は が き 通 信 | Number.42---P2 |
POST CARD CORRESPONDENCE | 1996.11.25 |
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書き出しは「アトランタ五輪が閉幕しました。いつの日か体操選手として五輪に出場することを夢見ていたKS君が亡くなってからこの秋で3年が経つ」という文章で始まり、1987年に起きた鉄棒事故のこと、裁判のこと、最終的に和解交渉がまとまるはずだったその日に亡くなったこと、それから私の書いた事故の日から6年間の療養記録等でした。 また、感想として「一読して感動したことは、何にでも挑戦したK君の姿、アゴに付けたスイッチでワープロを打ち、裁判長に手紙を書いたこと、K君を支える会の活動、事故が起きた直後の救急医療がいかに大切かを痛感する。その死を無駄にしないためにも教訓としていかすべき」という感想を書いてくださいました。 午後3時30分、夕刊の配られた直後に、大阪の方より「朝日新聞夕刊に紹介されたK君の本を送ってください」と電話の一報が入りました。また、続いてどんどん電話が入り、夜11時まで電話の対応に目が回る忙しさでした。8月8・9・10日は1日中電話が鳴り、全国あらゆる方面からの問い合わせがありました。
感想の1例として東海大学スポーツ医学教授は、「スポーツによる子供の病気や怪我について、今アメリカで問題になっているので、調査研究をしていますが、実態が知りたいので参考としたい。また、今日の学校スポーツ(部活)、スポーツクラブのあり方に警鐘を鳴らす取り組みを続けています。K君の記録もその参考にさせていただきます」ということでした。 多くの方から心暖まるお言葉をいただき、全国の方とお話できました。私自身あまりにも大きな反響に驚きましたが、たいへんよい勉強になりました。そしていろいろな立場の方と大きな輪が広がりました。多くの頸損の方に「はがき通信」を紹介したいと思います。今後もよろしくお願いいたします。
埼玉県HS
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介助内容は、パソコンの用意や就寝準備、検温、薬やお茶を飲ませるなどで、買物、食事介助は一切ありません。
KI(Sさんを支援する会)
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クーラーの効いた部屋に慣れてしまい、夕方涼しくなっても家の回りを散車イスする元気がありません。毎日を何気なく過ごしている日々ですが、今年の夏の一番の思い出がありますので、それをみなさんに聞いてもらおうと思います。 それは、念願でありました向坊さんのお宅を訪問できたことです。7月頃「夏休みに向坊さん宅に松井先生をはじめいろいろな頚髄損傷者が集まる」という話を聞き、これは絶好の機会だと思いまして実行したのですが、これは「清水の舞台から飛び降りる」ぐらいの決心がいりました。そうです妻の運転です。 熊本から北九州まで妻の運転で行くのですが、妻は長距離の運転はしたことがなく(最高で50km)、ましてや高速道路の運転は皆無でした。しかし、以前から遠くにドライブできるようにと、私を助手席に乗せて走れる車は昨年末購入して準備はしていたのです。でも練習が……。 この車の助手席に乗り移るというのは、私たちのばあい介護者に負担をかけます。そのため、普段はリフト付きの軽四ワンボックスカーですが遠くには行けません。そこで考えましたのが、2つに分解できる携帯用リフターを使い、三菱自動車のRVRオープンギア(車の半分がオープンカーになるので、体をリフターで高く吊り上げられる)の助手席に乗るというものです。リフターと車イスは後部に積めます。 まず高速道路の運転を試しに行きました。2、3区間を往復しましたが、妻が「何とかできそう」と心強いお言葉でしたので少し安心しました(通行量が少ないせいもあるんですが)。 でも家に帰ったときは私の方が、しっかり疲れ切っていました。次に日帰りは難しいので福岡に1泊することにしました。ここで力強い味方は福岡のTさんという頚損の存在です。奥さんは、ときどき「はがき通信」の家族通信欄に投稿されますが、当の本人はボートに熱心です……ナニ??……。 田中さんの口添えで、以前より行きたかったホテル「シーホーク」のハンディキャップ・ルームに泊まれることになりました。ここで問題になるのが車椅子とベッドの移動です。妻と2人だけで外泊した経験がないためトランスファーに関してはいつも不安に思っています。このさい人に頼むことにも慣れるべしと思うことにしました。ホテルでは車からの乗降のさいに、リフターを降ろさずに、ドアボーイの方に抱えていただきました。 部屋では都合4回、ベルボーイの方を電話で呼んで手伝っていただきました。大きなホテルでは多くの人員が揃っているので頼みやすいですが、人員が少ないとやはり頼みにくく感じるかも……。 次の日はホテルまで田中さんに迎えにきてもらい一緒に向坊さんのお宅へ向かいました。田中さんの車の後を行けばいいので妻も大安心でした。国道を通り約2時間で到着しました。 向坊さんにお会いするのはもちろん初めてですが、写真やテレビで拝見していましたので初めてお会いしたと感じませんでした。そしていつも「はがき通信」を通じて存じ上げています、松井先生、Fさん、田川のMさん、KHさん、フィリッピンから帰国中のTさんとお会いでき感激でした。 いろいろと話ははずみましたが、クーラーが効いていない部屋でしたので体が熱くなり、クーラーのある向坊さんの自室に退避しました。 氷水などで体を冷やしますが元に戻りません。私が一番弱いと自覚した次第ですが、向坊さん、Fさん、Tさんも氷水で冷やしていたことを付け加えておきましょう……?!少しでも車椅子がこげる人とは体力の差が大きいと慰め合いました。まだまだ話があったのですが、私がダウンしたため、予定より早めにおいとまいたしました。
帰りはまたTさんに近くの高速道路のインターまで先導していただき、無事帰ってきました。この場を借りまして、皆さんにお世話になったお礼を申し上げます。またこの通信を読んでおられないかも解りませんが、お世話になりました、東京のFさんのボランティア学生たちにもお礼を申し上げます。
熊本市 KI: QZF13621@niftyserve.or.jp
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夏バテ気味の7月末の早朝、急に気分が悪くなり吐血しました。血量は僅かだったので、どうかなと思案していましたが、とにかく救急車で病院に直行し、即入院となりました。病院は11階の6人部屋です。 早速、点滴など治療が始まりました。主治医、担当看護婦などを書いた名札が掲げられました。気がついてみると、周囲の人々の同情と興味が入り交じった好奇の視線がチラチラと向けられているのを感じました。 4日後、内視鏡による胃など、10日めに同様大腸の検査がありました。結果は、胃の入り口に小さな赤班があるもののキレイなものです。出血の痕はありません。続いて大腸も異常なく終了しました。 ごくわずかの吐血ではあるが、痕がないということがあるだろうか。聞いてもはっきりしません。自分なりに都合良く解釈すれば、検査前の早期治療で治ったのかなと思ったり、ストレスが原因かなと思いつつ、14日めに退院しました。
6人部屋では3人に付添いがついており、2人はいませんでした。そこで看護婦に尋ねました。「今年から病院付添いは全廃と聞いているのだが?」 私の新聞、テレビのつたない情報では、付添い制度は廃止となり、替わりに看護助手的な者を病院が雇い、対処するというものです。
病院の混乱ぶり、あるいは順調にことが運んでいる事例の放送も見ています。またある病院では、そのようになりつつあるということも聞いています。
香川県TU
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呼吸器をつけたMUくんと一緒に行動し、いろいろな人の体験談、松井先生のシンポジウムを聞いて勉強になりました。 その上、他の人の話を聞いて、自分もできるんじゃないかという可能性を探れたのではと思います。やっぱり家の中だけで過ごしていると、どうしても世界が狭くなりがちです。私自身そうだったと今回のことで痛感しました。 MUくんのお姉さんやお母さんの、現状では満足しない、もっとMUくんのためにどうしていったらいいのかを考えていく姿に感動しました。私も、現状で満足せずに、もっと考えて行動していけば良かったと後悔しています。 でも、Sさんとの5年間は、しんどかったけれど、これまでぬくぬく過ごしてきた私にとって、ものすごく貴重で大切な5年間でした。その体験を活かして、これからもみなさんとかかわって行きたいと思っています。よろしくお願いいたします。
大阪市 NM
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実は失恋をしてしまったのです。なぁんてビックリしましたか? でも失恋に匹敵するくらいの出来事があったのです。10月10日からの「浜松で会いましょう」会に参加しようと数カ月前から向坊さん、麩沢さんに教えていただきながら、準備をしていました……が、なんと5日前から風邪をひいて熱出してしまい、8日になっても熱が下がらないので泣く泣く断念しました。
初めての1人旅で不安でしたが、Mさん、Kさん、Gさんからtelをいただき、向坊さん、太田ヘルパーさんに励ましてもらって、不安も消え、皆さんにお会いできる期待にワクワクしていました。 「また来年があるよ」と、慰めてくださいましたが、会いたい人に会えない、この辛さはやはり失恋と同じだと思いませんか? 考えてみれば、昔から計画すれば体調を崩したり、天気が悪かったりが多かった私。「もっと気をつけるべきだった」と反省しています。 皆さんも風邪をひかないようにお体ご自愛ください。この場を借りて参加された皆さんにご迷惑をお掛けしたことお詫び申し上げます。これに懲りず、また来年お誘いいただければ幸いです。 結構、立ち直りの早い私ですから、次回は楽しい通信をお届けできると思います。これからX’マス、年末年始と忙しくなりますが、私たちは焦らず、ゆっくり人生を楽しみたいものですね。
広島市MH
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私は仕事の都合で3日めから参加ということで、10月12日朝6時半に宝塚市のわが家を愛車ブロラン号で出発、新大阪発の「こだま」で東へと向かいました。「こだま」にも「ひかり」や「のぞみ」と同じく車イス用個室があり、「ひかり」と同じくやや広めです。 まずは、出発したことを携帯電話で家に連絡しようとしたところ、「お客様にお願いいたします。携帯電話のご使用は、ご面倒でもデッキでお願いします」とアナウンスがありました。 しかし、デッキに出ようと思うと2分近くかかってしまうのでかなり「ご面倒」。で、思い切ってそのまま使ったけれど、誰にもとがめられませんでした。ひょっとしたら私は「お客様」ではないのでしょうか。一度車掌にきいてみようかな。
さて、新幹線での楽しみといえば、売り子のお姉ちゃんに声をかけて、ジュースなんかを飲ませてもらいながら話をすることです。しかし、なかなか来ない。そこで、駅で購入した「NEWS
WEEK」の日本語版を開くことに。ところが、これに熱中していてお姉ちゃんに声をかけそこなうはめに。 三河安城を出てしばらくするとお待ちかねの浜名湖の雄大な景色が窓を過ぎていきます。私が東海道新幹線で富士山のつぎに楽しみなのがこの浜名湖の風景です。そして、「明日の昼は鰻だ」と心に決めるのでした。 浜名湖を過ぎて5分ほどで浜松駅に到着。相対式の駅で、通過車両は中央を通る形になっているこぢんまりした駅でした。ホームの名古屋側にエレベーターがあり、地上へ降りると何とも寂しい裏通りへ出されました。幸い頼んでおいたリフト付きのタクシーが迎えに来てくれてましたので助かりましたけど。 さて、会場のサン・ピア浜松に向かうのですが、運ちゃんが気のいいおっちゃんで、街中のガイドをしてくれるんですけど、こちらは電動リクライニングなので外が見えないんですよ(_)。 そうこうしている内に目的地に到着。玄関に控えし向坊さんに挨拶をして2階の会場へ。すでにHさんの発表が佳境に入りつつありました。内容の方はFさんにお任せして端折ります。 話はいきなり夜10時に飛びます。消灯で2階を追われた私たちは1階ロビーへと話の場を移しました。 TETSUYA & YUKO が消えて平均年齢がぐっと上がったところで、会話はおじさん・おばさんモードに相転移を起こしました。まずはFさんが突然、「恋愛と性談義」を切り出し、なんでも開けっぴろげなSさんがこれに応酬。 その勢いに乗せられて、Fさんと私が経験談を持ち出し、冷静を装うSさんにSさんと私が白状させようとして突っかかる。それを見ていた大学生のG君が「勉強になります」を連発。 一度は創作活動に自信をなくしかけていたFさんが会話の中から意欲を取り戻し、ボラのT嬢は顔色一つ変えずにお付き合い。SさんのヘルパーのIさんは横のソファですやすや寝ているという阿鼻叫喚の世界が2時間近く展開することになります。 その先がどうなったかを知りたい方は、来年も参加して、非公式ワーキング・グループ「After 10 :おじさん・おばさんの時間」にご来場ください(嘘)。ただし、18歳未満お断り(大嘘)。 翌13日、朝8時過ぎに玄関へ出ると、ほとんどの人が出揃っていました。皆さん、早いですね。チェックアウトなどしている内にリフトタクシーが来てしまい、皆さん続々と帰っていきます。 さて、九州に帰りがてら、宝塚のわが家に立ち寄りたいというたっての希望のSさん、ヘルパーのIさんと同行することになりました。浜松に来たからには鰻を食べずに帰れないので、鰻重の駅弁とビールのロング缶を仕入れ、飛び込みで「こだま」に乗って一路新大阪へ。 「こだま」は自由席で、5号車の車イス専用オープンスペースに入りましたが、さすがに電動車いすが2台入るといっぱいになってしまいました。新大阪からは地下鉄、梅田からは阪急に乗り継いで、最寄り駅の山本からは親父運転のブロラン号でわが家へ。清家さんがフィルム数本分の写真を撮っていかれたので、いずれ「Working Quads」に載ることでしょう??
ということで、なかなか有意義な2日間を過ごすことができました。主催者、ボランティア、付き添いの皆さん、ありがとうございました。
兵庫県 うめ吉: CXG00552@niftyserve.or.jp
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私は11日から2泊で参加しましたが、とても充実した楽しい時間を過ごすことができました。
さすがに50代のお父さま方のお話は人生経験豊富で、それぞれに味わい深いものでした。 特に呼吸器を付けて大阪の上田さんが参加されていて、お母さまのお話ともども感動的でした。そこにいらっしゃるだけで、大きな存在価値と意味があったのではないでしょうか。これからもどうぞ呼吸器使用頸損者の先駆者的役割を果たされることを願っております。 Oさんの「脊髄基金」設立のお話も興味深いものでした。Sさんや、Mさんとも初めてお会いすることができました。ありがとうございました。 ところで、12日の夜のことは誰か書くのカナー?Sさんが書くわけないし……。G、F、S、Fの4氏諸君!(これって年の順?私がどこに入るかと言うと……。クーッ、とうとう年がバレてしまったナ〜) エー、ちょっとテンションの高い声を出しまして失礼しました。私の声、フロントにまで聞こえていたかもね。どうも性格的に熱く、ムキになりやすい部分がありまして。これでも幼稚園の頃は、しゃべらない、笑わないような問題児だったのですヨ! ひとりっ子の箱入り娘だったんだゾー(ジョーダン、誰も信じないって)。でも、この年じゃブリっ子できないモンネ。来年は、女性陣の加勢を希望します?! 最後にFさん、ぜひ果敢に“社会復帰”してください。あなたのそのキャラクター、すごく好きですヨ。ボラのTさん、お世話になりました。頸損の自立をテーマにした卒論がんばってくださいね。 真面目な報告は他の方にお任せして、今回はカル〜クしめて終わります。コンペイトウの角が取れないHSでした。 10月18日
横須賀市 HS
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KくんやFくんの行き着く関心事は恋愛や結婚観。昼間、個別のスピーチでチラッと出た『愛と性』についてだった。いきおい、その場で唯一の既婚者である私に興味の矛先が向くのを感じた。「出会いは?どんな形で現れるだろうか?」「そんな時、どんなふうな対応ができるか?」「HOW TO SEX!」彼らの興味は尽きない。 初対面の人間に、何のてらいもなく自分をさらけ出す彼らにすごく好感が持てた。かと言って、決してあけすけでもぶしつけでもなかった。「HOW TO SEX!」にしても彼らの思いを言外に感じとっただけのこと。にもかかわらず、彼らの思いを満たせるような話は何もできなかったような気がする。 自分の、そういった過去を洗いざらいぶちまけるには酔いも時間も足りなかったし、そばにニコニコとすわる連れ合いの存在も気になったからだ。そう、男女の間には見えない力が働くことをKくんやFくんは分かってくれたろうか。
横浜市 TM
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ハロ〜、しつこく、後編に付き合ってゃ。退屈文に非難の声も辛いけど。 わしらが結婚しても家庭としての、夫婦としての空間は欲してもかなう状況にはなかった。しかし、色欲と現状打破の精神は青春時代の持てない悲哀と為せば成るの頑張リズムで結婚へと歩みを進めた。施設長の深い理解と思いやりや英断が、わしら2人を祝福という形で結び付けることに成功した。 居室は男女別々の4〜6人の部屋では同居はかなわず形ばかりの夫婦で、ベッドに大半を過ごすわしの枕元へ妻のTが遊びに来るという感じである。しかし、障害者も各人各様で、Tの来部屋を嫌う人も同室にはいた。Tは同部屋の他者に気遣い、不自由な手に「みんなに配るため」と菓子や果物の差し入れも試みた。 だが、Tの心遣いは拒否され、わしは部屋でも孤立した状況に置かれた。障害者同士の結婚ということで好意的な人々が多かったし、施設の中でも職員には容易く受け入れてもらえた。しかし、一部には根強い批判が陰にこもった風聞として耳に入る。 そうこうしているうちに念願かない、数年の別居生活ののちに夫婦部屋の創設が実を結んだ。限られた空間に夫婦の個室が設けられたことは突出した待遇として非難されていたものと感じる。 だが、歳月は波風を穏やかにさせるらしく、最近は夫婦としてのわしらに陰口は少なくなり、Tも落ち着いて居室をわがもの顔で牛耳っている。穏やかな暮らしに定着するには、時間の経過と見馴れた風景に落ち着く必要があろうと思う。
長々と書いたが、肝腎の夫婦の営みは? と聞かれそうですが。トドのオッサンは去勢されたも同然で、生殖能力は期待できないと思う。Tが望むならとアチコチに問い合わせて子供のできる可能性を問い合わせたりした。
Tは障害はあるものの身体は生身の女であり、結婚に性の官能をおぼろげながら期待したはずである。個室とはいえ音や声は筒抜け然としているので、性好意(行為には及ばぬ体)の真似事もできず、月に1度の外泊で夫婦の秘密めいた時間を過ごした。 ともかく、畳の上で暮らすほうが便利なTと介護優先の生活を強いられるわしの折衷案は、部屋の入り口にベッドを置き、奥側に30㎝幅の引戸式の台をはさみ(両側から介護の必要で人が入れる仕組)ベッド2台を並べて畳を敷いている。さらに奥に板の間が2畳分あり、埋め込み式のポ−タブルトイレで緊急時と夜間に使用している。ベッドの頭側に車イス通路を設けて、Tの領域に入れるようにしている。長方形の部屋で少し勝手が悪いのと水道が部屋にないのが不便である。 部屋に自分の電話が設置されているのが外部との連絡に便利です。施設には無線電話がありますが、受話器の持運びに難が見受けられます。でも、おおむね通話は可能のようです。枕元の電話とアマ無線は必需品です。工夫しお金を掛ければもっと快適部屋になるのですが、突出は嫌われるし公の施設には仮住いの感があり、自立への模索は続いている。妻と2人で……。
トドのつまり、行き着く所は幸福な夫婦としての絆の保持と、仮住まい感覚の療護施設という思いがする。集団生活の管理的な傾向が優先する限り、個は埋没し主張のない障害者群像が日本的福祉の現状であろうか。 “ 連れ合いと言うには浅き日々なれど 夫婦喧嘩に弾みもつきて ” ![]()
広島県 YS
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毎日、朝夕お祈りを欠かさなかった。クリスチャンではなかったが何という宗教かはよく知らなかった。日曜日のある日、両親が信頼を寄せていた高名な宗教家が来るので、みんなでお話しを聞きに行くよと言った。 そのとき、自分でも意識しなかった言葉が、怒りの声とともに母に向かって放たれた。「自分が(母のこと)なにを信じようと勝手だけど、自分の宗教を子供にまで押し付けんといて」と言ったのだ。そのとき私は猛烈に腹がたっていた。母はびっくりしてあいた口がふさがらない状態だった。ただ黙ったままだった。これが1度めの口答えであった。私が中学3年のときだった。そして自分の発言を少しも後悔しなかった。 2度めは高校1年のときだ。高校生になり、いくらかのお小遣いも欲しかった。しかし、それをねだれるような経済状態ではなっかた。考えた末、友達の紹介で朝刊を配ることにした。両親には相談しなかった。話はまとまり、翌日から新聞配達をすることになった。 妹にわけを言って、朝(5時頃)私が出て行ったら玄関の鍵をかけるように頼んだ。配達し終えて、家に帰ると両親の前にすわらせられた。「新聞配達を止めなさい、お前にはできない」と言われた。両親の言う反対理由は当然であった。それまでの私は、読書を遅くまでして朝が起きれなく、毎日のように遅刻していたのだ。両親はいかに私の朝刊配達が無理かを穏やかに話した。 私は黙って聞いていた。そして両親の話しが尽きたとき「やると言ったらやる」と言って1歩も引かず、それきり黙ってしまった。両親には説得する言葉はそれ以上なかった。 あくる日から新聞配達が始まった。田舎の配達は、1紙を除いてみんな配っていた。間違えやすいので慎重に配った。それでも配り終えて、解放された気分で家に着くと「新聞が間違ってるよ」との電話があり、気が重くなったことも何度かある。扁桃腺の高熱が出ても、大雨が降っても、1日も休むことなく(学校は休んだが……)高3の受験前まで朝刊の配達をやり遂げた。このことがあって、私は精神的に両親から独立したような気持ちになった。 3度めの口答えは、大学進学に関してだった。私は大学への進学を当然のことと思っていた。だが両親はそう思っていなかったのだ。進学の話しになったとき、大反対された。女が大学に行ってなにをするのか。こんな田舎で4年も大学に行く子はいない。うちのような貧乏な家で4年も大学に行かしたら人に笑われる、等々……私がびっくりするような反対意見を持ち出してくる。 高校時代3年間私は進学コ−スだった。だから進学することは私にとって、いや両親にとってもあたりまえだと思っていた。それが違ったのだ。両親の反対理由が出尽くしたとき、「行くと言ったら絶対行く」と私は言った。結局私の意見が通ったのだったが、経済的な援助は一切できないと言われた。そのことは私も十分に承知していた。不満はなかった。 修学旅行を止めて、貯めたお金やバイトのお金を入学金に当てた。第1希望の大学には入れなかったが、国立2期校の大阪学芸大学(現在の大阪教育大学)に入学できた。しかし、私はうそのような話だが、この学校が教員養成大学であることを十分に知らなかった。貯金の集金に回ってくる郵便局員さんから「お宅のお子さんは先生になる学校に行かれるそうですなあ」と聞いた母は、そんなはずはないと思ったと言っていた。学校の教師をあんなに嫌っていた私が、そんな大学に行くとは思えなかったのだ。しかし、選択は私にとって仕方のないものだった。 大学に行きたい希望があり、大阪に住みたいと思っていた私が1期校に落ちたら、大阪にある2期校に行くしかなかった。このころの国立大学はセンタ−試験がなかった。試験日が早く、レベルの高い1期校とそうでない国立の2期校に分かれていた。私学のことは頭をかすりもしなかった。(つづく)
兵庫県 SK
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● 「はがき通信」41号に掲載した「電動車イス試乗報告」はYFさんではなく、MOさんの寄稿でした。お詫びして訂正します。
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