はがき通信ホームページへもどる No.87 2004.5.25.
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 小さい子どもの情報を 


 「はがき通信」、いつも拝見しています。わが家には、3歳になる娘がいます。11ヶ月の時に、原因不明の脊髄硬膜外血腫で下半身が麻痺しています。損傷レベルはL1です。病院の都合でなかなかMRIを撮ってもらえず、発見するまでに10日もかかってしまいました。
 脊髄損傷サポートの会などにもときどき参加していますが、小さい子どもは娘だけです。いろいろな医師に、二分脊椎と同じと考えていい、と言われています。大人だったら言われないと思います。
 脊髄損傷のサイトをいろいろと見ますが、大人のかたばかりですよね? 小さい子どもの情報を知りたいと思っています。大人と違い子ども独特の麻痺部位の変形、これから先の導尿や排便のことなど……お願いします。「はがき通信」に掲載されることにより、少しでも情報や反響があれば……と思います。
 罹患(りかん)して2年たちますが、罹患(りかん)直後より感覚、動きなどかなり回復しています。子どもの回復力を信じて前向きに頑張っていくつもりです。5月25日号の掲載を楽しみにしています。手術が終わり落ち着いたら、また近況報告したいと思います。
K・H E-mail: cookiehanbun@hotmail.com


 「歩く」という夢の実現 


 私は、およそ4年ほど前に交通事故により胸椎5、6番の脱臼骨折により脊髄損傷となりました。そして、二度と歩くことはできないと医者に言われましたが、絶対歩いて退院してやると思っていました。しかし、歩くためのリハビリをやることはなく、車いすでの退院となりました。そして、車いすでの生活にだんだん慣れ始めました。それでも、いつか歩きたいと思うことをひそかに自分の夢にしていました。
 車いすの生活で年月がたっても気になるのは排便でした。排尿はもらしても何とかできないこともなかったのですが、便はもらしてしまうとひどく気分が悪くなりました。そして、なんとしてももらさないようにしようと努力した結果、3日に1度完全に出し切るまではトイレから出ないという習慣ができていました。
 初めの頃は、2時間ほどもあれば終わっていたものが近年では短くて4時間、長くて6時間近くトイレに座っているようになっていました。そして、レシカルボンのみでは足らず、浣腸を使うようになり、その量がだんだん多くなっていきました。3日に1回きちんと出すにもかかわらず、次の日もれてしまったりすることも多くなっていました。排便の日を迎えるたび憂鬱(ゆううつ)になり、このままではこの先どうなってしまうのか心配になっていました。
 そんな時、森さんのことをインターネットで知りました。なんと歩けるというのです! そして、「はがき通信」の№67のリンク先に、右近さんへのメールアドレスがありました。私は、驚きと喜びからすぐにメールを出しました。そして、小樽へ呼んでいただき、リハビリのしかたの指導を受けに行き、嬉しいことに1週間も経たずに浣腸は一切使用せずに、レシカルボンのみの自力排便が可能になりました。しかも、3日に1回ではなく毎日です。それでもたまに出ない日もありますが、以前と比べたら天と地ほどの差もあるほどの快便生活です。排尿もまだ導尿が必要ですが、わずかに自力でできるくらいにはなりました。ピクリともしなかった足がわずかずつ動き始め、足も以前に比べるとしっかりしてきました。一人で立ち、歩くことの夢がかなうのもそう遠い日ではないようです。
 以前、脊髄損傷の人たちの交流する掲示板を見たことがありましたが、排便で悩んでる人が自分と同じようにたくさんいて、自分だけの悩みではないのだなと思ったことがあります。歩くことは時間がかかるかもしれません。だけど、排便は早いうちにコントロールすることができるようになると思います。歩くことも何年かかるかわからない手術ができる日を待つよりも、早く歩けるようになるかと思います。4年間動かなかった私の足が動き始めたのですから、他にも動きを取り戻せる人がたくさんいると思います。
 うまくは書けませんが、この文章があきらめかけている人たちの背中を押すことができたら幸いと思います。ぜひ、小樽の右近さんへ連絡を取ってみてください。
 
A県:M・S


 「咲いてこそ花、生きてこそ人」を感じた山形旅行 


 1度で良いから、いっせいに花が咲く北国の春を訪れてみたいと感じていた。5月の連休を決定した人は、東北の人ではないかとさえ感じた。田植えの始まる農業従事者には猫の子の手も借りたい時期であるから、子供たちの学校を休みにさせたいのは当然。
もう1つは、いっせいに咲く花を見てもらいたいという意図があったのではないか? 北国を旅行した多くの人が、異口同音に「桃も桜も梅もいっせいに咲いて、気が狂わんばかりだった」と言うのを初めて実感できた。
 朝6時、夜明けとともに山形道からさくらんぼ街道に入った。昔は「うやむやの関」であった難所も、山形道笹谷トンネルの完成で難なく通り抜け、裏日本に入ると晴れていた。山々のいまだ春を待っていて芽を吹かない枯れ木のうす茶と、春の叫びとともに早々と芽吹いた新緑のまぶしさとに混じって、ぽつんぽつんと満開の桜が咲いていた。眠い目をこすりながら、「あぁ、北国に入った」と感じた。
 「山形北IC」で一般道「さくらんぼ街道」に入ると、白とピンクと赤と黄色のオーケストラがいっせいに交響曲を奏でるようであった。走りながら「すごい、すごい」と感じた。「色は強烈な意味を持った思想である」と感じた。色がさまざまな発言をしている。人のほうが負けそうな、気が狂いそうな、圧倒されそうな景色であった。遠くには、月山(がっさん)の優美な山並みが続く。こんなに綺麗な景色を見て生活したら、いやでも善人に育ってしまう。山形の県民性を育むこの景色!!! そういえば、山形の人は、皆、マジメである。
 「ウソ〜!!」としか思えない、花花花の世界であった。フラワーフラフラ。桃、桜、梅、あんず、ナシ、ぶどう、ラフランス、すもも、菜の花など。皆、皆、仲良く咲いていた。水芭蕉も咲いていた。これも初めてであった。生きて、見られること自体がうれしかった。白くて、つつましやかな、祈りを感じさせる花であった。
 後に見学した「紅花資料館」でも、紅の種類の多さに心理的な効果と色は切り離せないと感じた。からくれない、なかくれない、うすくれない、ほんもみ……。紅の日本語もやさしさを感じる。色自体が人の心を高揚させたり、落ち込ませたりする。したがって、最近の福祉では、カラーコーディネーターが注目されている。さらには、男女を結び付け、愛を語らせる。色を判別できるわれわれの目は、数色しか判別できない昆虫の目や犬のように白黒しか判別できない目と違って、紫外線や赤外線の範囲までは読み取れないが、かなり多様な色の判別ができる。
 日本一のさくらんぼ生産地「東根」ピンクのつぼみが開くと白になり、実を結ぶと白黄色から、世にも美しい淡桃色になっていく。この色は、輸入さくらんぼにはない。色彩が豊かな世界、原色よりも淡さや渋さなど、微妙な色の差を好む日本社会。コトバに表せない色をコトバで表現するのに限界を感じる。それほど、色というのは微妙であり、水彩の色と油絵の具の色でも差がある。幼いころ、本数の多い色鉛筆を誕生日にもらって喜んだのも色の思い出である。
 色即是空(しきそくぜくう)の「色」は何だったのだろうか? 辞書を引いたら、この現実社会を指すと。実態のあるこの生活が「色」であると。それが、即、非現実であると。実生活は、苦悩の連続であるが、それを生きぬくことで悟りが得られると。
 恋も色恋というが、情の世界は一つの色であり、コトバでは表現できない世界である。「色」は、コトバ以上に多様であるから、描く人によって人数分の何種類もの絵が描かれる。そうなると、人生は、即、色。さまざまな人生の絵を描くことが、生きることに他ならない。人は皆、各自の人生キャンバスに自分の絵を描いている。遅咲きの私も、これからがんばって咲こうと思う。「咲いてこそ花、生きてこそ人」という言葉が、何回も心をかすめた。生きる強い意思があってこそ、人生は充実する。他人任せでは、つまらない人生になってしまう。花のように、思いきり咲くかなくてはと感じた。
 今回、山形に行って良かったと思った。花の精に魔法をかけられたようで、楽しかった。不思議な体験であった。これは現実か夢かと疑った。花の世界で、夢を見ていたのかもしれない。今回は妻とは生き別れの旅(彼女は青森に)だけれども、N夫妻と2人のボランティアカップルと1人ぼけかかった勝矢の5人。何よりもうれしかったのは、一度も温泉に入ったことのないN氏と一緒の風呂でハダカの付き合いができたことであった。この旅行の成功のために名前は伏せるが、仲の良いボランティアカップルが協力してくれたのも、本当に感謝である。最近、生きる上で、思いの深さを感じるか否かを考えるようになった。そして、出会いを大切にしたいと思うようになった。言葉を得ている自分に感謝。

 [宿泊場所]
  東紅苑 TEL: 0237-43-2061 東根市温泉町2-16-1 電動ベッド・入浴リフト付き
東京都:K・M E-mail: AAV16375@biglobe.ne.jp


 クリスマスの日の出来事 


 「通信」の皆様、少しずつ春めいてまいりました。いかがお過ごしでしょうか。私は、お陰さまで元気に過ごしております。
 主人は昨年暮れ、12月25日、朝から右足(マヒした足)の甲の一部が赤くなり、少し腫れていました。いつも何となくむくんではいますから、別に気にはとめていませんでした(体温36度3分、熱はなし)。ところが、夕方午後5時頃、主人は足が痛いと言い、急いで見ると何と足の甲だけでなくふくらはぎまで真っ赤に腫れあがり、テカテカになり、強烈な熱を持ち、大変な状態になっていました。身体の熱は、38度4分も出ていました。私はふとこのような状態を見て早く手当てをしなければ大変なことになる、足が腐ってしまうような恐ろしい病気ではないかと直感しました。
 とにかく、今夜は火傷をしたように真っ赤になった足を冷湿布(冷たい水でタオルを絞り、一晩中どんどん冷やしていました)。身体の熱は「冷えピタ」を貼り、頭はアイスノンを枕に水分を多くとり早めに寝かせ、様子を見ました。一夜明け、右足は依然として真っ赤に腫れた状態でした。
 急ぎ、かかりつけの医師(脳神経外科)の診察を受けました。先生も驚くような腫れかたです。先生は「これは大変だ、蜂か織炎(ほうかしきえん)という命にも関わるこわい病気です。たぶん、爪から菌が入ったのかも知れない」と説明して下さり、入院したほうが良いということでしたが、暮れも押し詰まったこの時期に入院も大変なことで、毎日点滴(抗生物質)を打ちに救急病院に通い頑張るということに決めました(かかりつけの先生は年末年始のお休みに入るため)。今日は先生の元で点滴をし、足の腫れにはリバノール湿布をし、骨折でもしたかのように太い包帯を足の先から巻き、大変な足になりました。
 病院から帰り夜になり、足は凄まじい熱のためリバノールを滴らせたガーゼはカラカラに乾き、急きょ、湿布交換をしなければならず、急いでリバノールを買いに走ることになりました。大量のリバノールはどこの薬局にもなく、小ビン(100cc×3)を買い求め、大ビン(500cc)を注文して帰りました。
これから大量のリバノールやガーゼ、油紙、バンソコウ、太い包帯なども買い求め用意しなければならず、大変なことになりました。病院だけでなく、家庭での手当も大事なことと思いました。
 いよいよ明日、12月26日からタクシーに乗り紹介状を持ち、救急病院へ通うことになりました(1月5日まで、6日からはかかりつけの病院へ行く)。3週間ほどは、通院するようになるかもしれません。毎日、車いすの主人をタクシーに乗せ通うことは、お天気の良し悪しが大変心配でした。雪や雨が降りませんようにと、祈るような気持でした。
 お正月もあと1週間。クリスマスツリーを飾り、楽しいはずのクリスマスも病院通いで1日が暮れました。お正月3日間も通院で終わりました。今年は、お正月を祝う余裕はありませんでした。
 12月25日から1週間は点滴(抗生物質)と飲み薬を併用し、リバノール湿布の交換でした。後半は点滴(抗生物質)リバノール湿布の交換でした。やっと3週間が過ぎる頃になると、真っ赤に腫れあがっていた足もどうにか腫れも治まり、さわってみてまだ熱を感じる部分だけにリバノール湿布をするほどに快復しました。約4週間の時間がかかりました。1ヶ月ほどで治まったことは、早いほうだということでした。
 右足は強烈な熱と腫れの後にすっかり一皮むけてしまいました。そして、皮膚の色まで変わってしまいました。先生の話では、皮膚の色が元に戻るのには時間がかかると言われました。また、一度良くなったように見えても再発するということもあり、当分経過を見ていくということです。
 2月後半になり、別に腫れてくるようなこともなく熱も出ず、たぶんもう大丈夫でしょうということでした。「良くなってよかった。本当によかった」と先生も喜んで下さいました。とうとう恐ろしい病気に勝つことができました。本当に大変なことに(足を切断するなどということ)ならずに済み、ほっと一安心した私です。
 「通信」の皆様、今年も多くのかたからお心のこもったお年賀状をいただき、まことにありがとうございました。暮れから1ヶ月間に及ぶ通院に疲れお返事を書くこともできず、ただただ申し訳なく、お詫び申し上げます。12月締め切りの№85の原稿も書けず、大変残念に思っております。
 何事もなく毎日を過ごすことができることは、一番ありがたいことと思います。ひとたび日常生活の歯車が狂うと、通常の生活に戻ることが大変でした。2月後半から3月に入り、主人も安定してきました。今まで気持が張りつめていた私は急に疲れを覚え風邪を引いたりしましたが、今は元気に毎日の介護を頑張っています。いつも「通信」の皆様に励まされている私です。どうか今後もよろしくお願い申し上げます。
 まだまだ3月とはいえ、寒暖の差も激しい毎日です。皆々様、お身体をご自愛下さいますように。
 2004年3月2日

埼玉県: S 
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