は が き 通 信 No.58 - Page. 1 . 2 . 3 . 4
POST CARD CORRESPONDENCE 1999. 7. 25

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電動車椅子 NEO−P1

シートフレームと駆動フレームを簡単に2分割できるから収納がラクラク。

座席と駆動部分が2分割できるので重量が約半分になり、自動車への積み込みが簡単にできます。

<総重量>
24.6kg
<シートフレーム>
10kg
<駆動フレーム>
14.6kg

小型乗用車のトランクに余裕で収納が可能。

さらに収納スペースを有効に使えるので、小型乗用車のトランクに積み込み可能です。


項目
仕様内容
総重量
(電池含む)
24.6 kg
各部の重量 シートフレーム 10 kg
駆動フレーム  14.6 kg
ニッケル
水素バッテリー
重量1.4 kg
性能 最大登坂斜度は8度以上。
速度 前進時 高速4.5km/h 低速2.3km/h
後進時 高速2.7km/h 低速1.6km/h
充電器 充電時間 約2時間
1充電走行距離 5km以上

車椅子図説

お問い合わせ先
日進医療器株式会社
本社
〒481-8681 
愛知県西春日井郡西春町
  大字沖村字権現35-2
TEL : 0568-21-0635(代)
FAX : 0568-23-2787

電動部の開発製造は松下電器産業株式会社モータ社



パソコンは私の武器

はがき通信の皆さん こんにちは。久しぶりに投稿いたします。皆さんの記事はいつも読ませていただいています。そして、勇気を貰っています。
新しく編集委員になられた瀬出井さん、よろしくお願いします。そして、松井先生ご苦労様でした。これからもよろしくお願いします。
私は、1989年7月にケニアのマサイマラで熱気球の着陸失敗により、頚損になりました。
損傷部位はC4の完全マヒで、首から下は全く無感覚、そして自分の意志ではどこも動かすことが出来ません。事故当時45歳で公私ともに充実した生活を送っていました。1993年復職を認められました。中学の理科の教師です。

◇ はじめに


怪我をする前、1986年頃、私の所属していた理科のサークルでは、パソコンを使って学級通信や授業用プリントを作る人が増えていた。その中で、私は「最後の一人になっても手書きの学級通信と、手書きの授業用プリントを作り続ける」と宣言していた。
子供達が貰うプリントが、全部ステロタイプの文字になってしまうのがなんだか嫌だったからだ。
しかし、パソコンの購入者は少しずつ増えていった。そして、1989年夏、私はアフリカで乗った熱気球の事故で、全身麻痺の障害者になってしまった。足はもちろんのこと、手もいや首から下は全く動かなくなってしまったのだ。

◇ ICU にパソコンを入れる試み


1989年に事故に遭い、1ヶ月間はケニアのナイロビ病院の ICU に入っていた。しばらく危篤の状態にあった。もちろん人工呼吸器をつけていた。
この時代は、他人とのコミュニケーションは、文字盤に書かれた英語と日本語を指さして貰って、私が瞬きをして YES or NOを伝えていた。手術した首を動かしてはいけないので、首を振ることが出来なかったのだ。

日本に帰ってきてからは、関西労災病院の ICU に収容されていた。毎日のように友人や卒業生の保護者が見舞いに来てくれた。しかし、喉に穴をあけて人工呼吸器をつないでいる私は声を発することが出来なかった。
だから、お見舞いの人と話ができなかったのだ。ただ、看護婦さんは毎日のように看護してくれるので、私のわずかな息使いと唇の形から、言葉を汲み取ってくれるようになっていた。
そういう状態を見ていた友達がさぞ私にストレスが溜まるだろう、と思ったのか、ICU にパソコンを導入することを ICU の部長に了解を取ってくれた。

友人はパソコンのパンフレットを病室に持ち込み、どの機種がいいかとか操作をどうするかとかを私に尋ねたり、試してみたりした。だが、その頃の私は、呼吸するのに精一杯で、友達が何を一生懸命になっているのか分からなかった。パソコンの話などする気にもならなかった。
しかし、友達の姿には断れない雰囲気があり、呼吸の苦しい中で、パソコンの話につきあい、友達に言われたように顎を動かしたり、頭を動かしたりして、どの操作が適切かを試していた。

今後、パソコンが私が生きていく上で大きな武器になるとは思いもよらなかった。結局 ICU時代はパソコンを入れるまでにはいたらなかった。

◇ 病室にPワードを入れる


人工呼吸器が外れたのは、関西労災の ICUに入院して5ヶ月後だった。人工呼吸器がはずせたのをきっかけに一般病棟に移った。一般病棟に移ってからも、カニュウレははずせなかったので、まだ声を出すことは出来なかった。ベッドを起こす訓練をしていた。
一般病棟に移って、半年くらいたった頃だろうか、友人がPワードという機種のワープロの一種を病室に持ってきた。このワープロの操作はベッドを起こさなくても可能だった。
口元にセンサーを持ってきて、唇を軽くセンサーにタッチすることで操作できた。しかし、文字の打ち込みは数学の座標軸の交点にあたる部分で決めていて、とても時間がかかった。時間がかかっても、私はしばらくはこのPワードで文字を打つ練習をしていた。文章を作るのに時間がかかってしようがなかった。このPワードで書いた文章は残っていない。Pワード専用のプリンターを買ってくれていたにも関わらず・・・。

ベッドが起こせるようになったことと、Pワードでの操作があまりにも時間がかかりすぎるので、NEC98を新しく購入して貰った。これも「支援する会」のカンパから買って貰ったものだ。これにも、型は忘れたがプリンターがついていた。
編み棒の先に目止めのゴムをつけて、その棒を口にくわえてキーボードを打っていた。なかなか疲れるものだった。この方法は姫路のTTさんから教わったものだ。この方法で問題になったのは、棒がキーボードの端から端まで届かないことだった。
これを解決してくれたのは友人の I さんだった。キーボードを乗せる台を考案してくれたのだ。この台は板と板との間に引き出しのレールを使っていた。そのため、少しの力でキーボードを乗せた板をスライドさせることができた。スライドをさらに楽にさせるために、キーボードを置いた板に鋸で細かい溝が作られていた。PTの先生がこの台を見て、「福祉器機展に出展したら」と言ったほどだった。
でも私は、この機種の使い勝手について殆ど記憶が残っていない。

私の入院していた、関西労災病院の整形外科では、テレビを置くことは禁止されていた。私のパソコンを見て、テレビと間違えて「自分たちにもテレビを置かして欲しい」という要望が何度も婦長さんにあったと後で聞いた。

◇ 復職とパソコン


1993年2月、復職が認められた。復職を強く願ってはいたが、まさか実現するとは思わなかった。たくさんの人の支援があった。特に、兵庫県教職員組合の支援は大きかった。また、これも後で知ったことだが、休職中に私が招かれて2校で行った授業がかなり評価されたということも聞いた。教育現場への復職はかなわなかったが、教育総合センターに研修勤務が決まって、研修課題が与えられた。それは以下の内容であった。

(1)理科教育について
(2)福祉教育について
(3)カウンセリングについて

私は、これらのことについていろいろと調べた。そして、レポートにまとめた。初めの段階は口述筆記であったが、5ヶ月ぐらい後にはパソコンで打ち込むようになった。
この時のパソコンの機種は、マッキントッシュのSE30で、大阪のプロップステーションから貸し出されたものだった。プロップステーションは「パソコンを武器に、障害者を納税者に」とのスローガンを掲げて活動していた団体だった。私は本格的にパソコンに毎日のように向かっていた。しかし、一度に長い時間、キーボードを打つことはできなかった。徐々に首を支える筋肉がつき、打つことになれていった。もちろんそうなるまでには、度々肩こりに悩まされたこともあったが・・・。

イラストE

家にはマッキントッシュ660AVを支援の会が購入してくれた。授業計画案、授業記録、授業を受けた生徒の感想文、私自身の授業分析、講演記録やその感想文などをパソコンに打ち込んだ。こうなって初めて、「パソコンは私の有力な武器」と感じるようになった。現在使用しているパソコンはマッキントッシュ・パフォーマー6310で、職場と自宅にそれぞれ置いている。
職場のパソコンはディスクジェット850のプリンターとスキャナーをつないでいる。自宅のパソコンにはエプソンのプリンターを接続し、ISDNにつないでインターネットやパソコン通信をしている。はじめはパソコンのワープロ機能しか使えなかったが、今ではスキャナーを使ったり、通信で得がたい情報を入手してきている。ここまで来るには、8年以上の年月が必要だったが、今では本当に「パソコンは私の有力な武器」になっている。これからもそうだろう。パソコン使用のイロハから教えてくれた私の友人と、パソコンの支援体制を組んで下さったプロップステーションに、この場を借りて深くお礼を申し上げます。これからも、パソコンを武器にしぶとく仕事をします。

兵庫県 : KS


坂ばかりで外出できない

はじめまして、28歳の主婦です。「はがき通信」のホームページをインターネットで探して読ませていただきました。

今年の2月に父(56歳)が事故で頚椎を損傷し、今は飯塚の脊損センターに入院しています。障害の程度は胸から下の麻痺で、幸い手は使うことができます。
だいぶリハビリが進み、ベッドから車椅子に乗り移ることができるようになりました。ただ本人はがんばってリハビリをすれば歩けるようになると思っています。いづれわかる現実を知った時どうなるか、とても心配です。

いま、住宅のことで悩んでいます。もともと一軒家に住んでいるのですが、その家は坂の途中にあるのです。ですから、家は改造できたとしても、周りが坂ばかりなので外出できないのでは?と思います。そこでバリアフリーのマンションを探しているのですが、やはりとても高いので、どうしようかと困っています。
こういう障害を持った方はどのようにして暮らしていらっしゃるのでしょうか? 
もしも御存じでしたら教えていただけたらと思います。

長々と書いてしまいましたが、「はがき通信」を読んでいろいろ励まされています。これからもよろしくお願いします。
つきましては、「はがき通信」の新規申し込みをしたいのですが。申し込みは私の母の希望ですので、そちらの住所などを書いておきます。
福岡県 : KT kouheipuu@pop02.odn.ne.jp



他の方の対処法を知る

主人が約5年前から「はがき通信」を送っていただいております。
いつもお世話になりましてありがとうございます。主人は四肢不全マヒですが、「はがき通信」は他の方の様子や対処法などを知ることができ、とても役にたっています。暑い日がやって参りますので、お体ご自愛ください。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
栃木県 : MS+妻KS ZAP06166@nifty.ne.jp




頑張って!84才で人工呼吸器

昨年の夏、父が84才で頸髄損傷者になり、24時間人工呼吸器を使用して入院中です。
「はがき通信」は松井和子先生の著書『頸髄損傷』の本から知り、相談にのっていただいた方々から見せてもらっております。
遅ればせながら購読を申込みます。

東京都 :HI



主人はがんばりました

「はがき通信」のみなさん、お元気でお過ごしでしょうか。毎日うっとうしい梅雨空が続き、気持ちまで滅入ってしまいそうです。各地で雨による大きな災害が発生し、尊い命が失われています。九州、四国、広島の方々に心よりお見舞い申し上げます。

6月25日、主人は脳梗塞により倒れ、約半年が過ぎました。所沢国立リハビリテーション入院から4ヶ月、幾多の厳しく辛かった訓練を乗り越え、担当の先生他、PT、OT、言語の先生、看護婦さんをはじめ、多くのスタッフのみなさんの努力により、この度退院の運びとなりました。まだまだ多くの課題は残されては居りますが、入院から3ヶ月半+αと云う期間で退院しました。

入院当初はやっと一人で食事が出来るか出来ないかと言う状態でした。また、国リハの朝は早く、6時に起床、洗面、歯磨き、8時に朝食、それから1日8時間、ずっと車椅子に乗った生活をするという大変な訓練に、体力の落ちた主人はひどく疲れ、精神的に混乱しました。国リハの訓練にはついて行けないのではと思う時期もありました。
また、1日の食事をほとんど何も食べなくなり、日に日に体重が減りました。顔も体も痩せ細り、体力も気力もなくなりました。毎日の訓練も先に進まず、担当医からは「何をやろうとしてもできない低空飛行が続いている」と言われ、看護婦さんからも「自発性はゼロで、云われなければ何も出来ない」などと言われ、私は毎日重く辛い気持ちで面会に行きました。
すると医師から、なぜ食べられないのか、どこか内科的な病気でもあるのではと、内科的検査が行われました。血液検査、尿検査、胃のレントゲン検査をしました。結果は別に悪い所はなく、精神的な原因からと言うことでした。

そして医師から何か食べられそうな食事を家から持って来るように、と云う許可が出ました。さっそく、五目おにぎりを持っていきました。すると、主人は2個のおにぎりをペロリと食べ、ニコニコ顔でした。看護婦さんは「2個も食べられ、安心しました」と言って喜んでいました。
やはり単調な病人食のおかゆが飽きてしまっていたようです。次の日から普通食となり、小さいおにぎり3個が出されていました。するとだんだん食べられるようになり、少しづつ体重も増え、体力もついてきました。
入院2ヶ月目に入り、まあまあ食事も普通に食べられるようになりました。訓練の方も皆さんと一緒に進むようになり、一安心しました。それから、外泊訓練も3回しました。
入院3ヶ月目ごろになると、精神的にも落ち着いてきたのでしょうか、色々な事ができるようになりました。他の人達に追いついたという感じです。3ヶ月半になると担当医から、そろそろ退院の日を決めるようにと言われ、6月25日頃に退院としました。
この退院の日までには、L字型の手すりを取り付けるためのトイレ工事、段差をなくすお風呂の改装が始まり、家の中は大工さんが入って大変でした。

そしていよいよ6月25日、主人は雨の中を無事退院することができました。国リハは4ヶ月間の入院でしたが、同じ障害を持った人たちとの出会いと友情の中で、多くの事を学ぶ事ができました。
国リハ入院約4ヶ月間に一人でできるようになった日常生活は、
  • 一人で食事ができるようになりました。
  • 右手で歯磨き、洗面ができ、左手で上手にお箸を使い、うどんが食べられるようになりました。
  • 1人でシャツ、パジャマの着替えができるようになりました。
  • ベッドからの起き上がりができるようになりました。
  • 車椅子にも上手に乗れるようになりました。
  • 杖をつき、ゆっくり、ゆっくり歩けるようになりました。

こんなに多くの事ができるようになり、感謝の気持で一杯です。主人は精一杯がんばりました。
これから始まる家庭での療養生活の中で、国リハで学び経験した多くのことは貴重な宝となることと思います。「何でも一人でできる事は時間をかけても自分でやる事、周りの人は手を出さず、見守ることがリハビリになるのです」これからもこの教えを守ってがんばっていこうと思います。国リハの先生、看護婦さん、ありがとうございました。

主人の入院に際し、「はがき通信」の方より励ましのお電話、お手紙を頂き、心より嬉しく思っています。私にとりましても、大きな力をいただきました。どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます。みなさん、ありがとうございました。

埼玉県 : HS



クレーンの荷物が落下

「はがき通信」では皆さんに発行したものを郵送されてるようですが「第三種郵便物認可」の切手?とはいくらなのでしょう? 
少しでも、「はがき通信」を運営されている人に手間をかけさせたくないと思い(こんなメール受けた時点で手間をかけさせていると思うのですが)質問させていただきます。
1000円切手一枚のみを郵送してよいのでしょうか?常識知らずの質問お許し下さい。
編集部コメント
: 表紙の下部に表示していますが、できれば50円切手20枚をお願いします。

次に私のプロフィールです。
皆さん、はじめまして、私の父(51歳)は3月に工事現場で首にクレーンの荷物が落下して頚椎損傷になりました(C3-4)。受傷当初、肺活量が寝ている状態で500cc位、2週間位生死をさまよっていました。
仕事中の事故ということで、労災なのですが、山形には労災病院がなく、この前(6/2)仙台の東北労災病院に転院しました。
転院の時、医師が父に「回復しても電動車椅子に乗れる程度」と言われたそうです。父にしてみればショックだろうと思うのですが、人にあたったり、無茶言ったりと言うことはなく、今まで来ています。

転院した先の医師は、転院1週間前の説明で「様子を見て障害告知をする」と言ってました。「障害告知」とはどんなものなのでしょう? 前の病院で、転院の時に言われたのは「障害告知」と違うのでしょうか?
これからも皆さん、何かと質問、近況を報告していきたいと思います。よろしくお願いします。

山形県 : AT



ピチピチギャルのフィリピン訪問記

現在浜松医科大学の看護科4年生の小森と横山です。松井先生に紹介していただいてフィリピンに行ってきました。
フィリピンは私たちの想像をはるかに超え、日本はなんと恵まれた環境なのであろうかと、改めて認識しました。
トイレ・食事・シャワーという基本的なことから驚きました。
「日本人身障者の家」(以下GLIP)到着が夜だったため、すぐに寝ようとしてトイレに入ったのですが、二人して、「水が流れないよー」と困った覚えがあります。
しかし、その不便な生活もだんだん慣れてきました。洗濯も自分たちでしていたのですが(生まれて初めての経験です)、今度はどの種類の洗剤を買おうかとか、水のシャワーも気持ちいいね、などと楽しむ余裕も出てきたのです。
もうひとつの収穫は、GLIPの周囲に住んでいる脊髄損傷の方や筋ジスの方にお会いすることができたことです。今まで教科書での知識は持っていましたが、そういった障害を持つ方たちはどうやって生活し、結婚し、自立の道を模索しているのかは知りませんでした。
直接お会いしてお話を伺っていくうちに、私たちがいかに狭い世界で生きてきたのかと思い知らされました。以下、今回の旅行の内容です。

5月
21日 21:00 GLIPに到着。
22日 ススキさんファミリー、その他 大勢でビーチへ。バーベキュー、プールなどで楽しむ。夜は浜州さんのバスケットボールチームの試合を見学。
23日 朝、市場へ出かけて食料を買う。大平さんのお宅を訪問。
24日 ボラカイ島への航空券、マニラでのホテルの予約のため旅行会社へ。午後、藤森さんにお会いする。    25日 荒木さんにお会いする。福井さんのお宅に宿泊し、アレリーさんも交えて楽しく談笑。
26日 昼食はアレリーさんとともに親子丼を作る。夜はバスケの試合を見学。その後祝勝会。福井さん宅に宿泊。
27日 福井さんの紹介の看護婦さんと会う。病院を見学させていただき、病院長らしき人と会話する。大平さん宅宿泊。
28日 聖也君、奥さんたちとフィエスタ(パレード)へ。大平さん宅に宿泊。
29日 皆さんにお別れの挨拶。夜は浜州さんのバスケットチームのみんなも含めて、お別れパーティー。
30日 AM 4:00 GLIPを出発。日本に帰国する清川さん、浜州さんたちをマニラ国際空港に見送り、ボラカイ島へ。

5月31日〜6月3日 ボラカイ島でのんびりすごす。フルーツジュースを毎日飲む。マニラへ戻り、フィリピンヴィレッジホテルに宿泊。
帰国前になって、キャセイパシフィック航空のストライキのため、帰国できないとの情報を得て、どうなることかと心配。
4日 きゅうきょシンガポール航空に変更され、日本と逆方向へ出発。シンガポールに18:00 着。乗り換えて AM 1:00 日本へ出発。
5日 AM 8:30 名古屋空港着。

今回の旅は関係者の皆さんのご協力のもとにできたと思います。本当にありがとうございました。
静岡県 : EY etsutaro@mue.biglobe.ne.jp



つづく
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