も く じ | |
ごあいさつ | 会計担当:占部 誠 |
箱根旅行 | 広島県:Y.O. |
<特集!その1 人工呼吸器を使用しての生活> | |
☆不便だけど不幸じゃない | 愛媛県:T.K. |
☆入院21年を経て、在宅生活5年目 | 広島県:H.S. |
☆ベンチレーターLIFE・人工呼吸器使用者の生活 | 兵庫県:S.Y. |
☆20年間の人工呼吸器生活 | 広島市:S.K.(父) |
☆吸引問題考その2 | 新潟市:T.H. |
<特集!その2 「はがき通信」懇親会in広島2013」> | |
☆2013年「はがき通信」懇親会in広島会計報告 | 実行委員・会計担当:Y.O. |
☆はがき通信懇親会広島大会を終えて | 広島県:K.T. |
☆初めて広島を訪れて | 兵庫県:T.H. |
☆「はがき通信」懇親会in広島2013に参加して… | 福岡県:K.H. |
☆初参加!「はがき通信」懇親会! | 広島市:M.T. |
☆広島旅行と懇親会 | 埼玉県:K.E. |
☆東広島市西条の酒蔵見学に参加しました | 広島県:T.M. |
☆3度目の広島懇親会 | 香川県:M.S. |
☆広島懇親会を終えて&私の広島旅行記 | 佐賀県:A.N. |
『臥龍窟日乗』−アグレッシブリハ、危険も−〈2〉 | 千葉県:出口 臥龍 |
箱根旅行
「行けるうちに行っておこう!」ということで、最近はよく旅行に出かけます。宿泊旅行はけっこう疲れますが、知らない所に行くのは楽しいものです。 「体調が悪くなったらどうしよう」とか「キャンセルすると、休みを取ってくれた同伴者に悪いなぁ〜」とか「お金もったいないよなぁ〜」など考えるとストレスが溜まり、調子を崩す恐れがあります。 ですから、旅行のことは直前まで、あまり考えないようにします。行きたい場所や食べたいものなどを伝えて、バリアフリー専門の旅行会社に任せます。荷物の準備も、いつものヘルパーさんにマニュアルを見せてお任せです。おかげさまで、これまで計画した宿泊旅行はすべて行きました。 先日、日本の世界遺産を調べていて気がついたのですが、富士山を入れると文化遺産が13ケ所あり、うち11ケ所に行っています。残るは、平泉と熊野古道だと判明しました。この2ケ所はぜひとも行きたいと思い、密かに計画しています。ちなみに、自然遺産は4ケ所あって1つも行っていません。 ●箱根駅伝ゴール地点にて ●大涌谷 そんなわけで、6月8日(土)に横浜で開かれた頸髄損傷者全国総会の翌日、箱根に行き1泊しました。横浜のベイシェラトンホテルから箱根には、観光タクシーを利用しました。電車を使っての移動も考えたのですが、暑さで参ってしまいそうと思いタクシーにしました。 ところが、箱根は梅雨にも関わらず、空気が爽やかで、涼しいのです。新春恒例の箱根駅伝のコースを通り、大涌谷(おおわくだに)に直行し、1個食べると7年長生きできるという「黒たまご」を食べ、命を長らえました。 大涌谷を下りて、桃源台で食事を取り、芦ノ湖の遊覧船に乗りました。桃源台から大涌谷には、ロープウェーで行くこともできます。もちろん車椅子もOKです。下船した箱根町に、箱根の関所跡や箱根駅伝のゴール地点があります。 宿泊は、芦ノ湖湖畔の箱根プリンスホテルです。ロケ−ションは最高でしたが、夕食の京懐石はいただけません。翌朝、富士山がホテルのベランダから見られたので、「まっ! いいかぁ〜」。朝の芦ノ湖湖畔の空気は、爽やかでとても気持ち良いので、朝食後に少し散歩しました。 チェックアウトをすませ、ポーラ美術館に行き、有名画家の作品を多く観ました。開館した時、コレクションの凄さに世界が驚いたという美術館ですが、有名画家を象徴する絵画はあまりなかったような気がしました。 ●芦ノ湖遊覧船乗り場にて ●ホテルの部屋からの眺め その後、三島に向いましたが、すそ野が広がる雄大な富士山はまったく見えず残念です。三島駅から新幹線に乗って帰路に着きました。 《参考資料》 『日本の世界遺産』 ◆文化遺産 ・平泉 (岩手) ・日光の社寺 (栃木) ・白川郷・五箇山 (岐阜、富山) ・古都京都の文化財 (京都) ・古都奈良の文化財 (奈良) ・法隆寺地域の仏教建造物 (奈良) ・熊野古道 (和歌山、奈良、三重) ・姫路城 (兵庫) ・石見銀山 (島根) ・原爆ドーム (広島) ・厳島神社 (広島) ・首里城 (沖縄) ◆自然遺産 ・知床 (北海道) ・白神山地 (青森、秋田) ・小笠原諸島 (東京) ・屋久島 (鹿児島) 広島県:Y.O. <特集!人工呼吸器を使用しての生活> 特集 不便だけど不幸じゃない
私は10年前の20歳のときに事故に遭い、C1(正確には頭蓋骨とC1の間なのでC0?)を損傷し、人工呼吸器をつけて生活しています。香川で事故をしたので、1年3ヶ月香川の病院で治療していました。ストレスからか胃や内臓に多数の穴が開き、お腹が閉じられずCRP(炎症反応)も高かったため、首の手術ができたのは事故から6ヶ月経ったときでした。 それまでリハビリもできなかったからか、今でも首は据わってません。人工呼吸器をつけているため声も出ませんし、動くのは目と口のみです。 入院中は母が寝れない私の横で寝もせず食事もほとんど摂らずずっと側にいてくれました。父も土日は仕事を休み、毎週愛媛から来てくれました。そこまでしてくれた両親への想いは『感謝』という言葉では言い表せないほどの気持ちでいっぱいです。 退院して両親そして大学の関係者の方々のお蔭で大学にも復学でき、無事卒業できました。その後も知人や障害者支援団体の方々のお蔭で就職もでき、今でも1日2時間〜4時間働かせていただいています。 最近まで訪看さんが来られる週2回の入浴時以外は全て両親に任せっきりだったのですが、昨年から週に3回ヘルパーさんに19時〜22時まで入ってもらっていたのですが、ヘルパーさんの事情などから週1回になりました。今年から別の事業所のヘルパーさんに入ってもらい、週に2回夜の見守りに来てもらっていますが、市から1日4時間までしか認めてもらってないため、残りの時間は実費になります。しかし、両親に頼らず外出できるのはとても嬉しいです。 ●向かって左より、Sさん、Kさん、Yさん (写真下) 先日広島であった「はがき通信」の懇親会では刺激をたくさん受けました。愛媛で頸髄損傷で呼吸器をつけているのは私だけなので、4人もの呼吸器をつけた方々にお会いできたのはとても嬉しかったです。ただ皆さんと違うのは、自発呼吸がないのと誤嚥(ごえん)するためカフを緩められず声が出せないことです。どなたかカフを緩める以外で声を出せる方法をご存じの方は教えてください。 私が今、何不自由なく楽しく暮らせているのは両親をはじめ周りの方々のお蔭です。これからは頼るだけではなく、恩返しをしていきたいです。 愛媛県:T.K. 特集 入院21年を経て、在宅生活5年目
人は産まれたときから、その人の運命は定められているといいます。私の運命も頸椎損傷人工呼吸器装着と決められていたとしたら、何とも人それぞれにこの世に産まれた満足度の違いを感じることを、受傷間もないころ、いえ今でも考えることがあります。 私が、21年間の長い闘病生活を終え、在宅生活になってから10月で5年が経ちました。闘病中は、C2の呼吸器装着、肩から下の感覚はなく、ベッドから下りることも、これ以上のことは何も望めないと告げられていた絶望に満ちたものでした。 それでも、地道な訓練で最初は頭にかぶった棒の付いたポインターでワープロを打てるようになり、手紙も書けるようになり、パソコンを打ち投稿も始めました。 「呼吸器を装着していると声を出すのは絶対に無理!」と言われていましたが、PTの先生が声の出ない私に、声を出しているつもりで毎日毎日新聞を読む練習を始めてくれるようになりました。 しかし、ある日内科のDr.が「いつまでもカフをいっぱいに入れたままにしていると壊死をおこすので、昼間は少なくした方がいい!」とおっしゃって昼間のカフの空気を6ccから2.5ccに下げました。 それからです、声を出すリハビリの苦しみが始まったのは……。苦しくて苦しくて頭がボーとして、目の前が真っ暗になるときもありました。しかし、そのDr.の言葉がなかったら、今私はいろいろな方たちに私の思いを理解してもらうことも、友達とのお喋りもできていなかったかも知れません。 そして、毎日呼吸器を外して肩を上下に動かしながら自力呼吸の練習をして行きました。今では呼吸器を外して自力で25分くらいは呼吸ができるので、呼吸器の回路交換の間などは自力呼吸で充分に呼吸していられます。 5年が過ぎた在宅生活ですが、それに至るまでにも紆余曲折の日々でした。20年にも及ぶ闘病生活の終末近くは、毎日、師長さんから言われるのは「早く出て行って!!」の言葉で、悩み苦しみむ日々でした。 でも、呼吸器を着けている患者を受け入れてくれる病院は、ネットや人づてでほぼ60箇所は探しましたが、断られるばかりで1箇所もありませんでした。その頃は、呼吸器を着けている者が在宅生活ができるとは考えてもいなかったので、受け入れてくれる病院ばかりを探していたからです。 途方に暮れ追い詰められているとき、インターネットで広島頸損の会の会報「きりん」を見付け、さっそく連絡したところ「きりん」のHさんが電動車イスを巧みに運転して病室へ入って来られ……「呼吸器を着けておられる人でも在宅できますよ!」と、おっしゃってくださいました。 そのときの言葉に「私が在宅???」そんなことなんて考えてもなかったことでした。それから、妹と思ってもみなかった在宅を現実のこととして考えて行くようになり、バリアフリー住宅やマンションなどを、妹は、見学して歩くようになり福祉関係にも相談に行き、在宅を少しずつ現実のものに……と、努力を重ねて行きました。 そのうち広島の県北のT平病院が、自宅をバリアフリーに改築する間と、電動車イスの運転の練習をする間を条件に、1年間受け入れてくれるという朗報が飛び込み、安堵の思いに胸をなで下ろしたときのことは忘れられません。 しかし、呼吸器を着けているということで入院を断られると、私たちのような患者は一体どうすればいいのでしょうか? きっと困っておられる人がたくさんおられるのではないかと思います。 県北の病院での11ヶ月間の入院生活は、これまで20年を過ごした病院とは全く違って、何もかも揃った設備の良い病院で、体を拭くだけで20年間入ったことのなかったお風呂に入れてもらえました。それもブクブク泡の出るお風呂で、それはそれは気持ちが良くて、お風呂に入れるありがたさを身に染みて感じて嬉しかったです。 もうひとつ嬉しかったのは、それはお風呂に入れたよりも何十倍も嬉しい出来事でした。私が、ベッドから下りるときは、足浴で車イスに座るときと、15年家にも帰らず付き添ってくれた母が病気で入院中の母の見舞いに行くときと、妹と母を看取ったとき。その私が、まさか電動車イスを自分で運転して屋内外を動き回れるなんて!! でも、思うように運転できるようになるまでには、顎で運転操作(チンコントロール)をするため、エレベーターからバックで出るときにグルッと曲がって出られなかったり、自動ドアに挟まれたり、壁にぶつかって穴を開けてしまったことや、PTさんの足を引いて叱られたりしました。毎日の運転の練習で私の顎は腫れ上がって皮が剥け、美人台無し??? ●Sさんと妹さん(写真下) そして、さまざまなことを経て、いろいろな人に助けられて在宅生活が始まりを迎えたのです。その在宅生活は、訪問Dr.はじめ、訪問看護師・訪問歯科・理学療法士・ヘルパーさんたち、大勢の人たちに支えられ困難も乗り越えて5年を迎えることができました。その間、ヘルパーさんたちの痰吸引資格取得もあったり、病院では治っていなかった褥瘡が、家に帰って来てからきれいに治りました。 そして、あれだけ練習で苦労した電動車イスの運転でしたが、今ではひろしま国際平和マラソンの車イスの部に出場して完走しています。選挙で投票にも行けますし、旅行にも行って、コンサートや映画や買い物に行くのも楽しみです。 事故に遭ったときの絶望感を引きずっているときもいまだにありますが、自分でも信じられないくらいの可能性があることに驚くときもあります。皆さん、不自由な身体を背負っての人生は、辛く苦しいものですが、諦めず生きていれば可能性は無限にあるのではないでしょうか。 広島県:H.S. 特集 ベンチレーターLIFE・人工呼吸器使用者の生活
「はがき通信」愛読されている皆様、はじめまして。私は兵庫県明石市在住のS.Yと申します。年齢は42歳の後厄です。簡単に現在までの状況報告や今後についてお話しさせていただけたらと思います。 今から8年4ヶ月ほど前に、トラック運転手の仕事をしていた私は、配送中に交通事故に遭い、首の骨が折れ神経を圧迫したことによる、頸髄損傷という首から下が完全に麻痺した状態で、人工呼吸器を24時間使用しながら、家族と一緒に生活をしています。 私は受傷によって人生が一変し、人工呼吸器を使用し生活していかなければならなくなって感じた大きな心境の変化を2つ挙げてみました。あくまでも私個人の見解です。 まず1つ目は「自分の置かれた現状について」です。 受傷するまでの34年間は健康な身体に恵まれ、風邪もほぼ引くこともなく病院なんて私には無縁な存在でした。それなのに事故による受傷により、当時は信じたくもない現実を受け入れられず、入院から2日後の夜に体調が急変し、人工呼吸器を使用せざるを得ない状況となり、気管切開を余儀なくされました。救急の病院だったので首の固定手術ができず、治療に専念することと声が出ない苛立ちに、どう向き合っていくことが良いのかと自問自答している自分がいました。即入院だったので一瞬の出来事によって身体の自由が奪われた苦しみに加え、家族はもちろん親戚や友人、会社に対する申し訳ない気持ちで一杯でした。入院から半年後に関西労災病院へ転院し、ようやく首の固定手術ができた後は、ひたすらがんばることしか考えませんでした。 約11ヶ月の入院生活を経て、在宅生活に戻りました。在宅生活がスタートしてヘルパーを利用することに抵抗があり、1年間は導入しませんでした。というか深く考えていなかったのです。入院中はベッドが満床で、家族が介助練習することもできず、独学での介助でいろんなことを試行錯誤しながら失敗も繰り返し、ヘルパーを利用するに至るまでの1年間は精神的、肉体的にも大変でした。自分の介護のことで激しく口論になるときもあり、家族にはとても苦労をかけたと思います。 在宅に戻ってから1年9ヶ月後に主治医の紹介で、私と同じ頸髄損傷者が活動している団体があると教えられ、興味を持った私はお会いしたくて連絡を取っていただきました。数日後、面会することになり、いろんな話を聞く上で不安も解消し入会することができました。そして同じ人工呼吸器を使用した人との交流もできたり、いろんな活動を共にし、さまざまな行事にも参加することができました。まだ課題は多いですが一歩ずつ前に進んでいるような気がします。 ●初日にスピーチされるYさん(上) もう一つは「今後の不安を解消するためにはどうすればよいか」についてです。 私が住んでいる関西では、兵庫と大阪の人工呼吸器ユーザー数人が年3、4回のペースで集まり、情報交換交流会を行っています。その中で一番の問題点は「将来がとても不安だ」という声が挙がりました。「本人だけではなく、家族も眠れないほどの悩みがある」と。それは、誰しもが思うことであり、思っていても言えないことが辛くなることもあるのです。当たり前に生活をする以前に、電気が止まってしまったら、私みたいな呼吸器を使用した人たちは命の危機に直面します。だから常日頃から緊急時に備えなければいけません。バッテリーの問題、発電機などによる電源確保、手動式人工蘇生器具(アンビューバッグ)の緊急対処、吸引器具など私たちには必要不可欠なのです。 最近、各地で竜巻等が発生して甚大な被害を受けています。温暖化による自然災害はいつ起こりうるか誰も予測はできません。危険を想定し準備万端な対応する必要もあります。 呼吸器を使用しながらも今後どうやって生きていくかは、自己選択、自己決定するべきではないかと私はそう感じます。そのためには、まず自分の現状を社会に知ってもらう必要があります。役所への申請や、交渉なども納得するまで何度も行い、全てを他人任せにするのではなく、時には協力者と共に自ら動くことも必要なのではないでしょうか。 ただ、自分ひとりで悩むのではなく、第3者の意見や想いを参考にすることも必要です。そうすることで少しでも悩みが解消し、さらにみんなと共に今後の人生が開けていくよう、「それらをもっと多くの皆さんに知っていただくことが最重要課題」という認識で取り組んでいきたい。こういうことが重度な障害を持っていても、呼吸器を使う状況にあっても、ただ単に生きるというだけではなく、「社会参加する」、「社会につながっていく」、「一度しかない人生を満喫する」、「人工呼吸器使用者の存在をもっとアピールしたい」ということだと私は考え、活動を続けていきたいと思います。 兵庫県:S.Y. |
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