はがき通信ホームページへもどる No.129 2011.6.25.
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 追悼集「綾子さん!!」刊行—“まったく、上手くいった”ALS者在宅介護26年間のあゆみ— 


 「はがき通信」113号で紹介した元気なALS者の綾子さん(当時84歳)が2年前亡くなった。80歳超えたら年取らなくなったみたいと言われていたが、さすがの綾子さんも老化には勝てなかったようだ。告別式当日、強風で電車が遅れ、出棺間際にやっと式場に到着、喪主の直子さんにバスに乗ってと促され、火葬場での最期のお別れ、いつもの笑みを浮かべたようなお顔はまるで生きているようだった。
 それから2年、今年3月末、待ち望んでいた追悼集が刊行された。一晩かけて読み終えると、これはたいへん貴重な、多くの人に役立つ資料と実感した。綾子さんの在宅26年間を支えた介護者は学生を含め100人以上、うち追悼文を寄せたのが25人、全員、綾子さんが人工呼吸器装着後の介護者だったという。その追悼文を中心に編集、しかも介護に入った時期が早い順に追悼文が掲載され、さながら人工呼吸器使用ALS者の在宅介護生活史とも読める貴重な資料となっている。編集は、綾子さん専属の在宅介護マネジャーであった直子さん(綾子さんの次女)と綾子さんの最期を看取った国立看護大学生のM.Kさん、とくに綾子さん在宅生活26年間のキーパーソンであった直子さんの役割は大きい。
 「まったく、上手くいった。この最悪の病気にしては……。
 泥縄式の綱渡りの26年間だったと思っていたけれど、振り返ってみると計算し尽くしたような、これ以上なかったというほどの介護体制だったような気もする。介護体制は生き物のように必要に応じて形を変えて行った。母の状態、家族の介護力、時代に応じて。」と、直子さんは序文で回想する。
 綾子さんがALSと診断されたのは1982年、59歳、その7年後1989年人工呼吸器装着、24時間要介護、家族は夫と娘(直子さん)、2人とも仕事を辞めて介護に専念という発想はなかった。「仕事か介護かの迷いはなく、ただ『やるっきゃない』、そのためにありとあらゆる智恵をしぼった。おまけに、並の介護ではない。ALS難病とは、超手のかかる病気なのだ。身体的には全廃だが、やりたいことは山ほどある。そして、四肢マヒで声がでなくて、呼吸器なのだから、文字通り命を託すのだ。」直子さんによれば、綾子さんの介護者は、なによりもまず、人として信頼できる人、そのような介護者を26年間で延べ100人以上確保できたのは、在宅人工呼吸器依存ALS者を患者ではなく、障害者として捉えたことが大きい。医療ケアではなく、障害者の生活に必要なケアと捉えることで介護者の範囲が広がり、学生を介護者に活用できた。24時間ケアに必要な夜間の介護にも、文字盤を操作するコミュニケーションにも習熟度の速い学生は綾子さんの介護者として不可欠な存在となった。
 綾子さんが人工呼吸器使用となったとき、その死亡は大半が事故と、当時のALS協会事務局長から聞かされ、直子さんは「事故や人為ミスなどで死なせてなるものか」と決意を固め、夜勤は仮眠を取らせない介護体制で臨んだ。追悼文の中にも睡魔に襲われ、寝込んでしまったこと、文字盤がうまく操作できず、夜間直子さんを起こしてしまったことなど、ALS者の介護の難しさが頻繁につづられている。反面、綾子さんとの楽しい想い出もたくさん登場する。学生では高額すぎる大相撲、音楽会、歌舞伎などにも綾子さんのお供で観覧できたこと、また以前「はがき通信」で紹介した横浜ランドマークホテルでのロナウジーニョとの出会いも一番の想い出としてつづられ、その記念写真も掲載されている。
 追悼集の末尾「介護体制の変遷」で、綾子さんの質の高い在宅生活を可能にした全身性障害者介護人自薦登録制度についてもふれ、重度障害者の運動で獲得した制度と紹介する。
 難病中の難病とも言われ、医療モデルの典型のような存在ALS者を直子さんは専門家のアドバイスを受けながら、障害福祉モデルの介護体制によって綾子さんに質の高い生活を保証し、なおかつ頻発する人工呼吸ケアのミスを防ぎとおし、綾子さんを安らかな最期に導いた。私はこれまで何度も在宅人工呼吸器使用者の事故死を体験しているだけに、在宅人工呼吸器使用20年、亨年85歳7ヶ月という穏やかな永眠は偉業であり、また今後、生命維持装置使用の在宅介護の在り方に多いに参考にすべきと、綾子さんの追悼集で再認識した。

編集顧問:松井 和子


 腰折れ俳句(19) 


 弁当をひらいて山の風薫る
 
 青田吹く風の虜(とりこ)となりにけり
 
 先生も生徒も更衣(ころもがへ)の白

 壺焼や猫舌のまま老いてゆく

 ヨットの帆海と空との隔たりに






 大地震の夜9時過ぎ遠く離れた天草にも津波(80センチメートル)—こんな報告が何になろうかと思いつつ。感情移入するとうつ気味になります。
 このようなときに大切なのは日常性。いつものように今日を丁寧にくらすこと。音楽や文芸が必要とされる夢を見るときが来ることを夢みています。いや信じています。
 

熊本県:K.S.


 『臥龍窟日乗』 —真贋— 


 青山二郎という人がいた。何をやった人かと言われると、これがどうも答えにくい。本の装丁作品が残っているが、それでメシを食っていたとは言いがたい。東京青山の大地主の息子で、骨董(こっとう)の目利きであった。いいものにはカネに糸目をつけない。ために骨董で身上をつぶした。小林秀雄、河上徹太郎、中原中也、大岡昇平、白洲正子などを集めて文学論を闘わせたり、茶碗の品評会などをやっていた。青山学校と呼ばれた。
 小林秀雄が「真贋(しんがん)」という文章の中で青山のエピソードを紹介している。小林が新潟で良寛の書を買った。これを青山に知らせると年代を聞かれた。即座に青山は贋物だと決めつけた。ところが鑑定家に見せると本物である。青山にも誤りはあると、弘法(こうぼう)を嗤(わら)っているのである。
 陶器に目がなく、時々インターネットのオークションを覘(のぞ)いてみる。こんな時代だから美術館所蔵クラスの名物なども時々出てくる。なかなか機会がないだけに目の保養にはなる。だが相も変わらず有名作家の贋作が出回っている。西日本に贋作作りの組織があるのではと書いたことがあるが、どうも広島あたりか。中国か韓国の陶工に造らせインターネットで捌(さば)いているようだ。
 荒川豊蔵クラスの茶碗が2〜3万円で出品される。玄人筋なら豊蔵がそんな値段で買えるはずがないと百も承知のはずだが、どう見てもプロとしか思えない連中がせっせと買い込んでいる。なぜか? 骨董屋の仕入値は売値の3割というのが相場である。ならば3万円で仕入れたものを10万で売る気かというとそうではあるまい。わけのわからない田舎の資産家に100万くらいで売りつけようという魂胆であろう。これは明らかに犯罪である。
 平成22年3月17日、新聞にこんな記事が出た。《「贋作」画家に無罪・あくまでも模写、詐欺とは知らず》。東山魁夷(かいい)や加山又造の贋作を描いていた日本画家に岡山地裁で無罪判決が出たというものだ。「有名画家の作品を模写するのが犯罪というなら総ての画家は犯罪者になってしまう」という主張が認められた。もちろん絵を本画と偽って売った画商には有罪判決が下りている。
 確かに陶芸の世界でも「写し」といって本歌(名物)を模写することはよくあることだ。現役の有名な陶芸家が例えば本阿弥光悦を写すことは決して恥ずべきことではない。ただし箱書には明確に写しという文字が記される。写しをすべて贋作と決めつけると、芸術の世界に進化はないのかもしれない。
 真作贋作とは何だろうか。例えば歴史的に有名な画家をAとし、技量において遜色ないまったく無名の新人をBとして、Aの技法をまねてBがAを上回る作品を制作した場合に、Aが真作、Bが贋作と決めつけるのが正しいものかどうか。さらに高名なAのサインの入った作品が数百万円で、Bの作品が数千円だとすると、それでも人々はAの方を選ぶであろうか。
 これを裏付ける事件が実際にヨーロッパで起こった。無名の新人は天才的な技量の持ち主で、ゴッホであろうがモジリアニであろうが、器用に筆法をまねて模写作を量産した。ところがたちの悪い画商の手に渡り1点数億円の値で売買され詐欺罪に問われた。世の中にはへそ曲がりもいて、それでもいいから買いたいという人々が現れた。1点数百万円だそうだが、今では売れっ子画家になって購入する方も順番待ちらしい。
 岡山で無罪となった贋作画家の作品がインターネットで売られるようになった。加山又造の贋作が3千円くらいで出ている。本物ならリトグラフ(石版画)でも30万円は下らないから、詐欺とは言えない。30万だと手が届かないが3千円ならなんとかなる。自ら稀代のへそ曲がりをもって任ずる筆者も、贋作承知で買ってみた。又造さんほどの厚み深みはないが、3千円相応には楽しめる。
 贋作は贋作と判って初めて贋作となる。真作と信じている限りは真作である。人間、欲が絡むとろくなことはない。欲につけ込んでくるのが決まって贋作である。はなから写しと知って手に入れたものは、いつまでたっても写しという「真作」である。

 

千葉県:臥龍

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