『臥龍窟日乗』-54-『グラバーの暗号—龍馬暗殺の真相』
『グラバーの暗号』について、本誌のNo.157(2016.2.25)に紹介を載せていただいた。あれから2年半。ようやく日の目を見ることになった。感慨深いものがある。副題は—龍馬暗殺の真相—だ。
できれば明治150年にあたる昨年に発刊したかったが、やれ装丁だ、帯だとやっているうち、半年オーバーしてしまった。でもまだNHKの『西郷どん』は続いているし、ブーム遅れはまぬがれるかなとほのかな期待を抱いている。
龍馬暗殺についてはいろんな方が書いておられる。いちばん有名なのが司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』で、これ以来、坂本龍馬は国民的英雄になった。もともと英雄とはそんなもので、それはそれでいいと思う。
史料をあたっていくと、実際の龍馬はときに気さくで如才(じょさい)ない男であり、ときにチャランポランであり、ときにテキヤのような強面もする。ま、現代でいえば大手商社のやり手営業部長といった感じかな。
龍馬のやった業績は、仲の悪かった薩摩と長州を結ばせたこと(薩長連合)と、将軍が握っていた執政権を天皇に返上したこと(大政奉還)だ。船中八策は横井小楠らの請け売りだろう。
龍馬を暗殺した下手人としては、〈1〉新撰組、〈2〉京都見廻り組、〈3〉伏見奉行所、〈4〉土佐藩、〈5〉薩摩藩、〈6〉グラバーなどが挙げられているが、定説としては京都見廻り組の今井信郎になっている。
今井は、官軍である薩長軍と戊辰(ぼしん)戦争を戦い、箱館まで生き抜いて薩長軍に捕縛された。取調べをうけ京都近江屋で龍馬を斬ったと自供するが、共犯者との供述内容が異なる。
このあたりまでが、龍馬暗殺に関わる従来の《定説》だ。これをなぞったのでは面白くない。だれも相手にしてくれない。どこかに穴はないか。龍馬を殺して胸を撫で下ろしたのは誰か。〈1〉から〈6〉まで下手人の候補は上がっているが、決定的な動機はない。だれがやってもおかしくない。
グラバーには龍馬を殺す理由がまったくない。かれは武器商人で、薩長をはじめとする尊皇方に武器や弾薬を売り込んだが、代金をほとんど回収できなかった。グラバーは破産、本国から追及される立場にあった。つまりグラバーも被害者だったのだ。
そもそも武器や弾薬を日本に売り込んだのは、大蜥蜴(おおとかげ)の国策だった。大航海時代を経て、世界は列強のぶんどり合戦だった。
天皇を戴く尊皇派と徳川幕府の戦に乗じて、武器弾薬をどんどん売り込む。ところが幕府が執政権を天皇に返上する動きが出てきた。大政奉還だ。
「誰だっ、われわれの商売を邪魔するのは」
大蜥蜴がいきりたった。大政奉還なんてとんでもない。日本の国土が焦土と化すまで、ドンパチやってもらわないと儲けにはならない。
「どこの馬の骨か知らないが、そんな奴は殺し屋でも雇って消してしまえ」
無名の気のいいアンちゃんだった坂本龍馬は、気付かぬうちに大蜥蜴のシッポを踏んでしまった。
龍馬と同様に、目の敵にされたグラバーは、龍馬殺しの真相をとんでもないところに忍び込ませた……。
というわけで『グラバーの暗号—龍馬暗殺の真相』が、ようやく発刊の運びとなりました。最初から全国3万店の書店に並ぶとは思えませんが、小さい本屋でも注文できます。本屋になければAMAZONでも入手できます。龍馬フアンもそうでない方も、ぜひご一読ください。
題名:『グラバーの暗号』龍馬暗殺の真相
著者:出口臥龍(でぐちがりゅう)
出版社: 幻冬舎 (2018/7/12)
価格:1100円+税
単行本(ソフトカバー): 171ページ
ISBN-10: 4344917995
ISBN-13: 978-4344917996
発売日: 2018/7/12
千葉県:出口 臥龍
臥龍窟日乗に思う
C3〜4、受傷後10年
前号の臥龍さんの憤り、悔しさ、哀しさを思うと辛抱できなくなって投稿した。
私もしばらく横浜で暮らして、確率として多数の中で一部ゆがんだ心の持ち主に遭遇した経験はあったつもりだが、臥龍さんほどのことはなかった。
相模原事件の加害者が、未だ反省することなく、自分の行為に正当性を持ち、それを手記として出版しようとしている。去年は神戸連続児童殺傷事件の少年Aの手記本がベストセラーになった。日本人の心は何処へ行こうとしてしているのだろう。
今、私の住んでいる徳島は、空海ゆかりの四国八十八ケ所詣りの土地柄なのか、気候が温暖なせいもあるが、穏やかでおもてなしの心があり、争いが少ない(昔は海賊が勃興して恐れられたらしいが)。
徳島での生活が7年近くなるが、歩道もない道路の真ん中を、我がもの顔で電動車椅子を走らせても、今まで3度しかホーンを鳴らされたことがない。いつも、私が気がついて端によるまで待ってくれる。
少し前の話になるが、5月の初めに電動車椅子に乗って長距離ドライブに出た。小雨の風が強い中、ヤブ蚊の猛襲にあいながらひたすら走った。1時間走ったところで歩道の工事中にあい、目的地は断念する。
パーカーを着ていたので小雨は対処できたが、強風に煽(あお)られフードが脱げてしまっていて、耳が冷たく寒い。ちょうど車を停めてタバコを買っている人がいる。黒の軽四を自販機の前に止め、上下黒のジャージで髪の毛が赤い。見るからのヤンキーおばさん。恐る恐る近付いていって「フードをかぶせて下さい」とおねがいする。ついでに「ファスナーも少しあげてください」。相手は無言。最後に私が「ありがとうございます」と言うと、困ったような顔で小さく「ありがとう」……うん? お礼を言ってるのは私なのになぁ。
訝(いぶか)しながら帰途に着く。途中休憩していると、中学生がランニングの足を止め、「こんにちは、頑張ってください」と声をかけられる。こちらも笑顔で「ありがとう」。この一言だけで寒いなか無理してでも出て来た甲斐があった。
東京のTさんという脳性麻痺の障害を持つ30前の男性が車椅子でヒッチハイクして全国を廻る旅に出て1年が経つらしい。震災地で初老の夫婦が車椅子を押してあげて感謝されたらしい。「ありがとう」と。
けっして、田舎暮らしが良いというのではない。Tさんのような大それたことができるでもない。でも、今の自分の小さな世界を受け入れてくれている周りの人たちに感謝しようと思う。
徳島県:M.R.
脳腫瘍で命と引き換えに
四肢マヒ歴4年
私はまだ障害者になって4年の新米障害者です。4年前に会社で倒れ、救急車で病院に運ばれました。
そこで、脳幹腫瘍であることがわかり手術になりました。手術まで2回心停止し、臨死体験なるものも体験しました。今だから笑って話せますが、紙一重でこの世にはいなかったかと思うと感慨深いものがあります。しかも当方の職業は葬儀屋でして(笑)。
手術で無事、腫瘍はきれいに取り除いてもらいました。一命を取り留めました。命と引き換えに、四肢不全麻痺となりました。延髄からC4までの損傷です。
それでも、短い距離であれば杖があれば、何とか歩行もできます。さらには筆圧は弱いのですが、リハビリを重ねた結果右手で絵も描けるようになりました。ですので「はがき通信」に掲載されている皆様に比べ、軽度のほうと言っていいと思います。ですので、私ごとをお伝えするのは、恥ずかしい限りです。
現在は、電動車椅子で会社へと何とか復帰しております。復帰といっても、前と同じ業務ができるわけでもなく、もっぱら電話対応ですが(笑)。
日々の生活で一番の苦労は、やはり電動車椅子での通勤です。この話をはじめると、かなりの長文になってしまうので、またの機会に改めて投稿させてもらいます。
どうぞよろしくお願いいたします。
奈良県:通勤マシリト
50歳、食生活を変えてみた
ルセナで毎日のほほんと生活を続けている自分も気が付けば昨年50歳を迎えた。50歳になったからといって急に身体の衰えや不調を感じることはまだないが、やはり気分的には自分も50歳になってしまった……っとちょっと気落ちしながら車いす生活も30年となったことに年月の流れる速さを実感する。
以前マニラで働いていた30〜40代の頃は特に健康に気を使うこともなく、昼夜不規則な生活で、食事や嗜好品も好きなものを好きなだけ飲み食いする暴飲暴食スタイルであったが、こうして50歳という節目を迎えた現在の自分は、以前と比べて少し臆病になってきたのか?、できるだけ規則正しい生活を心掛けるようになってきた。
夜は早く就寝し、朝は早く起きて車いすに乗せてもらい、朝食を済ませたあと、庭に出て趣味の蘭や植物を観察しながら1〜2時間ほど朝陽を浴びて日光浴するのが毎日の日課であり、食生活も今年に入ってから少し変えてみた。
毎日の朝食はハチミツを薄く塗った全粒粉の食パンと日本人の酪農家の方が毎週届けてくれる低温殺菌牛乳。昼食は玄米、キャベツと赤玉ねぎの酢漬け、他におかず1品。夕食はなし。間食はなしにして小腹が空いたときにはバナナを食べる。また血糖値の上昇を抑える効果があると言われるフィリピンのバナバ茶を昼食前に1杯飲む。
夕食なしの1日2食の食生活はもう1年以上続けている。もともと自分は肥満体質であり、常時家にいて運動量の少ない生活だから1日3食の食事は必要ないと思い、1日2食にした。1日2食にしたからといって体が痩せたわけではないが、夜中にお腹が空くこともなく、逆に1日3食のときより寝付きも目覚めも良くなった気さえするから自分には1日2食で十分足りているようだ。
自分が毎日必ず食べるものは、ハチミツ、全粒粉食パン、牛乳、玄米、キャベツと赤玉ねぎの酢漬けである(酢漬けはキャベツ1玉と赤玉ねぎ1個を細切りにして少量の塩と適量の酢で混ぜ合わせたものをタッパーに入れて冷蔵庫に入れておき、毎日昼食時にお茶椀1杯ずつ食べる)。自分は3日に1度、下剤を飲んで排便するのであるが、これらの食物を毎日規則正しく食べるようになってからは、それまでよりも便通が良くなりすっきりとした排便ができている。また排便日に限らず、おならの出も良くなった。
車いす生活が30年経っても、3日に1度の排便日はやはり憂鬱な1日であるが、その憂鬱さの中で腸内に溜まっていた糞便が、すっきりと排便できたときの爽快感は嬉しいものがある。50歳、食生活を変えて腸が元気になった気がする。
ルセナの隠居