回答:187号「いいモノ見つけた36」について
188号でF川さんから、両端クリップアームの使い方についての質問をいただきました。
*柱を立てるコツはありますか?
「空中に固定点」を得られると、私が喜んだくらい自立性は優れています。気をつけるべきは空中のクリップが、挟んだものの方向を決めることです。スマホの画面を自分に向けるためには、空中のクリップをねじったりアームを曲げたり、支点となるクリップの場所を変えたりと試行錯誤が必要です。
*スマホはどうやって操作するのですか?
私はスマホを使えません。妻にスマホのセットと動画の再生を頼んだら、その後は動かずに見ているだけです。
ガジェット警部
『臥龍窟日乗』-70- 筆の赴くままに
佐川クンといっても、もう知らない世代のほうが多いのかもしれない。試みに、わが家に入ってくれているヘルパーさんに訊いてみても、「分からな~い」と無邪気に答える人がほとんど。
文献資料を漁っていたら、たまたまヒットした。われわれの世代には衝撃の事件だった。
佐川クンの実弟、純さんが事件のこと、家族のこと、自分のこと、そして現在の佐川クンのことを、豊富な写真入りで赤裸々に書いておられる。2年前に出版された『カニバの弟』だ。なにより、あの佐川クンが現在も健在だということが、私には衝撃だった。
カニバとは、カニバリズムの略。人肉食を意味する。旧くは、アンデス山脈に墜落した旅客機の生存客が、救援を待つあいだ、すでに死亡した乗客の肉を食って生き延びた事件。酷い出来事とはいえ、生存者の命を守るための、やむを得ない処置だと擁護論も出た。太平洋戦争中も、敗戦間際のインパール作戦で、戦死した戦友の肉を食ったなどというエピソードが知られている。
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事件は昭和56年(1981)にパリで起こった。パリ大学に留学していた佐川クンが、女子学生を射殺し、その肉を食ったというもの。佐川クンが日本の大学をふたつ卒業したインテリでもあった事実から、おぞましい猟奇殺人事件として、フランスのみならず世界中に報道され大騒動となった。
ところがパリ警察の取り調べでは、佐川クンは心神喪失だったとして、不起訴処分となった。3年後、日本に強制送還されたが、パリ警察が、心神喪失を理由に、捜査資料の提供を拒否。このため佐川クンは日本では立件されず、東京の松沢病院に精神障害者として収容された。退院後にはマスコミの寵児(ちょうじ)となり、自由奔放に各種媒体に登場している。
事件の報道に接したころ、筆者は仕事で各地を飛び回っていた。人肉食事件というので、むくつけき犯人像をイメージしたが、テレビに現れる佐川クンは末成(うらな)りのモヤシみたいな青年だ。その落差に肩透かしをくらったような思いだった。状況劇場の唐十郎座長が佐川クンと接触を持ち、『佐川君からの手紙』で第88回芥川賞を受賞したが、正直、ちんぷんかんぷんだった。
日本は高度経済成長期を終えていたが、国民は好景気の余韻のなかで、浮かれ気分に浸っていた。ゴルフの会員権も持てないのに、誰もがゴルフクラブを買い求め、ブンブン丸よろしく河原でクラブを振り回している時代だった。佐川クンのようなか弱い男が世界の脚光を浴びるなんて、信じられないことであった。
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文章なんてとても自信がない、と謙遜してはいるが、なかなかどうして、佐川純さんの本は興味深く読めた。代筆者によるものだろう。自分にもSМの性癖があると、憚(はばか)りもなく告白している。差し障りもあるかとも思うので、ここでは省略するが、文中、旧知のお名前も登場する。シアタースキャンダルの玉井敬友さん(おお、懐かしや)。六本木でSМショーなどやっておられた。
その当時、六本木にはSМクラブやオカマクラブなど、怪しげな店がひしめいていた。ミソもクソもごちゃ混ぜの雰囲気だった。ショータイムになると、ホステスさんが全裸で踊る金太郎なるクラブがあった。天井桟敷の女優志願たちだという噂(うわさ)であった。天井桟敷は寺山修司さん主宰のアングラ劇団だ。志願する女性も、全裸なんて屁の河童だったのだろう。警察のガサ入れを怖れながら、こそこそと通ったものだ。日大芸術学部出身の山本晋也監督のお名前も登場する。エロ映画の鬼才と持て囃(はや)されていた。
高度経済成長というドロドロの時代だったからこそ、佐川クンのような鬼子が生まれたように思えてならない。
千葉県:出口 臥龍
車いすユーザーが家を借りて引っ越す
自分の人生を振り返ると18年周期で大きな変化があった。6歳の春には6+3+3+4+2年の学生生活が始まり、24歳の春には健常者として就職した。42歳の春に四肢マヒ者として職場復帰した。60歳となったこの春、めでたくも定年退職を迎え、新たな18年周期が始まった。学校や職場といった組織に縛られないのは、初めてなので期待も不安もある。
退職して職場の近くに住む理由がなくなった私は、故郷へのUターン移住を思い立った。一方、長い時間をかけて友情を育み、自分の生活を築き上げた妻は難色を示した。しかし、迫り来る老老介護の現実を考えると、身内の支援を期待できるUターン移住は共通の目標となった。妻の故郷にも近づくことになる。
実家には物理的に住めないので、インターネットで賃貸住宅を探した。室内で電動車いすを使う生活なので、一戸建てではなくマンションである。いくつもの条件で絞り込みを始めたが、最後に残った条件は「大きな浴室にシャワーキャリーでアクセスできる」だけだった。暖房代わりの浴室乾燥機付きという条件も、諦めざるを得なかった。車いすユーザーが家を借りることの大変さは、私の想像を越えていた。
賃貸契約においては、家賃保証の問題も立ちはだかる。貸主からは、全国最大手の保証会社による審査を求められた。無職無収入の身なので、預金残高を証明する通帳のコピーを提出させられた。保証会社の審査に通り、家賃1か月分を保証会社に支払っても、さらに貸主からは連帯保証人を求められた。兄が快く引き受けてくれたが、保証会社と連帯保証人の併用は慎重すぎると思う。しかし、インターネット上に最初から提示されていた条件であり、車いすユーザーの足元を見たわけではない。アンフェアだとは思わない。
車いす使用の条件として、“車いすを使用する全フローリング・和室等にはクッションフロアなどで養生して使用し、室内での車いすでの直接の利用は避けるものとする” との一文が契約書に加えられた。車いすを使用する玄関、廊下、LDK(キッチンを除く)に、兄夫婦が6時間かけてクッションフロアを施工してくれた。
帰省の大変さは数回経験している。車いすユーザーの引っ越しが、さらに厳しいであろうことは予想できた。家財の引っ越しだけでなく、無理が利かない四肢マヒ者、さらに介護ベッド、エアマット、電動リフト、電動車いす、シャワーキャリーといった、かさばる福祉機器を戦略的に移動させる必要がある。その上で、自宅マンションとリフター架装車(福祉車両)の売却である。妻だけが頼りであるが、彼女も50代後半。18年前に、私の在宅生活を始めたときとは違う。
家財を搬出して介護ベッドと離れた私は、レスパイト(一時休息)入院に身を寄せることになった。時まさに、新型コロナウイルスの感染拡大を受けた、3回目の緊急事態宣言前夜である。入院の4日前に、かかりつけの呼吸器内科で唾液によるPCR検査を受けさせられた。体調が良いままでの入院であるから、ベッドの背の上げ下げも自分でできたし、ナースコールも使えた。最初は、エアマットでない普通のマットに寝せられたが、担当の看護師を責めるつもりはない。国リハで担当の理学療法士には、“医療関係者も信用するな。自分で責任を持て”と言われた。
コロナ禍で夫婦の移動には、羽田空港を使わざるを得なかった。初めて利用する航空会社だったが、エアバスA320-214の1列目シートまで、自分の車いすで行けることには驚いた。到着した空港では、タクシー乗り場までエスコートしてくれた上に、2人で戻ってきて、タクシー乗車アシストの要否を確認してくれたことには感激した。
大移動においては、排便管理が最大の課題となる。入院前夜まで便通がなく数日気をもんだが、入院当日の朝に便通があり、入院中は安心して食事もできた。しかし、搬入前夜に泊めてもらった兄の家で便通がなく、2本もの浣腸を使ったことがかえって心配の種になった。24時間後に介護ベッドに戻れるまで、食事を抜き飲水を控えた。これによる、便と尿の不調から回復するのに数日を要した。
人間が死ぬときに後悔するのは、やって失敗したことではなく、やれるのにやらなかったことだという。60歳から78歳までが、人生で自分のやりたいことに取り組める最後のチャンスである。この18年を元気に充実して過ごして、「終わり良ければすべて良し」、「良い人生だった」と締めくくる。「足るを知る」ことは維持しながら、ストレスにならない程度の緊張とともに、「試すを楽しむ」ことと「変わるを楽しむ」ことを大事にしたい。
福岡県:DRY