小さなおじさん 其の9
今日はお袋のデイサービス復帰初日。腰が痛かった頃は「今日は休む」とよくグズっていたものだが、昨夜の段階で「お風呂に入りたい」と言っていたので多分大丈夫。
5時に目を覚ますとやはりベッドの縁に座っていた。せめて6時まで寝かせてくれいと思いつつも、お袋が出かけたら二度寝すればいいので「ごめんごめん」と起きて車いすに移らせる。昨日より要領がいい、というより足に力が入っているように見て取れる。
お袋の車いすを押そうとすると自分で漕ぎ出し、トイレも1人で大丈夫だというので入浴セットと着替えを準備し、着ていく服も用意した。気合が入っているのかな。
お袋用のコーヒの準備をしていると、トイレと洗面を1人で済ませて自分で漕いで居間まで戻ってきた。驚いた。「調子いいみたいだな」と言うと「そう?」と言いつつも嬉しそう。
思ったことができるというのは大切なことなのだな。それができなくなった親父は始終機嫌が悪く八つ当たりしていたが、それに耐えたお袋の強いこと。男ってやつは、なんて情けなく弱い生き物なのだろう。もちろん、わしも例外ではなく。このご機嫌なうちにと、「今日はデイサービスだぞ」と確認すると「うん」と頷いてくれた。行ってくれるようだ、良かった良かった。
コーヒを飲みながらNHKを流すも、今のお袋にはほぼ観えない聞こえない。補聴器もあるのだが、「嫌な音が聞こえる」と敬遠する。大事な話の時は我慢してくれるのだが、それ以外はさっぱり。福祉村の方たちと話ができたのか知らん。
そうこうしているうちにヘルパさんがみえ、軽い朝食の準備を始めてくれる。トーストと目玉焼き。それを平らげると急いで着替え、デイの迎えが来て行ってらっしゃいと送り出す。そしてわしは二度寝と洒落込んだ。寝られる時に寝ておかねば。どうやらわしは寝溜めができるのだ。
デイから戻ったお袋はお疲れのようだ。2ヶ月ぶりとなったわけだが、当時は腰痛でほぼ起きていられずに話し相手もなかったことだろう。「友達はできたか?」と問うと、寂しそうに笑っていた。一朝一夕にはいかんのだろうが、活気のある時間が過ごせたならば少しは気持ちも変わることだろう。この時間がいい刺激となりますように。
入浴は、久しぶりの浴槽でしっかり温まったという。わしもデイの入浴を利用させてもらって、28年ぶりの浴槽だったか。最初は起立性貧血が怖くビクビクだったが、今では浴槽に浸からねば物足りない。つくづく日本人なのだと思う。
胸の苦しみを訴える日はあったものの、それから2週間が無事経過した。お袋を透析に送り出し、デイの準備をしていると電話が鳴った。お袋の行っている透析クリニックの医師からだ。血圧が上がらず透析ができないという。中2日の月曜にそれは命取りだ。
前の系列病院に入院させたいというので、近くの総合病院にとお願いする。透析もできるし、心臓血管外科と整形にかかっているので安心できると懇願した。が、ここは、急性期病院だから受け入れてはもらえないと断言する。「それはあなたが決める問題ではないだろう」と喉元まで出たがぐっと飲み込み、「頼んでください」と切望する。
先生は「聞くだけ聞いてみるが期待しないように」と電話が切れ、その間に別の電話でデイをドタキャンし、叔母に状況を伝えこちらに向かってもらった。間もなくして先生から、「ダメだった。嘘だと思うのならA先生に確認してください。そして、すぐ搬送の手配をしたい」と伝えられる。どういう意味で「嘘だと思うなら」と言ったのかが引っかかったが、迷う時間はないのでそれを承知した。お袋があれほどまでに嫌った病院にまた。悔しい。
昼前に叔母が到着して、入院の準備を揃えてもらい2人で病院へと向かう。点滴を打ちながらすやすやと眠っているお袋だが、やはりまだ透析のできる状態ではないと説明を受けた。そして、透析に耐えうる血圧になればすぐにでも再開すると約束してもらい、しばらく起きるのを待ったが、入院の手続きを済ませて叔母と2人で家に戻る。
叔母から覚悟するようにと言われるが、今朝いつものように送り出したのだ。おいそれと納得できるわけもなく、悶々と1日を過ごした。
叔母が泊まってくれたので翌日も面会に行くが、この日もまだ透析のできる状態に戻らないと点滴で眠っている。表情は穏やかだが、一回り小さく見えたのは気のせいか。この日も「早く元気になれよ」と手を握って帰った。
次の日に面会すると、パンパンに浮腫んでいた足が骨のように細い。思わず「どうした」と、足を擦るとキッと睨(にら)みつけられた。後で聞いたところでは、肺に溜まった水を抜いたのだそうな。「ごめんごめん」と詫びるとわしだと気付き、「ここはいや、帰りたい」と手を握られた。涙が出そうだった。
叔母と事情を説明して病院の言うことを守り、早く透析ができるように元気になれと伝えるも、お袋の表情は何かを悟ったかのような笑みにも見える不思議なそれだった。
最後の透析が金曜、そして今日が水曜。こんなのいいわけがない。だが、今の体力で透析をすれば命の保証はない、と言われれば何も言い返せない。この日もお袋の手を握り、「頑張れ」と伝えるもお袋の返事はなかった。
そして、その晩お袋は逝った。急変し、「お父さん」と大きな声を出したのが最期だったそうだ。親父の時もそうだったが、また間に合わなかった。
さっさとあの病院から出してやりたい一心で、すぐさま葬儀屋に電話を入れて迎えに行ってもらい、何とわしらより早く病院に到着していた。受付がいないので会計は後日ということで、お袋を引き取って戻ってきたのだったかな。このあたりはよく覚えていない。
親父の死から1年半。こうして、2人のドタバタな日常があっけなく幕を閉じた。もうお袋が小さなおじさんに悩まされることもない。
おしまい
鈴木@横須賀
『臥龍窟日乗』-78- 戦後外交の裏話
おもろい本を見つけたぞぉ。新本ではない。2012年の発行だから、10年前の古本だ。『戦後史の正体』(孫崎享著・創元社)。
この著者の経歴が変わっている。1943年生まれ。1966年、東大法学部中退、外務省入省。駐ウズベキスタン大使、国際情報局長、駐イラン大使を経て、2009年まで防衛大学校教授。たぶん保守系の人だろうが、1943年生まれということは私とほぼ同世代である。4歳年上だから、日本の戦後史をほぼ同時に体験してきた感じだ。
きっかけは安倍晋三元首相の銃撃事件だ。安倍氏の外祖父が岸信介元総理であることはよく知られている。また安倍氏の地盤・下関市は私の出生地でもある。そんな理由で興味をそそられた。
戦後の国際外交の裏面を追体験する凄みがあった。敗戦、サンフランシスコ講和条約、日米安保条約、日中国交正常化、ロッキード事件、70年安保などの裏面を曝け出している。
他のA級戦犯が巣鴨プリズンで処刑された翌日、岸信介だけが釈放され、米国諜報機関から資金援助を受けていた事実(出典『CIA秘録』ティム・ワイナー著・文藝春秋)が紹介されている。
『CIA秘録』は胡散臭い暴露本ではない。優れた報道に与えられるピューリッツァー賞を受賞している。その岸信介が60年安保で日本国内を二分させたとして、米政府により退陣に追い込まれる。
私事になるが、私は小6まで下関市で過ごした。母方の叔父は旧財閥系の会社を定年退職し、施設に入所していた。正月に餅を喉に詰まらせ急逝した。我が家を代表して私が葬儀に参列した。
ぶっ魂消たのは、弔電の紹介時である。しょっぱなが安倍晋三・内閣総理大臣であった。叔父は平社員にすぎない。訝(いぶか)しく思って、傍にいた従兄に訊いた。
「叔父貴って、そんなに大物だったんか?」
「なーに、労働組合が手ぇ回したんやろ」
安部総理大臣の選挙区が下関市であり、人の集まる結婚式や葬式に儀礼的な電報を送るんだそうな。小6の私が下関で生活していた頃まで、労働組合はほとんどが革新系だった。労働組合が保守系だなんて、時代も変わったもんやなぁと感慨深かった。
ついでに言えば、下関は関釜連絡船の発着港があり、在日の人々も数万人は住んでいる。私の同級生にも友人がいた。つまり、その頃から安倍晋三氏と岸信介は在日の人々とのなんらかのパイプが出来上がっていたのかもしれない。旧統一教会問題が騒がれだしてから、そのことを思い出した。
『戦後史の正体』は、戦後生まれの私の「自分史」でもある。ロッキード事件という、昭和を代表する大疑獄事件があった。田中角栄がロッキード社から賄賂を受け取ったものだが、なぜ極秘裏であるはずの贈収賄がばれたのか、分からなかった。
奇しくも、本稿執筆時の9月29日は、『日中国交正常化』に田中角栄と周恩来が調印して50年目にあたる。しかし国交正常化については、ニクソン元米大統領の補佐官・キッシンジャーが、度重なる中国側との折衝でお膳立てした。米中平和友好条約を出し抜いて、田中角栄が日中平和友好条約を先行締結しようとした。これがキッシンジャーの逆鱗に触れた。
その後、角栄がロッキード事件を暴かれ、田中内閣が崩壊したのは、キッシンジャーの報復だった。中国との国交回復なんて、その当時では驚天動地の大事件だ。世界中から脚光を浴びることは間違いない。その功績をキッシンジャーは田中角栄に掠め取られたと考えた。
そもそも外交なんて、口先だけのボクシングみたいなものだ。脅し、騙(だま)し、おべんちゃら、駆け引きなんて何でもありだ。角栄ごときに裏をかかれたことがキッシンジャーはたまらなかった。顔を真っ赤にして激怒したそうである。
私は『米中平和友好条約』は、米国の量販店バイヤー主導だと考えている。彼らは商品を安く仕入れるのが鉄則だと信じている。かくして中国は世界の生産工場にのし上がった。2010年には日本を追い越して、GDP世界第2位に躍り出た。歴史の皮肉と言うほかはない。
千葉県:出口 臥龍