No.188 2021/6/21
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 『臥龍窟日乗』-69- 麒麟は来なかった 

 戦国大名=極道という歴史認識が私にはある。
家柄が良いからではない。人がいいからではない。徳が備わっているからでは、さらさらない。
 喧嘩が強くて、カネ儲けがうまくて、はったりが利いて、機を見るに敏で、屈服してきた敵を手なずける太っ腹。
 これぞ極道の親分、いやいや戦国大名の資質なのである。どこの馬の骨とも分からぬ半グレが、戦国武将にのし上がり、やがて天下人になっていく過程を追っていると、一つの法則が見えてくる。
どんな汚い手を使っても、邪魔者は退ける。教養に欠けるから、好んで茶人や公家さんと交わろうとする。徳は後から備わってくる。ところが陰謀にかけては、この連中のほうが数倍も長けている。勝てば官軍。後世、名将と敬われるようになるものだ。
若いころの信長は「うつけ」と陰口をたたかれていたし、秀吉にいたっては、母親と針の行商をする「こじき」だったとする説がある。だから卑しいというのではない。極道サンだって、世が世であれば、大名を張れた人物はいくらでもいる。
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NHK大河ドラマ『麒麟が来る』は、しょっぱなからつまづいた。準主役級の沢尻エリカちゃんが合成麻薬でパクられ、続いてコロナ騒動でさんざん撮影が遅れた。年内にラストシーンまでたどり着くのかいな、と案じていたら、土壇場まぢかになって、どえらい問題が発生した。
ドラマの最大の見せ場は、本能寺を取り囲む明智光秀が、「かかれーっ」と叫ぶシーン……のはずであった。
ところが、いるべきはずの光秀が、そのときその場にいなかった、という史料が、放映直前に出てきたのだ。踏んだり蹴ったりだ。
 年明け早々の1月4日、朝日新聞が報じた。『乙夜之書物(いつやのかきもの)』という古文書に「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」との記述がある。
当事者が記した「一次史料」ではない。だが秀吉がたの『惟任(これとう)(光秀)退治記』と符合する。歌舞伎でいうなら「大見得」の部分だ。無視はできない。さあ、どうするNHK。
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ふだんからテレビは観ないことにしている。ニュースだけはおさえておきたいが、どうしても「だらだら観」をしてしまう。残り少ない人生、無駄な時間は過ごしたくない。ニュースだけならインターネットで事足りる。
『竜馬暗殺』と『本能寺の変』は、日本人の大好きな二大ミステリーだ。私とて例外ではない。時期からいって、すでに撮影は済んでいるはず。新事実に合わせて撮影しなおすか……でも、それじゃあ最大の見せ場がなくなるなあ、なんて気を揉(も)んでいたら、あるヘルパーさんが録画を持ってきてくれた。
 ぞくぞくワクワク。画面に登場したのは、盛装して馬に跨り「かかれーっ」と叫ぶ光秀だった。
 ま、小説やドラマは、必ずしも史実に忠実である必要はないのだから、それはそれでよいのだが、歴史ドラマの難しさについて考えさせられた。
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 そもそも時間を遡るなんてことは不可能なのだから、歴史的事件の真相なんて誰にも分かりっこない。たとえ現場に居合わせたにしても、その人の立場、視座、見る角度、背景、思い入れによって、様相はまちまちになるだろう。
 さらに登場人物たるや、筋金入りの極道サンたちだ。陽動作戦やらガセ情報やら、二重にも三重にも仕掛けてあるだろう。百人の作家が書けば、百通りの物語ができるはずだ。
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すでに故人となられたが、立花京子さんという研究者がいた。もともと理数系だが本能寺の変に取り憑(つ)かれ、十年にわたって古文書を漁り、『信長権力と朝廷』という本を著した。
当初イエズス会に愛想のよかった信長が敵に回るや、信長包囲網を巡らせた。根回ししたのが茶人の津田宗及だった……。説得力はある。だが新史料が出れば覆る。
だから歴史は面白い。

千葉県:出口 臥龍

 自分が頑張るために他人の頑張りに学ぶ 

(60代、男性、受傷後19年、C5/6)

 グリム童話『水呑百姓』は、金持ちの百姓ばかりの村で一人だけ貧しく水呑百姓と馬鹿にされていた男が、悪知恵で手に入れた大金の出所について嘘をつき、金持ちの百姓たちに損をさせたため川流れの刑を受けそうになるが、悪知恵で切り抜ける。再び金持ちの百姓たちをだまして川で溺れさせ、全員の財産を手に入れたというお話です。弱者が強者に対して抱く反感を哲学用語でルサンチマンといい、それは恨みや嫉妬心として弱者の側に蓄積されていきます。強者が優越感から傲慢になった場合に弱者のことを自分と同じ感情のある人間として扱わなくなることがあります。金持ちの百姓たちは水呑百姓が悔しい思いをして復讐心を抱えていることなど思ってもみなかったのでしょう。

 私が警戒しているのは、弱者が劣等感から卑屈になり強者に対してお門違いなルサンチマンを抱くことです。ニーチェの『道徳の系譜』は、“自己侮蔑”、“上出来の者や勝ち誇った者に対する受苦者の隠謀”、“あたかも健康や上出来や強さや誇りや権力感情がそれ自体においてすでに背徳的な事柄であり、したがっていつかは贖(あがな)われなければならないもの、しかも苦しい目をして贖われなければならないものででもあるかのように”と、病者や障害者の危険性を繰り返し強調しているそうです。

 自分と他人を比較することで危険な優越感や劣等感が生まれます。子どもを伸ばす子育てでは、結果でなく経過を重視し、ほめることが重要だそうです。子どもの成長を過去と現在で比較することを垂直比較といい、その子自身の中の成長を評価することが子どもの自己肯定感を育てるそうです。自己肯定感や自尊感情と聞くと私は自己満足や自惚れと混同してしまいますが、ルサンチマンがなく、ありのままの自分を受け入れる心情が大事なことはわかります。逆に他との比較によって得られた優越感からの誇りやプライドは鼻持ちなりません。一方、わが子だけを見た独りよがりの子育ても困るので、時にはほかのお母さんや周りの人を見回して認識することを水平認識と呼ぶそうです。比較ではなく認識です。

 四肢マヒ者である私にとって水平認識の場を与えてくれるのが「はがき通信」です。最近では185号の《介護保険の日常に生きる》を読んで背筋が伸びました。“強い思いがあればこそ、人は動くのだし、自分の体も応えてくれる。目標があってこそ次にも進めるというものだ”、“視力が0.5まで改善していた。僕は、これを0.8まで改善しようと決めた。それから、毎日視力改善トレーニングをし、今では眼の疲れていない朝、0.8まで見えている。しかも乱視がなくなった”。眼鏡の分だけでも身軽になれればありがたい。是非とも「視力改善トレーニング」の方法をご披露いただきたいものです。
 有用な情報を下さる「はがき通信」へのお返しのつもりで受傷後19年間の生活と思いについて、この2年間の「はがき通信」に十編ほど掲載していただきました。「王様の耳はロバの耳」と叫ぶのではなく、「私の耳はロバの耳」と文章にすることが心の平穏のために必要なこともある、それが「はがき通信」に私が投稿する理由である、そう書いたことがあります。実際、心の内をはき出して、楽になりました。

茨城県:DRY

185号「介護保険の日常に生きる」はがき通信 No.185 - 1 (normanet.ne.jp)
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