はがき通信ホームページへもどる No.153 2015.6.25.
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 アイススケートに行く(応援係) 

C4・電動車イス利用

 愛知万博・愛・地球博が開催された跡地に、愛知万博記念公園モリコロパークがあります。名古屋駅から地下鉄東山線で終点の藤が丘駅へ。そこからリニアモーターカーに乗り換えて愛・地球博記念公園駅で下車。目の前にさまざまな施設のある公園が広がっています。
 モリコロパーク自体は入場料はいりません。規模が大きいだけあって施設は充実しています。サイクリングコースや室内大型遊具、茶室、球技場、温水プール。映画「となりのトトロ」の主人公の家を再現した「サツキとメイの家」等々。飲食店もありますが、暖かい日になると屋外でお弁当を食べる人も多く見かけます。私と妻と娘の3人で行きましたが、芝生にあるベンチで昼食を食べました。定期的にイベントもあって、駐車場待ちの超満員になるそうです。
 公園内に車イスごと乗れる観覧車もあります。以前に乗ったことがありますが、やはり私は高いところが苦手です。娘がこわがって乗りたがらなかったので、私は「本当は乗りたいんだけどな」という顔をして、遠くから眺めるだけにして目的地に向かいました。
 今回のわれわれの目的はアイススケート場です。温水プールと同様に障害者手帳の提示で、本人と同伴者1人が入場料免除になります。レンタルシューズは1人300円。ブレードが一般的な1本のものと転びにくい2本のものがあり、初心者の娘は2本ブレードを履きました。
 私は車イスで応援係です。まずは娘に、ヘルメットとプロテクター(無料)を着けるように言ってシューズを履きに。それからリンクへ向かいました。リンク内の室温は約10度に設定してあるそうです。寒さの苦手な私は厚手の上着を着て行かなかったので、途中、何度かリンクから外に出て、体を暖めなければなりませんでした。最初は滑って転びそうになって手すりと仲良しだった娘も、私が何度か声をかけると、なんとか少しは滑る形にはなりました。このスケートリンクでは毎年、国内外のトップフィギュアスケーターが出演するアイスショーを開催しており、今度はそちらを観に行きたいと思います。
 モリコロパークは丘陵地にあるので、電動車イスで行くのが楽ではないかと思います。上り坂で手動車イスを押す方を見かけましたが、かなり辛そうでしたし、下り坂は危なそうなところもありました。モリコロパークの近くにはトヨタ自動車の記念館もあります。リニアモーターカーで藤が丘駅に戻る途中、芸大通駅で下車。今回は時間がなく行けませんでしたが、懐かしの名車を見られます。
 アイススケート場に行ったのは30数年ぶりでした。寒いのは苦手ですが、また行ってみたいと思います。
 

匿名希望




『夜と霧(新版)』書評 −2−

 (フランクル著、池田香代子訳)




1987年C5損傷、66歳

 ●こころをまもるためのくふう
 強制収容所に入れられた者が示す最初の反応は、「やけくそのユーモア」だという。やけくそのユーモアを強がりのユーモアといいかえることができるなら、わたしにも覚えがある。処女作『上の空』を読んだひとは,わたしに感想を述べるとき、「こんなこといっていいかどうかわからないんですが、おもしろかったというんでしょうか、電車のなかで読んで吹き出しました」といった。それはそうだろう、わたしは笑わそうと思って書いたことはあっても泣かせようとたくらんだことはない。しかしそういう感想を聞くたび、内心忸怩(じくじ)たるものがあった。わたしには執筆当時から「引かれ者の小唄」という意識があったからだ。
 『上の空』執筆時(正確にいえばテープレコーダーあいての吹き込み時)、まだほとんど寝たきりで一日中体の痛みに耐えながら生きているというありさまなのに、当時の妻(先妻、以下同)は介護疲れと将来不安とそれに欲求不満のため入退院と自傷行為がエスカレートしていくというほぼ発狂状態で、子供はまだふたりとも小中学生、社会資源は少しずつ整っていき、多くのかたに支えられながらの家庭経営だったとはいえ、家の中があまり乱れていると、いくら献身的な家政婦やヘルパーでもすぐにやめてしまう。
 手首なんか切ったって死ねやしないと悟った妻は、腕の内側をカッターで縦に引き裂いた(おそらく精神科の待合室で仕入れた知識だろう)。まわりを汚さないようにゴミ袋の中でやった。やりはしたものの苦痛に耐えきれなかったのか2階から降りてきた。わたしはそれまでにも救急車を何度呼んだかしれやしない。刺傷事件の可能性も考えて目つきの鋭い刑事も来る。
 救急車には家族が同乗する規則になっている。わたしには不可能なことであり、息子はまだ幼すぎ、結局娘にそのお鉢が回っていくのだが、娘は頑として拒否した。母親の自傷行為は娘の小学生の時から始まっており、娘はうんざりして、そして悲しんでいたのだろう。中学生の時も高校生になってからも拒否した。娘は己を守るため次第に自分のまわりに見えない壁を築いていき、その壁をどんどん高くしていった。哀れだったが、わたしはなにもしてやれないだらしない父だった。そんななかで惨めなことなど書けやしない。ノンフィクションだから深刻な現実に触れざるを得ないものの、生来のお調子者でもあるから笑い話をちりばめた。だから「やけくそのユーモア」のほうはよく理解できる。
 心のまわりに壁を築いていった娘は、後出の「不感無覚」を目指していたのだろう。一方息子のほうは、救急隊員や刑事が来るといつのまにか姿を消し、引き上げると1階のテレビの前にすわりこんでアニメか何かを見てケラケラと笑っていた。これもまた自分を正気に保つための幼い者なりの知恵であり、わたしもベッドの上からコントのオチ当てを競って、息子のそとにはみじんもあらわさない悲しみや動揺を和らげようと努めた。
 救急病院で何十針か縫った妻は夜ひとりで帰ってきた。救急車は運んでくれても自宅まで送ってはくれない。深夜わたしは体位交換をしなければならない。担い手は妻と決まっている。娘にやらせようかといっても妻は肯(がえ)んじない。自分が死にぞこなった責任を娘に押しつけるわけにはいかないという程度の正気はまだ残っており、縫ったばかりの腕をわたしの腰の下に入れて体を引くから傷口が開く。うめき声を漏らしながら体位交換を終える。させたくはないけれどもさせなけれはならないわたしもまた地獄だった。強制収容所に等しい「生き地獄」だったといっても許されるのではないか。
   
 ●在宅生活の憎しみと愛情
 わたしは自身の体による自身への疼痛攻撃と妻の攻撃を除けば、他人に殴られるような体験をしたことはない。幸か不幸か、わたしのばあいはけがによる煩悶の期間は短かった。「いつごろ障害を受容しましたか」などと卒論の下調べなどに来た学生に質問されたものだ。「障害の受容ってどういうことですか」教科書に載っていることばで質問するから、わたしも意地悪になる。「ご自分の障害を受け入れることです……」単語を変えただけだ。「そうですねえ、一生こういう体だということは入院中に悟りましたから数ヶ月といったところかな。でも今だって障害は個性だなんていう意見には与(くみ)しませんよ。そんな個性いらないもの」
 フランクルの意見と異なり、おのれの苦痛には未だ無関心ではいられない。体は四六時中痛い。眠っているあいだは痛くないが、目覚めるときはいつも苦痛とともに、つまり痛みで目が覚めるのだ。痛みは苦痛の筆頭だが、全身麻痺の苦痛など数え上げたらきりがない。
 けがをした1987年当時、重度障害者は山奥の病院や施設で一生を過ごすものとされていた。妻が心を病んでからの数年間を見つづけてきたわたしは、とても「在宅」生活など及ばないと判断し、入院中「おれは一生病院暮らしでいいんだよ」といったが、妻は「家族は一緒にくらすもの」という信念を曲げずに、つらぬいた。ひとりでわたしの勤務していた会社に乗り込んで退職金の前借りを申し込んだと聞いたときはあきれた。もともと前向きな行動力の所有者だったから、頼もしくさえおもえた。ひょっとしたらこれを機会に元気になってくれるかもしれないという楽観に賭けてみた。入院中に建てたバリアフリー住宅に移ってからは、家事は住込みの家政婦、介護は妻という方式をとった。
 だがしょせん自分が見通しのアマイ男であることを再認識する結果に終わった。新築の家に移ったその翌日から、痛罵(つうば)と怨嗟(えんさ)の声がいつ果てるともなくつづいた。介護も半年ほどでおもうようにならなくなった。これでは在宅生活の実現も、わたしやわたしの家族に対する恨みを晴らすための口実だったのかもしれないと後悔した。具体例は書きたくない。あまりにもおぞましいから。
 いや、そういってしまってはいまは亡き妻に対してむごすぎる評価だと書きながらあることを思い出して反省した。先に述べたようにむかしは重度障害者や痴呆老人には人権など認められていなかった。在宅生活に入ってパソコンで頸髄損傷者と情報交換などをするようになってから知ったことだが——。人里離れた施設で個室に放置されて死んだ頸髄損傷者もいると聞いた。知的障害者や痴呆症の老人は文句をいわないが、頸髄損傷者は首から上は健常なので苦情をいう。うとんぜられ夏場2〜3日個室に放置される。すると、褥瘡(じょくそう)からくる敗血症か尿路感染からくる腎盂腎炎(じんうじんえん)であっけなく死んでしまうのだ。おそらく「水をくれえ、水をくれえ!」と叫びつづけながら。
 そんな施設は同族経営だから世間に漏れることはない。そういう施設は家族の面会やボランティアの手伝いも嫌ったと聞く。これなどはまさにアウシュビッツ以上の苦痛といっていいだろう。わたしは危うく死者の仲間入りをしかけたのだ。それを食い止め、暗鬱(あんうつ)な紆余曲折はあったものの、わたしを現在の比較的しあわせな人生に導くきっかけをつくってくれたのもまた亡き妻であったのだ。感謝しなければならない。(つづく)

東京都:藤川 景


 ほうけてしまった 

 何でもできていたときにはいつでもできると後回しにしていた。営業で鎌倉を担当していたというのに何も見学しなかったっけ。身体を壊してからは何もかもを諦めていた。そして、いつしかそれが当たり前となり悔しくもなくなっていた。ところが、そんなわしが友人たちを拝み倒してライヴに連れて行ってもらったのだ!
 中学に上がると洋楽と洋画に夢中。時代はグラムロック全盛、野郎どもが化粧をして輝いていた。間もなくしてこのムブメントは終焉(しゅうえん)を迎えるのだが、そんな74年にとある1曲と出会う。そして40年を経た今なお、彼こそがわしの唯一無二のヒーロである。
 彼の名はIan Hunter。当時はMott The Hoopleというバンドの顔であった。75年には、ワールドツアの一環で来日の噂(うわさ)が立つもバンドの突然の解散で立ち消え。また、90年に来日が決定するも相棒の体調不良でキャンセル。そして、この相棒は93年に癌(がん)でこの世を去る、なむなむ。それでも彼は歌い続け、わしらファンは追いかけ続けた。2009年と2013年にはイギリスでMott The Hoopleの再結成ツアがあり、大きなため息を吐いて諦めたものだ。さすがにイギリスには行けないもの。ところが、その彼が初来日するという。場所は東京。彼ももう75歳。これを逃してなるものか!!
 友人たちを説得するにあたり情報を集めねば。プロモータに電話を入れるが、念のためにライヴハウスにも確認してくれとのこと。もっともだ。そこで、駐車場を尋ねると最寄のコインパーキングをとのこと。ネットで探すとあるはあるは、さすがは下北沢。3段の階段は手伝う、エレベータも多目的トイレも車椅子用観覧席もあるので安心してくれとのこと。果たして必要な情報は揃(そろ)い、ガキの頃からの付き合いで、高校時代には一緒にバンドをやった友人2人も快く受け入れてくれた。それからの半年は、わしらしくないほどに体調管理に注視した。なにせ大好きな酒を断ったのだから。
 そして当日。トイレの心配で飲み食いは一切せず、東京までの運転は恐いのでハンドルは友人に預ける。さすがに仕事で東京を飛びまわっている友人、会場近くのパーキングに車を入れる。ちょっと遠かったかな。1月の風がこたえた。が、会場で想定外のトラブルに見舞われる。エレベータが動いていない。B3会場には階段使用だというのだ。というのも、エレベータ前は関連グッズの販売スペースとなっていた。そこで、スタッフに頼んで臨時店舗を撤収してもらってエレベータを動かしてもらう。すんまそん。そして、3段の階段を担ぎ上げてもらいトイレを尋ねる。すると何とB4だとのたまう。それはないだろうよ! あちらも「先に言えよ!!」と思っているだろうから深々と頭を下げ、階段を下ろしてもらい、店舗を撤収してもらい、そしてエレベータを動かしてもらう。えろーすんまそん。当然ながら戻るのにまたこれをお願いし、すっかりテンションが下がってしまった。わしは来なければよかったのか? 諦めるべきだったのか? 否、あと10分もすれば彼がそこに現れるのだ。わしらに向かって生「'allo!」と微笑むのだ! その代償だと思えば我慢我慢。
 てなわけでライヴが始まったのだが、出入り口付近にある車椅子用スペースは思いのほか低く、実のところほとんど観ることはできなかった。オールスタンディングだったのでわしの目線は観客の背中なのだ。時折プッシュアップしてはみたものの、やはり厳しいものだった。それでも、2時間半ほど同じ空間を過ごしたことで満足することとしよう。なにせ40年も待ち続けたのだから。どうやら、彼の初めての日本の印象はよかったようだ。新譜の噂もあるし来年の来日もあるかもしれない。となれば、また友人たちにわがままを言ってもいいかな。そして、夢の叶ったわしは魂が抜けたかのようにほうけてしまっている。次の元気の素を探さねば!!

鈴木@横須賀

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