No.186 2021/4/18
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 自立生活20周年 

50歳代、C4

 私は17歳高校3年生のとき、器械体操の練習中に失敗し頸椎損傷C4になりました。4年あまりの入院生活、3年の在宅生活、その後13年間療護施設入所の後、地域での自立生活を始めました。
 自立生活を始めるのにあたって最も苦労したのは家探しでした。たくさんの不動産業者を回りましたが、なかなか真剣に話を聞いてもらえず物件も紹介してもらえませんでした。ようやく見つけたところも家主さんに途中で断られる始末です。当初の目標は駅の近くに住みたかったのですが、最終的には駅から2キロも離れた場所になってしまいました。
 介助者の確保は任意団体を作り、広告で募集をかけ確保できました。介護保険が始まった頃で、福祉に注目度があり比較的たくさんの応募がありました。自立生活を始めるにあたり家族には相談しませんでした。施設側が連絡し、家族に知られ父親には「勘当する」といわれましたが、そのまま計画通り進めました。

 2000年2月に始めた自立生活も20年になります。長いようですが、あれこれ忙しく生きてきたので気が付けばもう20年にもなるのかと驚いています。思い返せば多くの人に支えられ、良い人たちに巡り合えたと思います。お金も能力も全くないのに四肢マヒの重度障害者が地域の中で一人暮らしができたのです。障害者になってしまい、生きる場所は重度障害者の療護施設しかないと考え施設に入所しました。とんでもない山の中で近くには民家もありません。最寄り駅が5キロも離れています。毎日の景色は自然あふれる山々です。最初の1年は天国のように感じた時期もありましたが、規則で縛られた毎日、毎週同じことの繰り返しは退屈でしかありません。この様な生活を将来永遠に続けなければならないと考えると絶望的になります。

 車いす市民全国集会の参加が一つの転機になりました。重度障害者でも地域の中でボランティアに支えられながら、一人暮らしを実現している人たちの発表を聞いたのです。それからは一人暮らしに憧れ、常に一人暮らしを実現するにはどうしたらいいのかを考える日々でした。実際にその人の話を聞きに自宅を訪ねたり、障害者関係のセミナーなどに積極的に参加したりもしました。車いす市民全国集会から10年近い時間がかかりようやく自立生活を実現できました。

 2003年には障害者の仲間と共にNPO法人で介護事業所を開始しました。事業所を始めて最も良かった点は、介助者の確保や管理が自分一人で苦労していたものが会社組織で行えるようになったことです。その代わり事業運営という新たな苦労ができました。
 現在の生活はバリアフリー調査、あれこれと外出をしてはSNSなどで発表するのをライフワークとしています。もともと、ウロウロするのが好きでした。写真やビデオで撮影し、車いすのアクセス情報として多くの人に情報提供できればと考えています。いつもいろんなところに出かけたとき、あまり障害者に出会えないことを寂しく思っています。街中で多くの車いす障害者に出会えるような社会になればと願っています。
 事業所ではホームページを管理し、パソコン関連の保守を担当しています。パソコンをはじめとしたIT技術はどんどん新しくなっていきます。スマホは文字が小さすぎてあまり使いこなせていません。タブレットも老眼が進みどうも好きにはなれません。ちなみに普段は40インチのTVでパソコン作業をしています。新しい技術を取り入れたいのですが、頭がついていきません。
 最後になりましたが、Facebookと事業所HPで情報発信をしています。よろしかったらご覧ください。Facebookでは「田村辰男」で、HPは「NPO法人ライフサポートはりま」で検索してみてください。

兵庫県:T.T.

NPO法人ライフサポートはりまhttp://www.eonet.ne.jp/~ls-harima/

 出会えたことに感謝 

 昨年末から多くの悲しい知らせが続く中、令和2年は“新型肺炎コロナ”という重たい空気と共に始まりました。桜の頃、Ⅿ.SさんからCDと手紙が届きました。CDは、1月31日に行ったという水森かおりコンサートの物。ご当地ソングアルバムで、「広島:安芸の宮島が入っているから聞いてね、いろいろとあって遅くなりました。」ということでした。嬉しくて「また絶対会おうね。」と書いて、手紙をポストに投函。


(左から)故SさんとKさん 広島懇親会2006・宮島にて

 しかし6月10日に亡くなられたとご主人からの信じられない便り。なにがなんだかわからなくて涙も出ない…。今から思えば、今年届いた年賀状にむくみの原因が分かり、19キロやせたと書かれていました。今度会うときは、どんな風になっているのか楽しみだなあと軽い気持ちでいました。でも「いろいろとあって遅く…」という言葉は、もしかしてすでに体調が悪かったのかなあと…。

広島懇親会2013にて

 20年前、広島(1999年)で開催されたはがき通信懇親会。Sご夫妻とはこのとき出会い、とても身近に感じたことを昨日のように覚えています。はがき通信懇親会初参加の出来事でした。それからメールや手紙でのやり取りが始まり、頸損者同士の主婦、母として力強い存在となりました。
 去年のはがき通信懇親会in横浜では、息子さんが結婚されるとのことで、地元の風習で独自のお菓子を配ると言われ、そのお菓子をみんなに嬉しそうに配られたいた笑顔が浮かんできます。「うどん一緒に食べに行こう!遊びに来てね。」「行くからね。」とか何年も前から話しながら月日は過ぎ、実現することは無く旅立ってしまいました。いつも相手を思いやり、温かくて面白くて魅力たっぷりなⅯ.Sさん。最期はコロナでご主人とも思うように会えなかったと聞いたとき、初めて涙が止まりませんでした。いつも一緒だったお二人の姿が涙で霞みます…。さみしいですよ、Sさん…。

 「風邪引かないように。」とか「誤嚥性肺炎に気を付けて。」「褥瘡をあなどっては駄目よ。」「後悔のない人生を。」「目標を持って歩いて。」とか、旅立たれた仲間から声が聞こえて来て背中を押されます。でもでもくじけそうになったとき、Oさんが残してくれた「生まれ変わったら、誰かの役に立てる人になりたい」というメッセージを思い出し、頑張ろうと思う。Ⅿ.Sさん、出会えてよかった、ありがとう!これからもよろしくね。ずっと私の心の中にいますから…。どうぞ安らかに。心よりご冥福をお祈りいたします。

広島市:M.K.

 あと40年いきる 

60歳代、C4-C5

 皆さん、こんにちは。宮崎県北部で寿命に逆らいながら空を仰いでいます。青空を眺めると元気がでますね(^o^)。

 今年3月に誤えん性肺炎で入院しました。夜中に痰が絡んで救急車で運ばれました。息ができなく「苦しい、苦しい!」痰吸引をしてようやく落着き個室へ。定時に痰吸引を開始したが、「痛いのでやめて~・・」痛くて悲鳴をあげた。若い看護師さんが「だって痰がとれない?もん」そんなこんなで痰が収まり、食事はおもゆから開始。誤嚥予防訓練開始「顎を下げて飲み込んでください」気道に入らないように注意。
 このことを目の当たりにしていた25歳の介助者は僕に言うのです。「Fさんが20年生きても僕は45歳です。職を失います。」その通りなんですよね(^_;)。 しかし今年は、気温が高く好天に恵まれたので生きるエネルギーが湧き上がりました。そこで知り合いに「俺はあと40年生きる」と伝えています。根拠のない願望ですが、自分を奮い立たせています。若者から長生きせんと付き合えんと言われ目覚めた。現在の訓練は、呼吸法の吸って吐いてを繰り返しています。呼吸の重要性を再認識した。

 今後の目標 ①富士山を近くで見る。②桜島へ行く。③軍艦島を見る。④復興熊本城を見る。⑤佐渡ヶ島へ行く。⑥北海道へ行く。⑦好きなライブを聴きに行く。を生きがいにする。
 ※普通にできていたことを未来の生きがいとして目指したい還暦少年。

宮崎県:K.F.

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