御立派な糖尿マンの小生は健康誌の記事に玉葱が血糖値を下げるとあり、玉葱を常食にしている。そこで、ヘルパーさんが「玉葱に取り憑かれてるみたいよ」と。以来、トドのオッサンから華麗なる玉葱オヤジに変身させられた。玉葱オヤジの愛妻もラッキョ(楽居)オバサンとしてデビューすることと相なったのだ。トドのオッサンは剥いても剥いても中身は無くとも花が咲き実の成る事を見せてやる! トドのつまり、♂の意地に賭けて「何か為さん」の意気込みなのだが・・・・。アパート暮らしも丸一年を過ぎ、地域社会に根を下ろさせて戴いたので根も葉も繁らせるぞ! 近所の子供たちも玉葱のオッチャンと声をかけてくれる。一皮剥けば胡散臭い奴と思われるかもしれないが、臭いが艶やかな曲線美の玉葱に熱い思いを託して地域に根を張り活路を拓きたい。変身した玉葱オヤジに光明のあらんことを「はがき通信」の愛読者御一同祈って欲しい。夫婦間に吹く冬の隙間風も春の兆しに緩みつつある。息軒昂な玉葱オヤジ・楽居オバサン万歳!なんだから。 ◇広島頚損ネットワークも活動3年、服部会 長を中心にますます張り切っています。 ◇4月2日は安佐北区総合福祉センターで年 次総会です。多数の御参席を希望している。
広島市 : トドのおっさん
『私たちは、車いすから一歩を踏み出すために立ち上がった!「諦め」や「ただ待つ」だけでは実現はますます遅れてしまう! せきずい再生は夢ではありません。21世紀の扉を前に、せきずい再生の可能性を究めるため、私たちは「日本せきずい基金」を発足しました。 1、21世紀に向けて、「日本せきずい基 金」を設立しました。 2、21世紀のせきずい再生の支援体制を作 ります。 3、21世紀に私たちは、自分の足で立って 歩きはじめます。』というものです。 私が事故にあって、自分の障害の状態をつぶさに知り、それを受け入れていたころ、弟が私に言ったことがあります。「姉さんの事故が、もし、日本で起きていたならば、手は動くようになっていたかも知れない、と主治医が言っていたよ」 その話を聞いたとき、私は別に動揺も後悔もしませんでした。そして、弟にこう言いました。「もうその話しはせんといて。私は自分のやったことを後悔もしてないし、後ろを振り返りたくない。前だけを見て歩いていきたい」 その頃の私は、自分自身の障害の原因になったのは、頚椎の4番から出ている中枢神経が切れたことに依ると思っていました。さらに、中枢神経の再生は「絶対不可能」と思いこんでいました。関西労災病院入院中も「中枢神経の再生に成功した」という、動物実験の記事を見たことはありますが、それを信じようとはしませんでした。 しかし、「日本せきずい基金」から送られてくるニュースを見ているうちに、私の考えは変わってきました。中枢神経の再生の可能性を信じるようになったのです。そして、私が生きているうちに、歩くことまでは望まないが、どちらか腕1本でいい、いや親指と人差し指だけでもいい、動くようになって欲しいと強く願うようになりました。 「私は自分で本のページがめくりたい」 「2本の指で箸を持って自分で食事をしたい」「パソコンを指で打ちたい」 「チンコントロールでない、指で操作できる電 動車椅子に乗りたい」 「自分で涙を拭いたい」 という希望がふつふつと胸の奥から沸き上がってきたのです。 だから私は、この集会に参加しました。そして、パネラーとして自分の思いを語りました。 脊髄損傷者は年々増加しています。それも若者に増えているのです。原因は交通事故です。そして、医学の進歩によって頚椎の1番2番の損傷者でも、人工呼吸器を付けることによって生存が可能になっています。 この日の集会にも人工呼吸器を付けた人が4人参加されていました。車椅子は全部で70台ほど参加していました。介護者や医療関係者、一般の参加者を含むと200人以上の参加者があったと思います。 集会は、スーパーマンの俳優だったクリストファー リーブ(現在人工呼吸器を付けたケイソン)からのメッセージで始まり、次に、京都大学大学院教授の中枢神経再生の現状の説明が写真入りでありました。切断された神経の写真や、再生し始めている写真、さらには、神経を切断して、その後、再生手術を施した、ラットの動きが紹介されました。 一連の説明と映像は、私の希望をふくらませる物でした。質疑応答があり、私は次の2点を質問しました。
難しい質問ですが、と前置きされての答えは、希望の持てる内容でした。 それからトークセッションがありました。私を含めて5人の、頚髄損傷者が意見を述べました。その中で、人工呼吸器をつけて在宅生活をされている人のお母さんの、19年間の闘いの歴史は胸にしみました。 また、どんなに重い障害があろうとも、自分の住みたい所に住み、自分のやりたいことをやりたいと望むのは、許されないことなのでしょうか? そういう社会が、早く実現されるように、と言う意見には、私も全く同感でした。それぞれの生活の中から出された意見は、みんな胸打たれるものがありました。 それから、車椅子女優の萩生田千津子さんの民話があり、ペルーのリッキー・ロドリゲスのケーナ演奏があり、最後に交流会がありました。私は参加して良かったと思っています。新しい希望が芽生えてきたからです。 私は「日本せきずい基金」の活動に期待していると同時に、私が出来ることで、その活動に参加したいと思っています。「日本せきずい基金」のやることはたくさんあります。 「中枢神経再生の研究への支援」 「脊損専門病院の建設とネットワーク作り」 「自立を見据えてのリハビリ、介護者、住宅の 建設などの提案、そして、実行」等々。 皆さんにもこういう動きがあることを是非知って欲しいと思ってガベちゃんニュースにしました。 私と新井さんは、新幹線、横須賀線、都営新宿線を、駅員さんに導かれて会場に着きました。エレベーターは、目立たないとんでもないところにあったのです。これも、日本の現状です。
兵庫県 : KS
そこで、日本のたくさんの頸髄損傷者に協力してもらって、日本製の中古車イスを集めて、越冬の度に現地に持ち込んで、身障者に贈呈するようになりました。ときには、コンテナーで80台を一挙に運んだこともありました。これはすでに累計134台を数えます。 ところが、ネパールに行くと、さらに悲惨な光景に出会います。身障者が横に転がりながらマーケットに向かっているのです。 寒い朝など、ゴミの山の一角が動いたように見えたので、錯覚だったかなと思って、じっと見ていると、ゴミをかぶった身障者が転がり出てきます。つまり、ホームレスの身障者がゴミの中で暖かい一晩を過ごしていたのです。 同じ身障者として、こんな光景を見て、涙なしに通り過ぎることはできないでしょう。かと言って、日本から車イスを持って行くには遠すぎるし、もし何台か持っていけても、山ばかりのネパールでは、すぐに壊れてしまいます。 そこで、田舎の道路でも壊れないタイプの車イスを設計してみようと思いつきました。3年間かけてやっと、去年の10月に、満足のいく試作品が1台8千円で完成しました。その時の感激は筆舌に尽くせません。 すぐに、外注で改良型の車イスを50台現地生産しました。これは計らずもネパールでの車イス国産第1号ともなりました。つまり、ネパール人は車イスを生産できる技術を持っていながら、そのやり方を知らなかったわけです。 車イス50台の話は現地のマスコミや福祉関係でも大きく取り上げられましたが、要は、本当に車イスを必要とする人に渡すためにはどうすればいいかです。足の動かない身障者は山間部に散らばっています。そこで、ラジオで応募者に直接呼びかけることを思いつきました。 今では、現地の障害者を調査の上、一人一人に白塗りの車イスが贈呈されています。
北九州市 : 向坊弘道 向坊弘道ホームページzi5h-mkib@asahi-net.or.jp
私は、昨年の8月28日で、障害を持ってから10年目の記念日を向かえました。障害を持ったのに、「記念日」というのは、ちょっとおかしな言い方のように聞こえるかもしれませんが、私は今では、障害者になって良かったと思っており、それゆえ、やはり「記念日」という言い方が適当かと思います。その日、私は家族とともにお祝いをしました。それは大騒ぎするお祭りのようなものでも、厳粛な儀式のようなものでもなく、日常生活の中でのちょっとしたお祝いという感じで、みんなで記念写真を撮り、ケーキを食べました。 しかし、10年前には、そんなお祝いをすることなど、どんなに想像力を働かせたとしても、決して思いつくことではありませんでした。今にしてみれば、それは奇跡のように思えます。 10年前の私というのは、今とは180度反対でした。私は、障害を持ったこと、障害を持った後の生活や人生に、絶望していました。そして、考えていたのは、「どうやって死ぬか」ということだけでした。「どうやって睡眠薬を手に入れるか」、「どうやってそれを介助の者の目を盗んで飲むか」、「いつそれを実行に移すか」・・・しかし、そういったことを家族や病院の職員にほんの少したりとも話すことはなく、すべては自分の気持ちの中に押さえ込んでいました。 見渡す限り灰色の空の広がった荒野に、「障害」という名の真っ黒な巨人がいて、うつ伏せになった私を、足の裏でぐいぐいと押し潰そうとする。私は助けを求めて泣き叫ぶが、やってくる者などなく、その状況は永遠と続いていく。当時の私の心境は、まさにそんな感じでした。この世から自分の存在がなくなってしまうことなど、何の未練もありませんでした。 しかし、実際に自殺をするための準備や段取り、行為を考えるのは、この上なく苦しいことでした。苦しくて苦しくて、それは言葉では表現できないほどで、あまりに苦しいので、「こんなに苦しいのなら、いっそ死ぬのはやめて、生きてみようか」と思い改めたのでした。しかし、死ねないから生きるというのでは、状況は何も変わらず、「この先、障害を持つことで、どんなに苦しいことがあっても、決してそれに負けずに生きていこう」と、そんなふうに決意しました。不思議なことにそう決めた瞬間、「もうこれで死ななくてもいんだ」とほっとしました。 死のうと思っていた頃、自殺についてこんなことを考えていました。「『自殺は決して、してはならない。それは最大の罪で、死後は地獄に落ちる』なんて話がある。でも、地獄とはいったいどんなものなのか。死後の世界とは何なのか。実際にそれらは、どれだけ信じるに値するものなのか。自殺は本当に悪なのか。誰がそんなことを決めたのか。世間に広まっている当たり前のことなんて、実際は根拠のないいいかげんなことがたくさんあるんじゃないか」 最終的に私は生きることを選んだわけですが、それを決めたのは、「自殺は大罪である。悪である」という考え方からではなく、私自身の意思でした。「自殺する苦しみに耐えること」よりも、「生きていく大変さに立ち向かうこと」の方が、ずっと楽だと感じたからです。 私は障害を持ってから、いろんなことを根本から考えるようになったと思います。その最初が、今書いた自殺することについてでした。その後、月日が経つ中で、「自分は本当は何がしたいのか」、「自分は本当は何が好きなのか」、そして「自分らしさとは何か」とうことを考えるようになりました。 私は最初、「自分らしさ」とは生まれながら私の内部にあり、不変のものだと考えました。「自分らしさ」という「核」があり、それは何十何百という「皮」に覆われており、「自分らしさ」の追求とは、その「皮」を一枚一枚はいでいくようなものである。そして、「自分が本当にしたいこと」は、その「自分らしさ」から発生してくるもので、ある決まっているものである。 しかし、考えた末の「自分らしさ」や「自分が本当にしたいこと」であっても、やっていく内に、少しずつ変化していったり、全く別なものになっていったりすることが何度かありました。自分がこれと決めたことを、途中でやめてしまうことに、かなり抵抗はありまたが、今までの「自分らしさ」は、本物ではなかったものだと結論し、自分を納得させていました。 「『自分らしさ』は、初めから決まっているものなんかじゃなく、変わっていくものなんじゃないか」、ある日、ふと私はそう思いました。「『自分らしさ』も、『自分が本当にしたいこと』も、『自分が本当に好きなこと』も、変化することがあるんじゃないか。 そして、最終的に、『自分らしい生き方』、『自分が生きていく上でもっとも大切なもの』を確立させるんじゃないか」そのことに気づいてから、私はずいぶんと楽になりました。 「自分らしさ」は、「探し出すもの」ではなく、自分の中に「作り上げていくもの」だと思います。「自分が本当にしたいこと」や「自分が本当に好きなこと」も、「ある日突然自分の前に現れたりするようなもの」というよりは、「気がつけば夢中になってやっているようなもの」だと感じます。 私が障害者になって良かったと思っていることの一番は、今上げたようなことを考えるようになり、それなりのものを自分の中で作り上げられたことです。障害を持つ前、私は自分自身に自信が持てず、自分のやっていることに自信が持てず、心の奥ではいつも迷ってばかりいました。 今私は、「より強い、より賢い、より優しい人間になりたい」という、とても強い欲求を持っています。私自身がそれにむけて挑戦し、変わっていくことが、私にとって何よりも大切なことだと感じています。 そのためには、今ある殻を破らなければならず、勇気や知恵や忍耐が必要だったりします。でも、その殻を破れたとき、本当に幸せな気持ちになります。私は障害を持ってから、ずいぶんと強く、賢く、優しくなれたと感じています。 さて、そんなふうにとても良くなった私の人生なのですが、当然のことながら、何もかもがバラ色になったわけではありません。たとえば障害そのものに関しては、相変わらず気をつけなくてはいけないことがたくさんあったりします。 皆さんご存じの通り、夏はアイスノン、冬は使い捨てカイロが手放せません。尿路感染を防ぐため、水分は十分に取らなくてはならず、その結果トイレに行く回数が、24時間で最低6回はあります。それゆえ、昼間は、身障者用トイレがない場合は困りますし、夜は夜で、睡眠を中断して真夜中に排尿しなくてはいけなかったりします。 排便の方もコントロールがなかなか難しく、何時に、どれだけの薬を、どのくらいの量の水で飲めばよいかといったことを気をつけなくてはならず、季節や食事の内容によって、それらを微妙に調節する必要があります。これがうまくいかないと、時間通りに排便が行えず、困ったことになります。また、鎖骨から下の感覚がないため、皮膚が弱く、お尻などに床ずれができないよう、気をつけなくてもいけません。 自分の生き方に関しては、確かにほとんど迷わなくはなりましたが、別の部分では、迷ったり悩んだりすることがあります。仕事やプライベートを問わず、自分の「弱さ、愚かさ、冷たさ」を感じることが多く、えらそうなことをいっても、自分はまだまだだとよく落ち込んだりします。 これまで気づかなかったいろんな問題が、自分にも社会にもたくさんあるということがだんだんとわかってきましたが、まだまだ何も解決されていません。やりたいこと、やらなくてはいけないことが山積みされている状況です。 障害を持ったことによるマイナス部分やコンプレックスは、今もたくさんあったりします。しかし、それでも私は、障害者になって良かったと思うのです。障害者になって「良かったと思う部分」と「悪かったと思う部分」を比べると、「良かったと思う部分」の方が圧倒的に大きいからです。 この10年は、つらいこと、苦しいこと、悲しいことがたくさんありました。しかし、それ以上に、楽しいこと、うれしいこと、すばらしいことがありました。これから始まる10年も、きっとそんな10年なのではないかと思います。一度きりの人生、自分らしく、恐れず勇気を持って、突き進んでいきたいです。これからも、どうぞよろしくお願いします。
北九州市 : RK
A家に通うようになって、この3月で丸2年になります。はじめの1年目は入退院を繰り返し、トラブルつづきでした、なんとか車椅子で散歩できるまでになり、やっとの思いもつかのま、今またお尻の床ずれに四苦八苦の毎日です。 なんとか彼を連れ出したいと望む私ですが、いろいろな障害を乗り越えながらカメの歩みのごとくです。 車椅子に座れない今の彼に、今度はパソコンを持ち込もうと、私自身も取り組み始めました。彼がパソコンを自由に操れるようになれば、もっと世界が広がるはずだと思うのです。「はがき通信」にも参加したり、自発的なことができるのではと思っています。問題をひとつひとつクリアしてゆっくりですが、進んでいこうと思うのです。 呼吸訓練やその他のこと、報告もかねてまたメールを送ります。今日はとっても寒いです。風邪などひかれませんように。 いただいたお心を忘れず毎日過ごしています。いつかお会いできますように。私のことをすこし。36歳、小学校の子が2人います。ヘルパー2級で在宅支援に入っています。介護福祉士をとるため勉学中。メンタルケアなどまだ学びたいことがあり、目標設定確立中です。 共に生きるために私に何ができるか、いつもよりよい介護のことを考えています。子の母としてもきちんとやりたいので、100パーセント仕事にささげる事はできませんが、目一杯がんばっていきます。あらゆる面でのアドバイスもこれからよろしくお願いします。ではまた。
堺市 : ST(堺つくしの会訪問介護センター) Pinsachi@aol.com
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