はがき通信ホームページへもどる No.129 2011.6.25.
Page. 1 . 2 . 3 . 4 .
前ページへ戻る

 今だからこそ…… 


 福島県南、中通り、白河市に隣接する西郷村のS山です。「福島頸損友の会」の代表として、ほんの数人の頸損仲間のつなぎ役をしています。正確に言えば、会員関係なしの頸友仲間です。
 今回の震災のことについて執筆をと言われたときには、とても無理だと思いました。私自身が“今”を生きるだけで精いっぱい。書けなければ無責任になる。時間も体力もない。それに、言葉にできない。
 ただ、これを機会に、新たな出会いとつながりができればありがたい。たくさんのS山(私一人だけかも知れません)が、「地域で生きる道」を切り開く一条の光となりますように!
 私は未だに、老母が転けたらその時点でこの生活はストップ、そんな崖っぷちの毎日を暗中模索をしながら必死に生きております。この未曾有(みぞう)の大震災と遭遇しても、余震も原発もまだまだ終息ならずの今もなお、介助スタッフを作りながら、育てながら、シフトづくり・シフト調整に追われながら自分の人生を生きております。
 この大震災と遭遇したからこそ、私は今、悔いなき我が人生の最期を真剣に見つめたく、歩みたく思います。同じ思いの友と出会えますように! 力と知恵をいただけますように! 
 言葉を変えて、簡単に、震災当時の状況を書いてみます。
 「東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)」
 2011年3月11日14時46分ごろ、三陸沖を震源に国内観測史上最大のM9.0の地震が発生。
 津波や火災で多数の死傷者。白河市震度6強。土砂崩れにて多数死亡。家屋倒壊多数。あちこちで道路陥没亀裂、水道管破裂。たぶん、まったくの無被害は誰一人ないだろうと思われる。
 ちょうどカテーテル交換の往診が終わり、私はスタッフと2人、食事をとろうとしていたときの大異変である。情景は、脳裏に焼き付いているが言葉にできない。どれほどの恐怖だったのかも今の私にはわからない。ただ、家も大地も大きく激しく揺れ、コンクリートの庭が波打っていた。心臓が高鳴る中、「早く帰りなさい!」と私、「嫌だ!」とスタッフ。開け放たれた窓からの風はまだ冷たかった。
 幸いなことに一瞬の停電、棚から物は落ちたが頭上近くではない。水道は水圧が弱く、濁り始めていたが断水はなかった。ベッド上の私もそうだが、テレビもパソコンもテーブルにキャスターがついていたのでテーブルごと移動、倒れずにすんだ。携帯も自宅電話もつながらない。しばらくして、携帯・PCメールだけはつながることがわかった。
 全体像はまったく把握できないまま、翌日からヘリの旋回音とガソリン・物資がなくなりつつある緊迫した現実に直面、続いて、道行く車を見かけなくなると同時にヘルパーさんも動けなくなるという事態に。
 メールにて仲間の安否確認ができたのは、13日以降のことである。誰もが、「家の駐車場に亀裂。瓦の損傷、断水、食料はなんとか。一番困るのがガソリンの給油不可、ヘルパーさんが動けない。携帯が通じず連絡不可……」という状況の中で、それぞれに必死に耐えしのいでいたに違いない。
 南相馬の仲間が2人避難。1人からはSOSメールが届き、栃木・東京頸損連仲間の力を借りてすぐに国リハに入院することができた。仲間のつながりってすごい……ありがたくて、私が元気をもらえた。風評被害で物資が入って来ないという、“世間とのつながりを断ち切られた”いわき市の1人が、自立生活センターの仲間たちと東京へ避難、1ケ月後くらいに無事に戻ってきた。状況は「障害者救援本部」のHPに詳しい。《http://shinsai-syougaisya.blogspot.com/
 2月に退院したばかりの仲間が高熱続きで再入院、危篤状態に陥りながらも最後まで諦めずにいたが、4月26日未明、敗血症で亡くなった。みんな1人1人が大変なのに、仲間一同で何かしたいと言ってくれた。そして、役割分担で仲間を見送ることができた。
 そのときの私の言葉である。
 「皆さん、お振り込みすること自体が不自由で大変なことだと思います。それぞれに違いはあるでしょうが、ひとつひとつ、人の手を借りて生きている私たち、決して無理しないでください。
 震災時、何が必要なのか聞き取りして欲しいと言われたときに、私は物資よりも介助の手が欲しいと言いたかったです。頸友の皆さん、と言えることがありがたいです。仲間であることが嬉しいです。つながっているということが心強いです。」
 私は、これまで以上にこの仲間たちを大切に思えた。
 全体像が報道される中でふと思う。未だ終息ならずのこの震災の被災者は、人生半ばにして障害者になった頸損者と同じだ。私は、きっとC8にも至ってはいない。
 誰もが、先も見えずに不安いっぱいで、精いっぱい前を向いて生きようともがいている。誰もが、大切なものを失い、悲痛な思いを半ば心に押し込めている。C8がC6を、C4がC1、2を思いやるように、誰もが、自分よりも大変な人たちがいるのだからと思いながら苦しんでいる。誰もが、2次障害、3次障害併発の恐怖を抱えている。誰もが、「諦めることに慣れて、我慢することが楽になり、そして、人間としての尊厳を堅持する戦いが始まる」頸損者なのだと。
 そして、前を向くことに全力投球してほしいと、人と人とのきずなが力強く広がっている。どうか、私たち仲間ともつながってほしい。震災時だけでなく、きずなの輪に加えてほしい。私たちにはあなたが必要なのです。そして同時に、私たちはあなたの必要な存在になりたいのです。

 2011.5.22

福島県:T.S.



 ささやかでも、私にできる育児〈後編〉 

43歳、C4、頸損歴26年

前号に続き、今回は私の主な育児を書き、そのときの心情も付け加えたいと思います。娘が3歳6ヶ月になりました。1歳半頃から妻のマネをして私の手伝いをいろいろしたがって、薬を飲ませてくれたり、うがいをさせてくれたり、何でもしたがるようになりました。2歳くらいになると、錠剤や粉薬まで、開封からしないと気が済まないようで、先に妻がしてしまうとすごく怒っていました。とにかく何でもしたがる年頃のようです。
 ○保育園へのお迎え 
 妻の仕事が遅くなるときや保育園が昼までの土曜日、娘の体調が悪くなって保育園を早退するときは私が迎えに行きます。厚生労働省からの通達で、介護ヘルパーに付き添ってもらって保育園の送迎や通院ができるようになりました。念のために市役所に確認すると、OKとのこと。
 保育園までは電動車いすで約5分。迎えに行くと、娘はすぐに私の膝に乗って電動車いすで帰宅します。
「お母さんは歩いて帰ってきてねって言ってたよ」
 と言っても、都合の悪いことは無視します。膝の上が楽だと覚えてしまいました。同じ組のお子さんたちの中で一番大きな娘。私もいつまで膝に乗せてやれるかわかりません。乗せてやれなくなるまでは、私も厳しく言えません。乗ってくれるのがうれしいのです。
 それに、いつか私が迎えに行くのをいやがるかもれません。私が保育園に行くと、ほかの園児たちが寄ってきて、
「どうして車いすに乗ってるの?」
「けがしたの?」
 と質問攻めになります。
 子供ながらの好奇心なのでしょうが、いつか娘も自分の父親に好奇心の目が向けられることを知ると、それをいやがるでしょう。それは成長の証なのでしょうが、私はきっと寂しく感じてしまうでしょう。
 帰り道は、コンビニに寄ってジュースを飲みます。いつか大人になったとき、
「そう言えば、お父さんの膝の上でジュースを飲んだな」
 と娘が心のどこかで思い出してくれたらと思うからです。大したことはしてやれないけれど、私にできることはすべてしてやりたいし、娘の目と同じ思い出を残したいのです。
 ○遊び相手 
 録画したテレビ番組やDVDを一緒に見ます。
 子供は飽きもせずに同じ映像を見ます。100回以上観たDVDもありますし、
「もういっかい」
 とお気に入りのシーンを観たいとねだる娘のために、10秒ほどのシーンを何十回も連続して巻き戻して再生することもあります。
 特にアンパンマンが好きで、バイキンマンの変装するシーンは、
「あっ、バイキンマンだよ」
「えっ、バイキンマンなの?」
「そうだよ。ほら」
 と変装に失敗したバイキンマンのしっぽを指さす娘。
「あー、ほんとだー。よくわかったね?」
「うん」
 とこんな会話を毎日しています。
 ○本を読む 
 絵本を読んでやることもあります。妻が何度も読んで聞かせた絵本なので、もうすっかり覚えているようですが、同じ本を読みたがります。
「ほんとに覚えているかな?」
 とわざと間違えて読むと、
「ちがうよ。かして」
 と叱られます。結局、最後まで自分で読み、満足して寝ることもあります。
 それから妻はオーバーリアクションが苦手なので、ちょっと大げさに表現して読むのは私の役目です。ツボにはまると大笑いしてくれますが、その点の評価は厳しくてなかなかツボにははまりません。
 ただ、感心なのは、私が本を支えられないこと、ページをめくるのが苦手なことをわかっていて、読みやすい位置に本を置き、めくったページが戻らないようにしっかり押さえていてくれます。最近は、足でページを押さえる怠け技を覚えましたが……。
 ○たまに深夜に 
 妻が疲れて先に寝てしまうと、私と娘の時間です。
 特に昨年の夏は暑かったせいか、夜中に私のところへよく来ました。深夜の3時頃に起きてきて、私のベッドに来ることもありました。私の手元にジュースがあることを知っていて、それを飲むとそのまま私の腕枕で寝てしまいます。私は冷房を弱く入れ、娘がベッドから落ちないようにしっかり抱きかかえます。1時間もすると腕がしびれてきますが、そのしびれも心地よく感じます。そんなときは朝まで娘の寝顔を観ています。
 一度、昼寝をたっぷりしすぎて夜の11時くらいまで眠れなかったことがありました。なかなか寝付けずに私のベッドに入ってきました。テレビを観たいというので、「ひとつだけだよ」と仕方なく観せました。NHKの「おかあさんといっしょ」という番組に、子供がパジャマを着るコーナーがあります。それを観たとたんに、
「パッパッパパジャマして」
 と言いだし、パジャマを脱いで裸になると、
「いいよ」
 と準備万端。
「パッパッパパジャマ♪」
 と私の歌に合わせてパジャマを着る娘。着るとすぐに、
「もういっかいして」
 と服を脱ぎます。
 パジャマの上着を脱ぐときに、袖が裏返るので私に直してくれとせがみます。私は、口とわずかに動く右手で袖を元に戻します。これに時間がかかりますが、娘はじっと待っています。
 結局、夜の11時に娘が飽きるまで30分間、9回「パッパッパパジャマ♪」をし続けました。けれど、ひとつおもしろいことがありました。7回目に入ろうとしたとき、娘に変化が起きました。娘はテレビの子供たちの台詞を思い出したようで、急に、
「あんちゃんですッ。2さいですッ」
 と言いました。私はそれがおかしくて微笑ましくて、そしてなんだかうれしくて一人笑いました。
 ○食事と買い物 
 妻が仕事で帰宅が遅いと、先に娘と私と私の母の3人で食事をします。妻がいないとやはり寂しいらしく、普段はがつがつ自分で食べますが、私に食べさせてほしいと言ってベッドにのぼってきます。
「お父さんのフォークもってきて」
 と頼むと、私の装具付きのフォークを持ってきてくれます。
 私に食べさせてもらいながら、
「次はこれ、次はそれ」
 と注文の多い娘です。
 ○ゼリー 
 娘は風呂上がりに、毎晩ひとつだけお菓子を食べます。小さなラムネひとつか、一口サイズのゼリーです。ゼリーのパッケージを自分ではがせないので、私に取ってくれと頼みに来ます。私は手が使えないので、口を使ってはがします。頼まれるのはうれしいのですが、それもいつまで頼みに来てくれることか……口ではがすことをいつかは、
「お父さん、お口でするからイヤー」
 とそのうち言われると覚悟しています。
 ○添い寝 
 保育園の年少組になって、午後の昼寝がなくなりました。帰ってくる頃はもう眠くて仕方がないようです。食事をさせ、風呂に入れると一緒に私の腕枕でテレビを観ます。そうしているともうすぐに眠ってしまいます。
 4月後半から夏の終わりまでは午後の昼寝が再開されます。そうなると、腕枕で寝ることも少なくなるでしょう。少し寂しいです。
 私の育児はこれくらいです。あとは、市役所や金融機関の手続きや電話で済ませられることなどです。直接手をかけてやれることが少ないだけに、やはり妻には勝てません。いつも叱るのは妻。慰めるのは私。でも、最後は妻に甘えます。叱る役は妻にしてみれば損な役回りかもしれませんが、叱られて泣きながら私のところに来る娘に、「お母さんが怒った理由」を聞かせ、
「あんちゃんのことが好きだから怒ったんだよ」
 と言い聞かせます。今はまだ理解はできないかもしれませんが、私と妻の気持ちが着実に娘の中に染み込んでいると思っています。父が何を言っていたのか。母がなぜ叱ったのか。父はなぜ叱らずに抱き寄せてくれたのか。叱られてもなぜ最後は母の布団に入って眠ったのか。いつかその理由のわかる日が来るはずです。そのとき、娘の心に温かい気持ちが生まれたなら、私と妻の子育てのひとつはうまくいったと言えるのではないかと思います。
 ほとんど育児らしいことはしてやれませんが、ひとつ、娘に良い影響を与えているのではないかということがあります。
 保育園の先生や知り合いにも良く言われるのですが、娘は何でも覚えが早いらしいです。私が少し難しいことを言ってみても、「すごいな」と思うくらい良く理解できることがあります。私なりに考えたのですが、普通の父親なら行動と言葉で教えますが、私は言葉だけです。私が話しているとき、娘はじっと私の話に耳を傾け、私の目を見ています。
「聞き逃すまい」
「しっかり理解するぞ」
 という雰囲気があります。耳からの情報をしっかり聞こうとすることで、理解力に長けているのではないかと思っています。
 保育園の連絡ノートがあるのですが、試しに「せんせいのノートを持ってきて」と頼んでみました。
「ここに置いてね」
 膝に手を置きました。すると、ちゃんとその日の書き込みのところを開いて、僕に見えやすいような位置に置いてくれました。妻が私に見やすいように何でも置くのでそれを覚えたのかもしれませんが、これからも頭でしっかり考え、理解し、行動に移せるようになってほしいと願っています。
 こんな話をしているとすごくできのいい娘に思われるかもしれませんので、子供らしい一面をひとつ。
 私のベッドでうつぶせになって筒状のラムネを食べる娘。なかなか取り出せません。
「ちゃんとお座りして食べて」
 と言っても、ラムネに夢中で聞いていません。そのうち取り出せなくて、かんしゃくを起こし始めました。
「もっとお尻(ラムネの容器の)を上げなくちゃ」
 と妻が言いました。
 すると娘は、自分のお尻を「ポコッ」と上に持ち上げて、
「こういうふう?」
 と私に言いました。
 かわいい小さなお尻を持ち上げる娘を見て私と妻は笑いましたが、私は心の中で、
「君は間違っていないよ」
 と言いました。こんな純粋なまま育つことはないのでしょうが、可愛らしい一面をいつまでも見せてほしいものです。娘の言動はとてもおもしろく、いつかブログにでも載せたいと思っています。その際はどうぞご一読ください。
 最後に。
 十分なことをしてやれない父親ですが、愛情だけは無限に注いでやりたいと思っています。そして娘に願うことが3つあります。
 1つ目は、人のために尽くせる人になってほしい。人のために尽くせる人は幸せです。そして困ったとき、きっとその人たちが恩返ししてくれるはずです。人というのは、そのようなつながりの中で生きていると思うから。
 2つ目は努力できる人になってほしい。努力というのはなかなか目には見えませんが、大きな壁にぶち当たったとき、努力の積み重ねが大きな自信となり、その壁を突破できる力を発揮できると思うから。自分があまり努力してこなかったから、余計にそう感じます。
 3つ目は、健康で元気に育ってほしい。これは何よりも強く望むことです。
 またいつか続きを投稿させていただきます。よろしくお願いいたします。
 

匿名希望



 「サービス介助士」ってご存知ですか 


 皆様こんにちは。福岡県で介護士をしています。Yと申します。
 皆様は、「サービス介助士」って、聞かれたことございますか? 駅や街中で、白い杖をお持ちの方や車イスをご利用の方が、段差などで困っているのを見かけたとき、どう手助けして良いのか解らない人が多いと思います。介助される方も、安心・安全でないと不安で任せられないと思います。
 正しい介助技術があれば、積極的にお声かけして自信を持ってお手伝いができます。駅内、空港内の移動や電車への乗り降りなどで、サービス介助士がいましたら移動がスムーズになり、お店でも安心してお買い物が楽しめます。
 私は、3年ほど前に、電動車イスでお買い物をされている方と出会いました。買い物カゴを膝の上におかれて、手には包帯を巻かれていました。近くには店員さんはいなく、商品も取りにくそうにしていらしたので、お声かけしました。「お買い物カゴお持ちしましょうか、他に、お買い物ありませんか?」その方は「お願いします。後はレジに行くだけです」と言われましたので、一緒にレジに行ってお会計を済ませて、後ろのリュックに商品をお入れして、エレベーターまでご案内しました。
 「サービス介助士」の資格(特定非営利活動法人・日本ケアフィットサービス協会が認定する民間資格)を知ったのは半年前のことですが、そのときのことを思い出しました。あのお店にサービス介助士がいましたら、高齢の方やお身体のご不自由な方も、安心してお買い物ができるのにと思いました。
 そして、私も資格を取得したいと思い、受講いたしました。実技教習では、車イスご使用の方への介助の基本を学びました。坂道・段差での操作方法、溝や障害物の越え方、傾斜のある道、狭い道での操作、階段での車イスの持ち上げの基本などを教習いたしました。車イスご使用の方が安心して乗っていただくには、信頼関係が必要です。いきなり動かされたり、止められたりしたら怖くて不安です。こまめに操作内容を伝えて、お手伝いの最後まで声かけをすることが大切だと実感いたしました。
 高齢者疑以体験では、老人性白内障を疑以体験できるゴーグルを着けて、耳栓をつけます。利き手首におもりを装着、関節が曲がりにくい状態にするため、両肘と片方の膝に関節サポーター、指先が不自由になる状態にするため手袋をして、指を2本ずつテープで巻く、足首に重さの違うおもりを装着して杖を持ちます。この状態で、階段を下りてコンビニまで買い物をして帰って来ます。老人性白内障を疑以体験できるゴーグルは、個人差はあるそうですが、私の場合は、全体的に黄色で薄い霧がかかったように見えます。階段の降りは、手すりがないと怖くて降りられません。コンビニまで行って缶コーヒーは買えましたが、好きな物を選ぶことはできません。帰りはどこから曲がったのか、解らなくなって後から来た人と一緒に帰りました。大きな濃い字は見えますが、雑誌・新聞はまったく見えません。お昼休みも装着したまま、食事をしました。美味しくなく、食べた気持ちになれませんでした。
 自分で体験してみて、高齢者の方や、障がい者の方の不便さや心理的苦痛に気づくことができました。介助する人が相手の気持ちになって、コミュニケーションをとりながら接することが大切だと思いました。
 私の好きな言葉の中に、〔一期一会〕今の出会いは、一生の中でたった一つの出会い。介護のお仕事をさせていただくようになって、多くの人と出会うことができました。「はがき通信」は、私にとって大切な出会いです。
 これからも、サービス介助士として積極的にお声かけをして、街中で困っている方のお手伝いができたら良いなと思っています(*^_^*)。

福岡県:S.Y.

このページの先頭へもどる  次ページへ進む



HOME ホームページ MAIL ご意見ご要望