No.187 2021/4/21
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 緊急入院 

 「アレー! 便が黒いね」と妻のマリちゃんが驚いた。
 ストマから出した便を見せてもらうと本当に真っ黒。マリちゃんが、「これ出血しているんじゃないの?」と言った。急に不安になった。その日から徐々に貧血が酷くなっていった。主治医の先生に来てもらい、便の検査と血液検査をしてもらった。
 翌朝、主治医の先生から電話があり、出血しているからすぐに病院へ行くように勧められた。先生が直接病院に連絡してくれたおかげで、スムーズに救急車で運んでもらうことができた。以前に救急車を呼んだとき、受け入れてくれる病院を探すのに手間取ったことがあった。なにせ私は全介助が必要だから……。
 病院に着くと、透明なビニールに囲われた部屋に連れて行かれた。マスクにフェイスガード、防護服を着た看護師が来て鼻に脱脂綿の棒を突っ込まれPCR検査。鼻が痛いというもんじゃなかった。CT検査と輸血。その間、貧血なのか寒くて震えが止まらなかった。内視鏡検査に行く途中にPCR検査が陰性だとわかり、十二指腸に潰瘍(かいよう)が5ヶ所もあることがわかった。その1ヶ所から出血していて、そこを内視鏡で止血してもらった。久しぶりの内視鏡は辛かった。翌日も止血していることを確認した。
 その後、ICUで2日間、それから一般病棟で10日間の入院生活となった。4日目から重湯の食事が始まった。重湯だったがうまくて嬉しかった。一般病棟では家族も面会禁止で、毎日暇でしかたなかった。コロナが早く収束してほしいと思った。

 そんなある日、病棟の看護師さんがマリちゃんの教え子だということがわかった。そんな偶然もあるのかと思った。わがままを言わなくてよかった。退院の日にマリちゃんと教え子の対面となった。なにせコロナ禍の面会は一度もできず、キツイものがあった。それでも、無事退院できたのだからよかった。医師と看護師さんの皆さんに感謝。皆さん、特に今は、病気にならないようにご注意ください。

神奈川県:M.I.

 腎臓結石 

C3-4・頸損歴13年

 私は、毎年のように腎臓結石手術をうけている。1度に取りきれず、再手術を含めると10回ほど受けたことになる。全て全身麻酔で、尿道からカメラを入れて腎臓内で砕いて取り出す方法で行う。頸損であるから肺活量が少ないため、長時間の手術には耐えられないので手術時間は1時間ほどで、取りきれないときは次回ということになる。

 2月(昨年)のことである。毎回のことだが脇腹と背中が痛くなり、膀胱ろうでつないでいる尿にも汚れが目立ち出した。膀胱洗浄すると薄い粘膜のようなものが出る。熱も出だしたので、訪問看護師に点滴をつないでもらい抗生物質の投与を始める。3日ほど自宅療養していたが、夕方ヘルパーさんが入っているときに熱痙攣(けいれん)と猛烈な痛みに襲われる。救急車を呼び、かかりつけ医のいる病院に搬送してもらう。
 ちょうど担当医がまだ残っていてくれたので、すぐにバイタルと血液検査をする。血圧が200を超え測れないので頓服(とんぷく)の降圧剤を投与する。血糖値も測定不能でインシュリンを投与する。少し落ち着いたところでCTを撮ると左の腎臓の半分に影がある。痛いはずである、尿管にも詰まっている。眠れない夜を過ごす。倦怠感(けんたいかん)があり食欲もない。じっと我慢である。とにかく、血糖値を下げなくてはいけないのでインシュリン投与が続く。担当医が奔走してくれて5日目に県立病院に転院する。
 その日のうちに、腎臓と膀胱をつなぐ細いチューブを入れるステント留置術を行い尿路を確保する。尿道口にキシロカインを塗っただけで、カメラを入れていく手術で15分ほどで終わる。チューブを入れることにより、尿管結石は除去されるので痛みは緩和される。しかし、腎臓から10ccほどの膿を採取したという。石は硬いもの、腎臓内で化膿する、なんてことは経験ない。組織検査の結果、緑膿菌が出たという。敗血症になる前で危なかった、と言われる。県立病院で2週間の入院の後、かかりつけ医の病院に帰る。そこでまた1週間の血糖値コントロールののち退院する。
 血糖値が高いと手術できないので、やっと落ち着いた4月の中旬に結石専門病院に入院する。この病院は、若くて可愛い看護師が多いのでストレスも少ない。医療保険も降りるので、ソファーまでついている個室でゆったりできる。全身麻酔で経尿道的結石砕石術で行う。県内では、一番の結石術数で私も何度も受けているので不安はない。ただ、溜まっている結石の量が多くて1回で取りきれず、5月の再手術でやっと取り切れる。2月から続いた今回の腎臓結石であるが、終わってみればさすがに疲れ体重も4キロほど落とした。

 さて、コロナである。体力も気力も落ちている上に、外出ができないから免疫力も落ちている。暑い夏が終わった頃に熱を出す。少し無理をすると発症する急性腎盂腎炎である。熱が出ると訪問看護師は、防護服とフェイスシールドでやってくる。ヘルパーさんには、こんなときに熱出さないでよー、と叱られる。入院して点滴治療が必要だが、PCR検査で陰性が出ないと受け入れてくれない。1週間の抗生物質投与で退院になる。

 2020年、週2回行くデイケアの遠足、行事は全て中止。障害者サークルの行事も中止。自宅から出るのは、月1度の散髪とデイケアのみ。コロナ鬱(うつ)に怯えながらも、綱渡りの1年が終わろうとしている。背中にできた粉瘤(ふんりゅう)が化膿して血液に菌が混ざったのだろう、最後の最後に熱が出て2回目のPCR検査を受けて入院中である。

徳島県:M.R.

 凍りついた心を溶かしたもの 

60代、男性、受傷後19年、C5/6

 アンデルセン童話『雪の女王』は、優しい少年の目と心臓に悪魔の鏡の破片が突き刺さり、性格が一変した少年は雪の女王が住む北の地に行ってしまうが、仲良しの少女が長い旅の末に少年を見つけ、少年を抱きしめて流した少女の涙が鏡の破片と凍りついた心を溶かし、優しさを取り戻した少年と少女は手を取り合って故郷に帰ることができたというお話です。

 このお話は、受傷、障害、支援、決め手、回復という流れです。私が救急病院で経験した絶望も、看護師から言われた受容もありません。
 受傷から間もない四肢マヒ者は、「不安定な平衡」の状態にあります。例えば、0度以下で凍っていない過冷却状態にある水に衝撃を与えると、急激に凍ります。同じように四肢マヒ者の精神状態も、ちょっとした刺激により変化します。談笑していた人間の精神が障害に悩み将来におびえる状態にも、事故を悔い受傷を恨む状態にも容易に変化します。

 回復期にリハ病院で同居した四肢マヒ者の中には、老人も少年もいました。受傷後に離婚した中年も、恋人が面会に通って来る青年もいました。当事者同士で話さなくても、家族同士の会話が耳に入ります。受傷の理由、受傷により失ったものと残されたもの、待ち受けている境遇、何もかもが違いました。価値観や考え方の違いとは関係なく、掛ける言葉を知らない私の口数は少なくなりました。心を凍りつかせる刺激のやりとりを恐れたのですが、私の心はすで凍りついていたのかもしれません。
 子供がなく専業主婦の妻は、自宅近くの救急病院には毎日のように来てくれました。リハ病院に入院中は、毎週末に片道4時間もかけて通院してくれました。この行為も誰かにとっては、心を凍りつかせる刺激となり得るものでした。もちろん、妻が私を抱きしめて涙を流すことはありませんでした。私の知る限りですが。

 受傷により、凍りついた私の心が溶けるのに5年かかりました。その5年の間、鏡を割った悪魔の存在が私を苦しめました。受傷から5年後、その悪魔との距離が変化したことが決め手になったのかもしれません。いずれにしろ、5年という時間が必要でした。
 ただ、悪魔は消滅したわけではありません。事情を知らない誰かの罪のない一言が、私に悪魔の存在を思い出させることがあります。そんなとき、私の心は憎悪とともに凍りつきます。それでも長続きはさせません。心の平穏が最優先です。悪魔には金輪際関わらない、今すぐ忘れる、二度と思い出さない。そう努めています。

茨城県:DRY

 追悼 K.Hさんを偲んで 

 昨年はSさんの訃報、Y.Aさん、目標だった80歳目前での訃報、でもまさかKさんまで見送るとは! まさに絶句。かなり深刻と何度かKさんのお母さんから連絡があっても、まさかこんなに早く逝かれるとは。
 私の娘のような年代のKさん、でも頸損歴は30年、頑張り屋、大分リハセンター時代の僚友だった故・Sさんのご主人から、Kさんはもう十分頑張ってきた、これ以上、頑張れと言わないようにと。お母さんも、Kはほんとうによく頑張ってきた、だからもう入院はしない、自宅で慣れ親しんだ人たちの介護で過ごしたいという娘の希望を叶えるよう私も覚悟を決めた。みんなでKの最期を看取ることができたと。

 Kさんは、故・向坊さんの秘蔵子、向坊さんと同じ市内に在住、Kさんが在宅生活開始当時から交流、まだ若かったKさんにしっかり勉強して自律の手段を取得するようにと、向坊さんから叱咤激励されていた。向坊さんの提案により浜松で開催した第1回目はがき通信交流会にもKさん親子は参加されていました。ボランティアの浜松医大看護学科1期生に囲まれて、同年代の学生たちと楽しそうに話されていた光景、今でも眼に浮かんでくる。

 私がKさん親子に最初に会ったのも、向坊さん宅、その前だったか、「はがき通信」の編集を私が担当していたころ、お母さんからカンパとともに巻紙のお手紙をいただいた。達筆な字で「今でもKが駆け足で帰ってくる足音が聞こえる」と書かれていました。
 以後、Kさん親子とはたくさんの交流を重ねてきた。向坊さんの通夜、葬儀後の会食、故T.Nさんの文学記念館での交流、姫路でのはがき通信交流会で、姫路城天守閣まで同行、かなりの登り、Kさんのお母さんはⅯの介助に遠慮して、途中何度か、Kさんにあきらめさせようとするが、Kさん、ふらふらになりかけているⅯに遠慮なく、車いすをプッシュさせ、とうとう天守閣前の広場へ到達、また、以前から一度行ってみたいと国際福祉機器展、開催間際になると、近くのホテルの確保が難しいので、半年前ころから予約、私たちも同じホテルに2泊して、一日たっぷり時間をかけて見学、この時もKさんは同行の私たちを置き去り、一人で自由に会場を回っていた。翌日は会場周辺の記念館や博物館を一周して帰宅されたとのこと。

 忘れられない思い出は、Kさんが社会福祉士の試験に合格したこと、厚労省関係の国家試験中、社会福祉士は毎年、最低の3割弱の合格率、合格がもっとも難しい資格。発表当日、パソコンの前で今か今かと連絡を待っていた。わが娘の合格発表を待つ気持ちだった。早々に合格連絡、ほんとうにうれしかった。翌日だったか、東日本大地震の発生、Kさんからすぐ見舞いのメールをいただいた。
 資格取得後、就職、専門家としての受け入れ、仕事はやりがいがあったようだ。それでも昨年4月、緊急事態宣言下での通勤、とても悩んでいるとメールを受け取った。これがKさんらしい文面の最後のメール、密な介護生活の自分が職場で万一感染源になったらと悩んでいたが、事業所よりテレワークの指示、ほっとしたと。さらにこのメールには、「この2カ月ほど自律神経過反射が頻発、ゾワリ(血圧上昇)と異常発汗が昼夜問わず発生していて体調が非常に悪いので、このタイミングでのテレワーク、“地獄にほとけ”」とあった。
 入院中もこの自律神経過反射はひどく、お母さんは何度も担当医に相談したが、取り上げてもらえなかった、と悔やむ。からだが必死になって異常を知らせているのに。Kさんにとって入院生活はとても辛かったようだ。6月、総合病院での大手術を経て退院、自宅療養は入院生活よりも自由度が上がるのでストレス軽減になる、またメールします、で結ばれていたが、私にはこのメールが最後になった。

 以後はお母さんからの連絡のみ。「覚悟はできている」と、何度か症状の連絡をいただいたが、それも途絶えた12月上旬、お兄さんからKさん、危篤状態というような電話をいただいた。それから4日か5日経って、お母さんから電話、広いうちに入りきれないほどの人でKを見送り、通夜、葬儀を済ませた。きれいにお化粧してもらい、成人式で作った振袖姿で見送った。コロナのため、見舞いにもいけず、最期のお別れもできなかったと詫びるわたしに、Kは今ごろ、向坊さんやお父さんに再会しているでしょうとお母さん。
 合掌。

千葉県:松井 和子

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