『夜と霧(新版)』 書評 ※名著を読み解く「100分de名著」(NHK)という番組で『夜と霧』が取り上げられていました。それを見て、さまざまなジャンルの本の書評をホームページで毎月公開している本誌校閲担当の藤川さんならこの本をどんなふうにとらえるだろうかと編集部から書評を依頼しました。 それぞれのウェブサイトは「夜と霧 100分」と「藤川景」をキーワードにご検索ください。 文中にある『上の空—頸髄損傷の体と心』(藤川景著、三五館、1,363円税込)は、ネットではアマゾン、セブンネットなどで購入できます。 ◇NHK 100分 de 名著:フランクル『夜と霧』 http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/14_frankl/ ◇藤川景 HoMePage http://homepage3.nifty.com/fujikawa/ Ⅰ 頸髄損傷者の立場で読む さあまたやっかいな本を選んでしまったものだ。だが、本欄の数少ない頸髄損傷の読者からこの本を取り上げるようリクエストがあったからには、期待に応えざるを得ない。となれば頸髄損傷者の立場から読むということになる。 わたしは肉体という名の世界最小の独房に閉じ込められた意識に過ぎない。全身麻痺とはそういうことだ。この本を地獄のような強制収容所に閉じ込められたひとびとと、頸髄損傷のひとびとの人生とを対比しながら読んでみたいと思った。もとより苛酷の度は較べようもない。強制収容所のユダヤ人は殲滅の方針のもとで日々虐待されている。それにくらべればわれわれ日本の重度障害者は、世界屈指の福祉国家のなかで手篤い保護のもとにくらしているとヒニクでなくいってよいのだから。現在使用中の車椅子は170万円するが、自己負担は数万円ですんだ。こんな国がほかにいくつあるだろう。電動車椅子を使えば独房ごと移動できる。それでもわたしは、ああ、あの事故のとき死んでいればこんな苦痛を味わわなくてもすんだのにとおもうことが一再ならずあった。これからもあるだろう。 ●新版出版の意義 著者は1905年ウィーン生まれの心理学者。1941年結婚したが、1942年ユダヤ人であるという理由だけで新妻ともども強制収容所に放り込まれる。そこから1945年に解放されるまでの獄中記録だ。本書には『夜と霧——ドイツ強制収容所の体験記録—— 』(霜山徳爾訳、みすず書房、1956.8)という旧版がある。 新版はなぜ副題を外したのだろう。「夜と霧」ではどんな本かわからない。もう誰でも知っている有名な本だから外したのか。それでは新しい若い読者を開拓しようとして新訳を出した動機と矛盾するのではないか。新版によれば、邦題の意味を《夜陰に乗じ、霧にまぎれて人びとがいずこともなく連れ去られ、消え去った歴史的事実を表現する言い回しだ。》と断言するが、本来これは『夜と霧』というタイトルをつけた旧版の担当編集者か霜山がいうべきことだろう。原題はまったく別の意味なのだから。 1919年生まれの霜山はまだ存命で、新版にも「旧版訳者のことば」という一文を寄せている。30歳の時「西ドイツ政府留学生」に選ばれ渡独、本書と出会い、ウィーン在住の著者を訪ね翻訳の許諾を得たいきさつなどを語る。こんなことされたら1948年生まれの池田は、いかに『世界がもし100人の村だったら』とか『ソフィーの世界』のようなベストセラーの訳者でも、平身低頭しヨイショし、《僭越は百も承知で改訳をお引き受けした。》といわざるを得ない。 ●油断した新版 新たに訳出した最も説得力ある理由は、《霜山氏が準拠した一九四七年刊の旧版とこのたび訳出した一九七七年刊の新版では、かなりの異同があったからだ。》たとえば旧版には多出した「モラル」ということばが、ほとんど姿を消している。収容所解放直後に書かれたものを、時をおいて眺めなおしたとき、フランクルはモラルより精神医学を重視すべきだと考えたからだろうと池田はいう。さらなるちがいは、旧版にはつかわれてなかった「ユダヤ人」「ユダヤ教」ということばがつかわれていること。その理由を池田は、《一民族の悲劇ではなく、人類そのものの悲劇として、自己の体験を提示したかったのだろう。》と推測する。 背景にはアラブ・イスラエル間の中東戦争がからんでいるようだ。戦闘を激化させるのではなく、収容所解放時に示された収容所長に対する《憎悪や復讐に走らず、他者を公正にもてなした「ユダヤ人収容者たち」を登場させたかったのだ。》とにかく霜山の訳を新しく翻訳しなおしたのではない、新版が出たからそれを訳したといいたいわけだ。翻訳界もタイヘンだよ。 『画文集 炭鉱に生きる』(「障害老人乱読日記」№53)の新旧装幀比較でもそうだったが、このたびも旧版はモノクロ写真をつかった深刻そうな装丁。新版はやや暗めのトーンではあるが旧版にくらべればずっと若い女性でも手に取りやすそうなカラー装丁だ。前述したように新版には暗そうなサブタイトルもない。 旧版には、おそらく霜山が書いたと思われる「解説」が2段組で70ページも付いており、巻末には残虐な「写真と図版」がたっぷり掲載されている。新版にはない。要するに新版にはサブタイトルも長文の解説も残虐写真もない。そんなことは旧版によって世にあまねく知られたことなのだから、わざわざ新版でくりかえすこともなかろうというのがみすず書房のココロなのだろう。 そんなココロが池田にも担当編集者にもあったからだろう、しょっぱなからたいへんなミスをおかしてしまった。ミスでなければ不親切。本文2ページめにいきなり「カポー」という単語が出てくるのだが、これがなんのことやらわからない。読み進めていけばその重要性がほの見えてくるのだが、とりあえず意味がわからない。そこで念のため旧版を参照すると——。初出の「カポー」には「囚人を取締るため囚人の中より選ばれた者」という訳者注が、おお懐かしの6ポ割り注で付されている。 ●被収容者どうしの戦い 強制収容所に入れられたユダヤ人は、遅かれ早かれ殺されることになる。それでも被収容者のあいだには、生きのびるための苛酷なたたかいの嵐が吹き荒れていた。「近く一定数の被収容者がべつの収容所に移送されるらしい」と聞いたとする。《わたしたちは、それはまやかしだ、と考える。なぜなら当然、その移送とは「ガス室送り」だと、選ばれるのは病人や衰弱した人びとで労働に適さない被収容者が、ガス室と火葬場をそなえた中央の大きな収容所で抹殺されるために淘汰されるのだ、と憶測するからだ。》 「選ばれるのは病人や衰弱した人びとで労働に適さない被収容者」ということばはわたしの胸を刺す。じっさい重度障害者など強制収容所に送られる前に処分されていた。ドイツでは第1次世界大戦前から優生学がひろく認知されていた。ということは「社会の穀潰し」は抹殺せざるを得ないという思いが国民の常識だったということだ。1910年代から劣等分子の断種や治癒不能の病人を安楽死させていた。ナチ党の権力掌握後は「民族の血を純粋に保つ」という名目で遺伝病や精神病のひとを安楽死させた。これらのひとを養っていくには税金をたくさんつかわなければならないという点が強調された。 「劣等分子や治癒不能の病人」といえば、各種障害者や認知症老人を連想する。日本ではいま認知症老人が急増し毎年1兆円ずつその対策予算が増えているという。どうにかしなければならないがどうにも妙案は浮かばない。為政者はひそかに安楽死法を練っているのではないかとわたしは疑っている。いや、為政者もみなジジイだから、自分や自分の家族が認知症になったときのことも計算しているはず。となると、あとはカネしだいか。いやいや、ほんとうならこの事態をきっかけに健常者のひとりひとりが少しずつ犠牲的親切心を発揮して弱き者を助ける暖かい社会をつくればいいのだ。日本人なら必ずできる。 ●「いい人は帰ってこなかった」 仲間を犠牲にすることによって生きのびたユダヤ人カポーが、本書のテーマの一つかもしれない。被収容者は番号だけで呼ばれた。だからなんとか自分の番号以外のものを移送団(=ガス室)に送り込もうとした。被収容者の中でも特別サディスティックで盗みも暴力もまったく平気になってしまって、要するにナチスの手下になることによってカポーは生きのびた。フランクルは断言する。「いい人は帰ってこなかった」と。しかしこれほど重要なフレーズを、わたしの力量不足とはいえ、こんなに軽く要約しては申しわけないので、より重々しい訳の旧版に当たってみた。以下のとおり。 《カポーになることはいわば一種の逆の選抜であり、最も残酷な人間のみ(もちろん幸いなことに例外もあったが、それを除外すれば)が、この役目に用いられたのである。しかし親衛隊員によって行われたこの積極的な選抜の他に、なおいわば消極的な選抜があった。すなわち多年収容所で過ごし、一つの収容所から他の収容所へと、結局は一ダースもの収容所を廻ってきた囚人の中には、この生存のための苦しい闘いにおいて、良心なく、暴力、竊盗(セットウ)、その他不正な手段を平気で用い、それどころか同僚を売ることさえひるまなかった人々がいたのである。まったく幾多の幸福な偶然、あるいは——そう呼びたいならば——神の奇蹟によって、生命を全うして帰ってきたわれわれすべては、その事を知っており、次のように安んじて言いうるのである。すなわち最もよき人々は帰ってこなかった。》 フランクルは生きのびた自分のことをどう捉えていたのだろう。あらゆる大虐殺場面あるいは大事故で生き残った者が、たとえ幼児でも必ず自責の念にかられるものだというのは、現在の心理学の常識なのだが。 さらにいえば、当時のドイツ国民はみなユダヤ人の大量虐殺を知っていた。にもかかわらず虐殺反対のデモなど起こさず、いわば「三猿」を決め込み、敗戦後はヒトラーひとりのせいにして平和に暮らしたのだ。 いやな記憶がよみがえる。「この世で最も醜いもの、それは第2組合だ」と信じていた時期がある。最初に入社した早川書房の話だ。団体交渉のあと組合幹部が団交を総括し、それをガリ切りして翌朝ビラを会社に持参するというのが、団体交渉員の一員であったわたしの役目だった。だが徹夜してつくったビラを、翌朝会社の玄関で配ろうとすると、ニクミ(第2組合をわれわれはそう呼んでいた)の幹部が見張っていて社員に受け取らぬよう圧力を加える。ニクミの若者に年長者がありもしない幼稚なデマゴギーを流しているのを耳にしたことも実際にある。団体交渉では経営側に組合つぶしの専門家が加わった。会社の近くで集会を開いていると、私服の刑事がうろうろした(初めて見る人物なのに私服だと分かるのはなぜなのだろう)。 会社をクビになったあと、どこの出版社を受験しようとしても、面接でまず聞かれるのは「なぜ前の会社を辞めたのか」ということだった。嘘をつくのもいやだし、かといって真正直に答えれば不採用になるのはわかりきっている。ほんとうに苦しい時期だった。歳をとって、まあニクミのひとたちもニクミに入らざるを得ない事情があったのだろうと少しは寛容になったけれど、思いがけなくもカポーなどということばと出会うと、いやな記憶がフラッシュバックする。(つづく) 『はがき通信』の道のりをたどる(その3)
はがき通信の読者の皆様、こんにちは。姫路はようやく暖かくなってきました。この記事が掲載される頃は、すっかり春の暖かい日差しに満ちているものと思います。 さて、「はがき通信の道のりをたどる」の3回目(最終回)となります。前回までは、投稿の数の変遷やどのような内容が書かれてきたかなどを述べました。今回は、書かれてきた内容にもう一歩踏み込んで、テキストマイニングという方法を使って記事に使われている「言葉(単語)」から、記事の内容のつながりや分類を見てみます(ただし、この方法で得られた結果は絶対的なものではなく、様々な解釈が考えられますのであらかじめご了承下さい)。分析対象は、今までと同じで1990年の創刊から2014年は4月号までで、投稿記事の総数は2,903件です。 1. 言葉(単語)から分析する テキストマイニングというのは、記事の文章を単語で区切り、その数や使われ方から様々な情報を取り出す(探り出す)分析の方法です。ちょっと、すぐに想像できなくて難しいですよね。ちょうど文章という1本の細長い「ひも」を単語ごとにハサミでぶつぶつと切って、同じ単語を集めたり、元々どんな単語と単語が仲が良かったかを見るような感じです。この方法は、最近では「質的分析」といって、例えばアンケートの自由記述欄に書かれた文章や、商品の苦情文章(メールなど)からユーザーが潜在的にどのような関心を持っているか、どのようなことに不満があるのかを探り、新たなサービスや商品の開発に活かすために使われたりします。なんだか凄そうな方法ですが、全ての記事からあらゆる単語を取り出しますので膨大なデータになりますし、結果も場合によってはそれほど明確にでないこともあります。これらは手作業ではとてもできません。ここでは専用のソフト(フリーソフト)を使い、自動的に文章から単語を抽出して分析しました。 それでは、まずは「はがき通信」の記事から切り出した膨大な「単語」をテーブルに広げてみることにしましょう。そのときに、似た単語は近くに、異なった単語は離して置くことにします。そうして作った図が図1です。 図1 言葉(単語)の「広がり」と「まとまり」 この図を見ますと、「自分」(図の中央)を中心とした、ざっくりと7つのまとまりに分けることができます(あまり細かいことは考えずに、ざっくりと見て下さい)。そして次に全体を眺めてみて、縦軸を「個」(ひと・もの・こと)と「社会」、横軸に「能動」と「受動」と対(つい)となる言葉を当てはめてみます(これも、この言葉が決まっているのではなく、眺めてみた結果とお考え下さい)。そうすると、左上の四角の領域には、個人の能動的な行動としてはがき通信への問いかけがあり、右上は個人の障害の痛みや訓練といった身体が受けている「こと・もの」があると解釈できます(あくまで主観的な感覚です)。さらに、右下は社会とつながるための手段や、制度やサービスがあります。ただし、この制度やサービスは左下の社会に対する能動的な領域にも分類されていることから、制度やサービスは単に受けるものではなく、積極的に利用するものとして考えられているのではないかと思います。 図2 名詞の共起ネットワーク 2. 言葉(名詞)のつながりから分析する 次に、テキストマイニングを使って「名詞のつながり」(「共起ネットワーク」と言います)を見てみます。比較的多く使われている単語(名詞)を抜き出して、それぞれのどのようにつながって使われているかを図にしたものが図2です。ここでも大きくグループ化して見てみます(このグループ化したときのタイトルも概観して当てはめたものです)。「はがき通信」が社会とのつながりのひとつの核になっていたり、「日常生活」のなかでの障害、福祉、サービスなどが密接につながっていることがわかります。さらに「医療」として障害に対する医学的な関心も高いことがわかります。 3. 話題のグループのつながりを考える これまでは単語そのものを考えてきましたが、今度は様々な単語をグループ化(カテゴリ化)して、それぞれの関係を見てみましょう。このような方法をクラスタ分析といいます(「クラスタ」には「集団」や「群れ」といった意味があります)。分析結果は図3のように木の枝を広げたような図(樹形図といいます)で表せます。こうすると、カテゴリ同士の関係の強さや、段階的につながっていく様子が分かりやすくなります。例えば「旅行・懇親会」と「交通機関」は密接な関係にあり、次の段階として「建物(バリアフリー)」が関係してくるといったようにつながり方の段階(階層といいます)がわかります。 はがき通信の分析から、図に示すように大きな集団(クラスタ)として、「生活関連」「社会関連」「身体関連」の3つに分けられました。「生活関連クラスタ」では、受傷後にリハビリテーションを行い、福祉機器や家族・介助者等の支援などによって自立した生活を送っていることが読み取れるかと思います。そして、自立の実現によってさらに趣味などの活動に積極的に参加できているという過程が推測できます(これらには様々な解釈がありますので、絶対的なものではありません)。 いかがでしたでしょうか。ちょっと難しいですよね。でも、こうやって皆さんから発信された言葉を眺めていくと、「はがき通信」の歴史の重みや様々な「思い」が伝わってくるように感じられ、学問に携わる身にとって何とかお役に立てなければと引き締まる思いがします。 3回にわたってはがき通信の分析結果の一端をご紹介しました。さらに分析を進めて、学会等で発表させていただければと思います。 最後になりますが、皆様のますますのご活躍を心より祈念申し上げます。 兵庫県:土川 忠浩 兵庫県立大学環境人間学部・教授・博士(工学) 図3 階層的クラスタ分析 『臥龍窟日乗』—陶芸家中島清—
「えっ、ナカジマキヨシ?」電話に出たSさんは、いぶかしげな声でつぶやいた。「乞食だよ、こじき……」 意外だった。Sさんは京都の有名な料亭のご主人であり陶芸家でもある。中島清は彼の陶芸の師匠筋に当たる。 「毎日、五条の山んなかからウチにメシ食いに来るんだが、食うだけ食っといて、礼も言わんとオレの造った食器にケチつけるんだよ」 「お前ら志野だ織部だって騒ぐけど、見てみろこれをと言って、懐から柿の落ち葉をとりだしテーブルに置くんだよ」 私が中島清を知ったのは、陶芸家番浦史郎の伝記を手掛けていたときのことだ。番浦は京都東山にある日吉ヶ丘高校の卒業生。かれの轆轤(ろくろ)のウデを見抜いたのが担任の中島清だった。 日吉ヶ丘高校というのは普通科の高校なのだが、戦後の学制改革で、一時、京都美術学校と合併したことがある。普通科のほかに美術工芸科がふたクラス併設されていた。 明治13年創立の京都美術学校は、日本ではじめて開校された美術学校で、卒業生にはわが国を代表する美術界の大物が名をつらねている。京都美術学校は京都美術工芸学校などと、たびたび名称変更しており、一般的には「京都美工」としてしられる。 自由奔放な気風があって、新制の普通高校とはなじめなかった。その当時在籍していた人の話では、「高校と美大が同居している」ような雰囲気だった。番浦もみずからの経歴には、日吉ヶ丘高校卒ではなく誇りをもって京都美工卒と記している。 美術工芸科で、陶芸を担当していたのが中島清だった。薬缶に焼酎を入れ、ダルマストーブで温めて、昼間からちびちびとやりながら授業をする、そんな破天荒な教師だった。教師が教師なら生徒も生徒だ。バサラを気取ってか、女物の浴衣を着て、となりの大谷高校に殴り込みをかけたり、運動会ではやぐらに貼り付けた模造紙に火を点けたり、手の付けられないヤンチャ軍団のリーダーが番浦だった。 若いころの中島清は天才画家といわれた。国画展に四回入選。帝展、日展にも入選している。1946年には八木一夫らとともに青年作陶家集団を結成。だが定期収入がなく貧困生活が続いた。1950年、日吉ヶ丘高校に奉職。生活の安定を得て、翌年、走泥社の一員に加わったこともある。教師の身でありながら、担任の〈窯ぐれ〉予備軍をひきつれ、祇園界隈(ぎおんかいわい)を呑み歩いたそうだ。 大きな行事があると、かならず暴れるのが美術工芸科の生徒だった。「こんどの運動会では騒ぎをおこさんでくれ」と中島が頼むと「そのかわり男女のフォークダンスをやらせてほしい」と条件が出る。「オレのクビをかけて実現させてやる」中島は大見得をきった。 戦後まもないころだ。「未成年の男女が手をつないで踊るなんて」と職員会議は揉(も)めにもめた。そして却下。 中島のメンツはまるつぶれだ。焼酎の一升瓶をさげて教室にあらわれ、「せっかく就いた教職を投げだす度胸がオレにはなかった。許してくれ」と大声で泣きだした。 後年、番浦が伊賀上野に広大な音羽山房を築いたとき、Sさんはベンツの後部座席に加藤唐九郎と中島清を乗せ、音羽山房を案内した。唐九郎は陶芸界の怪物。その怪物が中島清には一目おいていた。 音羽山房で番浦の一番弟子といわれた杉浦真さんが、中島清の描いた絵ハガキを送ってくださった。京都のデパートで回顧展が開かれたそうだ。なかに柿の落ち葉の絵があった。くだんの柿の葉だ。 枝から落ちたばかりの柿の葉は、まだ生きている緑の部分と、すでに枯れてしまった茶色の部分、そして枯れかかって赤みをおびた部分がみごとな調和をなしている。 中島清の作陶集が出ているのを最近知った。カラー写真に解説を付したこの本の発行発起人のひとりが、なんとSさんだった。乞食と罵りながらも、中島清の作陶精神をSさんはしっかり心に育んでいたのだ。 千葉県:出口 臥龍 【編集後記】
外出先にてスマートフォンでメールチェックしたときに、プロバイダーのサーバーに「はがき通信」のご投稿メールが届いているのを確認していました。次の日にパソコンから送受信しましたら昨日スマホから確認していたはずのご投稿メールがなくなっていて受信できずに、ご連絡して再送信していただき事なきを得ました。 ありがたいご投稿は、ほぼ電子メールで届いていまして、届きましたら必ず100%お礼の返信をお送りしております。ご投稿メールを送られたときに、もし返信がないときは何らかのトラブルで受信していないおそれがありますので、ご面倒かとは存じますが再送信、または他の編集担当者へ送信をよろしくお願いいたします。 次号の編集担当は、瀬出井弘美さんです。 編集担当:藤田 忠
………………《編集担当》……………… (2015年2月時点での連絡先です) 発行:九州障害者定期刊行物協会 |
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