も く じ | |
ごあいさつ | 編集担当:瀬出井 弘美 |
「はがき通信」からのお知らせ(会計監査報告) | |
監査を終えて | 福岡市:E.U. |
H.Kさんを偲んで | 千葉県:松井 和子 |
H.K氏の訃報 —先輩かつ主治医でもあったM.F先生からの手紙— | |
H.Kさんのご逝去を悼む | 千葉県:出口 臥龍 |
頸損と介助犬(その2) | 東京都:K.S. |
全員参加企画『いいモノ見つけた!』〜16〜 | 編集担当:瀬出井 弘美 |
< 特集! 「どうしています冬の体調管理法」 > | |
☆ 冬期生き残り作戦 | 福岡市:Y.I. |
☆ 脳炎で2週間意識不明 | 福岡県:K.M. |
☆ 私のちょっとした冬対策 | 広島市:M.T. |
☆ 冬用グッズの紹介と紹介依頼・冬の外出失敗談とその教訓 | 新潟市:T.H. |
☆ 我慢や無理せず早めの対処 | 東京都:M.I. |
☆ 冬の体調管理 | 香川県:○○丸子 |
☆ さまざまな冬の工夫 | 広島市:K.T. |
☆ レッグウォーマーをズボン内に | 編集担当:戸羽 吉則 |
☆ 失敗から学んだ体調管理 | 編集担当:藤田 忠 |
『夜と霧(新版)』 書評[1] | 編集部員:藤川 景 |
「はがき通信」の道のりをたどる(その3) | 兵庫県:土川 忠浩 |
『臥龍窟日乗』−陶芸家中島清− | 千葉県:出口 臥龍 |
「はがき通信」からのお知らせ
(1)ご寄付のお礼 「はがき通信」に寄せられた寄付金を公表させていただきます。どうもありがとうございました。寄付金や購読料の多少にかかわらず、読者すべてのみなさんのおかげで「はがき通信」は続いています。それは「はがき通信」スタッフの励みです。今後もみなさんの期待に応えてがんばっていきますのでどうぞよろしくお願いいたします。 あとの注意書きを読んで、間違いがあれば会計担当の占部さんまでご連絡ください。 ※購読料を納めていない場合、寄付金から今年度分までの購読料を差し引いた金額を載せました。 ※寄付金か購読料か明記せずに送金された場合、まず今年度分までの購読料を差し引いて残高を寄付金としました。 ※購読料と明記して送金された場合、多額でも購読料先払い金とし、寄付金には載せていません。 ※郵政民営化後の新しい振込用紙には通信文欄がありません。購読料か寄付金かの内訳のご連絡もしていただけますと、会計管理がスムーズにいき大変助かります。メール・FAXを歓迎いたします。 ※購読料を納めたかどうか、問い合わせ先は会計担当の占部さんまでお願いいたします。メール・FAXを歓迎いたします。 <ご寄付をいただいた方> ※寄付者リストは、誌面版のみ掲載 (2014.1.1〜2014.12.31) [会計担当:占部] E-Mail:makotti-u-666@jcom.home.ne.jp (2)会計監査報告 ※誌面版のみ掲載 ※購読者数は272名です。(3/23現在) 監査を終えて
2月21日に会計監査を行い、2014年度の収支報告書と通帳残高が一致していることを確認いたしましたので皆様にご報告申し上げます。 ※今回の監査を通じて感じたことを少しお話させてください。私は編集スタッフや事務局とは全く独立の立場であり、以下は私の個人的な考えですのでご承知おきください。 まず、未納状態の方が多く(88名ほど・3月23日現在)、まじめに振り込みいただいている方(約200名)との公平性の点で問題があると思いました。新年号にあるように、どうしても経済的余裕がない人に対する配慮はなされておりますので、該当者の方にはこれからでもよいので以下の向坊さんの創設の趣旨をご理解いただき、お振り込みいただきたいと思います。 次に監査を通じて、編集スタッフ、会計や事務局の方々が陰ながら頑張っていらっしゃることがよくわかりました。本来であれば、些少(さしょう)でも手当として出すべきであると思います。これは今後の問題点として提起いたします。 最後に会費があまりにも安すぎるのではないか? と感じました。同じような定期購読誌の会員の場合、別の会では7,000円かかります。しかし向坊さんの「できるだけ廉価に会員相互の情報交換を実現し、生活改善につなげてほしい」という思いもありますので私がどうこう言える問題ではないような気がします。 以上長々と書きましたが、私はこの「はがき通信」が大好きで、長く残ってほしいという思いから書きました。日常生活で葛藤されていることや工夫されている点などを共有できるから大変役立っており、私自身だけでなく、情報が来るのを待っている方々を知っているからです。 これからもみなさんの自由闊達な投稿をお願いするとともに、みんなでこの情報交換誌を守り、育ててゆきたいと思います。以上 福岡市:会計監査人E.U. H.K.さんを偲んで
Kさんは糖尿病がかなり進行していると以前伺っていたし、年賀状もメールも最近途絶えていたのに、その訃報には強い衝撃を受けました。F先生から頂いたお手紙もKさんの訃報が眼に飛び込んできたとたん伏せてしまい、落ち着いてから読みなおす状態でした。思えば、50年に及ぶKさんの長いけい損人生で、私が直接お会いしたのは3回のみ、それなのにKさんと親密な交流ができたように思えるのは、その交流にN.FさんやF先生が介在していたからだと思います。 私がKさんを知ったのは、F木さんの著書「冥冥なる人間」でした。F木さんはM市立病院入院中、同じく入院中だったKさんに遭遇、当時、急性期のF木さんから見たKさんはなんと穏やかで英語の勉強まで継続できるのかと、敬意を込めて紹介されるも、近寄りがたい人かなという印象もありました。 私が最初にKさんにお会いしたのは、F木さんが地域で自立生活を始めたころでした。彼の新居を訪問中、図らずもF先生に車いすを押してもらってくるKさんに出会いました。そのとき何を話したか、覚えていませんが、F先生もKさんもとても気さくな印象でした。2回目は、Kさんの生活の場でもあるM整形外科病院の個室でした。そのとき初めてじっくりと受傷後の生活や体調管理など伺うことができました。自分はF木さんのような地域での生活はしない、以前、友人たちの介助を受けていたとき、約束の時間までに確実に来てくれるか、すっぽかされるのではないかと恐怖感を味わったので、と言われていました。 いつ頃からか、「はがき通信」のメンバーにもなり、ときどき通信も寄せられるようになりました。最後にお会いしたのは、両国のホテルで開催されたはがき通信東京交流会でした。たしか事前に参加されるとの連絡を頂き、とても楽しみにしていたのですが、これから治療があるからと、短時間の交流でした。ですが、このときKさんが私にぜひ伝えたいビッグニュースはF木さんのおめでたとその背後にあったF先生の尽力でした。 KさんにとってF先生は最も信頼のおける先輩であり、自慢の主治医でもあったようです。F先生は人間的に日本一のドクターだと誇らしげに私に強調されたのを今でも鮮明に思い出します。Kさんの訃報を伝えるF先生のお手紙を何度も読み返し、そのつどF木さんの家で最初に出会ったKさんと彼の車いすを押して来られたF先生が眼に浮かんできます。 Kさんはけい損人生50年、さぞ忍耐の連続だったかと推察しますが、長期間、信頼のおける先輩や学友を持たれた羨ましい人生でもあったように思えます。人間関係が希薄な今日、そのような信頼し、支えあう関係の構築が実現可能であったことを私たちに示して下さったたいへん貴重なけい損者の人生でした。Kさん長いこと本当にお疲れ様でした。感謝しつつ心から哀悼の意を表します。合掌 千葉県:松井 和子 H.K氏の訃報
—先輩かつ主治医でもあったM.F先生からの手紙— 前略H.K君が平成27年1月23日(金)未明に亡くなりました。昭和20年8月生まれですので、今年の夏に70歳を迎えるはずでした。今年の正月はいつもと変わりなく過ごしましたが、1月7日頃から体調を崩しました。長年の糖尿病と腎機能が悪化し、その上、深部静脈血栓症による肺塞栓が少しずつ始まっていました。酸素吸入をしながらも、1月22日の夕食は食べ、23日に至る24時ごろ、看護師さんが体位変換した時は異常なかったのですが、その後急変し午前3時半に逝去しました。 昭和40年8月、C大学医学部卓球部の合宿で(彼が3年生、Fが5年生でキャプテンでした)K寮に集まり、合宿の前日に皆で泳ごうということになり、浜辺へ出かけた時に浅瀬に飛び込んで頸髄損傷を受傷しました。その日の夜、C大学病院でJ.S教授により執刀されましたが、頸髄が断裂しており、回復不能と宣言されました。 大学病院入院中しばらくの間は、卓球部や同級生などが、チームを組み、24時間、3交代制で付き添いをしました。その後は千葉市にあるS労災病院で高圧酸素療法を受けた後に、M市立病院へ転院しましたが、28年前に彼の同級生であるT.S、S.K先生が開院したM整形外科病院で療養生活を続けてきました。看護師さん、理学療法士、栄養士、事務局など職員に大切にされ、また個室で自由にパソコン、電子メールを駆使し、装具を付けて食事もほぼ自立し、電動車椅子でボランティアの方の介助があれば、筑波エクスプレスなど電車に乗って外出を楽しんできました。岡山県、T高校の同級生も定期的に見舞いに来られ、われわれ一家や友人夫婦などと泊りがけの旅行もしてきました。50年間で40数回の旅行(日光、那須等は1泊、最近はTDL,TDSなど近場は日帰り)を楽しんできました。病室での生活が基本的な日常でしたので、時々出かける非日常生活、外食、お土産買いが嬉しかったようです。 同じ頸髄損傷者ですが、口に画筆をくわえて素晴らしい絵画や詩を出版されている「星野富弘氏」のような才能はなくまたそのような努力はしませんでしたが、彼のおおらかな性格が多くの人を引き付け、愛されてきました。 1月29日に行われた「お別れの会」は、40数名の方がたがお集まりいただき、N.K氏(長兄)のとてもきれいなハーモニカのバックで、参列者一人一人が彼に声をかけるという、感動的で心温まる告別式になりました。 彼は私にとって実の弟のような存在でした。今は心にぽっかりと穴が空いてしまったような気分ですが、彼は今頃「やっと自由になれた」と大空を飛びまわっていることでしょう。 以上、ご報告いたします。 平成27年1月31日 M整形外科病院 M.F. [編集部注記] ・TDL「東京ディズニーランド」 ・TDS「東京ディズニーシー」 ※M.F先生から松井先生へ宛てたお手紙を、F先生にご了承をいただき掲載させていただきました。 Kさんのご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申しあげます。 H.Kさんのご逝去を悼む
人間が、人間であることの証(あか)しって何だろう。 モノを食べ、世間のため、あるいは己のため働き、排泄する。ところが、これらの悉(ことごと)くができなくなったら……これはもう人間ではない。人間でなくなったものが、なお生き続ける。なんというむごたらしさだ。 受傷から1年目から2年目。もっとも苦しい時期だった。身体中、鉄板で巻きあげられたような痛み。呼吸難。血圧・体温の乱高下によるストレスなどから逃れようと、死ぬことばかり考えていた。 家族ばかりでなく医師・看護師にまで当たり散らす。狂人さながらだった。そんなころ、 「この人に会ってごらんよ」 と紹介してくれる人があった。〈この人〉というのがH.Kさんだった。私と年はさして変わらないが、学生のとき受傷して40年間寝たきりということだった。 Kさんは泰然としていた。 整形外科病院の個室には、ベッドにかぶさるように天井走行の鉄骨が組まれ、大きなタンスが置かれていた。病院というより、生活の場そのものだった。 頸損で寝たきりというと、手足の筋肉が削げ、棒のようになるものだが、体格もよく顔の血色も健常者と変わらない。 「オレが向坊さんの記録を破ったよ」 と豪快に笑った。受傷後40年というのも凄いが、なんでこの人は、こんなににこやかに笑っていられるのだろうと不思議に思った。毎日、狂人のように荒れ狂っている自分が、なんとも恥ずかしかった。 『臥龍窟日乗』の—一日だけ生きればいい—(138号)に、つぎのように記した。 「今日1日の命だと思って精一杯生きよ。そして明日の朝、目が覚めたならば、明日1日を充実して生きよ。 その結果、1年生きられれば、有り難いと思おう。10年生きられれば奇特なことだと感謝しよう。半世紀生きられれば、これはもう神の思し召しだと考えるほかない」 これはじつはKさんに教えられたことである。 重度頸損患者の身体なんて、じつにもろいものだ。痰が詰まったとか、感染症で急性肺炎になったとかで、多くの戦友たちがあっけなく亡くなっていった。 だから何年も先のことなど考えないほうがよい。 目標を立て、毎日、同じことを、こなせる分だけやっていく。アリが蟻塚を築いていくような気持ちで。 そう考えるようになってから、どんなに心が安らいできたことか。 Kさん、ありがとう。 千葉県:出口 臥龍 №138『臥龍窟日乗』−一日だけ生きればいい− http://www.normanet.ne.jp/~hagaki-t/pcc138d.html#25 |
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