『夜と霧(新版)』書評 −6− Ⅲ 地獄の中でも主体性を持ちつづける者に栄冠あれ! (つづき) ●人間の真価は収容所生活でこそ発揮される いよいよ話は佳境にはいってきた。《人間は、生物学的、心理学的、社会学的と、なんであれさまざまな制約や条件の産物でしかないというのは本当か、すなわち、人間は体質や性質や社会的状況がおりなす偶然の産物以外のなにものでもないのか、と。》と述べたうえでそれを否定する。《感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人の例はぽつぽつと見受けられた。》ぽつぽつだけどいるんだよ。《収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。》これは否応なく全身麻痺の身の上になった頸髄損傷者に通じる話ではないだろうか。 逆に収容所で人間として破綻したひとは、追憶ばかりしている。《未来の目的によりどころを持たないからだ。》現前する現実を見くびっていると、現実に真正面から向き合うきっかけがあっても、それを見失ってしまうという。《このような人間は、苛酷きわまる外的条件が人間の内的成長をうながすことがある、ということを忘れている。》さてここからきびしいお言葉。《「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」/けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。》 収容所を出たあとにおのれの真価を発揮するときが来るというのではなく、収容所の中で堅固に主体性を持ちつづけた者のみが内面の勝利を勝ちうるのだとフランクルはくりかえす。発語と引替えに呼吸器をつけることによって生の存続を図ることを決断したALSのひとたちは頸髄損傷者より過酷な条件に置かれているが、にもかかわらず自ら介護事業所を興して他のALSを助けているひとも多い。頸髄損傷者は以前から「ピアサポート」とというかたちで同様な事業をおこなっている。一生「独房」の中にいても内面的勝利を勝ちうることはできるのだ。 《強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。》これを読んでもうひとりの英雄、C1損傷のYさんを思い出した。C1というのは最重度で、もうこの上は延髄しかない。横断歩道で信号待ちをしていたら暴走車に跳ねられた。もともと身体強健なひとではあったが、人工呼吸器は免れなかった。国際会議をコーディネートする仕事に就いていただけあって、英語ができ、まあ英語ができるひとなど珍しくないが、なんとYさんは入院中のベッドの上でクリストファー・リーブの頸髄損傷体験記『STILL ME』という新刊本の抄訳を「はがき通信」に投稿してきた。奥さんと会話するのにメールを使うと聞いて頭のいいひとだと感じた。その後もたびたび「はがき通信」に投稿してきた。 特に印象に残る彼のことばは「障害者は主体性を取り戻せ」というものだった。たとえば退院に当たって人工呼吸器の業者が病床まで説明に来たとしよう。業者は医者や家族に向かって説明を始める。「使うのはおれだ、おれに説明しろ」と怒りとともにアピールしたという。このことばには勇気づけられたものだ。 ●希望は免疫を強化する 自己放棄と未来の喪失は死をまねく。かつては著名な作曲家兼台本作者だったF氏は、医師であるフランクルにこんな話を打ち明けた。夢で自分が3月30日に解放されるという声を聞いた。Fは正夢だと信じていたが、《夢のお告げの日が近づくのに、収容所に入ってくる軍事情報によると、戦況が三月中に私たちを解放する見込みはどんどん薄れていった。すると、三月二九日、Fは突然高熱を発して倒れた。そして三月三十日、戦いと苦しみが「彼にとって」終わるであろうとお告げが言った日に、Fは重篤な瞻妄(せんもう)状態におちいり、意識を失った……三月三一日、Fは死んだ。死因は発疹チフスだった。/勇気と希望、あるいはその喪失といった情調と、肉体の免疫性の状態のあいだに、どのような関係がひそんでいるのかを知る者は、希望と勇気を一瞬にして失うことがどれほど致命的かということも熟知している。》 強制収容所の医長は本例と符合する話を折に触れていっていた。1944年のクリスマスと45年の新年のあいだに、特段の理由もないのにかつてないほどの死者が出た。クリスマスには家に帰れるという素朴な希望にすがっていた被収容者は、それがかなえられなかったことにより落胆と失望に打ちひしがれたのが原因だろうというのが医長の見解だった(この文を読んで、ユダヤ教徒にとってもクリスマスが重要な行事であることを知った)。 2010年8月、チリの鉱山で落盤事故が起こり数十名の作業員が閉じこめられたとき、地下600メートルの深さゆえに救出が危ぶまれたにもかかわらず、大統領はクリスマスまでには救出すると言明した。その見通しがあったのかどうかは不明だが、じっさいには10月に救出され、大統領の株はおおいに上がったのだった。 《強制収容所の人間を奮い立たせるには、まず未来に目的を持たせなければならなかった。》生きる目的を見いだせない者は、あっというまに崩れていった。《あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのはきまってこんな言葉だ。/「生きていることにもうなんにも期待がもてない」/こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。》重度障害者になって一度もそんなことを考えたことがないひとなどいないだろう。 ようやくすこしわかってきた。つぎのことばでわたしは得心がいった。「生きていることにもうなんにも期待がもてない」と例のことばを口にする被収容者がふたりいた。フランクルはこのふたりに《生きることは彼らからなにかを期待している、(評者注:こなれない日本語だ。「人生は彼らになにかを期待している」としたほうがわかりやすいのではないか)生きていれば未来に彼らを待っているなにかがある、ということを伝えることに成功した。》ひとりには父を待つ子供がいた。もうひとりは研究者で、あるテーマの本を数巻上梓していたが、まだ未完結だった。《この仕事が彼を待ちわびていたのだ。(中略)自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。》 ●苦しむことも生きることの一部 さあここからわれわれ頸損をはげまし力づけてくれるようなことばが続々とつづく。《被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに閉め出されていた。しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。》 生きることに意味があるなら、苦しむことにも意味があるとフランクルはいう。わたしにいわせればどだい苦しみのない人生などない。道行くひとはみな何気なく生きているようでいて、じつは他人にはうかがい知れぬ苦悩を抱えているのだ。苦しみのない人生などない。苦しみあってこその人生だと覚悟を固めること、これも楽に生きる方法の一つだとわたしはおもう。 しかしですなあ。人生に死があるのは当たり前だが、なるべくなら苦悩とは無縁でいたい。いやな思い出を書く。ある日、朝から出かけた妻(先妻)は、夜、それも深夜、電気を消してわたしがすでにベッドに寝ているところへ、精神病院の若い患者仲間を男女あわせて4、5人引き連れて帰宅した。わたしは音だけで判断している。精神科の待合室というのは悩みをかかえたひとが集まるところだから、すぐに仲良くなってしまう。中には仲良くなりすぎるカップルも出てくる。隣室の台所でたのしそうに宴会を始める。密やかにではない。一家の主には一言の挨拶もない。ふつうの家庭なら怒鳴りつけるところだろうがそうもいかない。みな心を病んだひとたちだ。いらいらしながら宴会の終わりを待つしかない。宴果ててのち、2階の娘と息子の部屋に男女わかれて就寝したとあとで聞いた。翌朝男ともだちに妻がわたしの電気カミソリを使わせている。これにはさすがに温厚なわたしも腹を立てた。もし夫婦の障害・健常の立場が逆で、わたしが女ともだちを連れてきて女房の口紅を貸したら、女房は逆上してまた救急車騒ぎを起こすにちがいないとおもった。だからだまっていた。この苦悩がわかるだろうか。まあ、いい苦悩訓練をさせてもらったとおもうことにしよう。 そして……。ある朝収容所の門に白旗が揚がった。ナチスは敗れ、被収容者はすべて解放されたのだ。ああよかった。わたしもようやくこの難解な書物から解放されるときが来た(笑)。《収容所のゲートから外の世界へとおずおずと第一歩を踏み出した。号令も響かない。鉄拳や足蹴りを恐れて身をちぢこませることもない。ああ、それどころか、収容所監視兵のひとりに至っては、煙草を差し出したのだ。わたしたちは監視兵たちをにわかに判別できなかった。手回しよく、いつのまにか平服に着替えていたからだ。》オチがついたようだ。(了) 東京都:藤川 景 『臥龍窟日乗』 -41- 墓を守る
親しくしてもらっている同病のAさんから電話をいただいた。Aさんは首都圏のある衛星都市に住んでおられるが、近年、猛烈な勢いで発展した街だ。 Aさんの父上は、この街で手広く農業を営んでおられた。なぜか父上とAさんは折り合いが悪く、Aさんは勘当状態だった。 問題は、父上が寄る年波には逆らえず、最近、亡くなってから表面化した。たいした資産はないだろうと踏んでいたAさんだが、思惑以上に、街の方が大きくなりすぎた。都心に近いとあって、人口が驚異的に増え、住宅地の周辺の畑地がどんどん宅地に転用された。 Aさんは3人兄弟のご長男で、妹さんと弟さんがおられる。この場合、遺産相続は母上が2分の1、兄弟3人が3等分となる。 やっかいなことに、亡父の遺言状が出てきた。遺産相続人からAさんを除外せよという過酷な内容だった。 「なんとかならないか」というのが、Aさんの電話の内容だった。私は知り合いのなかから、辣腕(らつわん)の弁護士さんを紹介した。 だが法律にのっとった遺言状の威力は凄まじく、「手も足も出ない」と、憔悴(しょうすい)しきった声でAさんは電話してきた。訊けば、遺産総額は2桁台の億が付いた。 私には、打ちひしがれたAさんの無念が、手に取るように分かった。 頸損患者というのは、想像以上にカネが掛かる。何をするにも人手が掛かるからだ。少しばかりの預金は、あれよあれよと消え去っていく。それでなくともストレスの多い身体だ。嫌な言葉だが、カネだけが頼りになる。 今でも私は、余生を考えるとぞっとする。 とかく兄弟は他人の始まりと謂(い)われる。私の場合を考えてみても、いとこまでは馴染みがあるが、それ以上となると名前すら覚束(おぼつか)ない。 よく「わが家系は藤原氏なり」なんておっしゃる方がおられるが、妄想も甚だしい。「あんたの身体には、藤原道長の血なんて、小指の先ほども受け継がれてはいないんだよ」と窘(たしな)めてあげる。 Aさんを例に挙げると、息子のBさんの血はAさんの2分の1、孫のCさんは4分の1、曾孫のDさんは8分の1、玄孫(やしゃご)のEさんは16分の1だ。その後の来孫(らいそん)ともなると32分の1となる。これはもう他人に等しい。 一世代20年とみて5世代で100年。あるお寺の住職さんにお尋ねしたことがあるが、5世代、子孫によって守られているお墓はほとんどないというお話であった。 徳川家15代260年とはいうが、嫡男に恵まれず、傍系から引っ張ってきた継ぎ接ぎだらけの15代である。15代慶喜にいたっては、初代・徳川家康とはほぼ他人と言っていい。 数か月が過ぎ去った。Aさんはさぞかし落胆しているだろうなと私も気が重かった。 数日前にAさんから電話があった。声が弾んでいる。いい知らせか? 「遺産はけっきょく法律に基づいて分けられるようになった」とAさんは嬉しそうに話した。 親族のなかから「A家の墓は誰が守るのか?」という強い意見が出たそうだ。妹さんは他家に嫁いだ身だから、A家の墓を守る立場にない。弟さんも分家になるから義務はない。つまるところ先祖代々の墓を守るのは、Aさんを措いて、いない。 私は素晴らしい『大岡裁き』だなと思った。 Aさんと父上の間にどんな確執があったか知らない。ただ遺言状の末尾に、 「兄弟三人、仲違いすることなく、力を合わせて生きていってほしい」という一文が認(したた)めてあった。 勘当した長男に対する親の腹立ちもあったろう。だが、 「兄弟は他人の始まり。遺産相続をめぐって、兄弟間での諍(いさか)いは起こすなよ」と父上の強い思いが、最後の一文に凝縮されていたのだと思えてならない。 千葉県:出口 臥龍 ★★★ ひとくちインフォメーション ★★★
★ 本の紹介 『溺れ谷心中』 『臥龍窟日乗』を連載されている出口臥龍さんの創作が、作家の葉山修平氏の同人誌『雲』に3回に分載されました。 (有)龍書房にて購入できます。 TEL/FAX: 03-3288-4570(担当・青木) 《紹介文》 この物語の舞台は、長崎県の壱岐。本業がタクシー運転手の海野熊吉は島の自警団長も務めるが、若い頃に両親を亡くしてから一人っ子であったため、自由気ままに暮らしてきた。熊吉も39歳になり、気をもんだ親戚が縁談を持ち込み、内地から綾という女性を嫁に迎える。 一方、島の鼻つまみ者だった権田剛という男が内地に渡り、任侠の世界で頭角を現して一家を築いた。その権田が人の上に立つ器ではない息子に跡目を継がせるため、故郷の壱岐で風俗営業の企業体をつくらせることを思いつき、乗り込んでくる。会社組織ではあるが、やくざ家業の隠れ蓑(みの)であるのは言うまでもない。島民それぞれの立場が絡み、自警団ともひと波乱、騒動が起こる。 秋祭りを自警団と権田興業の共同開催にすることに何とか漕ぎ着くのだが、熊吉は罠にはめられ、秋祭りの奉納相撲大会で頸髄損傷(C4レベル)の大怪我を負わされてしまう。その後、熊吉自身の身にもショッキングな事件が……。 タイトルでもおわかりのように、熊吉夫婦のこの世のラストは“心中”という形で終わる。しかし、頸損になって悲観して心中するわけではなく、そこに悲壮感はまったくない。 死出の旅路は穏やかで、楽しげな日常の散歩にでも出かけるようだ。なぜ心中を選び、その運命を受け入れるに至ったのかは、読んでのお楽しみ。 編集担当:瀬出井 弘美 ★ 重度障害者入院、ヘルパー可 改正総合支援法が成立 障害のある人に対する支援を充実させる障害者総合支援法改正案と発達障害者支援法改正案が25日の参院本会議で、それぞれ可決し、成立した。 改正障害者総合支援法は、重い障害のある人が入院時にヘルパーの付き添いを可能とすることなどが柱。病状や障害を熟知したヘルパーが付き添うことで、障害者や入院先の看護師らの負担も減らす。 自己負担を軽減する制度も創設される。障害福祉サービスはほぼ無料で受けられるが、65歳になると介護保険が優先適用され、原則として1割が自己負担になる。この軽減の対象者などについて、厚生労働省が具体的な検討に入る。(久永隆一) (情報提供:平成28年5月26日 朝日新聞) ※重度障害者という定義は、重度訪問介護サービス利用・障害支援区分6の該当者という情報が入りました。まだ可決されたばかりの改正法案ですので現状はどうなのか、また情報が入り次第、誌面にてお知らせできればと思います。 ★ 被災障害者支援に募金をお願いします このたびの熊本県・大分県の地震で被災された障害のある方々に必要な支援を届けるべく、ゆめ風基金・DPI日本会議・自立生活支援センター協議会(JIL)の3団体は、共同して障害者救援活動を行います。 ぜひ皆さまのご協力をお寄せください。 下記口座に募金をお願いします。 障害者救援金:郵便振替口座 00980-7-40043 ゆめかぜ基金 「くまもと」とお書きください。 ▽ゆめ風基金のブログより「熊本地震:障害者情報」 http://yumekaze21.blog39.fc2.com/blog-entry-1199.html 現地で被災され困っている障害のある方は、 Twitterアカウント:@yumekazekikin あるいは、 TEL: 06-6324-7702 FAX: 06-6321-5662 E-mail: yumekaze@nifty.com にご一報ください。
【編集後記】
5年目の春に、日本はまた未曾有(みぞう)の災害に見舞われてしまいました。避難入院を余儀なくされた、「はがき通信」仲間もおります。熊本地震で亡くなられた方にはご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。平穏で、当たり前にある日常生活の有り難さを痛感いたします。 今年は、兵庫県・姫路での懇親会開催が決定いたしました。ご尽力いただいている兵庫の若手頸損メンバーの方たちに、感謝申し上げます。また皆さんにお会いできますことを楽しみに、1人でも多くの方のご参加をお待ちしております。 さて、お話は変わりますが、ここ1年、また膀胱結石ができ始めました。Kリハビリ病院の泌尿器科外来で内視鏡により、取っていただけている大きさなのでまだよいのですが、怖くて検査期間を半年以上空けられません。 抗生物質を服用すると、お小水は見違えるほどきれいになります。それをドクターに話したところ、「今は耐性菌の問題があり、1剤の薬の服用でもいざというときに多剤の抗生物質が効かない場合があり、予防的意味で自己判断で安易に抗生物質は服用しないように」とのこと。Kリハビリ病院も現在は、予防的な抗生物質の処方は一切していません。私がリハビリのために入院していた頃は、毎日毎食後、抗生物質を服用していました(笑)。 褥瘡にしても、時代が経つと360度、治療法が変わったり。結石ができやすくなると、柑橘(かんきつ)類やアルカリ飲料の摂取も制限されていましたが、医学的根拠やデータはないそうです。 次号の編集担当は、戸羽吉則さんです。 編集担当:瀬出井 弘美 ………………《編集担当》……………… (2015年2月時点での連絡先です) 発行:九州障害者定期刊行物協会 |
ホームページ | ご意見ご要望 |