特集 懇親会講演要旨
演題 東日本大震災被災障害者のおかれている現状と防災提言
講師 八幡 隆司 氏(NPO法人 ゆめ風基金 理事)
10月6日(土)15:10〜16:50
[被災地支援の状況]※現場から国まで
社協が動けない状態でボランティア活動ができなかった。
水までの援助しかなく食料については対象外として援助しなかった。通信がやられている上に厚労省、復興省、自治体、市町村への通達がバラバラなので、救済区域や対象が管轄外とすることで救済できなかった。
交通機関がないため、中古のバスを購入するにしても、市町村に申請しても市町村で審査され、県に行き審査され、県から国に行き国で審査されて、認められるかどうか降りてくるのは数ヵ月後になるという実態があった。
[被災地の状況]
内部障害や精神障害の人のへ支援が行き渡っていなかった。
JRをはじめとする交通機関がほとんど壊れていた。車しかなかった。海水に浸った車は動かなくなった。カーナビが役に立たない。ガソリンがなくてもあるという噂だけで何キロにもわたって渋滞した。コンビニは食料がなくなっていた。食料や電池、ペーパーなどが買い占められていた。
[仮設住宅についての課題]
仮設住宅にしても、全体の1%にスロープを付ければいいとして、通達すると、ダイワや住友など大手ゼネコンが孫請けにさせてスロープだけをつくって、当事者にとって意味をなさない状況になり、当の障害者は全く違う地域で間借りすることになっていたりした。
住宅改造費の上限が支援法で1世帯に10万円まで、復興支援の方が高いのでそれを使えばいいか、その情報を所轄の窓口も知らなかった。
[安否確認の難しさ]※安否確認と現状確認の仕方について
ただ普通に、「大丈夫だったか」と尋ねると生きている人は大体、「大丈夫だった」と答えているが、実際は電動車イスが必要になっていたり、壊れていたり、着る物や食料、医薬品などがなく困っていた。障害児を抱える家族がノイローゼに陥っていた。
もっと、具体的に尋ねないと電話一本ではホッとして、「大丈夫」の一言で終わってしまう。ベッドが必要なのか、畳の上でいいのか、クッションがいるのか、介護はどの程度必要かなど具体的に尋ね、また当事者側も言わないと分からない。
[普段のまちづくりの課題が、災害時にはより大きくなって現れる]
地域の民生委員の人たちも亡くなっていたりしていた。いても名簿上と顔が分からないので年に一度は顔ぐらい合わせておく必要がある。
普段からの地域住民との挨拶や関わりが必要ということだった。
行政の縦割り問題でどれだけ、時間の浪費があったかなど問題点はさまざまだった。
福岡市:T.K.
特集 福岡懇親会に参加して
福岡……私は昔から福岡という所でゆっくりしたことがありませんでした。おそらく生まれて初めて博多という場所に降り立ったということになります。
「はがき通信」の懇親会には広島頸損ネットワークの会長となって、幾度かみなさんからお誘いを受けながら実のところ初めての参加でした。実はこの時期、大分国際車いすマラソンの追い込みで練習を主にしておりましたので時期的な要因もあったと思います。
このたびの福岡懇親会でご案内させていただきましたが2013年は「広島懇親会」が開催されます。今回の福岡を来年の広島の参考にしていかないと、参加経験のない私は、次回へ向けての勉強でもあります。
でも一番重要なのは九州の方々、全国からお集まりの購読者の方々との出会い、つながりをつくることができるということです。ご参加の方々全員とお話ができれば良かったのですが、なかなか食べることに忙しく(笑)同じテーブルの方が主になりましたがいろいろお話をすることができました。
●右から司会のGさん、Tさんご夫婦
やはり同じ悩み、思いを共有できる仲間との語らいは『ほっ』とするひと時でとても落ち着く瞬間です。こんな時間がずっと続けばいいのですが……そんな楽しい時間はあっという間に過ぎていきました。
一つ残念なのは、参加した私、そして家内は数日前から体調を壊してようやく治った状態での参加で1日目の懇親会終了後に早々にホテルに撤収してしまい、ゆっくりと博多ナイトを楽しむことができず、次の日の早朝に帰宅しなければならなかったことです。いろいろ行きたかったな〜。
また2013年秋にみなさんとお会いできることを楽しみに広島スタッフ一同お待ちいたしております。『広島へ来んさいよ〜待っとるけ〜』
福岡懇親会では幹事のみなさん、スタッフ、ボランティアのみなさま、ありがとうございました。
広島県:K.T.
特集 懇親会に出席してパワーを
皆さんこんにちは、懇親会に出席させていただき皆さんのパワーをいただきました。藤田さんや担当していただいた実行委員の方々お疲れ様でした。
私は頸損歴28年、左手に握力が4kg位あります。頸損者の誰もが体験した崖っぷち、私は将来ある子供たちの足を引っぱりたくなかったことと、排尿管理ができるようにならなきゃ自宅には帰れない、その念で自己導尿ができるまでにこぎ着け、一年半の入院生活を後にしました。バリアフリーに設計された自宅に戻り、最初から台所のことは私の務めだと思い一つ一つをクリアし現在にいたっています。
私を支える生活の基盤は(千里の山も一歩から)のろまでもスタートすることがあれば何時もその諺(ことわざ)が頭に浮かびます。人生いろいろ、現在は孫2人との生活に切り盛りしています。3歳と5歳から世話をするようになった孫たちも3年生と6年生になりました。
8月25日頼りの左手に激痛が走り、ベッドへの移乗と身支度に支障を来すようになりました。まだ自分のことができることと、私を必要としている孫たちのためにも1日でも自立した今の生活を続けたいと願っています。
●Sさん(1番右)とお孫さん
介護保険適用で、週3回入浴のサービスと週5回のヘルパーさんの支援を受けています。動けることに喜びと支えられることに感謝。
長崎県:Y.S.
特集 金印の島へ
去年の横浜懇親会は、家から車で1時間の近距離にもかかわらず、背中が痛くて痛くて、もう懇親会出席もこれまでかなとおもった。今年はじめS出井さんに脊損痛にはリボトリール、ワイパックスが効くと聞いて試したところ、やや改善した。朝食後と就寝前に飲んでいる。ハルシオンなしで眠れるようになったのがありがたい。薬だけでなく鍼(はり)を週2回、PTを週1回たのんでほぐしてもらっているからそれも効果が出ているのだろう。脊損痛といっても、その半分ぐらいは凝りが原因ではないかと考えるようになった。
さて博多観光——。10月6日(日)の午前中に「処置」をすませ、午後観光に出かけた(処置は疲れるからいつもなら家から出ない)。博多まで来たなら玄界灘の魚を味わいたい。地図を見ると能古島(のこのしま)というのが博多からフェリーで10分だ。しかし能古島の観光スポットに行くには船を下りてから45分もバスに乗らなければならない。それではわたしの背中は堪えられない。
もうすこし沖に志賀島がある。金印「漢委奴国王印」が出土したところだ。金印は歴史の授業で習ったが、志賀島の場所は知らなかった(そういえば小倉懇親会で門司港のタワーに登ったとき、「あれが巌流島」と教えられ、へええ関門海峡にあったのかとおもった)。旅に出るとおもいがけないものに出会う。志賀島も何かおもしろい発見がありそうだが、遠い。そこでやむなく志賀島まで陸路でつづく「海の中道」へ行くことにした。志賀島まで到達できなくても、ここも有名なところだから観光地らしいものがあるだろうと予想した。
JR博多駅のホームで博多ラーメンを見つけた妻はさっそくとびついた。これを食べなければ博多に来たかいがないという。わたしは糖尿病で毎朝血糖値を計りインスリンを注射し、カロリーと糖質を極力ひかえている身だから——今のところ血糖値は100前後に押さえ込んでいる——、一口だけお相伴にあずかった。駅のホームでこれだけうまいとは、さすが本場だ。
途中の駅でJR香椎線(かしいせん)に乗換え。駅員がえらく長いスロープ板を持ってきたとおもったら、車両の入り口に1段階段がある(写真1)。ディーゼル車らしい。
終点の西戸崎(さいとざき)で下車。駅前にはたこ焼き屋が1軒。観光地ではない。どうしようかと考えあぐねていたらバスが来た。志賀島の観光スポットまで行くバスは行ったばかりであと1時間待つ。とりあえず途中の「海の中道」だけ見られればいいのだから、来たバスに乗る。なりゆきまかせの旅だ。
「海の中道」はたしかに両脇を海にはさまれた細い道路だが、片側は松林などでさえぎられ、海の中を走っているなあというモーゼのような気分にはなれない。雨戸を閉めた浜茶屋が軒を連ねている。夏はにぎやかだろう。
(1)ディーゼル車に乗り込む
(2)バスの中で背中を除圧
このバスは「志賀島小学校」止まり。ロータリー、といってもただの土の広場で停車し、運転手は暫時休憩のため下車、どこかへ立ち去る。道中1軒だけ飲食店らしきものを見つけていたので、われわれはそこまで折り返すことにした。
短い時間だし、スロープ板を直接地面におろすと角度がきつくなることも考慮し、バスの中で三脚を使った「前のめり」の姿勢をとることにした(写真2)。妻は付近の探索に出かけた。天気が良く、ときどきカラスがケロケロと鳴き、風が土ぼこりを巻き上げるだけで、ほかに物音はない。志賀島ひとりぽっち。これもなかなかおつな観光だ。妻の撮った写真をあとで見ると、志賀島の入り口はこんな風景だった(写真3↓)。
(3)志賀島の入り口あたり
(4)大岳と博多を結ぶフェリー「きんいん2」
遅い昼食をみやげもの屋を兼ねた食堂でとった。新鮮なカンパチの小鉢が300円だった。東京なら何倍もしそうだ。小ぶりの焼きサザエをふたつ。これもうまい。食事しながら帰り道を検討する。なんと店のすぐそばに「大岳(おおたけ)」というフェリー乗り場があった。というよりフェリー乗り場があるからこの店がなりたつのだろう。
ただでさえ疲れているうえに昼間からビールの中ビンを飲んだので、店を出るころには起立性低血圧で世界が真っ白になってしまった。勘で車イスを運転、フェリーに乗り込む(写真4、5、6)。フェリーといっても自転車とバイクが乗れる程度。釣り客が多いようだ。
早くベッドにもどりたいので、ホテルに着いたらすぐ夕食。腹はすいてないが、博多に来たらイカの活け作りを食おうと決めていたので注文。全長40〜50センチはあろうかという大イカが、足を動かしながらギロリとこちらをにらむ。ホテル内の店だからしょうがないけど、こっちだっておまえに目の玉がとびでるほどの大枚をはたいているのだよ。
(5)フェリーから見た博多湾
(6)へべれけの顔に波しぶきが心地よい
刺身の食感はパリパリとして新鮮そのものだが、さほどうまみはない。足やエンペラは「あとづくり」といって天ぷらにしてくれた。刺身の10倍ぐらいの量が出てきたからたまげた。塩で食うと、まあうまいのなんのってこんなにうまいイカ天は生まれて初めて。わたしはもう腹いっぱいで焼酎の水割りしか飲めないというのに、妻が「もつ鍋」を注文した。そんな野卑なものを食う元気はないなとおもいつつ食ったら、野菜中心で出しがじつにうまかった。翌朝の血糖値は160だった。
東京都:F川
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