No.196 2022/9/20
Page 1 . 2

前ページへ戻る

 古希の祝いと闘病の記録 

(70歳、C4、頸損歴37年)

 コロナ禍が少し落ち着いたということで、延び延びになっていた古希の祝いをしてもらった。還暦のときは赤の帽子と赤のチャンチャンコだったが今度はそれが紫になった。着せられたときは、還暦と同じく恥ずかしかった。しかし、気持ちはずいぶん違っていた。

 還暦のときは、この齢まで元気でこられて良かったと単純に嬉しかった。60歳までは2回程度もうだめかという病気はしたが、ほぼすんなり還暦を迎えた。そして将来に対する不安はなかった。
 古希の場合は嬉しさ半分、不安半分である。直前の66歳から68歳まで立て続けに大病を患い、体が衰弱し、健康が不安になり、もうすぐ人生の終わりかと思うときが出てきた。「このままではいかん、なんとか踏みとどまり、次の10年を頑張らねばならない」と自分に気合いをいれている次第だ。

 和田秀樹著『70歳が老化の分かれ道』を読んだら、70代をうまく生きないとよぼよぼの高齢者になってしまうとある。そしてそうならないように、するべきことをたくさん取りあげてある。しかし私ができそうなことはほとんどなく、唯一「これからはインプットよりアウトプットせよ」だけができそうに思われた。そこで70歳直前に立て続けに起こった大病罹患のことをアウトプット(ご報告)させていただきます。

〇66歳の中頃
 高熱がでて緊急入院した。肺炎、気管支炎そして膀胱炎などが疑われたが、血液検査の結果、菌が見つかり、褥瘡の傷口から菌が血管内にはいっているとのことだった。治療はこのまま治すか、切開するかが検討された。外科の先生の意見で、再発がないように切開手術を行うことになった。これが悪夢の始まりだった。2週間程度で退院できるだろうと言われていたが、なかなか内部からの肉の盛り上がりがみられなかった。食事の量が足りないと言って無理やり食べさせられた。それにより血糖値が増えてインシュリン注射が始まり、そのインシュリンの量も増えていった。それでも肉の盛り上がりが見られないので、内部に菌がいて汚れているのではないかとさらに切開した。褥瘡の穴は骨まで達した。骨の表面が腐っているのではないか調べてそうならばその部分をアヒルの口みたいなヘラでこそぎ落とすと言われた。穴の大きさは縦横深さで(3cm×6cm×4cm)にもなった。それでも改善の兆候はみられなかった。穴は小さくなるどころかどんどん大きくなっていくので、不安でたまらなかった。
 ここでVAC療法(陰圧閉鎖療法)という治療が始まった。内部から肉が盛り上がり褥瘡は改善され始めた。しかしVAC療法は4週間までと決まっているらしく4週間で終わった。あとは傷口を縫って塞ぎ通常の治療となった。家庭で治療できるところまで治ったときに退院した。途中、急性期病院から療養病院に転院したが、延べ200日入院したことになる。切開によって治るどころか傷口が大きくなっていったときはとても辛かった。

〇67歳の初め
 蜂窩織炎(ほうかしきえん)、慢性肺炎、慢性膀胱炎の治療のために23日間入院した。
 右結石性腎盂炎(じんうえん)の罹患。最初の入院ではDj(尿管)ステント留置術で尿の流れを良くして炎症をなくす。2度目の入院では右尿管結石及び膀胱結石粉砕術施術。3度目の入院でDjステントの除去術です。延べ40日間の入院だった。

〇67歳の終わり頃から68歳の初め

 今度は、左結石性腎盂腎炎。腎盂内感染泥充満のため左腎尿管結石砕石術は困難とわかった。結石(感染汚染泥)の大きさは鶏のSサイズ卵大だそうだ。そこで急きょ経皮的左腎尿管結石破砕術(PNL)に変更になった。まず背中側から腎盂に穴をあけ腎瘻を造設した。次の入院時に、その穴から内視鏡を入れて結石破砕術で結石除去を行った。入院期間は延べ55日だった。

〇68歳の初め、慢性肺炎のために13日間入院

〇68歳の中頃、帯状疱疹のため8日間入院

〇70歳の中頃、現在


 今の健康状態。帯状疱疹は2年弱になるのに完治しておらず、患部がときどきムズムズする。また褥瘡もあと少しだがまだ完治していない。しかし体調は少しずつ良くなりつつありこの状態をキープしたいと考えています。



 写真は福岡にもガンダムがやってきたのでさっそく見に行きました。さすがにデカイ。大きいものを見て気分が晴れ晴れしました。

福岡県:Y.I.

 膀胱洗浄の頻度 

(73歳、1987年C5損傷、男性)

 「はやぶさ2」が小惑星リュウグウから持ち帰った砂の中に多数のアミノ酸が発見され、これで地球の生命は宇宙由来である可能性が高まったというニュースをテレビで見て、おおこれはすごいと感心していたら、横から女房が「地球だって宇宙じゃないの」と言った。わたしは一瞬わけがわからなくなった。頭を整理した。宇宙の星の一つである地球にアミノ酸があるなら、ほかの星にあっても不思議はないという意見のようだ。生命の由来については分からないが、地球がいちばんえらいという自分中心の考えは浅薄だとあらためて感じた。
 そういえば17世紀初頭ガリレオが望遠鏡を作って当時の大学教授24人に月面を見せたところ、「神の造りたもうた月がこんなにデコボコしているはずはない、ガリレオはインチキだ」と酷評されたそうだ。当時のひとびとは、天上界は神の統べたもうところだから完璧なもの、星々はすべてツルツルのものだと信じ込んでいたらしい。どうして天国は空の彼方にあって地獄は地下方面にあるのだろう。昔から疑問に思っている。東洋でもそんなことをいう。ジョン・レノンは20世紀になっても「Imagine there's no heavn」 と呼びかけなければならなかった。人類はそれほど頑迷固陋(がんめいころう)なのだ。

 宇宙に関する常識は変わってもふだんの生活には何の支障もないが、医学の常識がコロコロ変わるのはほんとうに困る。1988年に所沢の国立障害者リハビリテーションセンターの病院で膀胱瘻を造設して退院するとき、主治医から「膀胱洗浄は毎日すること」という指導を受けた。ところが数年後には、膀胱洗浄は細菌感染の元だからなるべくしないほうがいいという学説に世間は変わった。毎日から週1回に変えた。わたしはしょっちゅう膀胱炎から腎盂腎炎を起こして高熱を出すようになった。
 尿が浮遊物で真っ白になり、バルーン・カテーテルが詰まり、深夜に往診を仰いで交換してもらったことも一再ではない。膀胱瘻は垂れ流しだから膀胱容量は極端に小さくなる。医師が到着するまで尿失禁をくりかえし、そのたびに過反射の汗を頭から顔から噴き出した。
 膀胱炎を防げば腎盂腎炎も防げるのではないかと考え、膀胱洗浄を週2回に増やした。それからは腎盂腎炎で高熱を出すこともなくなった。いまや尿もきれいなものだ。
 だが先日そのことを主治医に話したら、「尿が白くなっても悪いとは限らない」との返事。意外な言葉にそれ以上質問する気力も起きなかった。さらに女房が追い打ちをかけてくれた。バルーンが詰まらなくなったのは自分が勧めたビタミンCのサプリメントのおかげだと。
 わたしの信念はことごとく打ち砕かれヘナヘナになった。まず己を疑えという教訓か。

東京都:F川

 歩道の段差と犬の落とし物をなくしたい 

(60代、男性、受傷後20年+、C5/6)

 9月初めに入居した分譲マンションは埋立地につながる人工島にある。電動車いすで安心して利用できる平坦で広幅員な歩道ネットワークは、この御島(みしま)水域近辺にしか存在しない(190号「遊歩道の有効幅員を回復してもらう」)。
 水域向かいの賃貸マンションから電動車いすで転居する際、点字ブロック設置部の段差でハンドルを取られ危ない思いをした。10月末、歩道の現状を示す写真(写真1)を添付したメールを自治体の所管課に送信し補修をお願いした。今回も行政の対応は素早かった。11月初めには現地で補修済みを確認した。



● 写真1

 埋立地のショッピングモールに出かけることがあるが、ある日、飛び出してきた幼児と接触しそうになった。何事もなかったが、いざという時の自分の備えが気になった。帰宅してこくみん共済との契約証書を確認すると「法律上の損害賠償責任を負うとき(国内のみ)第三者に対する損害賠償(免責0円)(最高)3億円」とあった。
こくみん共済に“電動車いす運転中の不注意(過失)を原因として相手方の財物を損傷した事故および相手方が負傷した事故についても共済金の支払い対象になりますか”と質問した。回答は、「公道上でもショッピングモール内でも共済金の支払い対象になる」とのことであった。この調査の過程で「電動車いすは歩行者扱いである」ことを知った。

 埋立地のショッピングモールがあるエリアは新しい工区で広幅員の歩道ネットワークだけで移動できる。横断歩道を渡る際の歩道縁石と車道端の段差も小さい。しかし郵便局があるエリアは古い工区で、歩道は狭く車道は補修が繰り返されている。こういう所では縁石近くの歩道や車道端が凸状に盛り上がっており、電動車いすの車体下を擦ってしまう。その危険がある場合は歩道を戻り安全な場所で車道に降りる。車道端を走行し横断歩道に戻るが、歩行者扱いの身では交通法規に違反している。
 広い歩道で点字ブロックを避けて通っているとカップルが向かってくる。決まって男性が先に動き、彼に促されて女性が動く。道を譲られるべきは女性か車いすか、彼我の意見は異なるだろう。しかし対面時には同じことを考えている、なぜこいつは避けないんだ、と。 “おまえが深淵を覗き込むとき、深淵もおまえを覗き返している” を思い出せ。

 水域近辺にはマンションが多く、小型犬を連れた人が多い。皆、手提げや袋を持っている。それでも歩道には犬の落とし物が落ちている。遠くの段差の程度を予想し、近づく歩行者との衝突を回避していると、路面の確認が手薄になる。同行する妻に教えられて気づくこともある。私は車いすを自宅用と外出用に分けていない。そんな物を踏むと大事になる。犬に頼むしかないのか、せめて端っこでやってくれ。

福岡県:DRY

190号「遊歩道の有効幅員を回復してもらう」
はがき通信 No.190 - 3 (normanet.ne.jp)

 『臥龍窟日乗』-77-鰯と「いりこ」 

(75歳)

 この夏、私は75歳になった。ささやかなお祝い事をやってもらったが、嬉しいというより、余命何年というほどの感慨でしかなかった。あと5年か10年……、まだまだやり残したことは山ほどあるというのに、老いの作業は遅々として進まない。
 母との心の交流を描いた『ゆがんだ系図』について、191号に紹介させていただいた。ところが私には、母のルーツである愛媛県宇和島市に滞在した経験はない。四国はなんども廻っているのだが、乗り継ぎ駅として降り立っただけだ。
 幸い地元の教育委員会のかたと知己になった。真昼間から宇和島と関東のあいだで、電話による取材が続いた。封建時代の古文書など、貴重な資料をご教示いただいた。学生時代以来、古文書と格闘するのは半世紀ぶりだった。現地に足を運ぶのは不可能だから、資料を漁って、イメージを膨らませるしかない。だから300枚の原稿を書き上げたあとも、なんとなく疚(やま)しさが後を引いた。
 宇和島を肌で感じる小説みたいなものはないか、と探っていたら、2、3点見つかった。一つは素九鬼子(もと くきこ)さんの『旅の重さ』。それから獅子文六(しし ぶんろく)さんの小説『てんやわんや』と『随筆てんやわんや』だ。ともに映画化もされている。とくに獅子文六さんは、宇和島で数年間、戦後疎開を経験しているので、当地の事情に明るい。『てんやわんや』については、娯楽物である小説はともかく、随筆の方は、ときに辛辣ですらある。
 舞台は愛媛県の南部、南予(なんよ)だが、海際まで山がせり出したこの地方には、平野なるものがほとんどない。痩せた山を禿山になるまで開墾し、芋を植えた。禿山は『段畑(だんばた)』と呼ばれた。写真集で『段畑』を目にした私は、地獄絵を見る思いだった。食生活は芋と鰯業に頼らざるを得ないが、網元と漁民の身分格差は厳しい。漁民の生活は極めて貧しかった。獅子文六はこれらの人々を裏方と表現した。
 封建時代から昭和前期にかけて、裏方の生活を支えたのは漁業だった。「いりこ」と呼ばれる煮干しの小魚が、裏方の食生活を支えた。後に真珠養殖やハマチ養殖によって、この地方は四国一の裕福な地域となったが、それまでは四国一の貧乏村であったとする文献がある。
 鰯と「いりこ」には強烈な思い入れがある。小六までの私は、足繁く母方の祖父母の家に通った。酒浸りで暴れまくる父が怖かったからだ。食事は、だから祖父母の家でとる場合が多かった。粗末なおかずばかりだった。鰯のぶつ切りと大根の煮つけ。味噌汁にはかならず「いりこ」が入っていた。鰯と「いりこ」が私には手強かった。小骨が怖くて食べられない。口に入ると、そのまま吐き出していた。すかさず祖母の叱責の声が飛んでくる。
 祖父母が南予の出だとは母から聞いていた。爺ちゃん18歳、婆ちゃん11歳のとき南予を出奔し、北九州の戸畑で入籍した。大正2年のことだ。明治34年には官営八幡製鉄所が創業していた。爺ちゃんは八幡製鉄の下請けか孫請けに潜り込み、鋳物職人としての人生を歩み始めた。母は戸畑で出生した。
 そのころ関門海峡の対岸・下関に財閥系の亜鉛精錬工場ができた。いっぱしの鋳物職人になっていた爺ちゃんは、これにすべてを賭けた。一家揃って関門海峡を渡った。母は、父に見初められ、訳も分からず嫁いだ。地獄の日々が待ち受けていた。
 私にはよく分からない記憶があった。
 なぜ父は、あんなにも酒に溺れる一生を送ったのか。尋常な飲み方ではなかった。自らの心身をいたぶるような飲み方だった。そして夜ごと、母を殴り蹴った。まるで犬畜生のごとくに。
 亡くなる2、3年前に、母は私のベッドのわきに腰を下ろし、訥とつと語ったことがある。何度もお遍路さんを経験した母だが、祖父母の実家には、なぜか距離をおいていた。理由については触れたくなさそうだった。
 父の酒乱と、母のルーツを探索する永いながい旅は終わった。辛い旅であった。いろんな発見があった。父の酒乱の原因は私自身にあった。そう結論づけるのがもっとも妥当だと思われた。
 余談だが、映画『てんやわんや』はユーチューブでも全編ただで観られます。

千葉県:出口 臥龍

191号『臥龍窟日乗』-72- 裸の島 
はがき通信 No.191 - 3 (normanet.ne.jp)



【編集後記】

 会計監査についてはコロナ禍のため2年間未実施になります。会計担当の占部さんとコロナが落ち着いたときにでもと話し合って、頃合いを見計らっていたところです。何とか実施しておきたいのですが、両者とも重度障害者であるため、対面にて監査を行うことに慎重にもなっております。
 7月に入り第7波がきて感染者が増え続けているため、監査は先行き不透明な現状にあることをご報告させていただきます。どうかご了承くださいますようお願いいたします。

 *


 次号の編集担当は、瀬出井弘美さんです。

編集担当:藤田 忠


………………《編集担当》………………
◇ 瀬出井 弘美 (神奈川県)
◇ 藤田 忠   (福岡県) 
………………《広報担当》………………
◇ 土田 浩敬  (兵庫県) 

post_card_comm_14520@yahoo.co.jp

発行:九州障害者定期刊行物協会
〒812-0044 福岡市博多区千代4-29-24 三原第3ビル3F
TEL:092-753-9722 FAX:092-753-9723
E-mail:qsk@plum.ocn.ne.jp

このページの先頭へもどる


HOME ホームページ MAIL ご意見ご要望