No.185 2020/10/25
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ありません ◆2回の頸髄損傷 ありません

 何で?
 何で2回も苦しい思いをしなきゃいけんの?
 35歳で自動車事故で頸髄損傷。
 53歳で脊髄空洞症で頸髄損傷。
 私は、頸椎5番6番脱臼骨折で頸髄損傷になりました。奇跡的に指の機能は残り、細かい作業もできていてスポーツも50歳まで何の問題もなくできていました。
 それが50歳を超えたくらいから肩に痛み、違和感が、次の年には痺れ始め、温覚、痛覚がなくなり力が落ち始め、定期受診でMRIをとりました。

 病名『脊髄空洞症』
 脊髄の中に風船のように空洞ができて髄液が空洞を押し広げ、神経を圧迫し麻痺が拡大していく病気です。治療は手術しかありません。感覚麻痺から筋肉の麻痺、呼吸の麻痺とゆっくり数年かけて進行していきます。
 肩の違和感と感覚麻痺はこれか。しかし、生活に流されて放置……。これがいけなかった。私の右手の指まで、麻痺が広がり始めました。
 右手は麻痺して手動車いすも無理になり、電動アシスト車いすに変えて生活しなければならなくなり、慌ててKリハビリセンターを受診、MRIの結果、脊髄空洞症が進行していました。
 いろいろ検査の結果、岡山県の病院でオペをしました。オペは成功し、空洞は消失し動きも良くなり始め、Kリハビリセンターに転院、1か月リハビリして退院と思われましたが……入浴中に急に良かった左手も麻痺し、両手の握力をなくしてしまいました。
 緊急MRIで脊髄空洞症再発宣告……まさか……オペ先で受診したが、ハッキリしない曖昧な回答、手指の機能を失うと何もつかめないのはもちろん、同時に前腕の力も落ちます。
 『何で? 命も掛けてオペしたのに!!』
 『どーしたらいい?』
 もう目の前が真っ暗……。
 私は、頸髄損傷者の団体の理事長、たくさんの会員さんがいます。皆さんを見て話を聞いているのに、いざ自分が握力をなくしたら混乱して悔しくて悔しくて涙が止まりません。
 何で2回も辛い思いしなきゃいけない。生き地獄を2回も経験しなきゃならない……。
 完全にネガティブ……。
 病室で引きこもり、悶々とした毎日。
 退院して帰るにしても体幹も悪く、力も入らず高額でしたが、自宅まで介護タクシーで帰りました。日々、ボーッとして座っているだけの生活になってしまい、あれだけアクティブだった私は消えてしまいました。
 そんなどん底の私を立ち直らせてくれたのは、大切な妻でした。
 『失った物よりもこれから積み重ねることが1番大切、私も一緒にいる』
 その言葉は刺さりました。
 私はその日から、できないならできないなりに生きることにしました。たくさん工夫して工夫して、できることを積み重ねました。
 一方で、脊髄空洞症はさらに進行して体全体に影響が出始め、C8だった私はC5に近いまで麻痺が広がりかなり辛い症状でしたが、自宅で介護職の方々に力を借りながらリハビリしながら闘いました。
 同時に、広島の脊髄に詳しいドクターを受診、いろいろなオペ先を相談しながら、6月に再手術を決意。
 しかし、悪くなるリスクもあります。さらなる恐怖が襲います。しかし、このままジリ貧は嫌です。夫婦で話し合い、再オペを決意したのです。オペは11時間にもなり、かなり厳しいものだったようですが私は耐えました。

 私の脊髄空洞症は今、消滅しています。指も動き始め、筋肉も動き始めました。再発のリスクはゼロではありません。
 しかし光が見え、これからまた厳しいリハビリを続け、必ずパラアーチェリー、講演活動など復活します。その日も遠くありません。
 私を支えてくれた妻に感謝。ちなみにゼロだった握力は、現在6キロまで回復してます。
 脊髄空洞症は、頸髄損傷者には多い病気です。突然の肩の痛み、痺れ、麻痺が広がるなどの症状は、脊髄空洞症かもしれません、MRIですぐに診断できます。
 治療はオペしかありません、脊髄空洞症に詳しいドクターに相談して下さい。一度損傷した神経は回復はしません、回復するオペではなく、進行を止めるオペです。しかし、リハビリである程度回復はします。私も毎日リハビリです。

広島県:K.T.

ありません ◆介護保険の日常に生きる ありません

 ほんの3年前、生活に必要な介護量は介護保険のみで、障害福祉からの給付を受けないでも、しかも要介護度が4だから単位数にもかなり余裕がある日常だった。というのも、僕は、40年も前から身体介護をほとんど必要としない生活を送っていて、だからせいぜい自己負担1割の重さに不満を言う程度で済んでいた。

 これが一変した。
 書き出しから、少し愚痴っぽくなる。実は3年前、痔ろうで入院するところから、がらりと日常の風景が変わり始めた。
 当初は1ヶ月程度の入院で、また以前の生活に戻るという医者の見立てを信じ、僕は何ら先行きに不安を覚えることもなく入院していた。ところが、入院1ヶ月すぎても手術跡からの浸出液は出ているし、退院は無理だと思うのに、大丈夫だからと退院させられた。しかも、その日の夜に手術跡がガバッと開いた。
 翌朝意識も朦朧(もうろう)とし始め、近くの病院に緊急入院をさせてもらった。そこの医者はあなたはもう自宅に戻れないから、施設を紹介するので、しばし様子を見てから、そこに移りましょうと言ってのけた。
 前後の話を始めると物語になるので省略して、とにかくそれからは入退院の繰り返し、終に病院治療を諦め、自宅で毎日訪問看護を受けて養生することに決めた。独り生活だったから、寝たきりの自分の生活を維持する手立てを、病院に入院しながらマネジメントし、すべて用意する羽目に陥った。今思い出しても、精神的に本当にしんどい日々だった。
 もともと介護保険の要介護度は4であり、それなりに単位はあるのだが、寝たきりとなればまるで足りない。急いで障害福祉の支援認定を申請し、障害支援区分5の認定を受けることができた。認定が下りたのは、すでに自宅養生を始めた後ではあったけど。
 しかも、朝昼晩のヘルパーさんを確保するのが大変で、十分にその手当ができずに、これも自宅養生開始までには確保できない不甲斐なさにも泣いた。もっともここまでだったら、皆さんにもありうる事象かもしれない。

 当時僕は就労しており、ちょうど前年度収入が老齢年金と合わせて、1割負担の制限を少し越えていて、あろうことかこういうタイミングで介護保険が2割負担になった。今や働くこともせず、老齢年金だけなのにこれには参った。1ヶ月で10万円を超す支出になったときには、何とも言い難いものがあった。
 ただ、介護保険には負担の上限があり、何ヶ月か後に差額の払い戻しがある。僕の場合、最初の払い戻しがあったのは、半年も過ぎてからだった。最終的な出し入れで考えれば、障害福祉の自己負担分と介護保険の2割負担で、月に6万円を超す程度におさまった。それでも、勤労所得もなくなっているわけだから、気持ちは明るくない。
 そして1年が過ぎ、前年度収入が老齢年金とわずかな入院前の勤労収入となったので、負担割合が変わり、昨年8月から介護保険は1割負担、障害福祉は負担0となった。同時に介護保険の負担の上限も変わり、全体としての自己負担は3万円を少し欠けるほどになって、一息つき、今は小康状態にある。
 なので、この何年かの間、僕は、ダイナミックに介護保険と障害福祉とのリアルを味わい、介護保険の負担の重さや、障害福祉の優位さを肌に感じている。

 さて、ひとつ介護保険の不思議について。
 先月から、要介護度が4から3に下がった。どうすれば障害福祉が支援区分5であるのに、介護保険は3になるのか、判定書類のコピーを取り寄せ詳細に調べたら、原因は認定調査の1ヶ月前の状態で、医療ケアが存在しているかいないかだった。医療ケアの単位は驚くほど高いのだ。
 褥瘡などがあり、訪問看護が必要である場合がこれにあたる。何でもよいのだが、ミソは認定調査1ヶ月前時点において、何らかの治療をしているという自己申告があれば、その後3年間医療が必要だと判定される。頸損は難病認定に分類されており、医療保険が適用されるので、そこらあたりにまったく無知だった。

 そして、これにも感心するのだが、介護保険から障害福祉に切り替わるタイミングは、介護保険の単位を使い切ったときだ。だから、毎月介護事業所は微妙にこれは介護保険、これは障害福祉と扱いを変える必要がある。何しろ、毎月必要な介護量は変化するではないか。記述する書類も違うのだから、調整に選ばれる事業所は、頻繁に書類の書き直しをする羽目になる。だから当事者たる僕も、気軽にキャンセルをするのがはばかられる。
 以上、ここ何年か僕がどう介護保険を使っているのか、リアルに述べた。しかし実のところ、自己負担が重かろうと軽かろうと、僕の生活基盤を支える他の選択肢はないから、不条理も何もかも呑み込んでいる。文句は言わない。

 話は変わる。
70も過ぎて、介護保険と障害福祉サービスをうまく使いながら独り生活をしていると、ヘルパーさんを始め、僕の周りの人たちは一様に驚く。驚かないのは、当事者である障害者ぐらいなものだ。
 実際のところ、頸損者が70を過ぎても独り生活ができる条件は、介護者を確保するだけでは十分ではない。看護師さんやらヘルパーさんから要介護老人の話を聞いていると、介護される老人は介護量が増えるにつれ依存心が強くなる。だから、介護される老人が、独り生活をする気力を保つことは難しいようだ。年老いた頸損者にも同じことは言える。
 独り身となれば、独り生活を続ける気力の保持には苦労するのではないか。障害者も健常者も関係ない、老いがそうさせるのだと思うけど、各人はこの気力をどこから見つけて来るのだろうか。
 僕は幸運にも、老後のための覚悟を決める前に、何かがするりと心内に入り込んだような体験をしてから、独りで生活することに思い悩むことはなくなった。たぶん、精神的にはずるをしている。
 少し内面に踏み込んでみると、どうも肝心なのは、精神的につらいとか苦しいとかの負の思いに煩わされないことのように感じる。確信している訳ではないが。いずれにしても、生きていることをかけがえがないと思える感情が、意識界までにじみ出てくると日常生活を楽しめるようになる。それには、負の思いを少なくして行くのが何より有効だと思う。
 簡単には、心の持ちようはどうあるべきかという話だ。僕は体験でしか語れないけれど、つまりは、人はそれぞれに自分のやり方を見つけることになるのだけど、僕の場合簡単で、自分の心を整えて、負の思いに捉われない自分を見つけることで心が定まった。
 目標を持つのが有効だ。例えば、僕は現在再就労を果して働いている。
 痔ろうから10ヶ月寝たきりとなったが、床払いをしたら働くという思いを諦めはしなかった。寝たきりとなっても、勤めていた福祉法人には自分の思いを伝え続けて、具体的な復帰の計画も共有してもらい、結果として再雇用もしていただいた。強い思いがあればこそ、人は動くのだし、自分の体も応えてくれる。目標があってこそ次にも進めるというものだ。

 例えば、僕は視力改善のトレーニングをしている。
 僕の視力は裸眼で3年前まで0.1前後で、しかも乱視がかなり進んでいた。それでも年を重ねるにつれ、どうしても眼鏡による鼻の痛みが増すので、家にいる間は見えようが見えまいが外すようにしていた。そして、痔ろう事件から10ヶ月の間、僕は眼鏡をかけることはなかった。ところが、再び自力で神奈リハに通院できるようになると、そのときは眼鏡をかて出かけるのだが、どうにもぼんやりする、近視が進んだとばかり思っていた。実は、そうでなく視力が0.5まで改善していた。
 僕は、これを0.8まで改善しようと決めた。それから、毎日視力改善トレーニングをし、今では眼の疲れていない朝、0.8まで見えている。しかも乱視がなくなった。
 僕の毎日は基本的にこんな感じだ。大層な努力をするのではない、何のことはない、単に日々をぼんやり生きるのでなく、あれやこれやら何かできそうな目標を立てては達成する、そんな習慣を身に着けようとしているだけだ。つまり、できない理由を思うのでなく、できる理由を大切にして、自分で自分の可能性を閉じないように心がける。すると、何だか心が整ってくるわけだ。
 頸損を45年もやっているが、とにかくいろいろな事件に巡り合って、退屈することはなかった。直近では痔ろう事件、最終的には手術跡はえぐれて、患部を強くこすると開いてしまう状態で終了した。完治とは言えないが、これ以上の回復は望めないとの診断だ。結果として今は、ヘルパーさんが電動リフトで僕を車いすに移乗させる。
 事件が過ぎ去ってから思うに、この事件は本当にありがたいものだった。
 本来なら寝たきり生活は、80代で経験するはずだった。10年以上も前にあらかじめ体験できるとは、神様はなかなかしゃれたことをする。もし心の準備もなく80代を迎え、急に寝たきりとなり、そして、生活のための準備を整える必要に迫られたら……そのときの心情を想像すると思考停止に陥る。

神奈川県:M.K.

ありません ◆新型コロナ恐怖症に罹らない有益な情報 ありません

 100年に1度というパンデミックに遭遇、猛暑の8月になっても終息の見通しがたたない。人との交流も外出も自粛、さらに日常生活の買物や家庭内での食事の仕方まで指図される異常な社会になった。当初は、季節性のインフルエンザ並みか、それ以下とも言われていたのに、1カ月もたたないうちに新型コロナウイルスは極めて恐い、元気だった人でも陽性確認後、数日で重症化、死亡、さらに恐怖感をあおったのは、その葬儀の異常さ、家族でさえ、最期の別れも見送りもできず、遺骨となって届く。その様子がテレビで繰り返し見せられる。つくづくコロナは恐い、できればコロナでは死にたくないと思わせた。

 今までのがんや循環器が主流の医学専門家に代わって、にわかに公衆衛生学、感染症学、ウイルス学専門家が大挙してテレビに登場するようになった。大半はコロナ感染予防対策の厳格化を強調、国民に「あたらしい生活様式」を強要する。それは100年も前のパンデミック、スペイン風邪の対策と基本的に同じ、感染者の隔離、手洗い、マスク着用であった。

 7月上旬、胸のすくような有用な情報に出会った。「リスク評価不十分 実態と合わぬ対策 過剰な恐怖広げた」のは専門家であると、仙台医療センターのウイルスセンター長・西村秀一氏の見解であった(7月11日朝日新聞朝刊)。「実態と合わない対応が続いていることを危惧しています。亡くなった方を遺族にも会わせずに火葬したり、学校で毎日机やボールを消毒したり、おかしなことだらけです。そうしたことはもうやめようと提案している」と西村氏は主張する。ウイルスが現に存在していて厳しい感染管理が必要な病院と一般社会ではウイルスに遭遇する確率が全然違う。しかし専門家は病院と同じような対策を一般社会にも強要しコロナ感染のリスクを過剰にあおっている。本来、専門家は感染リスクの確率を評価した対策を提案すべしとの見解であった。

 さらに8月、都内ハイリスク地域で暮らす友人からマスコミの扇動に振り回されるなと有益な情報が送信されてきた。井上正康氏(大阪市立大名誉教授)のホームページで掲載されている「失敗の本質から学ぶポストコロナ時代への処方箋」である。そのオンライン講義では、パンデミックにはマスコミの不当な扇動、すなわち「インフォデミック」がつきもの、そのインフォデミックに惑わされないために、井上先生が新型コロナに関する最新研究結果を解析された講義である。
 そこで指摘された「地域によって異なる免疫特性」、「ウイルスは突然変異しやすいRNA遺伝子を持つ」、「コロナウイルスはどのように感染するのか」、「死亡者の少ない日本」、「コロナウイルスと免疫」など、これまでの断片的な指摘と異なり、新型コロナウイルスの基礎的な知識、とくに日本型の特徴、免疫と免疫力のつけ方、感染予防に関する体系的な解説であり、やっと有用な情報に出会えたという思いだった。しかも9月には本として出版予定とのこと、アマゾンで検索すると、その本は10月1日発売予定、予約受付け中である。
 井上先生は腸内細菌の研究者である。出版予定の本で、とくにコロナウイルスの免疫についての解説に期待したい。以前、私は「はがき通信」に『腸科学』という本を紹介した。最先端技術による遺伝子解析で、解明されつつある腸内細菌の役割、人の免疫にも重要な役割を担っている腸内細菌の解説、その中に、過度の清潔は腸内細菌にとって有害にもなるとの指摘があった。コロナ感染対策として手洗いの徹底が強調されるつど、腸内細菌の専門家はどのような見解か、知りたいと思っていたからである。

 さらに「ポストコロナ時代の処方箋」の一つとして提案された「指定感染症の解除」にも注目したい。当初、新型コロナウイルスは季節性の風邪ウイルスと指摘されながら、とりわけ恐ろしい感染症となったのは、本年2月末の「指定感染症」の認定である。新型コロナは指定感染症だからこそ、2週間の隔離義務、厳重な感染対策、診断や治療施設への保健所の介在、葬儀での過剰な感染対策、義務化されたわけでもないのに、真夏、しかも酷暑の街中でほぼ全員マスク着用の異常状態を招いた。類似の指摘はこれまでもあった。しかし「処方箋」として「指定感染症の解除」を明言されたのは井上先生が最初ではないだろうか。現役を引退し、自由な立場であるからこそ、言えることかもしれない。それでもコロナ一色の異常な社会の中で、ときの権力者や権威者に抗しての発言、勇気のいることと思う。
 この「通信」が皆さんの手元に届くころにはすでに本は発売中である。現在、予約受付け中のアマゾンでは、発売予定の本の目次が紹介されている。その目次をみると、コロナウイルスとの免疫について重点が置かれているようである。まずは井上先生のホームページ(http://www.inouemasayasu.net)でオンライン講義を聴かれることを勧めたい。

千葉県:松井 和子

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