はがき通信ホームページへもどる No.127 2011.2.25.
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【連載特集!「介護する側、される側」】


 連載特集として、手も足も使えないとはどういう心理状況なのか、人を介助するとはどういうことなのか、たいへんな介助を続けていられるのはなぜか、などなど、皆さんに共通するテーマである「介護する側、される側」の体験談を引き続きご紹介いたします。




 [特集]◆ちょっとだけ、介助について 


 いつの時代も、誰もが皆同じではないことは百も承知である。
 学業が得意な人、苦手な人。物作りが得意な手先の器用な人、そうでない人。手先はそれほど器用ではないが、口だけは達者で周囲を翻弄(ほんろう)し、論破してしまいがちな人、されてしまいがちな人。また、不運に見舞われ、何らかの障害を持ち、手足が思うように動かせなくなってしまった人、まだ動かせる人。等々……、切りがないが。
 あるNPOの事業所で重度障がい者の訪問ヘルパーとして働き始め、1年と半年になろうとしている。自分なりに、まじめかつ前向きに取り組んで来たつもりである。しかしながら残念なことに、まじめだとか前向きだからといって、事が上手く行くとは限らないのが現実であり、そう甘くはない……、少なくとも今日までは。
 まずは、介助の際に基本的な動作や手順、また、介助の際の身体の使い方を確(しっか)りと把握していなければ話にならない。いわゆる、ある種の「常識」というものが欠如しているとイメージも理解も難しい。
 その上、利用者の障がいや度合い、性格によってもさまざまであり、そう簡単なことではないのも事実であろう。単純に考えれば、介助者の普段の生活においての行動パターンや動作をそのまま利用者に介助すれば良いだけのことだし、簡単にできるはずだとおっしゃる人もいる。確かに、その通りである。いわれた通りに素直に身体が順応すれば……だが。
 しかし、人によって能力や癖がそれぞれ違い、思考や好みも違う。育った環境によっても違い、文化が違えばもっと違いが増えるのは必至だ(少し話が広がり過ぎた)。
 では、その違いをいかにして調整していけばいいのであろうか。シンプルに考えれば以下の2通りになる。どちらかに合わせるか、互いに合わせていくかのどちらかである。
 一種の家族のように、少しでも夫婦の関係に近附けるように努力する恋人同士または、既婚の夫婦の調和とでもいいましょうか、ルール厳守のシェアリングする同居人との関係のような、はたまた服従するペットと飼い主との主従関係のように、さまざまなカタチがあっても良いのではないだろうか。
 いずれにせよ、話し合いをまじえながら介助を繰り返し行い、できるように慣らすことが必要不可欠になる。そのためには互いを理解し、尊重し合い、呼吸をととのえ合わせていくことが必要となる。同時に、利用者と介助者との間には、線引きが必要であり、互いのプライバシーに入り過ぎないことを忘れてはならない。くれぐれも変に互いを毛嫌いし、諦めてしまわぬよう努めたいものである。
 最後に附け加えておくが、スポーツや手術前の外科医等のように、介助者は僅かな時間でも良いから、ちょっとした繊細な介助動作にも、日々のフォーム・チェックを心掛けたいものである。それは、利用者への見えない心配りでもあり、さらなるより良い関係を築くことにもつながると考えているからに他ならないからである。

ペンネーム:モカロ・シバーラ



 頸損ママの奮戦記 

C4、5

 受傷して17年になりました。不安でいっぱいだった当初は、1日1日がとても長く感じられたけど、過ぎてみればあっという間。中学1年と小学3年生だった娘たちも、今では、もう30歳と26歳になりました。
 まだ何もかもが受け入れられなかった受傷当時、「頑張ればなんでもできるようになる」と無我夢中でした。そんな中、娘たちもしっかりしてきて、気が付けばいつも私の膝に乗っているような甘えん坊で泣き虫だった次女も、泣かなくなっていました。
 そんな娘たちを見ていると、また母として炊事、洗濯、掃除、ボタンつけなどできるようになりたい、という思いがさらに強くなってきて、いつも頭の中をぐるぐる回るのでした。でも、「どんなに頑張っても無理」ということが分かり落ち込んでいた時、リハビリの先生から「Kさんならではの母親の仕事がみつかったよ。先日、良い講演を聴いてね、母親業で一番大切なのは、なによりも子供の話をしっかり聞いてあげること。その通りだと思った」。でも、その時は受け入れられませんでした。
 退院後、現実に直面。家事一切できない、洋裁も編み物もなんにもしてやれない、娘たちが辛そうな時、抱きしめてやることも手を握ってやることさえできない……。そんな日々が過ぎていく中、申し訳なさと、嫌がられていないだろうか、私から離れて行かないだろうか、という不安に付きまとわられ、いつの間にか娘たちを叱ることができなくなっていました。
 娘たちも私に気をつかって、ちょっと距離を置いた感じで、私に本音をストレートにぶつけられないようでした。ほんとうの気持ちを娘たちに伝えらない自分が辛くて苦しくて、押しつぶされそう。その反面、学校から帰って来ると、私の側に来てくれていろんな話を聞かせてくれる娘たち。
 受傷前は、仕事や多趣味とあって、娘たちとの時間があまりもてなかった自分中心の日々だったので、娘たちとこんなに話をすることはあまりなく、楽しい時間は娘たちの新しい発見が多く、嬉しかったです。
 そんなある日、高校を紹介するテレビ番組で、長女がインタビューを受けました。お母さんへ一言、という質問に「お母さん、生んでくれてありがとう」と答えてくれたのです。今までの不安が一気に解凍されたかのように、涙が止まりませんでした……。
 この日を境に、娘たちと徐々に本音で話せるようになりました。悩み事や何か問題があったりすると、どんなことでもぶつけてくれるようになり、時間を忘れてとことん話し合うようになりました。今では、多分隠し事のない、何でも話し合える関係だと思います。手足が動かなくたって、話は聞いてあげられる、会話もできる。あの時、リハビリの先生から言われた「話をしっかり聞いてやる」ということ、やっと理解でるようになりました。
 それでも、こんな思いは今でもつきまといます。娘の運動会や遠足の時、お弁当が作ってやれない、病気になっても何もしてやれなかったこと……胸が張り裂けそうに辛かった。
 引っ越しのお手伝いができない、家に帰って来ても食事を作ってやれないとか、いろんな場面に直面させられるたびに情けないけれど、娘たちも大きくなり、心配をよそに私を一切責めることなく、何でも進んでこなしてくれるようになりました。私が辛い思いをするというのを先読みして、進んで動いてくれているのでしょう。そんな娘たちを見ていると、くよくよしてなんかいられません。頸損ママの奮戦記は続きます。
 追伸
 受傷して間もなく、病室に娘たちの手作り千羽鶴とお守りが届きました。転院のたびに、枕元に飾りました。お守りは退院した時に開封してみたのですが、こう書かれていました。「お母さんの手足の代わりになってあげるね」と……。ありがとう、結局は娘たちに支えられているのですよね。頑張らなくっちゃあ。

広島県:M.K.



 一人暮らしと自立生活センターのスタッフとなって 


 ご無沙汰しておりました。というか、こんなに長いあいだ投稿もせず、ひたすら皆さんの投稿する文章を読んでばかりいたら、もはや、はじめまして、と挨拶したほうが多くの方にとっては、あたっている気がしますね。北九州在住のケーソン歴20年のN.G.です。よろしくお願いします。
 20代も前半の頃は、「はがき通信」にもよく投稿させていただいていました。懇親会にも参加して全国の方々と親交を深め、元気をいただいていました。
 当時は若いというだけで、「かっこいい!」とか、「ステキ!」とかチヤホヤもてはやされたものですが(気のせいですか? どうせ多くの人は知らないからいいんですっ)、気がつけばケーソン歴20年になるんだから早いもんです。
 現在は、北九州にある自立生活センター・ぶるーむで事務局長などをやっております。
 で、ここに至る経緯ですが、詳しくは来月発刊される『五体不満足2011』をお読みください。ってのは冗談です。
 高校で受傷して、頑張って復学し、頑張って大学に通い、頑張って司法試験に10年間挑戦してきました。僕は正義の味方になりたかったんです。ってのも嘘です。弁護士なら障害があっても食っていけるかな、と安易に考えたわけです。とりあえず10年頑張れば、なんとかなるだろ?ぐらいの軽い気持ちではじめた受験は、しかし、過酷な知識の詰め込み作業でして、べつに、それそのものはわかりきっていたことで大したことではないわけですが、勉強が進んでいくと、答えがわかってても書ききれない、ということが起こってくるわけです。
 僕は装具をつければ筆記が可能なんですが、やはり健常者に比べれば2倍の時間がかかります。障害のない人間でさえ、限られた時間をギリギリ使いながら答案を作成する過酷な試験ですから、この筆記能力の差は致命的です。で、ハタと思ったわけです。“フェアじゃないね”と。(矢沢栄吉で)
 法務省に受験時間の延長を直談判しましたが、まったく取り合ってもらえず、そうこうする間に10年が来てしまいました。くしくも司法試験は新方式に移行しようとしていて、その制度(現制度)では、今後は新たに法科大学院に入りなおさなければならず、あきらめる潮時でした。
 今にして思えば、そもそも弁護士じゃなくてもよかったんですね。ただ、一生懸命努力していれば、周りの人たちは喜んでくれるし、なんとなく前向きに時間を過ごせて安心できたわけです。
 この時期、他にもいろいろありまして、とにかく、知識の詰め込みばかりをやってきた10年間の、失われた経験を取り戻すべく、今後はもっと社会参加しなきゃ、と思い、以前から所属していた障害福祉を専門とするボランティア団体で、学校を中心とした講師活動の数を増やし、福祉教育の教材作りやUD(ユニバーサルデザイン)事業などのボランティアに取り組んでいきました(いまも担当常任委員として活動しています)。
 ここでは良い出会いに恵まれて、いろんなことを学ばしてもらいました。講師のあり方、講座の立て方、ほかの障害についての配慮など。ただ、あるきっかけがあって、ここも(障害者としての)自分を最大限生かせるフィールドではないな、と気付いたんです。そんな折り、出会ったのが、自立生活センター・ぶるーむです。ぶるーむ自体は発足1年足らずの新しい団体でした。その前身のセンターは歴史も長く、そこが運営していたヘルパーステーションは6年以上前から利用していました。ただ当時は、自立生活センターの意味なんて何も知りませんでしたが。笑
 つまり、理念に共感したというよりは、友達の障害者仲間がやってるというので、手伝ってみようか、ってノリでした。
 で、自立生活センターと言っても何してるところかよくわからない、って方もいるんじゃないでしょうか。僕もそうでした。しかもスタッフになってからもそうだったんで、どうしようもないね。同性介助の原則や、一人暮らしの自立生活をしてないとスタッフは務まらない、とかね。くだらねー、とか、そう思ってましたしね。
 で、答えを求めて全国を旅したわけです(いろんな研修に参加しただけなんですけどね)。そこでたくさんの障害者運動のリーダーに出会い、直接、質問し、話を聞きました。すると、なんのことはない。いままで自分が障害を負って経験してきたもの、すべてがCIL(自立生活センター)でいうところの、ピアカウンセリングによるエンパワーメントであったことに気付いたわけです。しいて自分のロールモデルを上げれば、それはまさしく故・向坊氏がそれに当たるんだと。
 大袈裟(おおげさ)に言えば、結局、僕はずっと自立生活(IL)運動を独自にやってきてたわけで、それを全国各地で組織的にやってる仲間がいたなんて。なんてことでしょう!(劇的ビフォーアフター風に)
 これに気付いたとき、ここが自分のフィールドだ!って確信したわけです。頑張っても越えられない壁を目の当たりにしたとき、仕方ない、と逃げずに、社会がおかしい! 変えろ!って真っ向対峙(たいじ)していける理念を掲げている場所、それがCILで、その在り様は自分の性格にピッタリでした。
 そんなこんなで小倉で一人暮らしをはじめて2年目になります。24時間介助者がいて、毎日、いろんな問題が起きて、慌しくて、めまぐるしくて……、素晴らしく充実した毎日を送れています。地域で自立して生活するというのは、難しくて、とても楽しいです。日常の、当たり前の自己決定は、時に面倒臭く、失敗もつきものだけど、それも含めての人生だからこそ、素晴らしい。
 そして、仕事として仲間の支援をするというのは、また別の難しさと楽しさがあるわけで、この点は、まだまだこれからです。早く一人前のロールモデルとして仲間を支援できるように、頑張ります!
 というわけで、自立生活センターに興味を持った方はインターネットなどを調べて、最寄のセンターに遊びに行ってみてはいかがでしょうか。また、北九州近郊の方は是非ぶるーむに遊びに来てください。
 サイトはこちら→http://homepage3.nifty.com/cil-bloom

福岡県:N.G.



 『臥龍窟日乗』 —最後の牙城(がじょう)— 


 今年還暦を迎えるというヘルパーのSさんが、朝やってくるなり、「ねえねえ、ついに行って来たわよ」と興奮気味である。富士山にでも登ったのかと思いきや、「牛丼を食べてきた」と嬉々としている。なんでも世間では牛丼の値引き合戦が始まっていて、大手のSMYが三つ巴の競争をしているそうな。
 「牛丼って前々から食べてみたいと思っていたんだけど、店を覘(のぞ)くと男ばかりで腰が引けてたのよ」
 ところが今回の値下げ競争では女性客や家族客がターゲットらしくて、開店記念に女性客歓迎なんてチラシを配布したところもあったそうだ。ボランティアのKさんは40前後の女性だが、「そうそうウチも家族みんなでいったのよ。結構おいしかったわよ」と合いの手を入れる。
 「牛丼ってもっとベチャベチャしたもんだと思っていたけど、油がおつゆに溶けちゃうのかしら。意外にさっぱりしていていけるわよね」「こんな旨いもん男が独占していたなんて腹たつよね」「女が入ろうとすると奥の方に陣取ったオッチャンがジロと睨(にら)みつけるのよ。けったくそわりーね」
 いやはや話がえらい方向にずれてきたもんだ。いったんズッコケた井戸端会議はとめどなく続く。こうなるともう多勢に無勢。貝になるにしくはない。
 昔同じような思いをしたことがある。昭和50年代の後半だったろうか。
 毎朝カアチャン(妻のこと)に2000円貰い、駅の売店でタバコを買う。昼は立食いうどんで300円。残りは夜のお楽しみだ。
 会社がひけると、「お酒はぬるめの〜お♪」なんて鼻唄まじりで養老の滝の縄のれんをくぐる。カウンターの端っこはわが指定席だ。
 いつものように兄ちゃんにビールとモツ焼きを注文する。
 冷えたビールをおもむろにガラスコップにそそぐ。今日も仕事はつらかった……、一日の仕事を終え至福のひとときだ。待ちに待ったこの一瞬、ぐびーっと一気に飲み干す。
 有線放送からは『石狩挽歌』そして『津軽海峡冬景色』が続けて流れる。
 「チクショウ、いいねえ。しびれるねえ」
 気分がのってきたところでビールをもう1本注文する。
 明るかった店内の照明が次第に暗くなり、やがて私の所にスポットライトがあたって周辺は真っ暗となる。
 メロディーは『悲しい酒』に変わった。
 「○○部長の下司(げす)野郎。ふざけやがって、テメーのミスを部下になすりつけやがったな。明日こそケリをつけてやっからな」「社長のデブがまたなんだ。始末書を書けだと。テメーが書けってんだ、このド阿呆め」
 昼間の屈辱感がこみ上げてくる。
 このあたりで曲は森進一の『人生の並木路』に変わる。思わずはらはらと涙がチョチョリ出て来るのだ。
 途端に背後で「キャー」という嬌声(きょうせい)が上がる。周辺が急に明るくなった。雑音の洪水の中にいる自分にハッと気付く。背後を振り向くと、座敷の大部屋で10数人もの若い女たちがテーブルを囲んでいる。なんとビールジョッキでチューハイを飲んでいるではないか。
 おいおい、じょーだんじゃねえぞ。ここは君らの来るところじゃない。屈辱と挫折と怨念にまみれたオッチャンたちが、心の傷を癒しに来るところなんだ。
 人生の悲しさ辛さなんてまだまだ分りゃしない君らが来ちゃいけないんだよ。
 「なに言ってんだよ、ヨーコ。そんなメメしい男なんか捨てちゃえ」「そうだそうだ」とまたしても黄色い喚声。
 うーむ、もう我慢ならねえ。「おい店長、いつからあんな客入れるようになったんだよ」「しゅいまっしぇ〜ん。でもウチも商売っすから」
 私は全財産、といっても1400円也をテーブルの上に叩き付け、「金輪際こんな店には来るものか」と椅子の足を蹴った。だが店を替えても同じこと。行く先々で疎外される。かくして私は貝になった。
 牛丼屋だけはオッチャンに残された最後の牙城だと信じていたのに……言うだけ野暮か。

千葉県:臥龍

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