はがき通信ホームページへもどる No.129 2011.6.25.
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 しばらくご無沙汰してる間に……〈前編〉 

C5−Bレベル

 このたびの東日本大震災により、さまざまなご心配やご不便の中で生活されておられますことに対し、心よりお見舞い申し上げます。
 「はがき通信」の皆さま、お久しぶりです。
 また、“初めまして”の方には、簡単に自己紹介を……。
 私は高校3年の4月に、部活動である器械体操の練習中、頭から落下して、C4、5の脱臼骨折をしました。総合せき損センターで1年半の入院、国立別府重度障害者センターで4年半のリハビリを経て、自宅復帰。今年でケイ損年齢での二十歳を迎えました。
 現在は、ヘルパーさんにも協力してもらいながら生活をし、私を社会参加させるために、母が自宅で立ち上げた不動産を扱う会社の事務仕事を手伝っています。
 さてさて……。
 私が「はがき通信」に積極的に投稿していたのは、実年齢での二十代前半のころでした。当時は、ケイ損になって「あれもできない……これもできない……」という状態から、このような状況の中でも「あんなことができた! こんなこともできた!」という一つ一つの出来事がとても新鮮で、とても嬉しく感じていたころでもありました。ですから、「はがき通信」に載る皆さんのチャレンジがとても励みになると同時に、私自身のチャレンジ(=喜び)も皆さんと共有したかったのです。
 しかし、時が過ぎるにつれて、「やるぞっ! 頑張るぞっ!」と意気込まなくても、交渉事や下調べなどを含むいろいろなことを、そつなく、当たり前のようにこなせるようになり、次第と「はがき通信」への投稿から遠ざかってしまっていたのでした。
 でも今回は、瀬出井の姉御からの特命(!?)もあり、この十年チョットの間に紆余曲折(うよきょくせつ)を経たうえ大学を卒業したことについて、久しぶりに投稿したいと思います。
 私は高校3年生の時にケガをしたため、最終学歴が高卒でした。ですから、向坊さんをはじめいろいろな方から、勉強は勿論のこと人生の幅を広げるためにも「大学に行った方がいいんじゃないか」という助言を受けてきました。しかし、体操を続けるために入った私立の中高エスカレーター学校で「あなたは勉強より体操で100点を取ればいいのよ」と言われてきた私は、その言葉を素直に聞き入れたので、学力だけで大学に入るなんて気の遠くなる話でしかありませんでした。
 また、万が一大学に受かったとしても、どうやって通うのか、学内での移動や授業等諸々の介助はどうなるのかなどを考えると私にはとうてい無理だと思い……。さらに、私は母にかけることになる負担(※母自身のキャパではなく、私の中で母に頼んでもいいと思えるレベルを基本に)まで考えたうえで大学進学は無理だと結論付けているのに、「同じケイ損のG君がちゃんと大学に行ったんやけ、あんたも行きぃ」なんてことをその母に事もなげに言われると、“大学”というものに嫌悪感さえ抱くようになりました。そんなこんなで、大学の話が出ると「そうですねぇ」と話を合わせつつも、『大学へは行かない』方向で心を決めていたのです。
 そんな私がなぜ大学に行くことにしたのか……。あれ? 何でだったんだろう……。
 ……ってことで??? 以降、年代を交えつつ、これまでの道程を振り返ってみよう!
 1997年、重度センターから自宅に戻った私は『大学には行かない』代わりに、家業の不動産関係の会社では持っていて損はない宅地建物取引主任者資格(いわゆる宅建)を取ろうと決意する。
 学生時代にしてきた試験勉強と言えば一夜漬け。しかし、この試験は約5か月間、自分でプランを立てコツコツと勉強に取り組み、試験前1週間は母から「もう勉強は止めなさい」と、これまでに聞いたことのない台詞が飛び出すくらい勉強に取り組んだ末に合格。
 ……この合格で、私の中の勉強コンプレックスが少しだけ解消!?
 1998年、地元のケイ損の大先輩であるHさんから、Hさんの勤める会社のプロジェクトに期間限定のアルバイトとして参加しないかと声をかけていただき、少しだけ就労体験をする。
 ……この時、「これだけはできる!」というようなもの(例えば専門的技術)を持たなければ、私みたいなのは一般就労なんてできないな……と思う。
 1999年、ヘルパー養成所や学校などから講話の依頼が来るように。そこで、知り合った女性(社会福祉士)から、「社会福祉士の資格を取ってみたらどう?」と言われる。
 ……社会福祉士ってなんだ?
 2000年、市報を見ていると〔北九州市立大学コミュニティーコース生(聴講生みたいなもの)募集〕という記事を発見。宅建の勉強で民法がけっこうおもしろかったので、もうちょっと勉強してみようかという気持ちと、行け行けと言われる大学とはいったいどんなところなのか見てきちゃろう……ということで、週2回、夜間の講義とゼミを受講。
 週2回の通学は母に頼み(※私の中での母に頼ってもいいと思えるレベル)、授業中や移動などで人の手を借りたい時は、ゼミで知り合った人たちにお願いする。
 ……そうだ、この時のゼミの先生がとても良くしてくださったおかげで、受講にまで漕ぎつけられたんだった。
 2001年、『福祉住環境コーディネーター検定試験』というものがあることを知る。家業にも役立ちそうなので、取ってみようと決意。まずは3級、次に2級を取得。
 ……これまで福祉制度を利用してきたにもかかわらず、なぜこのようなものが利用できるのかなんて深く考えたことなどなかった。しかし、この時の勉強で福祉というものがどういうものなのかについてふれる。
 以上、2001年に至るまでに“社会福祉士”という言葉を何度か耳にするようになり、その資格がどういうものなのか、どうしたら取得できるのかを調べていました。そして、仏教大学の通信教育課程でも受験資格を得られるということが分かっていたのですが、スクーリング(一定期間通学して受ける面接授業)を受けるために、大学のある京都まで行かなければならないということに対し、自分的に却下。
 ところが2002年! 暇にまかせてネットサーフィン(今や死語?)をしていたところ、その年から福岡を含む各地域でスクーリングや試験を行うという、社会福祉士の受験資格が得られる通信制の大学を新たに発見!! しかも、入学には筆記試験がなく、出願書類(入学志願書は必要)の選考により合否を決めるというではあ〜りませんか!!!
 ちょうどそのころ、私は一度家から出たところで、いろいろな人と関わり合いをもちながら働いてみたいと思うようになっており、そのためにも何かしらの専門性を身に付けなければ……と考えていた矢先だったので、このHPを“お気に入り”に追加して、何度も見返し、読み返しました。
 通信制といえども『行か(け)ない』と決めていた大学。こんな自分が入学したところでついて行けるのだろうかとさんざん悩んだ末、まずは“科目等履修生”として出願しました。
 2002年、手元に合格通知が届き、科目等履修生として(ナンチャッテ)大学生生活開始。
 この“科目等履修生”は、希望の科目のみを学習し、単位も修得することができますが、何年続けても、卒業とみなされる単位数を取ったとしても大卒とはなりません。しかし、科目等履修生で修得した単位は、後に“正科生”として入学した場合に、すべて卒業単位に算入されるという、私にとって格好の制度♪
 私はまずこの制度を利用して、通信大学のシステムに自分が順応できるのかどうかやってみることにしたのでした。(後編へ続く)

福岡県:K.H.



 帰宅難民と震災ストレス 


 3月11日、あの時、あの時間、私は、所沢市にある国立障害者リハビリテーションセンターの研究所で支援機器のモニター協力をしていた。今まで感じたことのない揺れはもちろん、棚からものが落ち、テーブルが滑り動く、テレビで見覚えのある光景が目の前であることに「信じられないことが起きている」それだけが今でも鮮明に覚えている。
 テレビで情報収集をすると揺れは大きかったが「それほど被害はないだろう」と判断してしまい、とにかく今日は帰宅したほうがよいと駅に向かうと駅前には大勢の人だかりで、そこで首都圏の鉄道が全部止まっていることを知った。停電はしていないものの、余震の心配で改札に上がるエレベーターも使用中止で、「電車の運転は未定でしばらくは動かない」とのこと。とにかく、バスで少しでも自宅に近づこうとバス停に向かった。しかし、とんでもない人の数で「これでは電動車いすでは乗れない」と途方に暮れていると、運転手や周りの人たちの機転で初めに乗せてくれ、何とか所沢を出ることができた。しかし、大渋滞の道路と超満員のバス、携帯も通じない不安の中、志木駅に到着。それからまたバスに乗り、途中のバス停で降り、電動車いすで10分〜20分走り、またバスに乗り、やっと自宅近くの駅に到着。その頃にはiPhone(アイフォーン)が使えるようになり、Google(グーグル)マップが大変役に立った。
 寒さと空腹の中、コンビニには品物が全くなく、コンビニの店員が紙コップで温かいコーヒーを配っていてそれをいただいたときは、正直やっと落ち着いた。すでに21:00を過ぎていて、これからバスで帰るか、寒い中電動車いすで帰るか、迷っているとちょうど遅れてきた練馬駅行きのバスが到着。タイミングはよかったが電車で7分のところを2時間もかかり、国リハからバスに4回乗り換え約8時間かかって何とかマンションにたどり着いた。ノンステップバスが増えたとはいえタイミングよく乗り継ぎ、混乱の中、バスだけで帰宅できたことは「奇跡」だった。
 震災後も津波の映像や被災された方々の厳しい生活などとても辛い映像が流れ、また計画停電の鉄道の混乱で介護者も予定時間に来ることが難しくなるなど、1ヶ月くらいは生活が混乱した。
 昨年の8月に旅行を楽しんできた、石巻、松島、塩釜などの見覚えのある街や観光地が壊滅するなど、映像が出るたびに胸が締め付けられるような気持ちになり、また震災の6日前には青森に行って来たばかりでもあった。
 時間が経つにつれ、震災について自分の中では落ち着いてきたつもりでいたが、時々の余震や津波の映像がよみがえり、予定していた旅行を直前になってキャンセルするなど、いつの間にか「震災ストレス?」になっていた。自粛ムードなどもあり、必要以外の外出は控えるなど震災後の生活は全く変わってしまった。外出するも「また地震がきて帰れなくなるのでは」と、とても楽しむ気分にはなれなかった。
 連休ごろからやっと友人たちとも出かけ、食事をしたり、自分からも積極的に外出するようになり、だいぶ精神的に落ち着いてきた。皆さんもそうだと思うのがあの自粛ムードから一転、新年度に入り、友人と食事、講演や会議、ワークショップなど積極的に外出している。
 先日、区役所で被災地に視察に行った福祉系の大学教授から「障害者・高齢者の被災状況と復興にむけて」をテーマに報告があった。報告では、「地域で暮らす障害者は命を落としたり被災された方が多い反面、人里離れた山間部の施設で暮らす障害者はライフラインの中断はあったものの誰も命を落とすものはいなかった」との話があった。確かに安全・安心は第一だが、やっと障害者が地域で暮らすことが普通になってきた今、ある程度のリスクはあっても自由や自己決定を大切に考え、生きていくための選択肢は重度の障害者でも大いに議論していくべきだと思った。
 最後になりますが東日本大震災におきまして、犠牲になられた方々のご冥福をお祈りし、また甚大な被害に遭われました皆さま方には心よりお見舞いを申し上げます。
 また、皆で力を合わせ、一日も早くこの国の復興につながっていきますように願っています。

広報委員:麸澤 孝



 希望〜今に生きる〜 


 この原稿を書き始めたのは、一年で一番寒さが厳しい時期です。頸損になる前の若い頃にはこの寒さが魅力的で、外で跳ねるというイメージがぴったりの僕でしたが、今はストーブで暖めたこの部屋からどうにも出たくないとつぶやく、老いを迎えた男になりました。まさに老いを体感中です。50代後半頃、年齢を重ねるというのは、肉体的に昨日できたものを、今日はできなくなると気付く日々だと知りました。
 昨年60代を迎え、まず定年退職がありました。次に、神奈川障害者職業能力開発校に通うことになりました。きっかけは、子供時代に想いをイメージ化することが好きだったから、開発校のグラフィックアーツコースで、このイメージ化の能力を磨けるかと思ったからです。60代以降の僕の人生に、ひょっとしたら新しい可能性を見せてくれるかもしれない思った訳です。正直に言えば、再び働き始める気持ちはなかったのです。代わりに、生きることを楽しむ何かを探していたということです。
 開発校での体験は、僕にとって貴重なものでした。さまざまな世代の人たちと一緒に勉強していると、自分の可能性がまだまだ続いているのだと実感できるようになりました。確かに、老いは進み、肉体的に感じる喪失感は避けがたいものです。しかし、精神的には気持ちの有り様一つで、心は豊かにもなるのだと痛感しました。昨年の夏頃から、僕の心にもう一度働こうという気持ちが現実のものとして芽生え始めました。僕は自分の中に、まだ十分に働いていける気力があることに気づいてしまったのです。
 9月になって、就職活動が始まり、当然僕も就職準備を整えて、相模原で最初の合同面接会に参加しました。この面接会を皮切りに、会社の内定が出るまでいくつもの会社と面接しました。幸運なことに、NTTの技術研究所が僕を拾ってくれました。ここらの話をすると一つの物語ができるのですが、今回は会社面接をしながら一つ感じたことがあるので、それだけ取り上げます。皆さんは、60を過ぎて頸損者が一般就労するという困難さをイメージできますか? その困難さをイメージできれば、現実的で効果的な対策がとれます。会社に何をアピールしていくか、自分を魅力的に見せるものは何か。これはけっこう大変なんですが、ごった返した人ごみの中で、僕はまずNTTのブース前に先頭で並びました。加えて開発校で勉強した作品集を持ち込みました。2次面接で、NTTの面接官は確かに先頭に並んだあなたにはインパクトがあったと言ってました。あなたをいかにポジティブに見せるか……ここが最初の一歩です。ともあれ、就職先も決まり、現在卒業課題作りに取り組んでいます。最初の予定では、卒業課題は絵本作りだったのですが、年末に会社から、配属先のHPを立ち上げてもらいたいと言われました。実は、2次面接の時に、開発校で作ったHPを持ち込んだのです。ついでに1のものを10ぐらいにして……それで急きょ、卒業課題は、実践的なHPの作成に変更になりました。働き始める頃には、十分に会社のHP作成ができることが目標です。
 開発校での1年は、あらためて自分と対話する時間を神様がくれたという感じになりました。今、生きるということと働くということは、密接に関連しているように思えます。僕には昨年定年を迎えるまで、仕事を楽しむという発想はありませんでした。僕にとって働くということは生活の糧を得るという要素が強くて、忍耐する、努力するというイメージが、まず浮かんで来るほどです。だから、仕事で溜まるフラストレーションをスポーツとかで消してやる必要があったのです。簡単に言えば、今まで緊張した人生の連続だったのでしょう。しかし、今は仕事を楽しむという発想があります。また、これからの人生は、仕事でも日常生活でも楽しむという発想なしではうまくいかないように実感しています。今を生きるキーワードは「楽しむ」です。老後という未体験ゾーン、滑り出しはまずまずですかね。


神奈川県:M.K.




 ◆ ご協力を

 NPO法人「日本せきずい基金」
 基金残高(2011年3月末現在)39,897,174円
 [お問い合わせ先] 
 日本せきずい基金事務局
 〒183-0034 東京都府中市住吉町4-17-16
 TEL: 042-366-5153 FAX: 042-314-2753
 E-mail: jscf@jscf.org URL: http://www.jscf.org/ 






【編集後記】





 私の住む横須賀は海に囲まれたところで、東日本大地震による津波の甚大な被害の様子は本当に他人事ではない。三浦半島にも津波警報が出され、海岸に近い地域の人たちは一部避難したと聞いているが、水位が上がった程度だったようだ。我が家は、浦賀港から直線距離で300mもないかもしれない。少し高台にあるが、今回の震災で津波が押し寄せた距離、高さを考えるとアウトだろう。いつ起きてもおかしくないと言われている東海地震。浦賀港の近くに関東大震災の慰霊碑があり、津波なのかどうかはわからないが、その昔、大地震による被害があったことだけは確かだ。
 ずっとあたり前のように見てきた海の風景が震災後、何だか恐怖を感じるようになった。前号で臥龍さんがおっしゃっていたが、震災時に身体が動かないことの恐怖を私も今回の大震災で少なからず経験してしまった。自宅にいてまだよかったが、テレビで緊急地震速報が流れたとたん、揺れがくる前にいきなりバツンと停電した。そして、臥龍さん同様に実感したのは、障害者を支えている介助者、家族なども災害弱者になるということ。
 また、大問題である原発事故は、いまだ収束の目処が立っていない。東海地震予想震源地域には静岡県があり、耐震性の不足が懸念されていると言われる浜岡原発がある。今後、日本がどのようなエネルギー政策を取ってゆくのか……この大震災がターニングポイントとなるのであろうか。
 復興には長い年月を必要とすると思うが、それを見届けるまで私自身生きているのかどうか、ただ、今の子どもたち、未来にこの国に生まれる子どもたちに夢と希望が持てる国、そして景観も美しい日本であってほしいと心から願う。まずは、この夏の電力不足による節電や万が一の停電対策・暑さ対策をしっかりと考えたい。
 次号の編集担当は、藤田忠さんです。



編集委員:瀬出井 弘美







………………《編集委員》………………
◇ 藤田 忠  福岡県 E-mail:fujitata@aioros.ocn.ne.jp
◇ 瀬出井弘美  神奈川県 E-mail:h-sedei@js7.so-net.ne.jp

………………《広報委員》………………
◇ 麸澤 孝 東京都 E-mail:fzw@nifty.com

………………《編集顧問》………………
◇ 松井和子            
◇ 向坊弘道  (永久名誉顧問)

(2010.4.1.時点での連絡先です)

発行:九州障害者定期刊行物協会
〒812-0069 福岡県福岡市東区郷口町7−7
TEL&FAX: 092-629-3387
E-mail: qsk@plum.ocn.ne.jp

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