「はがき通信」のおかげで自信が
私の「はがき通信」との出会いは、私がまだ受傷間もないころ母が偶然テレビで向坊さんが出演されていた番組を見たことから始まります。 当時、突然手も足も動かないと宣告され、先が全く見通せない状況の中、同じ障害を負った方が、私たちのすぐ近くに、しかも一人暮らしをされているということで、母はさっそくお話を伺いに行ったそうです。 受傷後30年も経過されているということ、こういう状況の中でも社会参加しながらしっかりと生きておられる姿を見た時に、「うちもやっていけるかもしれない……」と光が見えたとのことでした。その時に初めて「はがき通信」に出会いました。 私がよく投稿していたのは、病院を退院して、リハビリ施設にいたころです。何もできないと思っていた状況のなかでも、成人式には振袖を着て、旅行にも行けて、資格もとれて……と、皆さんの活躍を励みに、私もいろいろと挑戦してみて、できることの嬉しさをメインに投稿していたように思います。 現在は、何をしてもあまり新鮮さを感じずに投稿からすっかり遠のいてしまいましたが、これはあの日の「はがき通信」のおかげで、今の自分でも、主体的に生きていくことができるという自信がついたからだと思います。 ただ、最近よく思うのは、知り合いや友達のお宅に伺うというということはバリアの問題で難しいのですが、若松方面に行った時や、天気が良くちょっとドライブに行きたい時などは、気軽に向坊さんのお宅に寄らせていただいておりました。それがこれからできなくなるということはとても寂しく感じられます。 でも、私の心の中には向坊さんの笑顔や優しさが今もしっかりと残っています。向坊さんのおかげでいろいろな方々とお知り合いになれ、皆さんの頑張りから勇気をいただきました。これからも私は私なりに、目標を持って生きていこうと思います。 向坊さんのご冥福を心からお祈りいたします。 福岡県:H・K 向坊さんとの思い出
1989年、私がまだ入院中、松井和子先生を通じて頸髄損傷者の情報交換誌(はがき通信)の呼びかけの手紙をいただいたのが向坊さんとの初めての出会いでした。その当時はまだ入院中でしたので公衆電話から家政婦さんに受話器を持っていてもらい、向坊さんのひとり暮らしや毎年フィリピンに行く生活に驚き「世の中には無謀な人がいるなぁ……」と思ったのが第一印象でした。 それから、「はがき通信」1号に自己紹介を書かせていただき、向坊さんや松井先生を始め、全国の頸髄損傷者の方々と交流が始まったのが私の頸髄損傷者としての人生を変えていくこととなりました。療護施設に入所後、「はがき通信」懇親会や全国頸損連絡会、リハ工学カンファレンスなどで積極的に交流を始め、95年には向坊さんのいる「フィリピン日本人障害者の家」に行くことができました。現地の人に慕われ、フィリピン人アテンダントに的確に指示を出す向坊さんに改めて感激しました。 それから毎年フィリピンに行くようになり、96年の12月に同行する介助者が急に行けなくなり、フィリピンの向坊さんに電話したところ「大丈夫ですからひとりで来ませんか?」との誘いに、思い切ってひとりで行くことになりました。約16時間かかり「日本人障害者の家」に無事到着し、向坊さんは「本当にひとりで来るとは思いませんでしたよ(笑)」と笑顔で出迎えてくれました。あの笑顔は今も心の中に焼き付いています。それから約2ヶ月間、日本人障害者の家で向坊さんと生活することができ、いろいろなことを教わり楽しい日々をすごしました。それが療護施設を退所し自立生活を始める勇気につながり、あのフィリピン滞在がなかったら今も療護施設のベッドの上だったと思っています。その後も北九州のお宅にお邪魔したりメールのやり取りなど頸損のそして人生の先輩として、いろいろアドバイスをしてもらいました。 それがあの突然の悲報。昨年小倉でお会いしたのに……。 私はどうしても、もう一度「これまでのお礼とお別れ」を言いたい。すぐに新幹線の指定券を購入し、日帰りで告別式に参列することができました。お顔も拝見させていただきましたが、とても穏やかなちょっと微笑んでいるようにも見えました。まるでフィリピン・ルセナの市場でリクライニングを倒し、一緒に昼寝した時のお顔にそっくりでした。 私は、フィリピンでの向坊さんと過ごした日々を思い出し、涙が止まらない中に何か思い出し笑いをするくらい、向坊さんのひとつひとつの言葉や仕草が鮮明に甦りました。あの「大丈夫ですよ!」がもう聞けないなんて思うと本当に悲しくなります。 これまでの私たちに与えて下さった数々の行動や言葉に本当に感謝いたします。私も向坊さんのように皆さんから目標とされる頸髄損傷者の生き方ができるよう、これからの人生を歩んで行ければと思います。 本当にありがとうございました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌 広報委員:麸澤 孝 向坊さんとの出会い
向坊さんの訃報は、あまりにも突然の出来事で、いつまでもお元気でいてくださると思っていたのに、ほんとうに驚きました。寂しくなりました。心よりご冥福をお祈りいたします。 向坊さんとの出会いは、11年前、入院先のリハビリ室に置かれてあった、1枚のチラシでした。広島で開催される、向坊さんの公演のお知らせです。そのときは、「はがき通信」も、向坊さんも知らなかったので、少しでも参考になれば、という気持ちだけで、病院から講演を聴きに行きました。木製の収納付きテーブルが付いた電動車イスを、器用に操縦される姿と、終始穏やかな口調で話される姿が、大変印象的でした。それから1年後、在宅に向かって不安が募る中、リハビリの先生が「はがき通信」を持って来られました。受傷間もないころ、リハビリの先生が読書中の本の中で「はがき通信」という記事を見つけ、調べて、取り寄せてくださったのです。 投稿文は、「海外に行って来ました」とか、「四肢麻痺だけど、24時間一人暮らしをしている」とか、驚きの連続。と同時に、希望が見え、ずいぶん励まされました。 在宅生活が始まって、1年後の1998年の夏、2泊3日で九州へ行きました。最終日、向坊さんを尋ねました。事前に地図を送っていただき、迷うことなく到着したのですが、ここからがお笑い事件です。地図に、“大きな塀の家”と、書かれてあったので、「さすが向坊さん」と疑うこともなく、“大きな塀の家”のインターフォンを探しましたが、防犯カメラばかりで、どこにも見当たりません。「おかしいなあ」と、お向かいの家の方に尋ねると、「向坊さんちは、こっちよ」「……」太田さんとの出会いでした。地図をよ〜く見ると、“大きな塀の家の前の、小さな家”と、書かれておりました。 向坊さんは、相変わらず穏やかで、温かく迎えてくださいました。ジョクソウの対処法、自己管理の仕方などを教えてくださったり、生活ぶりを聞いていると、私でもなんでもできるような気がしてきました。近況報告を兼ね、できたての私の絵葉書を見せると、「いい絵です。自信を持って。安売りはいけませんよ」と言われ、不安だらけだった胸に、ずっしりと響き、大変嬉しかったことを忘れません。 翌年、「はがき通信」懇親会が広島で開催され、懇親会に初めて参加させていただきました。想像以上のすごいパワーに、ただただ圧倒されるばかり。「私って何をやってるんだろう……」一瞬情けなくなったけど、それはすぐに勇気へと変わりました。横浜で懇親会の折には、あれほど不安に思っていた新幹線に初めて乗り、高校生の娘とたった二人での参加。すごい冒険旅行でしたが、大きな自信となりました。 向坊さん、「はがき通信」での出会い、ありがとうございました。どうぞ安らかに、お眠りください。(2006年6月30日) 広島県:ハローまり E-mail: hello-mari@enjoy.ne.jp 送詞
お旅立ちの知らせを受けて、本当に本当に驚いています。いきなりですからね。だって、フィリピンから元気にお帰りになったのは、ついこの間じゃないですか。改めて、ホームページを開いてみました。自身の不自由も省みず、各国で教えを広め、さらには障害者の力となって活動された貴方の生き様は、それぞれの地で根を張っていくことでしょう。 僕も、唯一元気の源とさせていただいてきた「はがき通信」のネットを、今後も拠り所としていきたいと思っています。今年の懇親会in広島を楽しみにしておりましたのに残念です。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌 佐賀県:N・K E-mail: kaju0024@ceres.ocn.ne.jp 向坊さまへ
心からお悔やみ申し上げます。お亡くなりになられ早50日が過ぎました。北九州での懇親会の折りに、これまでとお変わりないお元気なお姿にお会いできて心配していたことがほんとに嘘のようでしたのに、その時のお姿が目に焼き付いており信じがたい気持ちと悔しい気持ちが交差しております。 向坊さんとの出会いは、平成6年5月福岡県飯塚市の総合せき損センターにて第2回交流会の発表の場でした。20歳の時に交通事故に遭われ、その時は56歳です。12年間は自宅で寝たっきりで、12年後に自立生活をスタートされたと発表されました。バリアフリーの家を建てるのに手探り状態で、ご苦労がありましたからその時節寝たっきりで過ごすしかなかったのだと思います。そんな時節にしかもフィリピン、中国、ブラジルと過酷な外国旅行をお一人で旅立たれ、途中排便排尿にとても困惑されたお話を聞きほんとに驚きました。 そのとき私は事故後10年めでした。私など家族に負担をかけたくない、自分自身が自立した生活をしたい一念でしたが、向坊さんのスケールの大きい体験談を聞き、私にもいつか外国旅行ができるのでは? と目標を持ったことを今も鮮明に覚えています。その後も自費出版されたり講演されたり、仏教を通して社会活動をされ、また、私たちの大きな支えであった情報交換誌「はがき通信」も100号に達するんですね。素晴らしい生き方と多くの限りない愛と、また、素晴らしい遺産を残されました。向坊さんは、これからもずっと私たち一人ひとりの心に生き続け、しっかり生きよと示してくれることと思います。ありがとうございました。安らかにお休み下さい。 最後になりましたが、長い間お側でお力添えして下さった太田さんお疲れさまでした。これからはご自身の健康を大切になさって下さい。 長崎県:S・Y 向坊さんを偲んで
私は向坊さんと直接お会いしたことはありません。それが今となっては心残りです。彼の著作と「はがき通信」での一言一言、何度かお電話でお話ししたこと、そして「はがき通信」の仲間から聴く彼の消息が全てです。それらを通じて私にとっての向坊さんの存在感は大変大きなものになりました。向坊さんと「はがき通信」は私の障害者として生きる上での出発点でした。 「出逢い」のきっかけは1994年の暮れ頃、松井和子先生が私宅を訪れてくださったことです。その時、「はがき通信」のバックナンバー、向坊弘道著『よみがえる人生』、藤川景著『上の空』、可山優零著『冥冥なる人間』をいただいたのです。 当時私はC6〜T2脊髄髄内腫瘍の治療で生死の間をさまよったあと、在宅に移行して試行錯誤の最中でした。ほとんどベッド上の生活で、全身に抱える痛みと「グリオーマ」という腫瘍の再発の懸念から、私は「どれだけ生き延びるか」「いかに死ぬか、死ぬまで何ができるか」という観念に囚われ、焦りと疲労感で揺れていました。松井先生から渡された「はがき通信」とこれらの著作をベッド上仰臥でオーバーテーブルの書見台に本をたて、肘をあげてやっと使える右人差し指でページをこするように繰って引きずり込まれるように読みました。時間をかけて読み終えた後、心の焦りと揺れは消えある種の安定を得ていました。そして向坊さんに電話を入れ、「はがき通信」の購読と、「よみがえる」シリーズの購入を申し込んだのです。これが彼と話を交わした最初です。向坊さんから受けたインパクトはおおきかった。 第1は、自分より30年前に受傷した重度の四肢麻痺者である向坊さんが、「生き抜く力」を自由な発想で鍛え抜いてきた日々の営みは有無を言わせぬものでした。何もせずに「いかに死ぬか」などということは戯言にすぎません。彼の説く仏の教えは理解しがたく、彼の行動力にはついていけませんでしたが、脊髄疾患に苦しむ多くの人々の中のOne of Themとして自分を客観視し長期戦で取り組む心準備はできたように思います。 第2は、彼のセンスです。人の弱さをあるがままに受け入れる無条件の温かい視線と「正直」に徹しながら私心を排して社会を批判的にみつめる視線は彼独特のものです。加えて四肢麻痺の身で世界を飛びまわったとらわれのない発想です。重度の障害者の悪戦苦闘の挑戦を何であれまず受け入れて応援する無手勝流です。そこには強制も押しつけもなく、当事者の独特の優しさが込められています。ときどき仏教専門用語の難解な解説やそれとは不釣り合いなリアリストとしての損得勘定が顔を出しますが、壮絶な生き方と切り離せない一面です。「はがき通信」のさまざまな書き手の語り口にはそのようなキャラへの共感と信頼感がありました。共感を共有しながら私は変わったように思います。 第3は「はがき通信」の情報媒体としての先駆性です。向坊さんの訃報をうけて、あらためて「はがき通信」のインターネット版を、No.1.からNo.99.まで読み返してみました。捨て身の仏教徒の向坊氏と看護学と医療社会学の専門家で辛抱強い松井先生、お二人の力と個性が生み出し、育てあげ、継続させた「はがき通信」は、時代を超えた凄い情報媒体であったことをあらためて思い知ります。このお二人にして初めて可能であったとも思います。重度障害当事者の個々の事情に則し、具体的な個々の経験、遭遇した事実と思いの語りを通じて、それぞれに生きる力を引き出し、積み重ね、分かち合っていく質の高いネットワークができ上がっていたのです。私もその恩恵を受けてきました。「はがき通信」は大切な道案内となりました。 そして、彼の生死への覚悟です。向坊さんはひたすら走り続けることによって活力を維持してきたのかも知れません。彼の行動力には覚悟を伴っているのを感じさせられます。覚悟の上で身支度しながら、もうしばらく走り続けようとしていた……、息切れしそうなときガンにおそわれたのでしょうか。「はがき通信」No.95に書かれている「ガン体験記」は、向坊さんの味わった筆舌に尽くせない苦しみと「覚悟」をさりげなく伝えるものでした。私はいつ再発するか分からない腫瘍と痛みをかかえて、向坊さんの生き方にたじろぐばかりでした。今、向坊さんとスーパーヘルパーの太田さんが成し遂げたことの真似のできない大きさを感じています。 あまり走れなかった私は無条件に脱帽です。出逢いに心から感謝し、ご冥福をお祈り申し上げます。 東京都:A・Y 『立った!ついに歩いた!—脊髄損傷・完全四肢麻痺からの生還—』
(右近清、樹心社)を読んで (中編)
そんな病院まわりをくりかえすうちに右近氏は「何か」をつかむ。《脊髄という神経を損傷したから動かないのであって、その脊髄に絶えず命令という刺激を与える、いわば神経活性化訓練なしには絶対動くはずはないと確信を持つようになったのです。》そのためには、やる気を起こさせ心を高揚させる励まし、精神を一点に集中し凝縮しての取組み、暗示を与えて常に脳に指令を発し、刺激を与え、考えさせる訓練が必要だという結論に達する。 右近氏は退院の3ヶ月前から森さんの自宅の改造を始めている。《十六畳全てをバリアフリーのフローリングにして、床暖房と完璧な空調。トイレとお風呂はストレッチャーを考えてスペースを広く取り、特にベッドの装置を見た人は皆驚嘆します。/その装置とはベッドごと一つの部屋にして寝室という箱で囲み、それを壁に埋め込んだレールで吊り上げてゴンドラ式に上下するものです。》エレベーターよりはるかに安いという。2階の寝室から訓練室に降りるための工夫なのだろう。 森さんの要望で訓練室には仏壇を置き両親の写真をかざった。これで右近氏の厳しい訓練に耐えることができた。右近氏もまた《動かない身体を動かすのは精神力だと信じて疑いませんでした。》と語るように精神重視のひとだ。 ふたつの約束をかわす。朝は必ず化粧をしておしゃれすること、それに人前に積極的に出ること。重度障害者は家に閉じこもりがちだからだ。右近氏は言う。《重度の障害を持つということは何ら恥ずべきことでなく、むしろ積極的に人前に出て行けることは、健常者には考えられない苦悶と煩悶を克服した何よりの証拠であり、その精神力、生き方は人を感動させるものであって、自分を卑下するほうがはるかにおかしいと私は思ったからです。》 医学の門外漢である右近氏は文献に当たり、整形外科・脳外科の医師に情報を求めた。なんとしても歩かせるという情熱にあふれてはいたが、決して確信に満ちてまっしぐらに突き進んだということではなかったようだ。「やはりダメだ、もうあきらめるしかない」と途方に暮れる場面が何度も出てくる。常に暗中模索、試行錯誤の連続だった。 2ヶ月単位の目標を立てて、その一点に集中するという方法を編み出す。 まず座位姿勢の保持。起立性低血圧の克服。 つぎに腹筋強化訓練と胸式呼吸から腹式呼吸への切替えに励んだとある。胸式呼吸から腹式呼吸への切替えというのは解せない。もともと肋間筋が利かないのだから胸式呼吸はできないはずだ。自分の体を観察しても、腹は上下しても胸は動かない。《特注で作らせた訓練専用椅子の肘掛けと脚に森さんの手足を縛り付けて私と美子が両肩を持ち、支え、強制的に身体を折り曲げて、他力による前屈後屈訓練がこうして始まったのです。》記述はないがおそらく背もたれもあるのだろう。背もたれと肘掛けがあってなお手足を縛らなければ座位が保てないとは、そうとうひどい状態だ。 C5のわたしは、腹筋も背筋も随意には動かせないと思いつづけてきた。なぜそう思ったのだろう。患者仲間の情報、医師・看護師など医療関係者やあるいは医学書の影響だろう。何よりも感覚のない部分に力が宿るとは実感しにくいのだ。にもかかわらず右近氏は筋力をよみがえらせようとした。「医学的な知識がなかったからできた」と謙遜するが、正確にいえば「まちがった医学的常識に左右されて諦めるということがなかったからできた」のだろう。 これを1日6時間毎日546日間つづけたところ、森さんの体からは《自分で起きあがろうとする筋肉の震えの手応えがかすかに》感じられるようになり、縛らなくてもすわれるようになり、ついには背もたれなしの端座位ができるようになる。腹圧が付いてきて言語も明瞭になる。その訓練法もスパルタ式だ。わざと指でついて倒す。生体の防衛反応を引き出そうとしたのだ。《脳から強い警告刺激を与え続ければ、それが生き残った電線に必ず伝わると固く信じていたからです。》すごい。やればできるのだ。たしかに頸髄損傷といっても、完全に横断してしまうことはないそうだから、これは筋の通った方法だ。わが国のPTはこれを知っているのだろうか。そもそもわが国では入院中ひとりの患者にふたりの訓練士が付くことなどない。ひとりのPTが同時に10人20人の患者を見る。1日の実質的訓練は30分ぐらいではないだろうか。 札幌の院長が寝返りの訓練を言いだしたときには、「脊髄がむきだしになっている状態でそれはあまりにも無謀だ」と憤ったひとがずいぶん危険な訓練をしたものだ。へたをすれば第2の戸塚ヨットスクールになってしまう。それに毎日6時間それを546日間つづけるだけの根性と環境をすべての患者に要求するのは困難だろう。しかも殺気を帯びた訓練だというのだから。 つぎに立つ訓練。足で立つのではなく、腰と腹筋で立つのだという。床運動で腰と腹筋の徹底的訓練をおこなう。《L型に座らせて二人掛かりでの屈伸と捻り。床に寝せて膝を立て、腹部のベルトを持ち上げての腹筋強化。》 椅子にすわらせ腰のベルトを両脇からふたりで持ち、呼吸を合わせ一気に立たせるという方法。あるいは《森さんの両膝に美子の両膝をピタッと合わせます。いわゆる皿と皿を付けて腰のベルトに手を廻し呼吸を合わせて気合いをかけたその瞬間、美子の膝をグイと森さんの膝に押し付けて伸ばしてやるのです。蝶番を伸ばしてやる原理です。/このとき、一番大切なことは、その瞬間、森さん自身が、「立て!」と脳に強い命令を発することで、この二人のピタリとした阿吽の呼吸が何より大切です。》はじめはベルトを離すとすぐにくずおれてしまった体も、腰と腹筋の強化のおかげで、体勢を立て直すことができるようになる。 リハビリ開始後2年、座位から半年で初めて1分46秒立つ。それ以降、足のむくみはなくなり、大腿筋とふくらはぎにコリコリとした筋肉がつき始める。松葉杖で立つようになる。(後編へ続く) 編集部員:藤川 景 ひとくちインフォメーション
◆駐車禁止除外指定車標章の交付 身体障害者本人が運転又は同乗して利用する自動車は、「駐車禁止除外指定車標章」の交付を受け、一時的に駐車する時にダッシュボードの上の外から見える場所に提示した場合、駐車禁止区域内(法定の駐車禁止場所、駐停車禁止場所を除く)でも他の交通の妨げにならない範囲で駐車できます。 ※「駐車禁止除外指定車標章」を提示しても一般の車両と同じく取り締まりの対象になる場所。 Ⅰ.法定駐停車禁止の場所 ・交差点、横断歩道、自転車横断帯、踏切、軌道敷地内、坂の頂上付近、勾配の急な坂、トンネル ・交差点の側端又は、曲がり角から5m以内の部分 ・横断歩道、自転車横断帯の前後の側端から5m以内の部分 ・安全地帯の左側の部分及び、前後の側端から10m以内の部分 ・バス停から10m以内の部分 ・踏切から前後の側端から10m以内の部分 Ⅱ.法定駐車禁止の場所 ・自動車用出入り口から3m以内の部分 ・道路工事区域の側端から5m以内の部分 ・消防用機械器具の置き場、消防用防火水槽の側端から5m以内の部分 ・消火栓から5m以内の部分 ・火災報知器から1m以内の部分 Ⅲ.道路標識等による駐停車禁止の場所 Ⅳ.無余地駐車となる場所(駐車した時に車両の右側に3.5m以上の余地が無い所) Ⅴ.禁止されている駐車の方法(歩道上の駐車、右側駐車、二重駐車、斜め駐車など) 対象者/下肢機能、視覚障害の場合4級以上の方、体幹機能、平衡機能、内部障害の場合は3級以上の方 問い合わせ・申請先/居住地を管轄する警察署交通課。手続方法や必要書類などについては、事前に警察署へお問い合わせください。 ◆どなたか電動車イスを買って下さい 私が現在所有している「スズキ電動車イス(時速4km)」は、向坊さんを通じて譲っていただいたものです。使用頻度は少ないほうですが、バッテリーの交換が必要です。私の家まで引き取りに来ていただける方を希望します。 代金は「はがき通信」へ寄付いたしますので、5千円でも1万円でも結構です。よろしくお願いいたします。 福岡県田川市:H・M E-mail: bistari@tea.ocn.ne.jp ◆重度障害者、フィリピンで活路 物価安く自立生活が可能 首から下が全く動かない重い障害をもちながら、自立した生活をしたい、とフィリピンにわたった障害者がいる。日本で限界を感じた自立生活を、物価の安いフィリピンで実現しようというのが理由だった。わかっているだけで、日本からフィリピンに移り住んだ重度障害者は10人近いという。 四肢まひの寺本一伸さん(48)。7年前、単身フィリピンに渡った。ミンダナオ島に一軒家を借り、フィリピン人ヘルパー3人に24時間の介護を受けている。 金沢市出身。小学校教師だった16年前、交通事故に遭い、首から下が全く動かない頸椎損傷になった。 障害者施設で3年過ごしたが、失禁でベッドを汚した入所者をしかり付ける声などが響くのを聞きながら、耐えられないと思った。買い物のための自由な外出は年1回だった。 東京都内にアパートを借り、学生ボランティアらの助けを得て一人暮らしをしたこともあったが、自分の思うようにはいかず、落ち込んだ。 そんな時、フィリピンに日本人の障害者が滞在できるNGO施設「日本人身障者の家」があるのを知り、2カ月間滞在してみた。気候は暖かく、フィリピン人ヘルパーの世話も心地よかった。 帰国したものの、日本での自立生活は難しいと感じ、かばんと車いす用のアルミ製スロープ板を持ちフィリピンへ移ったのは、99年3月だった。 雑誌に求人広告を出してヘルパーを雇い、中古のワゴン車を買って週3回は運転手を雇い、買い物や会合に出かける。口にくわえた割りばしで、パソコンを操作し、日本の友人ともメールをやり取りする。ヘルパーらの人件費は月5万〜6万円程度。月11万円の障害者年金などでやり繰りする。日本ならば70万〜80万円はかかるという。 「一歩間違えると、とんでもないことになる可能性もあるが、施設での生活を考えれば何でもない」と寺本さんは話す。 寺本さんが日本から出るきっかけになった「日本人身障者の家」は、北九州市で不動産業などを営む向坊弘道さん(67)が79年、フィリピン・ルセナ市につくった。冬の間だけ日本人の重度障害者が泊まれる施設で、向坊さん自身、首から下が動かない障害者だ。設立以来27年間で、日本から訪れて滞在した障害者は延べ200人。 ここでの滞在を機に、フィリピンに移り住んだ重度障害者は、30代から50代で、寺本さんのほか7人はいるという。 (情報提供:朝日新聞 平成18年5月8日) ◆脊髄損傷患者に神経細胞の再生治療を実施 関西医大 関西医科大(大阪府守口市)を中心とするグループが、事故などで首を骨折して半身不随になった脊髄損傷の患者に自身の骨髄細胞を移植して神経細胞の再生を促す日本初の臨床研究を実施、24日、大阪府内で経過報告をした。実施例はまだ1例で、副作用はなく、症状の改善もみられたが、責任者の中谷寿男・同大教授(救急医学)は「現時点では移植による治療効果かどうかはわからない」としている。 報告によると、3月上旬に転落事故で首を骨折して同大病院に運ばれた30代の男性に対して、12日後に移植を実施した。背骨を固定する手術の際に骨髄を採取、専用の施設で培養した後、腰から注射した。これまで副作用はなく、移植前に両腕のひじが動かせなかったのが、少し曲げ伸ばしができるようになったという。ただ、同程度の脊髄損傷では、多くの場合は改善が望めないが、機能が回復する例もある。今回が治療効果かどうかは判断できないという。 この臨床研究は、事故直後の患者が対象で、グループでは23例を目標にしている。今月、2例目の患者に治療を試みたが、細胞培養がうまくいかずに中止したという。 (情報提供:asahi.com 平成18年6月24日) 【編集後記】
四肢マヒ者の情報交換誌「はがき通信」は、購読料の未納の方が残念ながら多く、廃刊の危機を迎えております。 私も「はがき通信」に助けられたことから、財政的な廃刊は回避したい事態です。購読を希望され過年度分の未納がある方は、未納期間の購読料を納入していただきますようによろしくお願い申し上げます。 購読料の千円の設定は、向坊さんが極力安くと設定したこともご理解いただければ幸いです。 次号の編集担当は、瀬出井 弘美さんです。 編集委員: 藤田 忠
………………《編集委員》……………… (2005.7.25.時点での連絡先です) 発行:九州障害者定期刊行物協会 |
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