くのなら、市電(広島電鉄)やフェリーを貸し切りにすればいいよ。Kさん頑張って!とか。そんなことできるわけがないけど、勇気を振り絞って市電、フェリー会社へ、貸し切りのお願いの問い合わせをしました。向坊さんが言われた通り会社に趣旨を一生懸命伝えると、良い方々に恵まれ快く受けてくださいました。くしくもその日、向坊さんの訃報を知らされました……。最期の置き土産だったのかな。


●貸し切りのフェリー、Oさん、瀬出井さん、Iさん、Nさん

 「はがき通信」の仲間は、きっと私と同じように情報発信して得ることで、助けられたり自信が付いたりされたのではないでしょうか。悩み事は真剣に考え、一緒に喜び悲しむことで『一人じゃないよ』と教えてくれました。インターネット社会の今、便利さにはずいぶん助けられています。でも、新聞と同じく誌面での情報交換は大変ですが手と手がつなぐ温もりは、この時代だからこそ大切ではないのかなぁと思います。編集担当の後任者が見つかり、どうか「はがき通信」情報交換誌の温もりが、少しでも長く続いて行きますように願います。

 広島市:M.K.

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