No.190 2021/9/21
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 在宅生活19年目の再出発 

(60歳代、C4-5)

 在宅生活19年を迎えた2016年に転居し、4年半が過ぎました。転居した理由とマンションのリフォームなど、少しでもお役に立てたらと思い報告させていただきますね。

 さかのぼること1996年、退院を控え在宅生活に向かっての準備が始まりました。受傷したのは夫の転勤先、広島市内にあるわが家(マンション)は借りていただいていたので、リフォームで生活できるかどうか確認不可。それに夫は仕事の帰りが遅く、娘たちは中学生と小学生、住居のことに始まり家族の炊事、洗濯等々の心配が尽きない。いくら周囲の方々がなんとかなると言われても、車いすでの在宅生活は未知の世界、不安でいっぱい……。結局義母の力を借りながら、夫の実家の隣にバリアフリー住宅を増設し、在宅生活が始まりました。
 家族の負担軽減のため、夫が仕事の月~金曜日は、ヘルパーと訪問看護へ身の回りの介助をお願いしました。実家のある郡部にはどちらも事業所は1社しかなく、サービス時間も365日24時間になっていますが、基本9時~18時と訪問も限られます。広島市からの受け入れ不可がほとんどの中、週1~2回、町外のヘルパー、訪問看護介護事業所を利用することができてとても助かりました。お世話になっている町立病院には、訪問看護と訪問リハはありますが往診はありません。
 町には公共の交通機関があっても、車いすでは簡単には利用できないし、介護タクシーもありません。町立病院や町立病院にない必要な診療科の受診で広島市内の病院へ行くときには、夫もしくは社協の移送サービスを利用。ただ緊急時の移送サービス対応はなかなか難しく、夫の不在時や夫の急な入院では、介助面ともどもとても困りました。
 過疎化、高齢化に伴い介護者不足も深刻になり、義母の施設入所、夫の退職を機に広島市内へ帰ることにしました。19年間の介護生活で道はできているとはいえ、この年での再出発。住宅環境、新しい事業所・介護者、制度の違いなどもあり、緊張感でいっぱい。リフォームや介護事業所、訪問看護事業所探しなど2年がかりの準備となりました。



 築約30年のマンション。当初バリアフリーがキャッチフレーズのマンションで「なるほど」と思っていましたが、実際車いす生活になってみると数々のバリアに直面。特に水回りの風呂、トイレ、洗面所は7センチの段差。この段差はどうにもならず、ここでの生活は無理なのかなあと弱気になったりしましたが、たくさんのアイデアと知恵に恵まれ段差の悩みをクリア。
 建物の段差をなくすだけがバリアフリーではなく、温かな人の手や用具に頼るということもバリアフリーなのだと教えられました。一人では使えない風呂・トイレ・洗面所は、1部屋の半分を利用してすべてを一体化し、7cmの段差は介助者の手を借りることにしました。(写真①↑)





 限られた広さでの一体化は、トイレ利用時の介助者スペースが足りず悩んだ結果、壁を引き戸にして廊下を活用するというアイデアを採用。(写真②③↑)





 玄関の4cmの段差はスロープを(写真④↑)、底下げされてある部屋の4cmの段差の部屋は、廊下と同じ高さにしました。リフトですが、ベッドには備え付けの『つるべ』を使用。(写真⑤↑)







 悩んだのは、お風呂(浴槽に浸かる)とトイレ(トイレ使用)。それぞれにリフトを置くと狭くなり、介助の手が借りられなくなる。業者さんがいろいろと考えてくださり、『つるべ2段式アーム』を使って解決。(写真⑥⑦⑧↑)





 私のベッドや作業机はバス・トイレ・洗面所への移動等を考え、リビングに隣接の和室の壁をなくしワンフロア―のフローリングにし、水回りに近いこの和室のあった場所に置き、テレビ台にはキャスターを付け可動式にしました。(写真⑨⑩↑)





 プライベート空間時には、引き戸で囲み問題解消。(写真⑪⑫↑)

 以前のリフトは天井走行で、ベッド→トイレ→風呂と一直線で便利でしたが、トイレに行くには乗り換えが必要になりました。お風呂にはベッドからシャワーチェアーで段差を越えて移動。その工夫をヘルパーさんや看護師さんといろいろと考え、慣れるのに時間がかかりましたが、こうやって少しでも良いように取り組んでくださる皆さんに感謝ですね。
 今までとは違い往診があり、介助者は若い世代が中心。結婚や出産、保育園、学校行事とかお休み、休職が多く心が折れそうになりましたが、マンパワーの違いで新たないい出会いに恵まれ、今ではずいぶん心の受け入れが広くなったように思います。小さな子供さんから受験生をお持ちの方、大変でしょうがいつも気持ちよく接してくださって背中を押されます。若い世代の会話に私も仲間に入れていただいて、若返るかも(笑)。
 歩いてスーパーやコンビニに行けるし、交通機関が充実しているのもあり外出も便利になり、夫ともども時間にゆとりが持てるようになりました。友人たちや娘の家とも近くなり、心にゆとりも持てるようになりました。
 現在コロナで規制が多く、外出も娘たちや会いたい人にも思うように会えませんが、ワクチン接種も始まりもう少しの踏ん張りでしょうか。「絶対また会おうね!」という会話が、大きな支えです。頑張るぞ! 介護保険まで後3年、どのように時間が過ぎて行くかわかりませんが、一日一日を大切に歩きたいと思っています。

広島市:M.K.

 遊歩道の有効幅員を回復してもらう 

(60代、男性、受傷後19年、C5/6)

 4月末に入居した賃貸マンションの前に自然海岸がある。そこの遊歩道は隣接する人工海岸、埋立地、人工島、海上橋を経て1周2.9kmのM水域周回ルートを形成している。水域の開放感と周回ルートの平坦さが気に入ったので電動車いすで頻繁に利用している。
 自然海岸区間の遊歩道は幅員2m、その海側に路肩と護岸法面(法面=人工的な斜面)、反対側に縁石と緑地帯がある。私は道路からの転落事故により受傷したので海側を通行することを避け、緑地帯側の縁石ギリギリを通ることで他の利用者の邪魔にならないように努めている。
 しかし場所によるが、緑地帯の低木が縁石を越え歩行空間を狭め(写真1)、歩道上の砂と芝生は電動車いすの操作を危うくする(写真2)。そのため、縁石を越えた芝生等により歩道の有効幅員が狭められた区間では安全にすれ違えないため、電動車いすが手前で待たざるを得ない。

(写真1)


(写真2)


 6月に入って、遊歩道の現状を示すこれらの写真を添付し、有効幅員を狭めている植物等を取り除くことで本来の有効幅員の回復をお願いするメールを自治体の所管課に送信した。
 行政の対応は素早かった。6月9日の朝に外出した妻からメールが届いた。遊歩道上の数名の作業員の写真が添付されていた。昼過ぎに帰宅した彼女は追加で数枚の写真を見せてくれた。
 写真によれば、縁石を越え歩行空間を狭めていた低木は剪定(せんてい)され(写真3)、歩道の一部を覆っていた砂と芝生は取り除かれ(写真4)、障害物がなくなった縁石端まで歩道幅員として有効に使えるようになっていた。数日後、遊歩道を利用する機会があったが、格段に通りやすくなっていた。

(写真3)


(写真4)


 作業当日は最高気温が35℃に迫る勢いの日だった。猛暑の中で作業された皆様に感謝を申し上げる。
 年間予算額と人員で決まる行政の対応能力が自治体により異なることは心得ている。ここは恵まれていた。残念なのは所管課から一度も連絡がないことである。住民と行政とのコミュニケーションは重要だと思う。作業実施についての事務連絡で十分なのだが。

福岡県:DRY

 『臥龍窟日乗』-71- 秀吉の素顔 

 大阪人は豊臣秀吉が大好きだ。太閤さまといって、崇(あが)めたてまつる。信長が攻略した石山本願寺跡に大坂城を建造し、大坂を日本一の商業都市にした。だから秀吉を商売繁盛の神様として、千成瓢箪(せんなりびょうたん)を祀(まつ)る人もいる。
 秀吉の伝記を物語にした『太閤記』という絵本もよく知られている。NHKの大河ドラマや民放の連続ドラマにもたびたび登場した。演ずるのは緒形拳、竹中直人、西田敏行などの役者で、明るく気さくで、ひょうきんな役柄になることが多い。
 卑しい身分の出とされているが、信長に取り入って天下統一を成しとげたのだから、まさにジャパンドリームの英雄でもある。
 歴史学の世界でも取り上げられた。豊臣平和令という。平たくいうと、天下統一を成し遂げた秀吉が、大名たちの私闘を禁じたもの。惣無事令(そうぶじれい)とも称される。これをもって、秀吉は国内を安定させたと高く評価された。
○『雑兵たちの戦場』藤木久志著(1995年刊)
 などの著作がある。戦国大名たちの国盗り物語ばかりが浮き彫りにされる風潮のなかにあって、農民以下の一般庶民の日常に光を当てた功績は計り知れない。だが中世戦国時代の庶民は、ホントに平和だったのか。近年、学会では異論が相次いだ。
○『秀吉神話をくつがえす』藤田達生著(2007年刊)
○『河原ノ者・××・秀吉』服部英雄著(2012年刊)
○『秀吉の出自と出世伝説』渡邊大門著(2013年刊)
 なかでも『秀吉神話~』は、細かい史料を検証して秀吉の素顔を暴き出していく。推理小説のような迫力がある。

『本能寺の変』のとき、秀吉軍は備中(岡山県)高松城を攻めていた。信長殺さるの報を得て、有名な「中国大返し」に転ずるが、通常の秀吉戦法は残忍をきわめた。
 城を水で囲い、外部との往来を遮断する。兵糧攻(ひょうろうぜ)めだ。当時の戦(いくさ)では、領内の農民も城に逃げ込むから、やがて食料難となり、城のなかでは身内の殺し合いが始まり、生き地獄となる。秀吉方は頃合いをみて攻め込み、婦女子を凌辱し、子どもを串刺しにした。成人男子は人買いに売る。秀吉の常套手段だ。これを平和主義者といえるだろうか。

 秀吉と同世代に生きたポルトガル人に、ルイス·フロイスがいる。イエズス会宣教師で、『日本史』という膨大な史料を書き残した。例えば、欧州の戦は領土の奪い合いだが、日本では食料や武器の掠奪、人身の生け捕りが目的だったとする。
 信長や秀吉にも謁見しているが、
「彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には六本の指があった。眼がとび出ており、シナ人のように鬚(ひげ)が少なかった。男児にも女児にも恵まれず、抜け目なき策略家でもあった。彼は自らの権力、領地、財産が順調に増して行くにつれ、(それとは)比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えて行った。(日本史第1巻P.317)」
 と、コテンパンに秀吉を叩いている。天正15年(1587)、秀吉が発布した伴天連(バテレン)追放令によって、日本での布教の道を閉ざされたのだから、意趣返しと取れなくもないが、フロイスは聖職者だ。まんざら噓八百とも思えない。

 ではなぜ秀吉という特異な人間が、この時代に生まれたか。多くの歴史家が、秀吉の出自と時代背景を指摘している。
 太平洋戦争の敗戦以降、われわれは75年の永きにわたって戦争のない世に生きている。日本の歴史のなかで極めて稀な時代といえる。現代の感覚で戦国時代を捉えてはいけない。秀吉の生きた時代は戦乱に次ぐ戦乱、天災、飢饉に明け暮れた、毎年、多くの人々、とりわけ農民以下の無力な人々が何十万人も死んでいる。
 過酷な世を生き延びるためには、面従腹背、ごますり、おべっか、裏切り、陰謀、権謀術数など、身過ぎ世過ぎのためには何でもありだったのだろう。
 世界の歴史を振り返っても、このような為政者は枚挙にいとまない。

千葉県:出口 臥龍

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