はがき通信ホームページへもどる No.132 2011.12.25.
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 過去の褥瘡体験 

46歳、C6、頸損歴23年

 交通事故で頸椎5・6を損傷し、23年になります。5年の入院生活の後、自宅での生活、そして2年半前から、障害者アパートでの1人暮らしをしています。1人暮らしといっても、アパート内に、ヘルパーの事業所があり、昼間はそこに職員がいるので、生活しやすい環境で、体調的にもずっと安定しているし、順調に過ごせています。
 今は、褥瘡予防も上手くいっていて、褥瘡について、最近あまり悩むことはなくなったんですが、事故をしてから長い間、褥瘡では苦労したので、今回は、過去の褥瘡体験について書きたいと思います。
 最初、事故直後には、仙骨部に大きな褥瘡ができ、2年かかりましたが、最終的には、手術で治りました。術後40日ぐらいは、うつ伏せと、横向きだけで過ごしました。
 自宅での生活に変わってから、今度は、座骨の褥瘡に悩まされるようになりました。長時間、車イスに座って、ワープロや、パソコンをしていたので、座る時間が長すぎたと思います。初めのころは、どのぐらいの時間なら大丈夫なのかわからず、クッションもいろいろ変えてみたりしたのですが、座骨の褥瘡は再々でき、できたときは仕方ないので、1週間、寝たきりで過ごして治す(入院、手術も何度か)、というパターンが長く続きました。結局現在は、ロホクッションにして、座位を1日8時間(4時間+4時間)に制限して、ここ5年以上は安定しています。ただ、これだけ上手くいっていると、座る時間がもっとほしいんですが、時間を増やすのが怖くなってしまって、今の座る時間にこだわってしまっています。長時間座りっぱなしでも、大丈夫という人もいるんですが、それぞれ違うと思うし、難しい。あと1時間ぐらい座る時間を増やせたらと思うのですが、やっぱり安全策になってしまってます。
 仙骨部の予防のほうは、いまだに「棒座」なんですが、これで十分上手くいっています。10時間ぐらい仰臥位でも棒座(2本1組で左右から腰のところに差し込み仙骨部を浮かす)で、大丈夫みたいです。一応、エアマットもあるんですが、長年、棒座で上手くいってるんで、とくに変える必要もないと考え、エアマットは、棒座でトラブルが起きたときのための、備えとして用意しているようなところです。
 それから原因がわからず苦労した褥瘡体験があるんで、書いておきたいと思います。ある年から、毎年冬になると足の指に褥瘡ができるようになりました。右足の、第2指、第3指です(図1)。12月ぐらいからでき、4月ぐらいまで治りませんでした。でも、春には治ってましたんで、原因を特定できないままでした。原因がずっとわからなかったため、結局、3度続けて同じことを毎年繰り返しました。そして3度目のとき、かなりひどくなったんで、何とかしないといけないと思い、もう1度、あらゆる可能性を考え、1度は排除した可能性も白紙に戻し、原因を検討してみることにしました。そして、2度目に治ったときの、状況を考えていてやっと、ようやく原因にたどり着きました。2度目に治ったときは、ショートステイで施設に入所中だったことを思い出したんです。では、施設と、(1度目のときの)家とで何が違うかというと、ベッドなんです。ベッドの足元のボードの高さが違うんです。これでわかったんですが、原因は「布団の重み」でした。
 よくよく考えたら、初めてできたときの半年ぐらい前に、ベッドを換えたことにようやく思い至りました。新しく買ったベッドは、それまでのベッドに比べて、足元のボードがかなり低くて(図2)、冬には重たい布団をかけるため、どうもその布団が、右足に乗っかって、足の指を引っ張って垂れ下がっていたようです。(夜間は8時間、仰臥位のままで体位交換はしないし)旧ベッドは、ボードが十分に高かったため(図3)、ボードが布団の重みを支えてくれるんで、布団の重さが、足の指にはかかってなかったと思います。ショートステイのベッドも、ボードの高さが十分ありました。
 ベッドを買い換えたのが、春ぐらいだったんで(そのころは布団も軽く)、その直後ならともかく半年たったころに、その影響で足の指に褥瘡ができるとは、気づきにくかったんです。



 それと、せん足予防のため、足元には、クッションを置いていたので(図2)、そのクッションが、布団の重みは、支えてくれると思い込んでいて(今までそれで大丈夫だったし)、1度は考えた布団の重みも、除外してしまっていたんですが、実際は、クッションの高さと、固さが十分ではなく、布団の重みを支えきれていなかったということもわかり、この思い込みもいけなかったと思います。
 それで、夜、仰臥位で寝るとき、段ボールの中に足を入れて、布団の重みが足にかからないようにすると、深い褥瘡でしたが、わずか1週間で治ってしまいました。以後、ベッドの足元のボードは、ベッドを換える場合、大事なポイントとの一つになりました。
 原因がわかってみると、あれだけ苦労したものも、簡単に治ったわけですが、けい損だと、原因がわからないことも、けっこうあるんじゃないかと思います。ベッドや、車イスのように、毎日使うものに関しては、買い換えた後に、十分注意が必要で、褥瘡など何か、身体にトラブルが起きて、原因がよくわからないときは、そういった日常で使うものを、いつ取り換えたか、そのことをよく考慮しないといけないと思いました。

福岡県:E.N.


<特集!「四肢マヒ者のスポーツⅡ(その3)」>


 前号の特集に引き続き「四肢マヒ者のスポーツ」の第2弾・その3(第1弾は、116号・2009年4月発行)を情報交換のためにご投稿をご紹介させていただきます。







 特集 スポーツ吹き矢ハワイ大会に参加して 

受傷歴8年

はがき通信」の先月号にも載っておりましたが、障害者のスポーツはいろいろと制限される場合が多いのですが、僕も何か自分にできるものはないかと探しておりました。
 そんなとき、「山梨日々新聞」の投稿欄に「スポーツ吹き矢」は子供から大人まで誰でもできる簡単なスポーツであるという投稿がありました。僕は8年前にバイク事故で頸椎の5番を損傷し、横隔膜も肺活量もとても少ないのですが鍛えるのにちょうどいいスポーツだと思い去年の春ごろ見学に行き入会しました。先輩はまっすぐにマトに向かって矢を吹くのですが僕の場合はション便小僧のような矢です。毎週土曜日、近くの体育館にて練習を行い、最初の頃は33cmもある的の台にも当たらず半分ぐらいは体育館の壁に当たる状態でしたが、少しずつ狙ったところに矢が刺さるようになるとなかなかの快感です。山梨では車イスでスポーツ吹き矢をやっているということで、まだ珍しく、テレビや新聞で取り上げられるようになりました。そのおかげで友人、知人を10人ほど紹介することができ、今は楽しくやっております。



ちょうど初めて1年ほど経った今年の春にスポーツ吹き矢の山梨県大会がありました。今、山梨には6つ支部があります。そのときは60人ほどの会員が集まり、個人戦と団体戦を競うわけですが、個人戦はメタメタでしたが団体戦は一緒に始めた女房と僕のところに来ていただいているヘルパーさんの3人で団体戦を戦うことになり、最初ヘルパーさんが吹いたのですが、なんと的の真ん中の6cmのところに7mのところから5本中、3本も入り31点という高得点でした。次に女房です。僕の女房はあまり練習はしませんが集中力は素晴らしいものがあり、なんと真ん中に5本中、4本が入り、33点の高得点です。最後に僕ですが僕の場合は、車イスですから的の高さを130cmに下げてもらいます。
 ゆっくりと的に向かって吹いたのですが、最後の矢が「はね矢」といいまして、何回も的に当てていると的が傷ついて刺さりにくくなってしまいます。その場合はスペアーの矢を吹くことができます。もう皆は5本吹き終えて審判に点数を数えていただくばかりに待っている状態でした。最後の1本をゆっくり基本動作から始めて筒を口にくわえる手前で、審判長からラスト30秒という大きな声が体育館中に響き渡りました。ですから60人すべての視線が僕の一挙手一投足に集中している状態です。
 普通ならプレッシャーが掛かるところですが、なぜか冷静にゆっくり最後の矢を吹くことができ、それが見事にど真ん中に入りまして全員から「オー」という歓声が上がり、やはり31点をとることができました。3人の合計が95点という僕たちにしてはハイレベルな点数でみごと優勝することができました。
 ヘルパーさんは僕が紹介したのですから当然1年も経っておりません。個人戦はメタメタだった3人。それぞれが忙しく、あまり練習にも参加していない3人が、全員、高得点を出すということはなかなか難しいことだと思います。しかしそれには2つの要因があるのです。
 1つ目は、吹き矢の本部から「サクセス」という会社が吹き矢の道具の販売に来ておりました。女房が新しい矢が欲しいということでしたが、僕が、どうせ優勝すれば商品に矢がもらえるんだから買わなくていいよといって女房を納得させました。
 2つ目は、団体戦が始まる前に3人で手をつなぎ、目を閉じて、絶対優勝すると心にて誓ったのです。そして3人の波動を一緒にしました。そのおかげで自信を持って団体戦にのぞむことができました。
 その2つのおかげで、誰も予想しなかった僕たちが団体戦でみごと優勝ができたのだと思います。やっぱり何事もプラス思考で、できると思うことが大切ですね。また一つ女房に教えてもらうことになりました。
 僕たち夫婦はとにかくハワイが大好きで元気なときもよく社員旅行とか友達と一緒に何回か行っていました。今年も5月に友達と10人ぐらいで行く予定でしたが、その中の1人が、3.11の震災に遭いまして延期となりました。
 そんな折にスポーツ吹き矢の新聞に「ハワイ総支部設立5周年・日米交流大会」オープン参加という記事が載っておりました。これはもう行くしかないな、山梨大会でも優勝したことだし、という軽い気持ちで参加して来ました。
 日本から30名ほど参加したのですが、行った最初の日の夜、日米交流夕食会をアラモアナショッピングセンターで行うということで早めに行って場所を確かめてきました。
 しかし時間を間違えて15分遅れという失態をしてしまいました。慌てて入ってテーブルについて大変驚く出来事がありました。というのは僕たちは初心者で2級と1級です。しかしテーブルに座っている渋谷支部の人たちは皆4段、5段でしかも指導員という人たちばかりです。場違いのところに来てしまったと一瞬思いましたが、そこは2人とも単純でプラス思考の塊です、「まな板の鯉」、オリンピック精神で参加することに意義があるのだと2人で自分自身に言い聞かせて大笑いし、思いっきり大会をエンジョイしようということにしました。車イスでの参加は僕1人でしたから青柳会長とか山田国際部長もたいへん喜んでくれました。

●スポーツ吹き矢を発案してここまで大きくした、青柳会長(左)と山田国際部長です。

 そして次の日いよいよ大会です。いつもなら「パロロ本願寺」という西脇住職さんのお寺さんでやるそうですが車イスの僕のために、大会の場所をパシフィックビーチホテルに変えてくれました。ありがたいですね。今日は遅刻はできないと、1時間前にホテルに着くように自分たちのホテル、「ハイアットリージェンシー・ワイキキ」を出ました。もう現地の人たちは的を立てたり、テーブルをセットしたり、おにぎりの用意をしたりと忙しく働いていました。
 会長の挨拶の後いよいよ緊張の中、大会のスタートです。最初にハワイ、日本の5人の混合チーム、10チームによる得点争いです。上位3チームに金、銀、銅メダルが授与されます。その中からハワイ、日本の上位10人が日米対抗の青柳杯争奪戦となります。その中に女房も選ばれましたが4点差という僅差で日本チームが勝ち、大きな青柳杯を日本に持ち帰ってきました。
 その後は懇親会と表彰式です。ハワイ領事館のご夫婦、ハワイで大きなラジオ局のオーナーご夫妻、また最初にハワイにスポーツ吹き矢を紹介した方の紹介等があり、おいしいバイキングをいただきながら、表彰式に入りました。僕はまったく予期してなかったのですが、なんとわれわれのチームが銅メダルを獲得することができました。凄い運の強さですね。
 まだハワイに来て2日しか経っていなのですが、とても充実していたので、後3日もあるということに、2人とも驚きでした。ちょうど10月5日が僕たちの結婚39回目の結婚記念日でしたので、ホテルのレストランにて女房の好きなロブスターを思いっきり食べて2人で祝いました。
 このホテルはバリアフリールームがとてもしっかりしておりまして、トイレの手すり、洗面台も車イスのままオーケーです。座ってのシャワーもあり、僕の車イスの高さに合わせて注文した50cmのエキストラベッドを入れてくれ、ベランダにもスロープが付いていますからとても楽でした。26階のそのベランダからワイキキビーチのきれいな海を眺めてのんびりして癒やしの時間を過ごすことができました。感謝です。
 いよいよ2013年の「東京国体」にはスポーツ吹き矢がデモンストレーションとして参加するそうです。国体の種目になることも近いことでしょう。来年も9月頃ハワイ大会があるそうですから楽しみにしています。
 僕は4人兄弟の3男として生まれました。実は去年、次男の兄貴を肺の病気で亡くし、今、長男が肺がんの末期で入院しています。人間いつどうなるかわかりません。身体が動くうちに、いろんなところに遊びに行き人生を楽しもうと思っています。

 山梨県:H.N.



 特集 私と車いすスポーツ(2) 

42歳、C6、受傷歴20年

 こんにちは、Sといいます。福岡市在住C6の頸損です。今年でちょうど、受傷して20年になりました。 
 前回130号(2011年8月)で、私が受傷してから車いすツインバスケットを始めるまでについて書きましたが、今回は、その後の陸上競技について触れてみたいと思います。
 それまでも、ツインバスケットのメンバーとバスケット用の車いすで大濠公園の車いすマラソンに2回ほど出ていましたが、そのときに私たちの横を風のように抜き去っていくレース用(競技用専用)車いすの人たちを見て、密かにあこがれていました。そして福岡市の障害者スポーツセンター(以下:障害者SCとします)の指導員の先生にも協力してもらい94年春から競技を始めました。陸上は、バスケットや他の球技と違って自分のあいた時間に練習できるのも魅力でした。
 レーサー(競技用専用車いす)と言われる大きな前輪が一つ出ている3輪の車いすに、体操座りのような体制で乗り込み、拳をハンドリムに叩きつけるようにして車輪を回していきます。特に私たち頸損は、握力がないため、拳をじゃんけんの「グー」の状態で保てるように専用のボクシングのようなグローブをはめて固定します。
 一般的に車いすマラソンがよく知られているように、陸上を始めて、私が最初に興味を持ったのはマラソンでした。最初は、ただ漠然と走っていました。というのも九州では大分国際車いすマラソン大会というビッグイベントもあり、その年初出場の私は、ハーフマラソンのクラス別で2位になるなど好成績で、当時はこのまま将来は、フルマラソンでもメダルを取ってやると思っていました。
 そんな私を短距離種目に導いてくれたのは、コーチをしていただいた障害者SCのK指導員です(その後、北京パラリンピックでは、陸上競技団の監督になられました)。
 「Sのクラスは、(競技人口が少なく)国際大会そしてパラリンピックでは100m,200mかフルマラソンしか実施されない。(可能性の高い)短距離で世界を目指せ」
 短距離種目に取り組みだした私は、東京のジャパンパラリンピック、大阪の日本選手権などを目指すようになりました。
 障害者SCの指導員の方々に休日返上で練習を見ていただきました。真夏の炎天下では、私は体温調節ができないので、頭からホースで水をかけてもらいながら、博多の森のサブトラックで100mダッシュのインターバルを繰り返しました。最初は10本もするとへばってタイムが落ちてきていたのが、半年後には20本ぐらいこなせるようになっていました。レーサーをコーチに後ろから押してもらい自分では出せないトップスピードに手の回転をあわせ、自分のMAXより速いスピードを体に覚え込ませました。熊本在住でかつての車いすマラソンの日本記録保持者であるYさんからルームランナーを購入し、雨の日や平日で陸上競技場まで行く時間がないときなど走り込みました。さらに私の場合、(上腕3頭筋がほとんど効いていないために弱い)プッシュする力を補うためグローブに小さな砂袋をつけるなどして工夫しました。
 猛練習の甲斐あって、トラックのレースでは連戦連勝、自己記録(=日本記録)も徐々にあがって、98年ぐらいには、前回のアトランタパラリンピックの同クラスの100m、200mの入賞タイムと遜色ないくらいまでになりました。
 日本のトップになった私は、99年1月にタイのバンコクで行われたフェスピックにT51の日本代表として選ばれたのです。同じ陸上車いすのメンバーは、現在日本の車いすマラソン界のトップにいる、H道、T田、H岡というそうそうたる顔ぶれでした。直前のアジア大会で、あの高橋尚子が30度の猛暑の中、世界最高にせまるタイムでゴールしたスタジアム。伊東浩司がアジア初の10秒フラットで駆け抜けたのと同じ4レーンという最高の舞台でした。
 そして、競技初日に行われた100mで1位、金メダルを獲得しました。表彰式でかけてもらった金メダルは、ずっしり重く感動しました。
 初めての外国での大会は、私にとってレースのことだけでなく、身の回りのできることは自分でしないといけなかったので、貴重な経験となりました。タイの人はとても優しく、レースが終わった後は、中古のダットサンの荷台に車いすごとあげてもらい他の競技の会場へ連れて行ってもらったりしました。かなり怖かったですが、いい思い出となりました。そのタイで今たいへんな洪水被害が出ているということを聞き、とても心配です。
 そうやって陸上競技でシドニーパラリンピックを目指してやっていましたが、99年7月のカナダの大会でのクラス判定で、私は、1つ上のT52クラス(C7、8レベル=車いすをこぐときに上腕3頭筋を使っている)ということになり、国内の大会でも全く太刀打ちできなくなり、パラリンピック出場は、幻となりました。
 次回、車いすラグビーについて書いてみたいと思います。

福岡市:Y.S.



 特集 誰もができるふうせんバレーボール(2)〈前編〉

 障がいのある人たちのスポーツについては、代表的なものだけでも、車いすバスケ、車いすマラソン、アーチェリー、卓球、車いすテニス、ウィールチェアーラグビー、ボッチャ等々いろんなものがあります。
 障がいといっても軽度から中度・重度、そして障がいの種類も、病気、薬害、事故と大きな違いがあります。
 バスケ、テニス等のスポーツができるレベルの人たちと、それらのスポーツができない人たちとの差もあります。
 そんな中で、22年前に、「俺たちもスポーツがしたいね」という、そんなひとりの障がい者の“つぶやき”から“ふうせんバレーボール”が生まれました。それまでの障がい者のスポーツは、自分の力で動けない人ができるものはほとんどありませんでした。
 そこで、バレーボールを頭にぶつけてみたり、ソフトボールを投げてもらって、バットにチョコンと当てて代わりに走ってもらったり、電動車いすでサッカーボールを蹴ってみたり、といろんなものを試してみましたがどれもうまくいきませんでした。
 そんなときに、メンバーの1人が病院などでリハビリとして行われていた「ふうせんバレーボール」を見つけてきて、これをアレンジし、誰もが参加できるスポーツ「ふうせんバレーボール」としました。
 ルールを簡単に説明します。
 (1)コートは、バドミントンコート(6.1m×13.4m)を使用します。
 (2)ボールは直径40cmに膨らませた風船に鈴2個を入れ、結び口にテープを貼ったものを使用します(視覚障がいの人がボールを耳で捉えるための鈴)。
 (3)チームは、障がいのあるプレーヤー(ハンディプレーヤー=HP)3名
 障がいのないプレーヤー(アドバンテージプレーヤー=AP)3名
 (4)ボールがコートに入ってから競技者6名全員がボールを打ち、規定打数10回以内で相手コートに返します。
 (5)規定打数の間に、1人が2回までボールを打つことができます。
 [ハンディレベル]
 (1)障がいがあるためにボールを追ったり、打つ動作に全面的な介助が必要な人をレベル1、部分的介助を必要とする人をレベル2、単独プレーが可能な人をレベル3、障がいのない人をレベル4とします。
 (2)ボールを追うことと打つことに部分的介助が必要な人を「レベル2」とします。
 考え方としては、全介助のレベル1でもなく、ほぼ単独プレーが可能なレベル3ほどでもない人は、すべて「レベル2」とします。
 (3)ある程度自力移動が可能で、打つことも可能な人を「レベル3」とします。
 (4)障がいがあっても、プレーにほとんど支障のない人(障がいのない人も)は「レベル4」と判定し、アドバンテージプレーヤーとして参加します。
 HPは、手で打てない方は、足、頭、体のどの部分で打ってもOKです。
 身体障がいだけでなく、視覚障がい、知的等の判断能力の障がいによる判定基準もあります。(後編へ続く)
 ふうせんバレーボール振興委員会
 
 fusen-volleyball-owner@yahoogroups.jp

北九州市:S.S.



 『臥龍窟日乗』−キャタピラー− 


 午前の介護を受けながら、つけっ放しのNHKを聞くともなく聞いていた。思いがけない名前が耳に飛び込んだ。確かに「若松孝二」と聞こえた。そんな筈はないとベッドを起こしてもらう。画面に映っている長髪の老人は、まごうことなき若松だ。出身小学校で、自分の職業を後輩児童たちに手ほどきするという趣向だ。学校は東北被災地にある。
「なんとバカな」と最初は思った。
 私の頭にある若松孝二は「エロ映画の巨匠」といわれた映画監督だ。ひと昔前、池袋に文芸座という鄙(ひな)びた映画館があった。土曜の夜ともなると「成人映画○本立て」をやっていた。『犯された白衣』なんて、若松モノがかかると立ち見が出た。エロ映画でも巨匠といわれるほどになると、なかなかどうして、文芸物を凌ぐ作品も少なくない。しかし小学生にエロ映画の撮り方を教えるとなると話は別だ。しかもNHKである。
 40代半ばの女性ヘルパーさんに、試しに聞いてみる。
「あんた、若松孝二って知ってる」
 軽蔑されると思いきや、
「ええ知ってますよ。いい映画撮ってますよね」
 と屈託ない。念のため、もう一度ベッドを起こしてもらう。あのヤクザ的風貌は昔と変わらない。何かが狂っている。いよいよ女人もエロ映画を観る時代になったか。画面では『キャタピラー』という最近作の紹介をしていた。
 キャタピラーって芋虫のことだよなぁ。何かが頭の隅っこに引っかかっていて、気になって仕様がない。既視感がある。今の自分にとってのっぴきならない何か……。
 レンタルのDVDを借りてきてもらう。日中戦争と字幕が出る。農家から出征した兵士が、中国で負傷し四肢を失って復員してくる。手足を失い、頭にはケロイドの痕。耳は聞こえないし喉は掻っ切られている。名誉の軍神と崇(あが)められ、床の間に飾られた姿は、手足をもがれた縫いぐるみみたいだ。軍神は村人の前では神だが、食欲と性欲だけが昂進していて、家に戻るとまるで獣(けだもの)となる。ウーウーと呻りながら、女房にセックスを強要する。
 この女房役が実にいい。寺島しのぶという。この作品でベルリン映画祭の主演女優賞をもらった。真っ昼間、農家の居間で、躊躇(ためら)いながらブラウスのボタンをはずし、もんぺのヒモを解く。顔の表情だけで賞をもらったような演技をする。
『芋虫』。やっぱりそうだ。若いときに読んだ江戸川乱歩の小説が原作だ。もちろん私は受傷前のことで、世の中にはこんな世界もあるのかという程度の印象しかなかった。
 軍神は食欲もまた凄まじい。近所の農婦が分けてくれる銀シャリを、一人で食ってしまう。女房には食わせない。栄養がいいから精力が有り余っている。のべつまくなしセックスを強要する。世間体もあるから、最初のうちは軍神の言いなりになっている女房も、介護の疲れと精神的なギャップ──つまり軍神の妻というプライドと性の奴隷という現実にいたたまれなくなる。
 原作では、女房は観音菩薩のような優しさと、サディスティックな般若の両面をもっており、性の営みに溺れながらも夫に暴行を加える。女の心の二面性が大きなテーマとなっている。
 映画のほうは、介護する側とされる側の精神的な「ねじれ」に重きを置いていて、軍神に対する憐憫の情と介護疲れによる嗜虐(しぎゃく)が交互に廻る。全裸で縫いぐるみにまたがり腰を揺すりながら、顔だけが観音様から般若に変わる。その変化を冷ややかな目で軍神が見つめる。女房が般若に変わっても軍神には抵抗のすべがない。この無表情がまた、彼女の神経を逆撫でする。女房はついに軍神の両目に指を突っ込み失明させる。目、耳、声を失った軍神は、芋虫となって家を這い出し、深さわずか10センチの沼に身を投じて死ぬ。ここいらあたりは観ていてやりきれない。身につまされる。なんのこたあない、キャタピラーってオレのことじゃん……。
 確かにこの1〜2年、NHKは変わった。映画『キャタピラー』の紹介を観て、DVDを観る小学生がいないとはいえない。その必要性があるのかどうか。 

千葉県:臥龍









【編集後記】





 今号の横浜懇親会特集では、懇親会の雰囲気をよりお伝えできればと写真を多く掲載いたしました。誌面版は白黒のため、ぜひカラーのホームページ版でも見ていただければと思います。
 また、写真(画像)をメールに添付されるときは、小さなサイズの写真ですと、誌面版に印刷したときに粗くなります。できましたら横1200ピクセル以上のサイズで送信いただきますようにお願いいたします。
 特集のテーマを募集している中で、Iさんよりご投稿文の文中にて、飛行機の搭乗時の「電動車イスにまつわるトラブルや移乗等の工夫等を、『はがき通信』で特集していただけると幸いです」とのありがたいご意見をいただきました。(役所言葉ではシナイという意味ですが)前向きに検討させていただきます。特集のテーマのアイデアを常時募集しております。どうぞよろしくお願いいたします。
 次号の編集担当は、瀬出井弘美さんです。


編集委員:藤田 忠







………………《編集委員》………………
◇ 藤田 忠  福岡県 E-mail:fujitata@aioros.ocn.ne.jp
◇ 瀬出井弘美  神奈川県 E-mail:h-sedei@js7.so-net.ne.jp

………………《広報委員》………………
◇ 麸澤 孝 東京都 E-mail:fzw@nifty.com

………………《編集顧問》………………
◇ 松井和子            
◇ 向坊弘道  (永久名誉顧問)

(2010.4.1.時点での連絡先です)

発行:九州障害者定期刊行物協会
〒812-0069 福岡県福岡市東区郷口町7−7
TEL&FAX: 092-629-3387
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