低血圧から高血圧へ
40代になってすぐに受傷し、長いこと起立性低血圧に悩まされた。シャワーキャリーで浴室に行き、グリセリン浣腸を2本も使うと気分が悪くなり気を失った。夕食でビール350mlを飲んだ後、ベッド上の長座位で歯を磨いてもらっていると、いつの間にか気を失っていた。
そばにいる妻の声かけとビンタで意識を取り戻したが、妻によれば失神している私の顔は不気味で見るに堪えないそうである。この時の血圧の値には興味があるが、測定する余裕などあろうはずもない。
自分なりに失神しないための方策も見つけた。胸を意識した速めの呼吸で交感神経を優位にすること。そして、目を閉じないことである。
50代半ばになって、日曜日午前の訪問リハの理学療法士から高血圧を指摘された。135/85mmHgの基準値を上も下も超えていた。ベッド上の仰臥位での測定である。介護ベッドの背上げによる、仰臥位から長座位への移行に伴う血圧降下を利用した対症的措置は知っていたので、それほど心配もしなかった。
そうは言うものの、かかりつけの内科医に相談し、血圧を毎日測定し記録することになった。朝は、基準値を若干超えているが、就寝前は110/60mmHgで降圧剤は飲めない。そんな様子見が数か月続き、いつの間にか測定もしなくなった。妻にとって余計な仕事を減らしてやりたかった。
60歳になって定年退職し九州に転居した。初めての冬も風邪一つひかず過ごしていた。ところが1月14日の夕方、胸がバクバクするので急いでベッドの背を上げた。長座位での血圧は180/120mmHgだった。訪問診療を頼んだ医師から抗生剤の使用を指示され、2日の点滴と5日の服用となった。
医師は、当日午後の膀胱瘻(ろう)バルーンカテーテル交換との関連を考えたのかもしれないが、数日前から妻からはいつも以上の顔の赤らみと手足の冷えを指摘されていた。自分も全身の緊張を認識していた。年末のエアマットの交換に伴う外部刺激(かたさ、除圧動作、体位変換)の変化によるものと考えた。緊急に実施した血液検査の結果からは、原因となるような内部疾患は認められなかった。
エアマットの設定を変えて、朝と就寝前の血圧を毎日測定し記録する日々が始まった。春が来て暖かくなっても朝は140/100mmHg、就寝前は120/70mmHg位である。自分の年齢を考えると、上も下も20mmHg下げたいところである。
血圧を下げるためにすべきことは減量・減塩、禁酒・禁煙、筋トレ・有酸素運動と言われている。身長181cm、体重81kgの私は、10kg減らして適正だろう。介護してくれる妻の負担軽減には、できれば20kg減らしたい。いずれにしても、手段として不可欠な運動が四肢マヒ者にはできない。できることと言えば全身の不要な緊張を除くことであるが、これが難しい。
降圧剤を使わずに済むように何ができるか。これも日々の目標となっている。
福岡県:DRY
『臥龍窟日乗』-76- 龍馬、グラバーが吉田茂に繫がった
4年前に上梓した『グラバーの暗号』がどんな具合になっているのだろう、と当たってみたら、まだチョロチョロと売れている。びっくりするやら有難いやら。ベストセラーになるような本ではないので、狐につままれた気分になった。龍馬ブームはとっくに終わっているし、なにかの手違いかと案じていたら、アメリカの、ある日本人学者さんが、龍馬暗殺の首謀者を大英帝国とする説をとっているのが分かった。これが追い風になっている。
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龍馬暗殺の黒幕には諸説紛々ある。新撰組やら京都見廻組やら、いろは丸事件の紀州藩、はたまた土佐藩という説まである。でも150年以上経ったいまでも定説はない。いずれももっともらしいのだが、さりとて暗殺するだけの動機がない。
そもそも龍馬は暗殺されるほどの大物ではなかった。犬猿の仲だった薩長同盟の仲人をやったり、大政奉還の立役者といわれるが、大政奉還は龍馬の発案ではない。横井小楠らの受け売りだ。水面下では、幕府と朝廷のどろどろの駆け引きが続いていた。
坂本龍馬が日本の歴史小説の大舞台に躍り出たのは戦後のことだ。「面白くなければ小説ではない」というのが持論の司馬遼太郎さんが創り上げた“とんでもキャラクター”だ。司馬さんによって坂本龍馬は司馬龍馬となった。
快活で行動力があり、物怖じしない人物像が日本国民に愛された。それはそれで結構だと思う。どこにでもいる気のいいアンチャンなのだ。動きが派手だから、やたら目立つ。外国人の目には超大物と映ったのかもしれない。気さくで誰とでも打ち解ける性格は、私も大好きだ。その龍馬が暗殺されたというのはどうにも解せない。
龍馬を生かしておいては大損を被る存在があったに違いない。『グラバーの暗号』を執筆するきっかけとなったのは、その存在を探るためだった。グラバーと、のちの三菱財閥の領袖(りょうしゅう)・岩崎彌太郎がその犯人を探るというのが拙著の狙いだった。
大政奉還というのは、日本の政治を司ってきた徳川幕府が、政(まつりごと)を天皇家に奉還するということだ。それをされるのをなんとしても阻まねばならない隠然たる勢力が存在した。大航海時代から植民地政策をとり続けてきた大英帝国をはじめとする欧州列強。
彼らは討幕派である薩長、徳川幕府双方に武器弾薬を売り込み、挙句の果て、日本を植民地化しようと目論んだ。土佐藩の脱藩浪人である龍馬が、縦横無尽に歩き回って戦を収めようとしたのを、列強は許せなかった。慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜が政権返上を朝廷に奏上し、翌15日に受理された。龍馬が京都の近江屋2階で暗殺されたのは、同年11月15日だった。なんと大政奉還のひと月後だった。
龍馬は長崎で亀山社中を運営していた。のちの海援隊だ。将来は海運業でもやろうと考えていたのかもしれない。それにしても4、50人の荒くれ男を食わしていくにはカネがかかる。幕末の四賢侯といわれた福井藩主・松平春嶽がパトロンだった。大政奉還の前にも、春嶽公を訪ねている。
一方、武器商人の手先であるグラバーが日本へ持ち込んだ軍艦や武器弾薬は、いまのカネにすると50億円にのぼるとされる。「武器弾薬の代金を支払えだとっ! そんなもんは、ある時払いじゃ」と、どこの藩もそっぽを向いた。
グラバーはグラバー商会を営んでいたが、武器弾薬の元締めからは請求書の束が続々と送られてくる。天文学的な金額にグラバーも気が気ではない。にっちもさっちもいかなくなって、グラバー商会は倒産に追い詰められた。
貿易商仲間の一人から「自己破産かけりゃいいんだよ」と耳打ちされた。元締めである武器商人ジャーディン・マセソン商会は、1860年(万延元年)に債権回収のための英一番館(横浜市中区山下町1番地)を設けて、明治新政府から代金を巻き上げることになる。1868年(明治元年)、吉田健三が支店長になった。吉田はもと福井藩士だ。
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話変わるが、戦後の暴言宰相・吉田茂は旧姓竹内といい、龍馬とおなじ高知県の宿毛(すくも)の出身である。GHQとねんごろになり外交官として名を馳せたが、英一番館支店長・吉田健三の養子に入ってから頭角を現した。吉田健三は英一番館時代に巨額の富を築いたとされる。その富を元手に、吉田茂は占領下の日本を意のままに動かしたのであるから、歴史の妙と言わざるを得ない。