は が き 通 信 | No.56 - Page. 1 . 2 . 3 . 4 |
POST CARD CORRESPONDENCE | 1999. 3. 25 |
![]() もどる ![]() ![]() 前号の中島さんの短歌、思わず"ニンマリ"したり、"ニヤッ"としたり、"プッ"と吹き出したりしながら楽しく読ませていただきました。 特に「プライドの高い者にはつとまるまい夏ミカンの皮を口でむくとき」の歌に、過去の経験を重ね合わせ爆笑してしまいました。上司にもらった夏ミカンをむいて出すのに、口でブ シュブシュとむいて出した私に車いすになる前からプライドはないようです。(笑)でも、夏ミカンって口でむくのがいちばん早いと思うのですが・・・ 設問は・・・・・・ 現在、あなたはペットとしてライオン、馬、牛、羊、孔雀を飼っていますが、どうしてもこのかわいいペットを手放さなければなりません。 というものです。 私だったら、いちばん自分の手には負えなさそうなのがライオンだから、いちばん最初に手放すでしょうね。
を表しているらしいです。 皆さんは真っ先に何を捨て、何を最後まで残しましたか?(ちなみに私がいちばん最後まで残したのは「孔雀」でした。ハハ・・・(^^)
横須賀市 HS: h-sedei@ma4.justnet.ne.jp
![]() ![]() ![]() 参考になればと、施設に関する最近の国の動きをお知らせしておきます。 老人を対象にした介護保険が2000年に実施されますと、それに引き続き、障害者を対象にした介護保険が2002年に実施されようとしております。この保険で、障害者福祉そのものが根本的に改革されますが、施設関係に絞れば、自治体による「措置」から利用者の意思を尊重する「選択」となる点が第一にあげられます。 これまでは自治体が施設に措置費として月に約30万円を支払って、貴方を施設に措置してきたわけですが、保険になりますと、貴方の介護度に応じた助成金(最高で施設に入所する額と同じ程度)が自治体から貴方に支払われますから、貴方は自分の行きたい施設を選んで契約できるようになります。もっとも、施設が厭なら在宅生活を選んでも良いわけで、何をどう選ぼうと、どうなろうと貴方の自己責任というわけです。 加えて、施設の不足を補うために、法人にも施設運営の門戸を開こうとしております。となれば、今貴方の入所しているような利用者の人権を無視する施設は潰れてしまい、利用者を大切にする施設が生き残っていくだろう、その結果福祉も充実する、国はこう考えているようです。 しかし、以下のような疑問も残ります。 1.施設の数も足りないのに本当に利用者に選択の余地があるのか。 最近、障害者版介護保険に向けた国の動きがあわただしくなってきました。今こそ利用者が主体性に生活でき、利用者の人権が守られるような施設改革の提言を自らの手で示し、国の動きに反映させていかなくてはなりません。 私たち療護施設自治会全国ネットワークでは施設利用自身で施設生活を検討し、その声を国に伝え、反映させてきました。どうか私たちの仲間に加わって、一緒に考え、行動してくれませんか。
療護施設自治会全国ネットワーク KK : QWJ05074@nifty.ne.jp
![]() ![]() ![]() 私は眠剤でやっと寝ています。毎日、激しい痛みに苦しんでいます。最初のオペは第一腰椎破裂骨折により、12番・1番・2番へ骨移植によりプレートを入れた手術を3年半程前に受けました。 その直後より、両下肢不全麻痺と右足が風が吹いても痛むという状態となり、強膜外ブロックを始め、あらゆる治療を試みるも痛みが和らぐことがありませんでした。 手術は脊髄神経根破壊術と言い、胸椎6番より腰椎2番までの神経を焼いてしまうということでした。1回目は悲痛な叫び声をあげながらICUで目が覚め、医師はすぐ再手術をすすめました。 しかし、私は2ケ月間耐え抜き、悩みに悩み、このままでは自立どころか日常生活もできないと判断して止むなく再オペすることにしました。 ですが、無情にも4日目にして痛みが再発、右足はほぼ完全麻痺で運動神経も知覚を失ったにもかかわらず、日に日に激しさが持続するようになりました。痛みの質が表面的な感覚から、脊髄の中を通る激痛へと変わってしまっただけです。 医師は「3回、4回、5回とオペを続けていけば、そのうちとれてゆくかもしれない。ただし、麻痺と表裏一体だけど・・・」と簡単に言います。私は2度のオペでこの手術の不確かさを医師より伺ってからは、2度と受ける気持ちを捨て、何とか乗り切って頑張ろうと去年の暮れにリハビリを終えて自宅に戻っています。 私のような痛みをお持ちの方で、確かな情報あるいは楽になる治療他をお知りの方、ぜひご連絡頂きたいと思います。どうか一報をお待ちしております。
東京都 :HI
![]() ![]() 生活の匂いと音が身近に感じられ、生きる為のささやかな努力と選択が強いられる。妻は喜々としてスーパーのチラシに見入り、小銭の計算に余念がない。 糖尿マンのトドは眼(アイ)のかすみに煩わしさを覚えていたが、どうやら白内障との診断。昨今は新聞も読めず、ワープロも3倍の時間と勘で打っている。もしや糖尿に因る合併症で失明の危機かと。ヘレン・ケラーさんよりも状況が悪いかもと思うトドに将来はあるのか? 妻との愛は冷たく吹く隙間風と、アイの手術見通しと相俟って悲惨な生活が連想される。 ヘルパーさんや多くの友人・知人に支えられての生活は、自立というには少しズレもあろうが。 ようやくヘルパーさんの性格ややり方も分かりかけて来て、周りの様子も飲み込みつつあり、戸惑いは薄らいでいる昨今。3つのアイ(妻の愛・トドの目・地域への芽生え)は見通しが立たないものの、悲観的ではない。 サァー、頚損人生が始動したからには、ホラ吹きトドに大風呂敷が似合うよう励むことだ。 広島頚損ネットワークも気勢が上がりつつある。「はがき通信」の皆さんに励まされながら、トドの生活を構築したい。妻と二人ゼロ脚の進展は如何に? ヒロミちゃん、Kちゃんとお母さんアリガトウ。
広島市 : トドのオッさん
![]() ![]() 今年一年を振り返ってみてどんな年だったのか、いつものごとくまた長くなってしまいそうですが、書いてみたいと思います。 3月の上旬まで、私はセントルイスの自立生活センター、パラクォードで研修を受けました。以前手紙にも書きましたが、パラクォードは、全米でもおそらく5本の指に入るほどの大きな自立センターで、1970年にマックス・スタークロフによって設立されました。 彼は私と同じ頚随損傷の障害者で、わずかに動く左手で、電動車椅子を操作していました。彼は21才の時、交通事故に遭い、24才から37才までの13年間、養護施設での生活を余儀なくされました。 その後、施設を出て結婚し、パラクォードの活動を本格的に始め、現在あるような大規模な自立生活センターに発展させました。 彼が施設を出た頃のセントルイスといえば、重度の障害者が施設で暮らすのは当たり前で、歩道は段差だらけ、バスや電車などの公共交通機関もとても利用しづらく、介助者派遣サービスなども存在しませんでした。 設立以来、パラクォードは、公共交通機関、住宅、介助、雇用、教育など、障害者に関するあらゆる問題に取り組み、この28年間にセントルイスの障害者の環境を劇的に改善させました。 私は一年のアメリカ生活で、本当に多くのことを学びましたが、一番の収穫は、マックスを含む自立生活運動のリーダーたちに出会えたことでした。彼らは、優しく、賢く、そしてとても強い人たちでした。 研修最終日、数人のスタッフと最後の別れをしたとき、そのうちの一人のデールという男性が、アメリカを去るのは寂しいかと私に聞きました。 私は、こう答えました。「みんなに会えなくなるのは寂しい。でも、日本に戻って、みんなはいつも私の心の中にいる。この一年、私の心の中にはいつも母がいて、私が困難に陥ったり、落ち込んだりしたときは、いつも彼女の励ましの言葉が頭に浮かんできた。日本に戻っても、みんなは私の心の中にいて、私が落ち込んだりしたときは、きっとみんなの言葉を思い出すでしょう」デールは微笑んで、「その考え方は俺はとても好きだ」と言ってくれました。 3月23日に、私は北九州市に戻ってきました。まずは、荷物の整理や報告書の作成を終え、北九州自立推進センターへの復帰は、4月半ばになりました。 アメリカでの研修中、いつも考えていたのは、今学んでいることをどうやって推進センターで生かしていくか、どうすれば推進センターの事業をより良いものにしていけるか、ということでした。 通勤は家から最寄りのJRの駅まで電動車椅子で30分、電車に10分間揺られ、駅を降りてからも、事務所まで再び電動車椅子で15分、電車の待ち時間を合わせて片道約1時間15分程度かかります。 雨の日は大変で、車椅子の上から3種類のかっぱを着ますが、その格好はただでさえ人目を引く電動車椅子の姿を、よりいっそう目立たせ、ある人からは巨大なテルテル坊主のようだと言われました。 アメリカに行く前、私はこの通勤が嫌で嫌でたまらなく、事務所まではリフト付きバンを利用することが多く、雨の日にはかっぱを着て電動車椅子で出かけるなど、もってのほかでした。 しかし今、それらのことは、嫌でないのはもちろん、自分にとってとても重要なことだと感じるようになりました。 さて、今年の推進センターの事業は、例年行っている自立生活プログラム、自立生活ユースプログラムといった講座に加え、単年度事業として、福祉のまちづくり巡回講座、日米障害者自立生活セミナーの二つを行いました。 福祉のまちづくり巡回講座は私が担当して行ってきたこともあり、すべてを終えたときは、それなりに感慨深いものがありました。 この講座は、障害のない方に少しでも障害者のことを知ってもらいたいということで、市内の中央公民館、市民福祉センター25カ所で、「啓発ビデオの上映」、「車椅子やアイマスクを使ってのまち歩き障害体験」、そして「障害者による講演」の3つを主にやってきました。 参加者はのべ七百名を越え、好評をいただいてきました。 ほとんどの中央公民館、市民福祉センターへは、打ち合わせのため一度は訪問しましたが、炎天下の中、アイスノンと水筒を手に、ふらふらになりながら訪問したことも一度や二度ではありませんでした。以前の私なら、そんなことは絶対にしなかったと思います。 一年間のアメリカ研修は、私に自立生活運動をライフワークとして、本気で行っていく決意をさせてくれました。この運動のすばらしさ、すごさというのは、アメリカに行く以前からよく知っているつもりでした。 この運動に出会い、私は電車やバスに乗って出かけることを覚え、知らない人に介助を頼むことを覚え、いろんな福祉制度の利用方法を知り、障害を持った自分を少しずつ好きになっていきました。 しかし、この運動の本当のすごさというのは、アメリカに行って初めて知ることができました。それは、「この運動の中では、不可能なものはないということ。強い意志さえ持ち得るならば、いかなることをも可能になるということ」でした。 そのことを知ったとき、私はとても感動し、この運動を本気でやっていきたいと思いました。思えば、自立生活センターは、いつも私に「可能性」を与えてくれ、それと同時に、私の中に「挑戦」と「勇気」を芽生えさせてくれました。「挑戦」を繰り返して4年、私はとても変わりました。 障害を持った頃、私は排泄も、入浴も、寝返りさえも独りではできない自分を、この上なく惨めに思い、死を考えました。私にはもう何一つ残ってはいないと感じていました。 あれから、九年がたちます。 私は全く違う人間になりました。私は障害を持つ以前よりも、ずっとずっと優しく、賢く、強くなれたと感じています。 今、私には夢があり、信頼できる大勢の仲間たちがあり、愛する家族があります。私は障害者になってよかったと思っています。確かに、この体をコントロールするのは楽ではありませんが、それ以上のものを、私は障害者になってから手に入れました。 私は自分らしさというものを知り、「本当の私」に出会うことができました。 人生において、このことほど重要なことはないと私は思っています。もし仮に、魔法で19才のあの日に戻って、障害のない人生を送ることができると言われても、私はいやだと答えるでしょう。 来年、私は29才になります。残りの人生は、30年か40年くらいでしょうか。私は、「障害を持った自分の人生は本当にすばらしかった」と思いながら死んでいきたいです。これからも、誰のためでもなく自分のために、自分らしく、自分が正しいと信じる道を突き進んでいきたいです。 こんな自分になるまでに、本当に大勢の方たちの助けがありました。そのことは今でも決して忘れていないつもりです。 感謝をしつつ、来る1999年に向けて、また決意を新たにしたいと思います。
北九州市 : RK
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