No.180 2019/12/25
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 さよならOさん! また逢う日まで 

 上記のタイトルは、「はがき通信」でお馴染みでした“玉ねぎおやじ”さんこと、故Y.S.さんにOさんが寄せた追悼文のタイトルを真似したものです。きっと天国で再会を果たされ、楽しく談笑されていらっしゃることでしょう。

 Oさんと初めてお会いしたのは、第2回(1997年)の浜松での懇親会だったと思います。お母さまと一緒に来られ、ヒョロリと背が高く色白で何となく弱々しいイメージが最初の印象として残っています。「はがき通信」の懇親会等を通じて、数々の頸損の方たちとお会いしてきましたが、長い年月のお付き合いの間にOさんほど最初の印象からたくましく、大きく成長された(年上の方に失礼かもしれませんが)頸損者は、私の中では今でもOさん、ただ1人です。
 実際にお会いできるのは、「はがき通信」の懇親会や頸損連の全国総会等、年に1~2度でしたが、もともと気さくでユーモアがあり、お話上手なOさん。ウマが合い、Iさんと『3人トリオ』で観光や食事を一緒に楽しみ親睦を深めました。大阪での頸損連の全国総会時(2008年)には、電動車いす3台で雨の中カッパを着て地下鉄に乗り、“オカマバー”まで繰り出したりもしました。エピソードもたくさんありの懐かしく、とても楽しかった思い出のひとつです。
2013年の広島懇親会では、1度訪問させていただきたかった『O邸』も拝見することができました。
 177号(6月号)が最後のご投稿となってしまいました。このときは、お電話をして原稿のお願いをさせていただいたのですが、Oさんにしては珍しく「間に合うように書けたら書くね」というお返事でした。今、思い返すと、体力、体調的にもきっとシンドかったのだなぁ……と。そんな中、短いながらも原稿をお書きくださったこと、改めてたいへんありがたく本当にどうもありがとうございました。

 1度目の心臓弁膜症手術が11年前と原稿にありますが、1度目のときも原稿をお願いさせていただきました。確か牛の人工弁で、15年で取り替えるとの記憶があります。そのとき「Oさんは15年後にまた手術をされるのだな」と、漠然と思った記憶もあります。4年早くなったということなのでしょうか?
 数年前から水彩画を始められ、毎年テーマを決めたカレンダーが秋に届くのを楽しみにしていました。今年のテーマは、“外国画家の摸写”。カレンダーは、もう届かないという寂しさ。せめて176号(4月号)の創作活動の特集で、4点ほど作品を拝見できてよかったなと思っていました。
 そんな折り、お兄さまから大竹さんが描かれた来年のカレンダーが届きました。Oさんがパソコンに残されていたという、ご自分の葬儀の挨拶文が同封されていて驚きました。お兄さまがおっしゃるように、2度目の手術の前にご自身の死期を感じていらっしゃったのかもしれません。

 「5月頃行くといいよ」と話されていた、Oさんが大好きだった上高地と北アルプスの絶景が見られる新穂高ロープウェイ展望台に、私はまだ行かれず仕舞いでいます。Oさんと一緒に行きたかったなと……叶わぬ願いです。

 挨拶文の最後に「もし、生まれ変われたら、困った人を助ける人間になりたいです。」とありますが、Oさん、あなたは、十分に困った人を助けてこられた人生だったと思います。
 X JAPANの曲『Without You』の、次のフレーズが頭の中でリフレインする……。
 ♪出会いの数だけ別れはあるけど 限りない時が続くと信じてた♪

編集担当:瀬出井 弘美

透明水彩画のススメ

透明水彩画のススメ(2)

心臓弁膜症手術その後

二度目の心臓弁膜症手術

 Oさん、ありがとう 

 Oさんが亡くなられたころ、心も体も少し疲れていた私は、窓越しからきらきら輝く穏やかな海を見ていました。ゆっくり深呼吸をしながら見ていると、だんだん心が落ち着いてきてやさしさに包まれて行く……。夕方訃報を聞かされた時、あの海を見ていた時だったのだと知りました。穏やかな時間を与えてくれたのはきっとOさんからのプレゼントで、自らも静かに安らかに旅立たれたのだろうなあと……。あれ以来、あの窓からきらきら輝く海を見るたびにOさんのことを思い出し、Oさんの分まで頑張らなくては、と思うようになりました。「笑って見送ってほしい。」って生前言ってたね。だけどいつまで経っても、ふっと寂しくなる……。

 Oさんと出会ったのは、21年前。在宅生活が始まって数ヶ月が過ぎたころ、広島でも情報の少ない頸髄損傷者の交流を集おうといった新聞記事を見ました。不安でいっぱいだったので希望の光が見えた瞬間でした。発信者はM・Hさんと今は亡きY.S.さん。その後H市心身障害者福祉センターで交流会があり、緊張しながら参加。想像を大きく超えた頸髄損傷者の数に驚いたと同時に、仲間がこんなにたくさんいるという心強さでいっぱいになりました。帰る時、速い速度で電動車が近づいて来て、「田中好子に似とらんね」と一言いい、速やかに立ち去った人がいました。変なヤツ……それがOさんでした。自己紹介の時「ちょっと田中好子似の……」といったので、ブーイングだったのでしょう(笑)。
 その後有志が何度も集まり「広島頸損ネットワーク」を立ち上げ、副会長、会長としてみんなを引っ張ってくれました。介護事業所『まいらいふ』を設立、自立。いつの間にか相談、愚痴や悩みを聞いてもらったり、たわいもない話が気兼ねなくできて、どこか安心できるなくてはならない存在になっていました。変なヤツは、実は良いヤツでした(笑)……泣ける……。

 もう会うことはできないけど、いつも心の中にいるOさん。夜になると、今でも電話がかかって来そうな気がする……。Oさんがいわれていた「誰かの役に立てるような人でいたい」、どこまでできるかわからないけど私も努力したいと思います。へこみそうになったら肩をトントン叩いて、またくだらないギャグをいって笑わせてくださいね。そして背中を思いっきり押してくださいよ。Oさんに出会えてよかった、ありがとう! 心よりご冥福をお祈りいたします。

広島市:M.K.

 兄貴 

兄貴、私はいつもそう思ってました。
私がリハビリを終えて自宅生活を始めて、生きる方向性を見失い悩み苦しんでいたとき、インターネットで広島頸損ネットワーク(のウェブサイト)を見つけてメールで相談しました。当時会長はY.O.。

『明日飲みにおいで』

飲みに行ったら電動車いすのおやじがホースでビール飲んどる!
『負けた! この人が師匠じゃ!』

私の原点を引き出してくれた人。そして私が広島頸損ネットの会長になって悩んだときいつも支えてくれた人。

俺の兄貴そのもの。

いつかは分かれなくてはいけないことは分かっているけどあまりに早い別れ。

本音は辛い、泣きたい。

先日『忘年会しようや』って話してたのに。。。

そう。。。。十数年前のことを思い出す

私:『体がビリビリ痛いんだけど治りますか?』

Oさん:『5年で治るよ』

5年後

私:『治らんよ』

Oさん『嘘よ! でもちゃんと笑顔で生きとるじゃん』

二人:『ははは・・・・』

就労のときも、私が会長になったときも、会の運営で悩んだときも。

こうして励ましてくれた兄貴。

でも兄貴はもういない。独り立ちをしないとね。

俺は泣きません! 笑顔で生き続けます。

天国で羨ましがってろよ! はげ兄貴!

広島県:K.T.

 Oさんの思い出 

62歳、C4、頸損歴26年目、人工呼吸器、電動車イス使用

  Y.O.さんの思い出と言えば、私がはがき通信懇親会デビューから3年目の2012年の福岡で、観光を御一緒させていただいたことです(はがき通信138号)。それまで2回は自分の体調が不安で観光は単独行動だったのですが、3回目はある程度大丈夫だろうと、OさんとSさんにお願いして御一緒させていただきました。JRと地下鉄を乗り継いで、太宰府天満宮をお参りし昼食までは何とか付いて行けたのですが、その後の九州国立博物館の4階に上がるエレベーターの前で、呼吸が十分できなくなって呼吸器のアラームが鳴りっぱなしになってしまい、お二人と別れて単独行動をする決心をしたのでした。Oさんの観光慣れした様子が印象に残っています。
  その後、Oさんが幹事をされた2013年の広島から2014年の福島から2015年の横浜と、お会いしてお話しできたことは私のそのたびの1年の励みになっておりました。
  一方、2015年の冬からOさんが口にくわえた筆で描かれた絵を載せたカレンダーをいただいておりました。今年もいただいたので5年間×12ヶ月=60枚分です。それは私のベッド横のいつも見えるところに貼ってもらっています。気づいた人がいたら、「口にくわえた筆で描いたものなんですよ。精緻ですよね。」と自分の自慢のように言うと皆さん驚いていました。私など及ぶべくもないOさんの絵心に感服いたしておりました。


●故Oさん(前列中央の方)と、天満宮にて

 また、OさんはNPOの理事長として、私は会社の代表として訪問介護事業をしているので、実は2016年2月から事業上の質問あるいは困りごとの相談をさせてもらっていました。2016年2月重度訪問介護の賃金、緊急時対応加算。2016年5月通勤手当と交通費、介護ソフト。2017年5月処遇改善加算の分配。時には会社規定までを添付して御回答いただきました。特に印象に載っているのは「わが社では、社員の賃金アップにためらう理由はありません。」という言葉でした。

  今年の懇親会でもお伺いしたいことがありましたのに、突然の御逝去は本当に驚きでした。今はただただ御冥福をお祈りするばかりです。Oさんいろいろとありがとうございました。
  (2019年10月29日記)

新潟市:T.H.

 Oさんの追悼文 

 Oさんの早すぎる訃報に接し、私はただ茫然とするばかりでした。
 2度目の手術をされてから、体調が戻らず貧血が酷いと言っていました。電話から聞こえる声が出しづらそうでガラガラの声になっていました。そして、タンが出せないことがとても辛そうでした。
 10月の横浜での「はがき通信」の欠席の電話があったときに「なかなか体力が戻らない」ことを辛そうに話をされていました。とても残念そうでした。それがOさんの声を聞いた最後となってしまいました。

 Oさんとの出会いは、「はがき通信」の懇親会でした。お互い身体が大きいことと、同じ年齢だったことですぐに親しくなりました。頸損のレベルC4の受傷もほぼ同じでした。Oさんの声は大きく肺活量もあってビックリしました。どうしてなのか尋ねるとカラオケで鍛えたんだとのことでした。それ以来「はがき通信」や「全国頸損会」でお会いするのが毎回楽しみで、夜ホテルを抜け出して夜遊びに行くことが楽しみでした。
 O家に遊びに行ったとき美味しい酒鍋をご馳走になったことや酒造巡りに行ったことを思い出しました。また、口で絵を描き始められ、カレンダーが届くのが楽しみでした。毎年、上達する絵を見るのが楽しみで、私も励まされていました。そんなOさんと突然に別れがくるとは……。大きなショックと寂しさで一杯です。もうOさんに会えないなんて……。

 私の心の中には、あなたがずっと光り輝いています。私はあなたからいただいた素晴らしい贈り物を胸に、これからの人生を歩みます。
 ご冥福を心からお祈り申し上げます。Oさん本当にありがとうございました。
 合掌

横浜市:M.I.

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