No.186 2021/4/18
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 早期退職いたしました

50歳代

 この原稿が届いているのは、年末のわさわさしている頃でしょう、皆様、元気にお過ごしでしょうか?
 私は11月20日に退職いたしました。ここ数年間の体調不良が続き、腰に褥瘡ができたり、低血圧からの復活に時間がかかるなど、加齢的な変化を痛感することが多くなったからです。病欠で急に同僚に迷惑かけることだけは避けたかったため、後任を決めていただいて去ろうと決めたのが、今年の2月でした。
 その後、コロナ禍で自粛が続き、仕事の3分の1はテレワークになり、10月号に掲載された状況となりました。コロナとの絶妙な時間的合致に驚いています。この号で退職のことに触れていないのは、早期退職の申請中だったため、オープンにできなかったのです。



 おかげさまで、秋の異動で後任者が来て、無事にバトンタッチいたしました。14年の会社生活にピリオドを打ちました。前職と併せて20年働けたのは、周囲の理解と体調管理だと思います。この両輪のいずれかが欠けても不可能だったことでしょう。特に嫁さまの食事管理には感謝しています。また、この職場ではっきりと見えたことがあります。ハンデを持つ人間でも、人が嫌がる、あるいは苦手だと思う分野を引き受けて成功させたら、居場所が見つかるということ^ - ^。



 これからは、これまで学んだことを通じて社会貢献していきます。そのために体をリハビリで鍛えながら、再復帰を目指して参ります。
 最後になりますが、コロナ禍のクリスマスになっているかもしれませんので、特にご自愛くださいね。ご精読いただきありがとうございました♪ 来年は良い年でありますように^ - ^。

福岡市:E.U.

 長生きする気はないけれど

60代、男性、受傷後18年、C5/6

 グリム童話『死神の使いたち』は、道ばたで行き倒れているところを助けてやった死神から死ぬ前には予告するという約束を取り付けたことから油断して自堕落で不健康な生活を送るようになった男が、突然に迎えに来た死神に約束が違うと抗議したものの、「お前さんには、なんども使いをやって知らせたよ。熱が出ただろう? 咳も出たし、目まいもしただろう。腹痛、痛風、耳鳴り、糖尿もあっただろう。あれはみんな、私からの使いだったんだよ」と言う死神に連れられていったというお話です。死神とは生命の死を司るとされる伝説上の神です。一方で、九死に一生を得たり、何かのきっかけで「生きているのではなくて、自分は生かされているのだ」と感じる人が少なからず存在するそうです。誰に?という問いに対しての答えはあるのでしょうか。

 受傷後、痛風の発作が出なくなりました。二十代で左足の親指付け根に現れた発作は、数年で足首、膝と上昇しました。そのうち心臓に達して大変なことになるぞと脅されていた頃に受傷しました。酒量は相当に落ちましたが尿酸値が大幅に下がったわけではないので、発作の引き金となる仕事上のストレスがなくなったためと考えています。同じ理由から過敏性腸症候群の下痢もなくなりました。出先で必死の形相でトイレに急ぐことはなくても、ベッドやベッド周りを汚すことはあります。排便管理や体調管理の失敗は油断によるものですが、経験を積んで回数は減りました。それでも年に数回は風邪を引きます。抗生剤の服用で治りますが、慣れて効かなくなることを心配しています。グリセリン浣腸液にも同じ心配があります。

 おそらく人生最後となる人間ドックを数日前に受診しました。年に1度の定期健康診断の受診が義務付けられているからですが、40~74歳の人を対象に実施する特定健康診査も受傷当時から該当していました。検診車両の胸部X線検査やバリウム検査の検査台に自力で上れない身ですから検診センターで人間ドックを受けるしかありません。しかし検診センターに行っても四肢マヒ者が無力であることに変わりはありません。数人がかりでストレッチャーに移乗させられ、胸部X線、腹部超音波、心電図の検査を終え、車いすで1時間以上待たされてから胃カメラ検査の検査台に移乗させられます。この移乗とストレッチャーの付き添いが検診センターにとって余計な仕事でした。2年目に窓口の保健師から人手不足を理由に他所を受診するように言われました。どこか紹介してくれるかと尋ねると、それはできないと言います。数年は同じことを言われましたが受診し続けました。意地を張ったわけではありません。ほかに行く当てがなかったのです。

 受傷以来、医療関係者との関わりは増えました。不愉快な思いをしたこともあります。しかし検診センターの例のように、私の四肢マヒが誰かの不愉快の種になったこともあるでしょう。病院関係では10年周期で大きな出来事があるようです。31歳の秋の肺炎では入院しませんでしたが、41歳の夏には首の骨を折って椎弓拡大術、51歳の夏には自然気胸で内視鏡手術。同じ救急病院に入院し、どちらも全身麻酔が必要でした。次は61歳の夏ですが、それは来年のことです。今年の何かで疲れ果て、来年に入院騒ぎという良くない筋書きが頭に浮かびます。浮かぶと言えば、人生における浮き沈みは幸運・幸福の波と不運・不幸の波で説明できます。受傷により四肢マヒとなった時点から考えれば、どん底からのスタートなので後は上るだけ、そう自分に言い聞かせてきました。苦しさや痛みで笑顔を作れないときでも、「微笑む目」だけは持ち続けていたいと思います。

茨城県:DRY

 『臥龍窟日乗』-67-わがルーツへの旅路 

 175号で書かせていただいた「母の形見」を、小説として2年がかりで書き綴ってきたが、なんとか大詰めを迎えた。年内にも脱稿の予定だが、取材過程そのものが、一つの物語になるほどの緊張と興奮の連続だった。
 私は山口県下関市の出身だが、母は福岡県の戸畑の生まれ。母方の祖父母は愛媛県の南端、南豫(なんよ)地方の出だった。もっとも近い都市といったら宇和島市だ。
 四国八十八ヵ所霊場巡りでも、山また山の人恋しい難所である。表現が適切かどうか迷うのだが、四国のディープサウスとでもいえようか。
 四国には何度も渡っているが、宇和島に至ったのは、たった一度だけ。40年も昔のことだ。高松から予讃線の終着駅・宇和島に行き、バスに乗り換え高知まで足を延ばした。祖父母の出身地だとは分かっていたが、そんなことより、この道を逆行して坂本龍馬が脱藩したのだなと、四万十川をながめながら感慨にふけったものだ。
 文久二年(1862)三月二十四日、風雲の志を抱いて、龍馬は高知を出奔した。韮ヶ峠を越えて伊豫に脱藩した。大洲(おおず)に向かい、海路、山口県に渡っている。上方を目指すのに、なぜにわざわざ西回りを選んだか。その当時、脱藩は斬罪にあたいした。藩吏の目を欺くためだったのだろう。
     *
 そんな思い出に浸りながら、今回、愛媛県の史料を渉猟(しょうりょう)してみた。保守王国といわれる土地だが、教職員組合の活動がきわめて旺盛で、厖大な町誌、村誌が残されているのに驚いた。
 必要あって母の戸籍を遡ったのだが、祖父の生まれは明治28年、鼠鳴(ねずなき)という寒村。祖母は明治35年、家串(いえぐし)という、これまたちっぽけな村だ。鼠鳴に家串。小説の舞台として、これほどイメージを掻き立てられる地名もない。いずれも海に面した漁村で、地図のうえでは5、60キロの道のりである。明治と現代では、距離感は圧倒的に異なる。山間のけもの道だ。おそらく数百キロに感じられたことだろう。
 私が知りたかったのは、幼いころの祖父母がどんな生活をしていたのか、同郷であっても5、60キロも離れて住んでいた二人がどうして知り合えたのか、などだった。祖父が18歳、祖母が11歳のとき南豫を離れ、北九州の戸畑で婚姻の届け出をしている。思えばこれも不思議だった。11歳といえば、まだ小学校の5年生だ。駆け落ちをしたにしては早すぎるのではないか。その後、山口県の下関市に移り住んだのはなぜか。謎はますます深まるばかりだ。
 史料は豊富にある。少しずつ買い集めて、目を通していった。インターネットも大いに役立った。愛媛県が非常に教育熱心だということはすでに紹介した。『えひめの記憶』というサイトを運営しているが、これも他府県では例を見ない。このサイトのなかで、明治34年から書き始められた『下灘村誌』という文献があるのを知った。これだっ、と直感した。祖父の誕生から6年後の書き出しだ。これですべてが分かると思った。
 四国の南西部という地形も、人々の生活に少なからぬ影響を与えていたのではないか。南は太平洋、西は黒潮が逆巻く豊後水道(ぶんごすいどう)である。典型的なリアス式海岸で、微生物の触手のような半島が複雑に入り組んでいる。この半島群が堤防となって、沿岸は湖のごとき穏やかさだ。
 旧くから鰯(いわし)の漁場として知られ、小さな漁村があちこちにできた。だが鰯漁をめぐって、村人同士の争いも絶えなかった。海上での争いは多勢に無勢。頭数が多い方が有利だ。村人の結束は最優先であったろう。
     *
『下灘村誌』がやたら気になってきた。現地図書館に問い合わせてみた。現物があるという。当方の意図を説明すると、その部分のコピーを送りましょうと言ってくださった。数日後に届いた封筒を開いて、びっくり仰天だ。和紙に筆書きした古文書のコピーである。まごうことない一次資料だ。
 明治末期、この辺りには「根宿」という制度があって、小学校を終えた青年たちが寄宿生活をしていた。集団生活によって、村民の共同意識を高めたり、公共の奉仕活動をおこなった。年頃になると、指導者が嫁の紹介もしたらしい。
 そして私の恐れていたある事実も、厳然と記されていた。

千葉県:出口 臥龍

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