No.177 2019/6/25
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 在宅勤務までの道のり 

 そもそもなぜ働き続けようとするのか、この一文が誰かの役にたつかと思い原稿依頼を諾した。
 昨年の12月から在宅勤務を始めている。すでに6か月が過ぎた。この事態を実現するに少々問題があったので、僕にとっては満足の行く一手になっているが、雇用する側にとっては予定もしなかった不本意な奇手の類になるかもしれない。
 66歳のときに、現在勤務する福祉法人に雇用された。条件は通所する障害者にプログラミングを教え、就労支援の手助けをすることだった。
 それが通勤初日に本部の情報システム室に出向となり、就労支援でなく、情報システムの管理業務をすることに替わっていた。
 働き始めるにつれ、管理業務では僕の持つスキルを有効に利用できないと考え、法人管理部門から職員へ向けてのメッセージツールを作りたいと提案したところ採用された。
 こうなると在宅でも仕事ができるぞと気が付き、在宅勤務をしたい旨上司を通して申請をした。当然そのときは却下された。
 理由は、僕が法人の職員ヒエラキーの最下層にあるので、認めれば今後職員が病気などで在宅勤務を申請してきた際、むげに却下できない先例を作るからだと聞いている。
 1年後の秋には開発したツールが法人内で稼働し始め、職員は日常的にこのツールに触れるようになった。
 明けて去年の3月、痔ろう手術で入院することになり、しかも術後の手当が不備で、あろうことかほとんど寝たきり状態になってしまった。
 それでも在宅であれば、少しずつでも働けるのではと思い、昨年の6月ぐらいから在宅勤務の実現に向けて運動を開始した。今回は実績もあり、日々職員がツールにアクセスし、しかもツール改良の要請もあった関係で在宅勤務への道が開けた。
 法人の職員数は1300人を超える。ここ何年かで、在宅勤務が許された者は僕を入れて2人だ。1人は定年退職後仙台に移住したものの、他に替え難い人だからと在宅勤務という形で引き留められている。だから、在宅勤務ができるというのは、本当に稀なケースだとは思う。
 しかし、正直に言えば会社も人で成り立っており、決まりごとや慣習やらの難しい話があっても、必要と思えばそんな物くるりとなかったことにするのだから、何かたまたま決定者がそのとき非常に機嫌が良かったというのが真相かもしれない。
 ともあれ、在宅勤務を始めた12月は週1日、明けて2月は週2日、4月から週3日と働く負荷を徐々に上げ、お尻へのダメージをチェックし、お尻が悪化しないことを確認しながら仕事を進めている。
 ただ、今も仕事以外はほとんど寝たきり状態に近いので、日常的に車いすに乗れるように訓練を始めており、6月には寝たきり状態から日中は車いす上になればと、自分を励ましている。
 以上が簡単な在宅勤務までの顛末記(てんまつき)だ。もともと、プログラミング言語を覚えたのは63歳のときだ。はじめの会社を定年退職後、障害者能力開発校でグラフィックアーツを学び、フォトショップとかイラストレータの操作ができるようになり、ホームページも作れるようになった。この技術で前職を得て、仕事の隙間に動的ホームページを作るプログラミング言語を独学した。
 今の法人から職員にどうかと誘われたのも、このときに覚えたプログラミング技術がなければ考えられないから、世の中は何がつながっているか油断できない。
 それにしても頸損の体でこの年だから、体中が痛いし、次から次へと今までに経験しなかった体の不調が出てくる。今や神様から、安寧な終末などないよとダメだしされているようにすら感じる。
 そして、毎日、1人住まいの自宅にヘルパーさんやら看護師さんらが、次々に訪れてくれないと僕の生活が維持できない状況になってしまったことを呆れている自分がいる。
 普通に考えれば、弱気の虫が住み着いて、もう終わった人になり、日常をあらがうこともなく過ごすのも不思議ではないのに、なお働きたいと思い、通勤が無理なら在宅でもと思う衝動はどこから来るのだろうか。それが自分のことながらよく分からない。
 可能であれば75歳、80歳までも働きたいと思う。そのためには、この業界の激しい変化についていく新しい知識が必要になる。そして、習得には学び、記憶し、それを関係付けて取り出すエネルギーと仕事に集中する意志力が必要だ。
 しかし、そんな能力がなお残されているかどうか、さすがに怪しい年頃だ。とは言え働くことが重要なのでなく、何かをしたいという衝動が大切なのだ。
 そして、継続させる意志力。こんなのが2つも内でうごめいていれば、老いを退屈することはないだろう。

神奈川県:M.K.

 2人目の出産について 

 昨年10月に2人目となる女の子を出産しました。C6頸損者である私の妊娠から出産を紹介したいと思います。
 まず、上の子を出産したのは10年前になります。結婚から5年目に自然妊娠し、切迫流産で2か月ほど入院しましたが、その後は順調に自宅で穏やかに過ごしました。臨月を迎えた37週で破水に気づき、病院に向かいました。医師がモニターで陣痛の波形を確認しながら私のお腹を押し、自然分娩で2,500gの女の子を出産しました。
 結果的に陣痛の自覚症状はなく、看護師さんからは「天然の無痛分娩でしたね!」と言ってもらいました。初めての出産で不安もありましたが、とても安産でほっとしました。
 ですが、このたび2人目の妊娠期間は、常に体調不良との戦いでした。2人目を望んでいたときの妊娠だったので、家族みんなで喜びましたが、妊娠初期にはひどいつわりに悩まされました。飲み物さえもすぐに吐いてしまい、自宅で点滴の日々となりました。
 中期にはもともと低い血圧がさらに低くなり、車いすに座ると目の前が真っ暗になり、意識が遠のくことが何度もあり、ほぼ寝たきり生活をしていました。匂いにも敏感になり、つわり中にご飯の炊ける匂いがダメになる妊婦さんの話をよく聞きますが、私の場合は人の匂いもダメになりました。化粧の匂い、タバコの匂い、柔軟剤の匂い、人それぞれいろんな匂いがあり、失礼極まりない話ですが、人に近づかれると吐きそうになりました。
 ほぼ寝たきり生活で、身の回りのことが自分では何もできないのに、人に触れられるのが辛い。訪問看護師さん、ヘルパーさんなどいろんな方に日々来ていただいている中で、助けてもらいたいのに、助けてもらうのが辛い。隠そうとしても我慢できずにこみあげてしまうので、とても申し訳なく、今まで経験したことのない辛さでした。
 その後、本来の出産予定日より2か月以上早く、10月のはじめに切迫早産となり入院。入院2日目にして陣痛かと思うほどのお腹の収縮が起こり、赤ちゃんの頭がすぐそこまで降りてきてしまい、この週数での出産は地元のS病院では対応できないということで、夜中の3時にK病院へ救急車で搬送されました。
 その時点で、すでにこれ以上増やせないほどの量の薬を点滴しており、一時はどうなることかと思いましたが、切迫早産自体は何とか進まずに持ちこたえていました。
 けれど、一方で私の体はどんどん限界に近づいていました。1日に何度もお腹が張り、そのたびに胸の締め付けと息苦しさを感じ、頭の血管が切れてしまうのではないかと思うほどの頭痛が起こりました。そのことを産婦人科の担当医師に伝えても、頸髄損傷者の妊婦は珍しく、なかなか理解してもらうことができませんでした。
 2時間おきの体位変換は、お腹が特に張るので恐怖でした。「お腹が張るのは妊婦さんにはよくあることだから」と容赦なく寝返りを打たせて体位変換を行う看護師さんに、「体位変換はなるべくゆっくりしてほしい。途中でお腹が張ったら、一度手を止めて落ち着くまで待ってほしい」と涙ながらに話しました。
 本当に具合が悪いと、自分がどうしてほしいのか、周りの人に伝えることが難しいと感じました。そして、何故かしだいに幻覚?まで見るようになりました。天井に見える赤ちゃんの幻覚に話しかけたり、最後は、点滴を自分で引き抜いて暴れるほどでした。
 身体的にも精神的にも辛く妊娠継続ができなくなり、入院から10日目に全身麻酔の帝王切開で女の子を出産しました。29週1,077gと、本当に小さく生まれました。翌日面会に行くと、保育器の中でたくさんのチューブにつながれていて、私のせいで大変な思いをさせてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。


●出産翌日:はじめての面会

 でも、子どもの生命力は本当にすごく、毎日確実に成長していて、そんな頑張っている姿を見ていると、私もクヨクヨしていられないと元気づけられました。私自身が退院した後は、毎日搾乳(さくにゅう)をして、自宅から遠いながらも週に何度か面会に通いました。


●出産から約3週間:はじめての抱っこ

 そして、おかげさまで、年末には下の子も無事に退院して、家族4人で年越しできました。現在、退院して半年近く経ちましたが、順調に成長しています。よく寝て、よく飲み、よく笑い、体重もどんどん増えて、最近寝返りもできるようになりました。
 我が子を抱いていると、なんとも言えない幸せな気持ちで胸がいっぱいになります。寝不足でも、体のいたるところが筋肉痛でも、幸せでいっぱいです。未熟児だったことで、これからも定期的に病院には通院することになりますが、母としてしっかり支えていきます。


●退院して4か月:家族4人はじめてのお花見


●現在:おかげさまですくすく成長しています

 今回、本当にたくさんの方に助けていただきました。皆さまに、心からの感謝の気持ちを伝えたいです。ありがとうございます。
 これからもそのつど、困ったり悩んだりすることはあると思いますが、一つ一つ乗り越えて、私ができることを、私だからこそできることを精一杯がんばりたいと思います。笑顔で輝く母でいることが私の目標です。これからもよろしくお願いします。

広島県:M.T.

 ☆★ ひとくちインフォメーション ★☆ 

 【本の紹介】『指紋のない男』を上梓しました 

 前作『グラバーの暗号』は、みなさまのご支援で予想を大幅に上回る販売となりました、あつく御礼を申し上げます。
 今回の『指紋のない男』は、受傷後6、7年ごろの作品です。事故のショックから抜け切れないころ、必死になって書き上げました。
 「なにかやってないとダメになる」という一念でした。「これを書くことで俺は救われたんだな」と感慨深いものがあります。
 今回書籍化にあたり目を通してみると、稚拙な部分も多々見られます。ただ、手を入れると、あのころの〈狂気〉が損なわれる感じがしました。
 内容は冒険小説です。執筆時に予測した国際情勢が、だんだん現実味をおびてきたのに本人が驚いています。よろしくお願いします。
【詳細】
 題名:指紋のない男
 著者:出口臥龍
 本文:402ページ
 価格:¥1400+税
 発売日:2019/6/4
 発売:幻冬舎



【編集後記】

 うっとうしい梅雨の季節です。湿度が高いと痛みが増悪するので、この時期は気分的にはけっこう憂鬱(ゆううつ)……気分転換に好きな音楽を聴いたり、新緑や庭のアジサイの花を窓から眺めながら、パソコンのキーを打っています。
 5月から新しい元号“令和”になりました。昭和に生まれ、平成元年に受傷して車いす生活になり、そしてまた令和という新しい時代に。人生の晩年を迎えるこの時代は、いったいどんな時代になるのか……? 
 懇親会のご案内の通り、今年は横浜で平日に1泊で開催、自由参加ということにいたしました。参加人数は少なくなると思いますが、「はがき通信」のお仲間で和気あいあいと、ちょっと贅沢な時間をゆっくりお話できたらと思います。 
 次号の編集担当は、戸羽吉則さんです。

編集担当:瀬出井 弘美


………………《編集担当》………………
◇ 瀬出井 弘美 (神奈川県)
◇ 藤田 忠   (福岡県) 
◇ 戸羽 吉則  (北海道) 
………………《広報担当》………………
◇ 土田 浩敬  (兵庫県) 

post_card_comm_14520@yahoo.co.jp

発行:九州障害者定期刊行物協会
〒812-0054 福岡市東区馬出2-2-18
TEL:092-753-9722 FAX:092-753-9723
E-mail:qsk@plum.ocn.ne.jp

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