は が き 通 信 | Number.41---P1 |
POST CARD CORRESPONDENCE | 1996.9.25 |
今年の夏は暑かった!と毎年嘆息します。まだ生命があったんだな、とホッとしてつぶやきます。暑い夏も寒い冬も身障者にとっては超えがたい山です。山に登ってみれば、なお行く先は山ばかりです。大地に足をつけて、いや車イスでしっかり進みましょう。 向坊弘道 |
まわりの人たちにもいろいろと考えてもらい、使えそうな方法は試してみました。ビデオ学習やテ−プの聞き取りなどを中心にやっていたんですが、鉛筆をもって教科書をめくるといった勉強方法が身についてしまっているのでなかなかうまくいきません。 せっかくパソコンが使えるのだから、これを使ってなんとかできないものかと思って、学校の先生に何度か相談してみました。先生のほうもパソコンで学習できるようなソフトがないか探してくれましたがなか、なか使えそうなのがなく、パソコンを使っての勉強も無理かなぁと半ばあきらめていました。 最近テレビを見ているとEPSONがカラ−スキャナ−のCMをしているのが目につきました。「スキャナ−を使って教科書を画像デ−タとして読み込んで、ディスプレイに表示させたらいいんじゃないか」と先生に聞いてみました。「使えるかもしれないけど、やすい物じゃないから」と言って、先生は何度も電器街まで足を運んでくれました。 そうしていろいろ検討した結果、一抹の不安を残しながらも、先週スキャナ−を買いました。買ったのはEPSONのGT−5000WINPです。さっそく使ってみると、操作は簡単で、読み込んだ画像も満足のいくものでした。 ただ、今の僕には一時間に40ペ−ジ読み込むのがやっとです。それがすこし手間だなと感じましたが、なにはともあれ、これでようやく勉強をする用意が整いました。 次は何を勉強するかを決めなければなりません。怪我をしてからは、勉強をしたほうがいいと勧められましたが、無理してでも勉強しろとは命令されませんでした。僕もそんな状況に甘えていました。毎日すこしづつでも勉強する習慣をつけていこうと思います。とにかく根気のいる作業なので毎日少しづつ読み込んでいます。
このスキャナ−はパラレルインタ−フェイスボ−ド対応のスキャナ−で、95での動作は確認済みです。値段は5万円台でおさまったし、使い心地はすこぶるよく、よい買い物をしたと思っています。
大阪府 KY : QZR05431@niftyserve.or.jp
すごいなと思ったのは施設の東京ディズニ−ランドへの一泊二日の旅行です。寮母さんとか家族が付き添って何名かが行ったようです。 まあ、主人もそのうちに行けるかもしれないと思いつつ毎日を暮らしています。ますますの御活躍を!
山形県 SM+MM
鳥取県 TYの妻
主人は痛みがひどく有り、毎日痛い痛いと言っています。手、足、背中、胸等、体のすべてです。皆様の中でも痛みのひどい方もいますか? 又、どの様にして痛みを取っているか、方法を教えて下さい。こんな状態ですから、旅行やパソコン等はとても無理です。 私は78才の父が昨年母を亡くして1人暮らしをしていますが、毎日、涙の出ない日は無い、一瞬にして天地がひっくり返り、生活が逆転したと言っています。連れ合いを亡くした悲しみは、亡くした人でないとこれはわからないそうです。 「定さん生命」と書かれたMさんの奥さんの気持ちがよくわかります。夫婦で仲良くさせてもらっていましたが、とてもすてきなカップルでした。 奥様は気を落とされて何も手につかぬ日々を送っている事と思います。 どうかお体だけは気を付けて、気の合った友達と毎日おしゃべりをして過ごして下さい。話しを聞いてもらうのが一番の薬だと思います。 では又…いつの日か。
八王子市 YO
人工呼吸器を付けた方では、KS君に続きお二人目です。奥様のNさんの、イラスト混じりの通信にはどことなくユニークさがあり、大変な介護の中にも明るく前向きな、ご夫婦の仲の良い微笑ましい姿が感じられました。一度お便りを差し上げようと思いつつ、とても悔やまれます。私もはがき通信を知らなければ、呼吸器レベルの頸損者がいることはわかりませんでした。頸損は高部位化の傾向にあると聞きます。 神奈川リハビリテーション病院も、現在脊損病棟を増築中です。それだけ患者が増えているということです。しかし、C4レベル以上の頸損を、リハビリの対象として受け入れる病院はおそらく日本中探してもないでしょう。助けた命の責任を、最後まできちんと持ってほしい!と痛切に思います。そして、専門病院でなければ急性期には褥瘡を創り、リハビリは遅れます。 私など某日赤病院で、普通のベッドの上に頭を重りで牽引され、運良く専門病院に転院できたからいいようなもの、17日間上を向いて寝かされたまま一度の体位交換もなく、脊椎に沿って上からお尻まで縦一列の褥瘡を創りました。私の寝かされていたベッドのシーツは皺が寄り、ケンパスみたいに固い素材の布のようだったと父が後で言っていました。これは平成に入ってからの出来事で、少なくとも日赤と呼ばれる病院での現状です。 K君のお母様がお電話で、「呼吸ができるということは素晴らしいこと」とおっしゃられていた言葉が耳に残っています。私はその言葉を噛み締め、自力呼吸できることに感謝しています。お仲間を失う心の痛みを忘れてはならず、残された私達はやはり一日一日を大切に生きなくては、生き抜かなくては…。と思います。Nさんにはどう励ましのお言葉をおかけしたらよいのか、経験不足の私には言葉が見つかりません。私も大好きだった祖母を、4年半ほど前に亡くしました。『死者は忘れ去られた時に死ぬ』—私はこの言葉が好きです。肉体はなくとも、“感じる”ことはずっとずっとできます。たとえどんなに長く生きた人であっても、人は死ぬ時に「ああ、短い人生だった」と思うような気がします。うまく言葉が綴れませんが…。どうぞお許し下さい。 ご自宅にお便り差し上げようと思いつつ、グズグズとペンが進まぬうちに日が経ってしまいました。紙面をお借りまして、Sさんのご冥福を心よりお祈り申し上げますとともに、奥様のNさんが一日も早くお元気になられますよう、心よりお祈り申し上げます。いろいろと悔やまれていらっしゃることもお有りかと存じますが、『後悔』することも人間だからこそ、生きていればこその所業と存じます。
8月21日 横須賀市 HS
定さんが生きていた時は、戸締まりもいいかげんだったし、来客があっても別に何も緊張したりしなかったけれど、今はドアチェーンをかけるし、家の中に人を入れるのは慎重になります。全く身体が動かなかった定さんだけど、居るだけで安心できたんだなあと痛感しています。 はがき通信を読んでいろいろな人が連絡してくれました。うれしいような申し訳ないような感じがします。いろいろ心配していただいて大変ありがとうございます。お礼を申し上げます。
大阪府 NM
結果としては順調に事が運び、やって良かったと思います。やはり、やってみないと分からないこと、気づかないことがたくさんありました。 一番心配していたのはトイレですが、ベッド上で浣腸を使って行うよう習慣づけたら、出すと決めた日にはきちんと出るようになり、体験室でもうまくいきました。体験室の期間中、トイレ(2回)は地元のボランティアさんと名古屋の訪問看護婦さんが来てくださいました。この看護婦の方は地元の保健婦さんの協力でお願いすることができました。 そして体験室を終えて考えてみると、「家は楽だな。介護の心配がいらないから」と思ったり、家族から離れて生活するとなると安心して何かに集中できないのでは?と思ったりしました。でも自分は家族から離れたいという気持ちがありますが、同じ位不安もあるので、家族から離れるふんぎりがつきません。 介護者はボランティアさんだけでは不安も大きく、入浴などではアルバイトの学生さんにお願いすることも考えたほうが良いのか迷ってます。 今、自分と同じC4の頚髄損傷のレベルで生活している方の話が聞いてみたいです。C4の会員の方、通信をいただけませんでしょうか。 先日、Fさんから電話がありました。そして、Sさんから介助のことなどで手紙が届きました。「はがき通信」で出会いが増えたことを感謝しています。ではまた。
愛知県 I : PC-VAN ID: PRE31110
カレンダ−には、しっかりお日様マ−クを書きこんで、30分スピ−チの事はすっかり何処かいっちゃってます! 5、6月は何かと忙しく、そのことについて書きます。 ボランティア列車に関する最終会合・実行日・反省会・・・結構大変だったけど、色んな人と知りあうことができ、貴重な社会勉強になったと思います。 子供の頃遊んだ河川敷でのスケッチ・・・思いっきり日焼けしてしまい、塗り薬がいる始末です。入浴の時にヘルパ−さん達から笑われています。 公民館での講話活動・・・自分自身の日常生活を通して考える事などを話しました。 世界障害者絵画展のTV取材・・・2年ぶりに再会したボランティアさんの運転で出かけました。会場でいきなりラジオの生放送に出て、緊張の連続でした。 兄の結婚で家の中がバタバタし、私との同居生活がスタ−トしたので色々と賑やかしくなりそうです。もちろんお遊びや買い物等にも出かけ、東へ西へ愛車となったT・エ−スに跨がり疾走しました。ここ何日か続く雨のお陰で、リクライニングシ−トに身をまかせてのんびりしています。 今回は、馬鹿みたいに元気の良い報告になりましたが、こうした弾んだ生活も周りの人の協力が欠けると、たちまち平坦な日常です。きっとこうして外に向けて行動していることが、次の大切なことへとつながっていくんだと思ってます。暫くの間は何かと動き回るぞっと! それでは皆さん、さようなら。
岡山県 HF
病名はOPLLすなわち、後縦靭帯骨化症という首の難病です。室内ではリクライニングの介助用車イス、外出には電動車イスを使用しています。ではまた書きます。今後ともよろしく。
東京都 EK
私の所は全国的に「うちわ」の産地として有名です。家族は両親と妻と私の4人で、2人の息子は他県で働いています。私の頚髄損傷レベルは4、5番で、受傷以来の25年は苦難の半生でした。でも、子供たちは社会人となり、孫2人にも恵まれて、これからは苦労をかけた妻と好きな旅行でも楽しもうと思っています。 これまで可能な限りいろんなことに挑戦してきました。しかし、昨年脊髄が細菌に犯されるという大病を患いました。退院後も腎臓機能低下のために通院療養中です。1日8時間車イスに乗り、家事手伝いや趣味の短歌、墨絵などをやっています。 今後、「はがき通信」での多くの友人との出会いを楽しみにしています。よろしくお願いします。
熊本県 NN
「はがき通信」の会員の障害の重さや、生活環境は一様ではないでしょう。しかし、マスコミで取り上げられるのはマスコミの常套句“障害を克服”したなどという言葉で紹介される一部の障害者たちです。何かに秀でていたり、何かを達成したり、たとえば絵画展や本を出版したなど、各方面で活躍されている障害者などはテレビ・新聞などでときどき拝見します。 それはそれで私たちの励みにもなり、喜びを分かち合えるので声援は惜しみませんが、しかし、ケイソン者の一人として知りたいと思うことがあります。それは、ケイソン者の普段の生の声を聞きたいということです。そういう気持ちで購読料をお送りします。どうぞよろしくお願い致します。8月15日
宮崎県 RS
私も外へ、遠くの見聞を広めたいと思うもののついつい、先ず排尿排便の事、移動の手段、付添介助者の確保、それに何より費用の事等で今に到っております。しかし、最も必要なものそれは決断と実行かもしれません。 「ハガキ通信」各位の健康と更なる進展を願っております。
長崎市 TK
ところによってはだいぶ気候が変わる南北になが〜い日本列島に生息している皆さん、お変わり有りませんか? 私が生息している県リハ更生部の中庭は昨年までとはだいぶ趣を異にしています。 というのは、今年はキュウリ、ナス、ミニトマトなどのミニ菜園をつくり、職員一人と入所者の希望者数人で栽培を楽しんでいるのです。 私はミニトマトの苗を1本貰って手掛けているのですが、この1本だけが実付きが非常に良く、ブドウの房みたいになっています。キュウリとナスは浅漬けにしてみんなで食べましたが、結構美味しかったですよ。ウマカッタ、ウシマケタってか? 昔から「親の意見となすびの花は万に一つも無駄がない」と言われます。キュウリも一日でずいぶん大きくなるので成長の速さにビックリさせられます。ミニトマトは近いうちに食べられるようになるでしょう。実際に作ってみるとそんなことが良くわかって楽しいですよ。プランタ−でもどうぞ。 という所で話題を変えて、6月26日、皆様御馴染み?松井田のTETSUYA&由子こと、佐藤哲也さんと波田野由子さんのカップルが県リハ更生部を訪れ、パソコンとマンドリンでホットな素晴らしい演奏を聞かせてくれました。この日、更生部の入所者が全員の46名、それに療護部からも25名、他に職員などが15名くらいが狭い食堂に集まりました。 演奏はクラシック、歌謡曲、オリジナルといろいろ、歌謡曲の演奏ではふるい歌から結構新しい歌まで聞かせてくれました。聞いている者からも演奏に合わせてだいぶ歌声が聞こえていました。 TETSUYAさんのオリジナル曲”ディ−プスカイ”も良かった。....ゴロンと草原に寝転がって空を見上げる。どこまでも限りなく続く群青色の空を小さい真っ白な雲の一片が静かに横切る....、私の頭の中にはそんなイメ−ジが沸いてきましたが、TETSUYAさんはどんな事をイメ−ジして作ったのでしょう? 私も怪我をする前、ギタ−に紐を付け、引いて遊んだので、マンドリンの音色に過ぎ去った日の思いが甦り、懐かしさに目頭が熱くなるのを感じました。早くCDラジカセを買い(プアなので、現在モノラルのラジカセしかないのだ!)、二人の演奏のCDでも入手せねば、な−んて思っています。 演奏時間も1時間近かったと思います。また聞きたいなあ、なんて思っているところです。 TETSUYAさんと由子さんの雰囲気もとても良かったですよ。素敵な演奏をありがとうございました。皆さん、どうぞ、お体大切に。草々
群馬県 K
台風12号はこちらでも風速50mちかい強烈なものでしたが、幸い大きな被害はでませんでした。皆さんはどうでしたか? 実は、最近パソコンを買い、やっとこさ通信ができるようになりました。他にも自分に使えそうなおもしろそうなソフトをさがして、いろいろやってみようと思っています。「はがき通信」にもお便りを電子メールで送ります。 まだまだ残暑は続きます。くれぐれもお体にお気をつけください。
宮崎県 A : CZH10162@niftyserve.or.jp
本日は台風12号の影響で瀬戸内も大荒れ状態で波頭が白く砕け、普段の景色とは変わった趣を見せてくれています。大変遅くなりましたが、「はがき通信」のお礼申し上げます。 いつも思うことなのですが、みなさんのがんばっておられる様子に励まされました。この想いがいつも続いて心に残ればよいのですが・・・ インターネットを始めました。まだなにも分かりません。メールも出したことないし、もらっても読めるかどうか分からない状態です。少しづつなれていけばいいなと思っています。ちなみにメールアドレスは h3toyota@oka.urban.or.jp になっています。それでは失礼します。
岡山県 HT : h3toyota@oka.urban.or.jp
Uはラグビ−事故でC−2・C−3の頚髄頚椎損傷を負い、人工呼吸器を使用しています。横浜の病院に3年、在宅2年を経過しました。現在大好きなファミコンもすべてクリアしましたので、近々パソコンを導入するつもりでいます。今後共よろしく御願い致します。 今まで気になっていました「はがき通信」にかかる経費が有料化になりホッと致しました。毎日暑いです。御身体御自愛下さい。
神奈川県 Y母
私は、主人が頚髄損傷C3−4による呼吸傷害と四肢麻痺完全運動不能、自発呼吸全てなしに呼吸器による完全管理が永続的に必要と診断されました。 受傷は平成3年9月13日(金)国分寺にて仕事中の事故でした。都立府中病院で救われ四年六ケ月余りお世話になりました。見ず知らずの土地で頚髄損傷のことについて何の知識もなく不安な日々をすごしている時に松井先生とお逢いし、はがき通信を知りました。どんなに勇気付けられたことか・・・ 先生に病院へ度々いらしていただき、励まされ、種々と相談にものっていただきました。Kさんにも松井先生とわざわざいらしていただき、エア−マットのアドバイスも受け、そのおかげで褥ソウはすっかり治りました。ほんとうにありがとうございました。
いつまでも府中病院にいたかったのですが、地元に帰り、在宅で生活するのが御主人にとって一番よいのでは!…。と云うケ−ス・ワ−カ−さんの御意見に納得し、平成8年3月19日大宮中央総合病院へ転院致しました。主人の住む家の建築も始まりました。 平成8年7月26日
埼玉県 S
ハイ、ハイ、通信の皆の衆、御機嫌いかがですかなっ? 早速に通信デビュ−叶って喜んどる次第です。再び虚勢(前回は去勢でしたが....)トドのオッサンが施設の夫婦ライフを赤裸々に告白すると予告しましたが、メリハリのない駄文に終始しそうで期待に沿えない辛さを虚勢に託してみようかいのウ。 一畳ほどの広さにへばりついて人生を思う時に、それまでに生きてきた価値観が大きく作用すると思う。時代の背景は寒村、貧農の家から町工場に金の卵として働き始めた15歳の少年に始る。東京オリンピックは「為せば成る」の精神が植え付けられた。人生は果敢に挑み自ら切り拓くものであると。 そんな青春から27歳の交通事故で、すべてを清算して無からの出直しであった。けい損といえども人生は人生よ、身体は動かぬとも頭があるさっと。無い才に無い銭、肉親の介護も期待でき無い、縁もコネも無い、無い無いづくしにも自立への意気込みは残った。 諺に「一人口は食えぬが二人口は食える」と、つまり、パ−ソナリティ−の弱いわしに相棒がいれば自立へ応援してくれる人と出会う可能性は高いと言うことである。 そんな訳で所帯を持とうと大いに模索する中で様々に画策、奮戦し獲得したのが妻のTなのだ。容姿は百恵ちゃん、聖子ちゃん(山口、松田ではナインヨッ)並でトドのオッサンには似つかわしくない♀と、やっかみ半分の??皆??が冷かしてくれる。 現役の頃に持てた試しが無い苦汁と悲哀の青春に比して何と!嬉しい冷かしの声よ、である。今の施設の増設に合わせて他から転居してきた二人は新天地での生き方に希望と夢と可能性を求めていた。 Tは永い施設暮しに変化を、わしは社会復帰のパ−トナ−である嫁さん探しであった。そんな二人の出会いと思惑に自立という共通の話題が生まれ、目標となったのは成り行きとして当然であろう。 Tは就学猶予で義務教育を受けておらず勉強がしたいとの一念があって、高校の通信教育を始める事となった。わしは勤労学生の苦学(古いなァ−、もう死語ダヨネ)八年の実績でイロハを教える立場となったのだが....。世の常、人の常、男女の仲はハの字は何処へやら、イロ、色優先で交際が深まっていったのだ。 通信教育の先生たちと付き合う中で障害者差別とか、人権とか福祉や社会の事が理解できるようになった。重度の障害者という立場からの視角で世間や社会の問題に意識を向ける事がTとわしの共通認識となり、障害者の結婚に思いを馳せた。 生まれた時からの重度障害者は殆どが結婚していないし、性の経験も機会も極めて少ない。ましてや、療護施設には結婚とか子育てとか、世間には当たり前の風景やでき事が無いのである。隔離され無菌培養の障害者を飼うイメ−ジが感じられ、脱施設の為には何が何でも結婚し二人で共に世間に道を拓こうと胸も下半身も熱くした訳である。トドのオッサンは去勢じゃ?
広島県 YS
さて、出発から記憶をたどってみます。PM2時、福岡空港国際線ロビ−に着く。機内では座席に移してもらっていると、美人のスチュワ−デスがニッコリ笑って、Can you speak English? ときました。 A little. と答えると、フィリピンのどこに行くの?滞在期間は? どうにか答えて I'm for the first time to travel abroad and to fly.って言ったら、 If you need special help, soon call me. Okay? Understand? と親切に言ってくれました。 初めての飛行機だから、離陸・旋回しながら上昇するときは、窓から建物の屋根が大きく見下ろすように見えて感動しました。ボーイング747が安定飛行にはいると、景色は変らないし意外につまらない雲の空ばかりです。 フィリピンまで正味3時間のフライトです。到着30分前の機内アナウンスの頃には、南下したせいか、たくさん着込んでいた衣類が暑いくらいでした。着陸前、大きく旋回しながら高度をさげるとき、一直線の道路の街灯やネオンが見えて、「とうとう来てしまった....」という感じ! GLIP(日本人身障者の家)はマニラ空港から高速道路1時間半・国道を2時間の約3時間半の距離です。乗用車タイプのタクシ−なら3時間で着くかも。ルセナ市中心部から約3kmで、割といい家が多い区画された分譲地にあります。電気は220Vで、変圧器を使えば100Vに落とせるから日本製の電化製品も大丈夫です。でも、間違えて壁の220Vコンセントに差込めば、瞬時にパ−(^_^) 変圧器は550ペソ(1ペソ約4円)。始めてノ−トパソコンを使うときは一寸心配でした。移動用に滑車とロ−プの原理を利用したリフタ−もあります。向坊さんの部屋には、造りつけの天上走行型リフタ−があり、レ−ルとチェ−ンブロックで作った優れものです。 ヘルパ−は彼女らの部屋に泊り込みで、朝7時から夜9時過ぎまで介助してくれます。仕事は料理・掃除・清拭・排泄・シャワ−・関節運動などです。洗濯・買物は外部の人がやっていました。彼女たちが作るフィリピン料理の中にも美味しいものがありましたよ! 味噌・その他の調味料も日本から持込んでいるので、そう違和感はありません。始めはご飯がパサパサしてまずい・油がココナツ油だから独特な臭いがする....と感じていましたが、そのうちに慣れてなにも感じなくなりました。 排泄=座薬を入れトイレに移って。シャワ−=ビニ−ル製の車イスを使って1日置きに。清拭=朝晩ぬるま湯の入った洗面器を2つ用意して(片方は石鹸水)、きれいにしてもらいました、もちろんシャワ−の日の朝はパス。エクササイズ=朝晩回数を決めて四肢を動かしてもらい、清拭とエクササイズで約1時間くらい、家ではとてもこんなことは望めません。母がくたばってしまいます。 5ヶ月あまり英語を勉強して行きましたが、それなりの成果があったようです。英語が話せるかどうかというより、これしか伝える手段がないのですから....知っている単語を並べて....でも、その気になればどうにかなるものです。1回目は聞取れなくて何度も聞返すようでも、次は「あ、あれか」という感じで耳が慣れてきます。自分が一生懸命伝えようとするように、相手もどうにかして理解してあげたいと思って聞いているわけですから。それに1週間もすると彼女たちが、自分の生活パタ−ンを覚えてくれて、「明日はトイレの日だから下剤を飲んで」というようになります。 今回はコンテナ−の船便で一度に68台の中古車イスが日本からGLIPに届きました。食堂に運び込まれ、山積みにされていたときは、2・3年は大丈夫だろうと思われましたが、脳卒中・小児麻痺・ポリオ・リュ−マチ・脊損・頸損とたくさんの障害者が来てアッという間になくなり、受取った人達はもちろん一緒に来ていた家族も大変喜んでいました。もらった車イスを嬉しそうにこぐ子供、我子を微笑んで見つめる母親、見ている私まで嬉しくなるような心温まる光景でした。 滞在中に買物・ピクニック・国内旅行・お客さんを迎えに空港にと17回くらい外出し、いろんな所を見ることができました。町には食材・日用品・電化製品までなんでもあるって感じ。マ−ケットの中に入ると小さな店がたくさんあり、雑貨・米・干物・野菜・理髪店・肉・魚・衣類、とにかくなんでもあります。決して綺麗とはいえませんが、発展途上国の民衆の力強さを感じました。始めはどこでも言い値で買っていましたが、女の子がデパ−トは駄目だけど他の店では値切れというから交渉すると、ものによっては10〜20%くらいまけてくれました。 両替は町の闇両替所で、為替をじかに体験できます。着いた頃は1万円=2,550 ペソでしたが帰る頃には1万円=2,400 ペソに。闇の両替といってもガ−ドマンが警備しており、公然とやっています。路地裏のやばいような所ではありません。客が多く金の集りそうなところには、必ずといっていいほどショットガンを構えたガ−ドマンがいます。ショットガンは映画の中だけというイメ−ジがありますから、初めて見たときは驚きました。申請すれば銃が持てる銃社会の弊害ですね。 歎異抄の勉強会の後、いろんな話をしたり、将棋・囲碁・マ−ジャン・散歩と退屈するようなことはありません。歎異抄は仏教の本で、内容は難しいですが、多少は理解できたような気がしています。仏教の勉強といえば変に形ぐるしいような気がしますが、人の本質・自分自身を知る為のものと感じています。とても有意義な勉強会でした。 自活を目指すには料理の知識も必要ですね。家計簿をつけて、食材の呼名・値段はだいぶ覚えました。魚売りのおばさんと値切りの交渉をしたり....結構楽しくやっていました。3食とも食後のデザ−トに果物をつけるので、5ヶ月の滞在で3年分くらいの果物を食べたような気がします。 4月28日、AM5時にGLIPを出発。マニラ空港の中で1人になるのが心配です。9時過ぎに空港内へ。Fuji-san, come back again! とヘルパ−が涙ぐみます。5ヶ月近く世話になると情も移るし、別れが辛く、日本に帰るというのがなんだか信じられない変な感じでした。 ボディ−チェックの時、尿器を袋に入れて車イスのブレ−キのところにぶらさげていたら、これは何かと聞くから、「ユリナ−ル(しびん)」と答えたら通じないみたいだったので、“イヒ(尿)”といったら開けようとしていた手を止めて放り出すように手を離し、笑いながらOKと通してくれました!ついでに「ウンコ」は“タエ”「私」は“コ”ですから、妙子さんがフィリピンで自己紹介をしたら笑われるかも。 ポ−タ−が車イスを押してくれて手続も順調にいきました。こういうときは健常者より障害者の方がならばなくていいので早く済むみたいです。乗る前に小便がしたいといったら薄暗い身障トイレに連れていってくれました。中には掃除夫かトイレ係かしらないけど4人いて手助けしてくれます。 空港内は冷房を寒いほど利かしてあるから、体が固くなり、チャックをおろすのに手間取っていると、彼らがチャックをおろしパンツの窓まで開けてくれ....終ったら手を拭けとトイレットペ−パ−を水で湿らせて手渡してくれたり大サ−ビスでした。果たせるかな、チップを請求され、1人10(40円)ペソずつ払いました。ちょっと異様な体験でした! あれが女性なら.... 搭乗の係員が迎えに来てくれて機内に。福岡空港と違い、ここまで自分の車イス。貴方の車イスですかと聞くから、Yes, it's mine! 11:25定刻に離陸、午前中で天気も良かったから上昇する際の景色は最高でした。ワインにウイスキ−・昼食も平らげていい気分で昼寝。到着30分前の機内アナウンスで目が覚めるまで熟睡。 PM3:30(ここからは日本時間)帰国、手荷物を受取るところで自分の車イスに乗換えたいといったら無いというんです。ビックリしましたよ。酔いが一変に醒めた! 他の係員が、マニラからテレックスで忘れ物があると連絡が来ているというんです。紛失物の書類を書いて、日本航空の車イスとクッションの代わりに大きめの枕みたいなのを借りて、母と合流。空港職員が「乗り心地はどうですか? 外人さんでも楽に乗れるように大きめに造ってあるんですよ!」 冗談じゃないよね....地下鉄で博多に着いたときには、尻がビンビン状態....広島経由で家に着いたのは9:30でした。車イスとROHOクッションは6日後に届きました。 行く前はいろいろ心配もありましたが思い切って行って良かったです。同じ時代に生きているのに日本は豊かな国です。でも、多少苦労はあってもフィリピンでなら自分が失ったなにかを取り戻すことができそうな、また、自立の芽をこの国でなら自分で育てられるような予感がしました。次回もGLIPに滞在させてもらうことにしました。自分で後悔しないよいように今一番いいと思うことにトライしていきたいです。 1996.07.31.
島根県F : PC-VAN ID: DKB30891
今日は私の子供の頃からのエピソ−ドの中で、印象に残っているものを綴って自分史を書きたいと思う。 私は1943年、(現在52歳)四国の愛媛県に生まれた。女4人男1人の長女である。ある日のこと学校に行くと、やんちゃ坊主からからかわれた。「昨日、おまえの弟が1円もってアメこうてたぞ。1円やぞ、たったの1円!」いうのである。 私はそのとき、1円玉をぎゅっと握って雑貨屋に走っていき、汗に濡れた1円でアメを選んでいる弟の姿が浮かんだ。しかしこのくらいのことを言われて気にする私ではなかった。思いッきり言い返して、そのうえやんちゃ共を殴って逃げた。でも頭の隅には、やんちゃ坊主の好気の目にさらされ、からかわれたであろう弟を思うと、弟が不憫だった。 この頃はみんな豊かではなかったが、子供の子使は10円が相場だった。私の家では、子使いをもらえたのはお正月かお祭りくらいだった。父は農協に勤めながら、早朝やよなべにりんご箱打ちの内職をしていた。日曜日には、家の事情を見かねて無料で貸してくれていた山の畑に行った。畑では、さつまいも、麦、ささげなどを作っていた。主力はさつまいもだった。だから、私の家の食事は朝はさつま芋入りのお粥、昼は蒸かし芋、夜はさつまいもご飯、おやつは焼き芋だった。 おかげで私はすっかりさつまいも嫌いになった。こういう状態だったため、貧しさが嫌いだった。でも、親を恨んだことは1度もない。恨むにしては父は働きすぎているのが子供心にもわかりすぎていた。その代わりに、理不尽なことだが豊かな家の子供に辛く当たった。これらの話は小学校5、6年頃の話である。私の理不尽な行為は高校生になってやっと止まった。 中学2年頃だったと思う。家庭科でりんごジャムの作り方を習った。とてもおいしくでき上がった。家に持って帰り、みんなに食べてもらった。好評だった。家でも作りたくてたまらなかった。そのとき家には柿がたくさんあった。吊し柿用に知人が持ってきてくれたものだ。だから当然「渋柿」だった。私は母に言った。「この柿でジャムを作ろう」と。母はしばらく考えて賛成してくれた。この頃砂糖は高価なものだった。ジャムを作るには砂糖がたくさんいると告げていたので、母はそのことを考えていると思った。 柿ジャムが作れるのがうれしくてたまらなかった。さっそく、料理に取りかかった。家庭科の時間に習った通り、皮をむき、おろしがねでおろして、砂糖を入れ、火にかけた。おしゃもじでかき混ぜた。しかし、いくらたってもジャムらしき物はできなかった。しかも渋い。砂糖をいれ、炊いても渋みが消えないのだ。母と私は顔を見合わせた。 「どうしよう!」せっかくここまでやったのにジャムができないなんて。「もっと砂糖を足してやって見よう」ということになった。砂糖を買いに走り、また火にかけた。が、やはりジャムはできなかった。高価な砂糖を二袋も使って、全然食べられないものを作ってしまったのだ。母は私を怒ることもできず、悲しそうな顔をしていた。私も悲しかった。あんなに楽しみにしていたのに。砂糖がたっぷり入った渋柿の塊は捨てるしかなかった。 その後、図書室でジャムのことを調べた。そしてわかったことはジャムにできる果物にはペクチンという物質が含まれてなければならないことを知った。そして柿の渋は砂糖ではなくならないこともわかった。このとき私は「物を知らない」ことの哀しさを嫌というほど味わった。物を知らないということは、本当に哀しく、腹立たしいことだ。私はこのことを「決して忘れないぞ!」と思った。 それはある日の夕食後のことだった。すぐ下の妹(6年生くらい)が呼吸ができないといって苦しみ始めた。両親は、置き薬を飲ませた。私から見るとあまり驚いている様子に見えなかった。が、私にはただごとでない苦しみように見えた。死ぬかもしれないと思った。気がついたとき、私は狂ったように叫んでいた。「お医者さんを呼んで! 早く呼んで!はっこさん(妹の呼び名)が死ぬ!」と。私があまりにも激しく騒ぎたてるのと、妹の苦しみが治まらないので医者の往診を頼んだ。医者の処置で妹の苦しみは治まった。 苦しみの原因は忘れたが、妹が死ななくて「ほっ」とした。少し落ち着いてから「怖かったやろ、死ぬかもしれんと思ったんと違う?」と聞いた。すると妹は「別に死んでもいいと思とった」と答えた。死ぬのが怖かった私はもうびっくりしてしまった。そして毎日一緒に暮らし、何でもお互い知っているのがあたりまえ、と思っていた私にとって、妹が「死んでもよい」と考えていたなんて、そのことがさらにショックだった。このとき家族といっても「みんなそれぞれ別々の、1人の人間なんだ」ということに気がついた。それは何だか寂しい気がしたが、この地球上に「私という人間はたった一人」ということに思いいたった。(つづく)
兵庫県 KS
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