どたばた、パパ!
まだ残暑が続くある日の夕方のことでした。妻が「今日はいつもよりお腹が痛い。陣痛の始まりかも」と言う。え? 昨日病院へ行って明日入院と言われたのに……。しかし、病院へ連絡するのはまだ早いと、妻は痛みをこらえながら家事をこなしていました。私は、ガイドヘルパーを利用しないと外出できないので、病院へは妻の母が付き添って行かないといけません。実家は離れており間に合わない恐れがあるため、夜間や早朝の出産だけは避けたいと切に願っていました。
ヘルパーさんにベッドに寝かせてもらっている間、妻が病院へ電話すると陣痛が10分間隔になったら来て下さいとのこと。実家にも電話し母も駆けつけてくれました。午前4時さらに痛みはひどくなり、妻は母と病院へ向かうことになりました。う〜ん、願いは届かなかったか……!
私は眠れないまま朝を迎えました。妻から連絡があり、「昼には産まれそう」とのこと。ヘルパーさんにいつもより早く起こしてもらい、急いで病院へ向かいました。出産には立ち会おうと前々から決めていて、本を読んだり、経験者の話しを聞いたり、勉強もしていたので遅れないように焦る気持ちでいっぱいでした。
病室では妻が痛みに耐えながら、助産師さんの掛け声に合わせて頑張っていました。あ〜よかった〜! 間にあった〜! と安心したすぐ後、少しでも楽になるように声を掛けました。「吸って〜・吸って〜・はいて〜・はいて〜・はい、楽にして〜」それを何度も、何度も繰り返しました。母は落ち着かずタバコを何度も吸いに行き、私も息抜きに行きました。まだ産まれないのか〜。男は待つしかできな〜い! もどかしい! 早く産まれてくれ〜! と祈るしかありません。お昼に産まれると言ったのに、もう3時過ぎ。まだ産まれそうにな〜い! 疲労も限界に達しそうだ。でも、一番大変なのは妻だ。気持ちを奮い立たせ病室に戻りました。
午後5時ようやく分娩室へ案内されました。ゴールまでもう少し! 元気が沸いて来ました。もう少しで我が子に会えます。妻と顔を合わせ、「やっとここまで来たもう少しだ! 頑張れ!」と励ましました。助産師さんの掛け声に合わせ力を入れる。「はい、息を吸ってー、吸ってー、力んでー、はい、楽にしてー」と声を掛ける。何度も、何度も、でも産まれてこない。お〜い頼む、早く産まれてくれ〜と心の中で必死に祈る。先生も来て助産師さんと一緒に同じようにするが、なかなか産まれない。そうしてるうちに心拍を測っている機械が「ピ・ピ・ピ・」と鳴り出した。すると周りが慌て始め、先生が「吸引します」という。私も妻も胸いっぱいに不安が走る。どうなるんだろう? 妻は赤ちゃんが死ぬと思い必死で頑張る、今にも死にそうな顔で渾身の力を出した。そして、ついに5時54分男子誕生!
小さい声で「え〜ん」と泣いた。すぐに連れて行かれ、沐浴(もくよく)されると大きな声で「おんぎゃ〜、おんぎゃ〜」と泣き一安心。すると、感動が胸いっぱいに込み上げて来て自然に涙が出ていました。妻も感動して泣いていました。「お疲れ様。そしてありがとう」と妻に言いました。母と私は、妻の処置の間に産まれてきた我が子を腕に抱きました。小さい手足なんて可愛いんだろう、全てがいとおしく見えました。親になるとはこういうことなんだろうか? 母も心配してたのだろう、不安そうな顔が孫を抱くなり見る見る解けて何ともいえない穏やかな顔になっていました。妻も死に物狂いで産んだ我が子を抱き、幸せな顔をしていました。3896gの大きな赤ちゃんでした。そりゃ〜なかなか産まれてこないはずだ。妻と顔を合わせ納得しました。
妻が妊娠したときから悩み考えていました。障害があるためできないことが多い、泣いても抱いてあげられない! ミルクは作れないし、あげられない! お風呂は入れてあげられない! 父親として何ができるんだろう? ところがいざ産まれてみると、今まで苦労をしたことは忘れ、いいんだ! 自分ができることをすれば、精一杯の愛情を注げば大丈夫なんだ! と初めて抱いた我が子を見て強く、強く思いました。
母、先生、助産師さん、看護師さんを始め協力して下さったヘルパーさんにも感謝の気持ちでいっぱいでした。何よりも「母子ともに健康ですよ〜!」の声にホッと胸を撫(な)で下ろしました。出産時羊水を飲んだため一時保育器に入りましたが、1週間後無事退院の日を迎えることができました。
パパさん
就職しました
今年の夏、いよいよ40歳を迎える私ですが……昨年11月、めでたく就職しました。仕事の内容は在宅でのパソコン入力業務なので、通勤はありません。口に棒をくわえてノートパソコン(会社からの貸与品)のキーを打ち、自宅から会社のサーバーにアクセスして、各地の薬局で働く薬剤師さんたちの勤務シフトを管理するシステムにデータ入力を行います。作業自体は難しいことではありませんが、大勢の人の給与に関わる業務なので責任は重大です。通勤でタイムカードを押す代わりに、毎日の仕事始めと終わりにメールを送信します。
日中には通院や介護に必要な時間を取る必要があるので、仕事を始める時間は曜日毎によっていろいろ……リハビリ通院の月曜日は5時から男、入浴のある曜日は昼過ぎから、それ以外は午前10時半から。そんなペースで週38時間(土日定休)の勤務時間帯を作るので終業時間は夜10時になります。そんなに遅くまで大変!と思われるかもしれませんが、私の生活リズムでは元々いつもこの時間帯はパソコンに向かって何かをしている時間だったので全く苦にはなりません。むしろ、今まで遊んでいた時間にやるべきことができて給料がもらえるというのだから有難いことです。
今回の就職に向けては、ちょうど1年前ぐらいから活動を始めていました。仕事をして収入を得るということについては、数年前からホームページ制作やポスター、パンフレットなどのデザインを単発のアルバイト的に引き受けて報酬を頂くということを細々と続けてはいましたが、そこから改めて“雇用”という形態にこだわって活動を始めたのにはいくつか理由がありました。
定年の近い父と、これから高校・大学へと進む子どもたち、自分の年齢……安定した収入を得られる職に就く必要のある頃合いかなというのが一番の理由。それに単発での請負仕事は収入が不安定なだけでなく、営業からアフターサービスまで(というほどのことはできないのですが)何から何まで自分でしなければならない、全て自己責任。自分のペースで仕事を選べるということが結果的には足枷(あしかせ)になることもあり……そのようなマネージメントを会社に行ってもらうことで精神的にも安定して働けるという利点があると思います。
同時に雇用に踏み切るにはある種の覚悟も必要でした。働いて高い収入を得ることにより、年金が打ち切られるのでは……? 自立支援法や保険料の自己負担額が増えるのでは……? 税金は? 申告は? 今まで「障害1級」という免状により、深く考えることなくすり抜けられてきた問題と初めて正面から向き合うことになりました。この手の問題については個々の障害や家庭状況、市町村による制度の違いから、ネット上で調べる程度では実際の具体的な答えが見出せません。
結局、1日掛けて市役所を周り、福祉課、市民課、納税課……と詳しく説明してもらって勉強してきました。同年代の社会人ならば当然知っているべきことなのでしょうから聞くのに若干勇気が要ったりもしますが、もう開き直りです。(笑)
結論から言うと、高給取りになったからといって年金が打ち切られることはないけれど、控除額以上の収入を得るようになると住民税の課税対象となり、そこを境にして自立支援法の利用者負担額が上がります。自立支援法では“障害者がもっと「働ける社会」に”ということを唱えているのに、働くと出費が増えるというのには矛盾を感じますが……。
もうひとつ、雇用に際して不安なのが自分のレベル……自分の持っている技術が会社での仕事に通用するレベルに達しているのか? 一般的な社会常識やマナーが自分には備わっているのか? 自分の健康状態が会社の仕事に付いていけるのか? 20代はじめで頸損(C4)になって一度も就職することなくこの歳まで生きてきたので、いわゆる“一般的”とされるレベルと比較して自分がどの辺にいるのか自分では全く分かりませんでした。
これについては神奈川リハビリテーション病院の「職能科」にお世話になり、東京都障害者ITサポートセンターや在宅雇用の会社説明会に連れて行ってもらって、専門家の話しを聞きながら自分についての客観的な意見をもらうことで徐々に解決していきました。実際には解決(?)というより、自分に合った範囲内での職を探すというか、自分の「できること」「できないこと」をハッキリさせてそれを相手にぶつけるだけ!ということのようです。
私の場合の「できること」というのは、パソコンの基本操作、デザイン系ソフトの操作、簡単なホームページ制作、等々というところで在宅の業務には向いていたのが幸いでした。とはいえ、学校で専門的に学んだことはなく、全て受傷後に独学で会得した程度ですし、何の資格も持ってはいません。履歴書には「特技」として載せられる程度なので、あとは面接時に自分が今まで作った物を実際に見てもらって技術のレベルは相手に判断してもらうしかありませんでした。ちなみに、こうして機関誌などの原稿を書かせてもらっていることや、神奈川頸損連絡会のホームページ担当をしていることも評価されたようです。
“雇用”ともうひとつこだわったのが“在宅”ということです。これはこだわりというより必然的にそれしかないといえるかもしれません。通勤するとなるとラッシュ時の公共交通機関を使って……無理無理! 私のような外国製の大きな電動車椅子で満員の電車に乗るのは、自分にとっても周囲にとっても危険です。何度か経験ありますが、誰かが背後のレバーに当たって勝手に車椅子がリクライニングしたり、足が変な方を向いていたり……乗るたびにそんな危険を冒しての通勤では、マトモな仕事なんてできるとは思えません。
時間的にも最初に書いたとおり只でさえ日中の勤務時間を確保するのが難しいので、普通以上に手間取る通勤時間を省くことでその時間を勤務に回せるということもあります。雇う側にしても電動車椅子の私を職場に迎えるとなれば、バリアフリー化などの大きな手間が増えて二の足を踏むことでしょうし!? 自分の能力を最も有効に無駄なく安定して使ってもらうためには在宅雇用という形態が最適だろうと考えました。
とはいえ、こちらの望む条件にあった求人があるかというと……障害者、在宅、雇用の三拍子を揃えた求人なんてハローワークで探した限りでは皆無でした。普通の就職でも難しいご時世なのですから当然と言えば当然……しかも、神奈川県は障害者雇用については3年連続のワースト2位なんだとか。
そこで、さらにインターネットで障害者雇用専門の求職サイトに登録したり、神奈川リハビリ以外にも県の障害者雇用の支援機関にお世話になったりしながら、条件に合う情報があれば詳細を尋ねて面接を受けてきました。今の会社に採用される前には面接で落とされたこともあります。人材派遣関連の会社だったので、その後から“派遣切り”が問題となり、今となっては落ちていて良かったと思うのですが……。
一期一会、いろんなタイミングやご縁があって、今の会社に巡り会えたことは私にとってとてもラッキーなことでした。さらに、今まで会社の一部署として働いていた障害者の在宅チームが先月から独立して「特例子会社」という形態にバージョンアップしました。今後はホームページ作りなどのクリエイティブな業務も始めていくとのことで、自分の得意分野をさらに伸ばして役に立っていければ良いなぁと思っています。
神奈川県:S.M.
長女の誕生
頸椎損傷で四肢マヒとなって24年になります。C4。入院3年。その後も何度か入退院をし、現在は自宅で生活しています。左腕はぎりぎり顔に届く程度、右腕で食事、歯磨き、電動車椅子の操作をしています。今回は、1歳6ヶ月になる娘のことを書かせてもらいます。
5年前に結婚した。妻と出会ったとき、僕はこの女性と生涯共に過ごしたいと直感的に願った。体調も崩しやすい、体力もない、経済力もない僕と結婚してくれた妻には今も感謝している。いつ結婚を申し込もうかとタイミングを見計らっていた僕に、「よし、申し込もう」と後押ししてくれたのは妻のある一言があったからだが、それは誰にも語らずに墓の中まで持って行くこととして、今回は妻が産んでくれた長女の話をしたいと思う。
娘は1歳6ヶ月になる。親バカかもしれないが、本当に可愛い。娘の言動にこの子は天才なんじゃないかとさえ思うときがある。娘が生まれたとき、妻に感謝し、本当に幸せだと思った。でも、娘は二分脊椎という病気を持って生まれてきた。腰椎に脂肪腫があって、状態がひどいと脊髄を圧迫してマヒを起こす。乳児健診でそれが分かった。
悲しくて苦しくて、父親が四肢マヒなのになぜ娘までと思った。僕のせいなのかとも思った。でも、泣いてもいられない。悲しんでばかりもいられない。こんなときは父親以上に母親のほうがつらいはずだ。妻は産んだ自分を責めているかもしれない。そんなことはない。ふたりの子だ。ふたりで治してやればいい。
専門の病院で検査し、手術もした。幸いにも脊髄への影響は少なく、下半身マヒの兆候は見られない。成長していくと排尿や排便に影響が出るかもしれないと医師は言うが、僕はそんなことが起きないようにと祈っている。
娘は元気に過ごしている。家計を支えるために妻は仕事に行っているので、日中、娘は保育園と託児所に行く。
「バイバイ」
と言って出かけていく。
このくらいの時期の子供はみんなそうらしいが、うちの娘もまた母親の後をついて回っている。まあ、育児のほぼすべてを妻がしているから、母親にべったりなのは仕方ないのだけれど、
「お父さんと遊ぼうか」
と声をかけても、
「いやー」
といつも言われて悲しい思いをしている。自分から娘のところに行って遊べないのもあると思うが、たまに娘のほうから遊びに来てくれたときはうれしい。
今の僕にできる育児は娘に話しかけること。歯磨きをいやがる娘に、
「あーんして」「おりこうさんだね」
と声をかけること。ボール遊びをすること。叱ること。娘のための買い物に行くこと。病院の予約の電話をしたり、問い合わせをすること。娘の着る洋服について妻と話したり、娘の食べられる夕食の献立を考えたり、病気のことや将来のことを相談し合ったりすること。それから……本当にわずかしかない。でも、今はそれが楽しい。一時期、体調が優れず、ほとんど育児に参加できないこともあった。妻に余計な負担をかけ、不快な思いをさせてしまっていた。でも、このごろは体調もあまり崩すことなく、育児に参加できているのではないかと思う。
ときどき、僕のベッドに登ってくる娘。僕と遊びに来たわけではなく、ベッドの上にあるリモコンや携帯電話を目当てに登ってくるのだけれど、それがうれしい。最近はお手伝いが好きで、食事のときは僕の装具付きフォークを持ってきて口にくわえさせてくれ、歯磨きのときは歯ブラシをくわえさせてくれる。ジュースも飲ませてくれる。朝は充電器から電話の子機を持ってきてくれる。成長してこれからも多くのことを覚えていくだろう。本当に可愛い。
そんな娘もいつかは父親に障害があるのだと認識するだろう。娘はどう思い、どう感じるだろうか。そして、僕は良い父親になれるだろうか。娘を幸せにしてやれる良い父親に。僕は妻を、娘を愛している。この体でいつまで生きられるか分からないけれど、このふたりを幸せにしなければならない。大したこともできないのにと自問自答することも多々ある。でも、僕に何があってもいい。妻と娘だけは幸せになってほしい。
妻がいなければ僕は途方に暮れるだろう。妻がいなければ生活は成り立たないだろう。娘がいなければ僕は悲しみにくれるだろう。娘がいなければ僕の生活は成り立たないだろう。ふたりの笑顔があってこそ、僕も笑顔でいられる。この障害のある体で人を幸せにするということがどんなに難しいかは分かっているつもりだ。何をしなければならないのか、何をすればいいのか、何ができるのか。迷いながらも生きている。幸せに生きている。
匿名希望
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