近況<胆管炎と血圧の乱高下>
6月1日、パソコンの電源を切り、就寝ケアのホームヘルパーを待つ22時頃のこと。胸筋、腹筋、背筋、横隔膜、体幹全体がブラックホールのように自らの中心に沈み込む感じでコチコチに硬縮。呼吸も、呼はできるが吸がし難く荒くなる。何の前触れ症状もなく突然にである。
まったく同じ症状が4年前にもあった。そのときも同じ時間帯であったが、驚いたヘルパーがベッド上でゴロゴロと体位交換してくれたり、あちこちマッサージしているうちに少し楽になる。夜中への不安もあり、派遣要請した訪問看護ステーションのナースが施してくれた、リラックス対話や胸背筋の同時マッサージが意外に効いたようで症状はすっかり治った。
今回は、訪問した別のナースが触診して腸閉塞を疑ったらしく、即、救急車の手配をした。このとき、後日疑いが膨らむトラブル(?)が発生する。それは、隊員がストレッチャーに移すときに、車いすの前方から私の両脇下に腕を入れて(私の顎は隊員の右肩に乗る形になる)一人で抱え上げた。腕力も脚力もない私は、隊員の肩に乗った顎で全体重を支えなければならない姿勢になる。当然、顎は上を向き、頸損の恐怖と痛みに「元に戻してえ゛〜っ!」と絶叫。この声に、飛び出してきた近所の人もいたくらいである。結局、そのままストレッチャーに移されて病院へ搬送された。
当直医の問診を受ける頃には硬縮はなくなっており、簡易血液検査でも取り立てて異状はなく、点滴が終わり次第帰宅OKだったが、夜間のためリフト付きタクシーがいなくて1泊する羽目になる。
翌朝、以前鼠径(そけい)ヘルニア手術のお世話になったDrがみえて、気になる炎症サインが出ているのでと血液、エコー、X線、心電図、CTの一連の検査をされた。結果、体幹硬縮からは、想定外の急性胆嚢(たんのう)結石胆管炎との判決。石が胆嚢内にいっぱいあり、胆管にも2個あるらしい由で即入院となった。とりあえずは、炎症鎮静のための絶食と栄養・抗生剤点滴が始まり、5日目に内視鏡的逆行性胆管造影(ERCP)の方法で石の除去を試みたが、途中で体が動いて(痙性?)無理すると重篤な合併症を引き起こす恐れがあるのでと、石の自然排出を促すためのステントを胆管に留置して終わった。施術後の経過観察とリハビリを経て、13日間の入院生活から退院。
その後の生活の中で、異常な事態が続いた。それは、唯一の利き腕左腕の著しい機能低下と強烈なきつさである。喉元から鳩尾(みぞおち)の下あたりにかけての違和感、起立性低血圧といわゆる倦怠(けんたい)感が混在するような、言うに言われぬきつさである。始めのうちは、退院後の生活順応過程から来るのかな?と思っていたが、半月過ぎても改善しないので、1日の生活の節目ごとにバイタルチェックをしてもらったら、血圧の最高値が150台〜70台と乱高下が激しい。血圧計が測定しきれずに、エラーを連発するときもあるので70台未満もあったのかも知れない。これらのデータを持って受診し、前述と同じ一連の検査をするも異状が見つからず、夏場の気候にもよるのではと経過観察となる。通院ができるくらいのきつくない状態での受診だからかもしれないが……。もしやと疑問を持っていた6月1日のストレッチャー移乗時の首への衝撃が気になり、中枢神経損傷による自律神経失調からの血圧の不順ではないかと整形外科を受診。頸髄専門のDrが不在だったので、とりあえず頸部レントゲンとMRIを撮って、日を改めて受診することにした。
9月末現在も胆石の不安と、血圧の乱高下に悩まされる毎日である。
以上、近況報告ですが〝まとめ〟作文が苦手で、ドキュメント調になり失礼しました。
向寒の折、お互いに体調管理に気を付けましょう。ありがとうございました。
【追稿】
昨日(9月30日)、整形外科を受診してきました。
先日の頸部レントゲン撮影とMRI画像からは新たな異常はないので全体的に診なおしたらと、勧められた一般総合内科では、血液検査で幾つか基準値オーバーがあったが、何れも心配するような要治療レベルではないとの診断。
疑念を抱いていた頸損拡大と循環器系に異常がないことで大きな安心を得たが、じゃー、このきつさは何処から???
また変わったことがあったら投稿したいと思います。
佐賀県:K.N.
痛恨のきわみ——シートベルトをし忘れて—
シートベルト(胸ベルト)をし忘れ、下り坂で前方に転落した。
8月22日のこと。朝比較的はやく医者へ行った。いつもならそのまま帰宅するのだが、その日は郵便局まで行って郵便物を出して金を下ろそうと考えていた。すこし気がせいていたのだろう。
通い慣れた道だった。交差点の信号が赤だったので車椅子は止めていた。だが比較的キツイ下り坂だったので、「アーッ」と思った次の瞬間には顔面をコンクリートの道路にたたきつけていた。目の前に血だまりが見えた。体もずり落ちたようで、ヘルパーがハンカチでわたしの顔の血をぬぐいながら助けを求め、道行く男性ふたりが引き上げてくれた。わたしはティルトとリクライニングのレバーを後ろに倒すように言った。体を上に引っ張り上げるためだ。なんとかいつもどおりの姿勢をとれた。服も血だらけ。紫外線よけのためかけていたサングラスもグシャグシャだった。
そこへ、ああこういうのを天佑神助(てんゆうしんじょ)というのだろうか、たまたま通りがかった救急車が、目的地をほかの救急車に依頼、わたしの救助に当たってくれた。救急車のなかで生年月日や姓名を問われた。簡単に答えられたが、「きょうは何月何日ですか」という問いかけには答えられなかった。曜日で動いているので、べつに事故を起こさなくてもいつだって答えられない。
わたしはストレッチャーの上で幾度も「痛恨のきわみ」とため息まじりにつぶやいた。うるさい患者だと思われたことだろう。30年間車椅子に乗っていて胸ベルトを忘れたのはこれが初めてだった。そろそろボケが始まったのかもしれない。もう68だものなあ。
地元の大病院でCTやレントゲンを撮ったところ、鼻骨骨折以外、大きなケガはない(そののち左足両くるぶしの骨折も判明)。主治医は「縫うほどではないから」といって顔の傷にテープを貼ってくれた。「ただし顔をぬらしてはいけない。入浴はいいがシャンプーはダメ」といった。
病院で狭いストレッチャーに寝ているとそのうち家内やヘルパー、ケアマネなどがやってきた。帰宅のための福祉車両を手配、どこも忙しい時間帯でなかなかつかまらず3時帰宅。
●事故当日。数日後にはパンダ顔になった。
あとで聞けば、ヘルパーは事故現場近くの馴染みの薬局に車椅子を預け、自宅まで戻って関係各所に連絡してくれた。いつも冷静で落ち着いているヘルパーだ。自宅に戻らなければ電話番号がわからない。「これからは自転車でなく徒歩で付き添います」といった。自転車にまたがっていたのではとっさの行動ができない。わたしは「はい」としおらしく答えた。最近完成した車椅子は以前の倍ぐらいのスピードが出るので、いままで歩きだったヘルパーを自転車に乗せればより多くの行動がこなせる。欲張ったのが失敗の元だった。
徳川家康が三方ヶ原の戦いで敗れ、恐怖のあまりうんこを漏らしながら城に逃げ帰ったとき、今後のいましめにするため狩野探幽に情けない姿を描かせたという。家康のひそみにならいわたしも事故当日のなさけない顔写真を公開したい。
東京都:F川
『臥龍窟日乗』 -49- 『天空からの招待状』
ニイタカヤマといっても、聞き覚えのあるのは、もうわれわれの世代が最後かもしれない。台湾の最高峰、玉山のことで、3952mもある。日本の富士山よりも高い。
太平洋戦争の緒戦、ハワイ真珠湾攻撃を発令した山本五十六連合艦隊司令長官の暗号が「ニイタカヤマノボレ一二○八」だった。
台湾の玉山が、なぜ新高山なのか。
日清戦争に勝った日本は、清国から台湾の割譲を受けた。以来、太平洋戦争に敗れるまでの50数年間、台湾は日本の領土だった。連合軍との開戦の暗号に、だから新高山は日本の山として使われた。
中国、朝鮮をはじめアジア各国に軍を進めた日本は、ゆく先々で激しい抵抗を受けたが、台湾だけは融和政策に成功したかに見えた。いまでも台湾を旅行して、お爺ちゃん、お婆ちゃんに、親しげに話しかけられることは少なくない。
台湾の映画について、他人(ひと)に語るほどの薀蓄(うんちく)はない。初めて観たのは『非情城市』だった。日本が太平洋戦争に敗れ撤退したあと、乗り込んできた中国国民党軍と台湾人との争いを描いたものだ。台湾映画のレベルの高さを知った。
つぎに観たのは『セデック・バレ』だった。日本統治時代、ささいな原因で日本人警官と原住民のあいだで騒乱が起きた。地名をとって霧社(むしゃ)事件という。
融和政策が効を奏したとはいえ、しょせん侵略には違いない。台湾での上映のさい、日本人殺害のシーンになると「殺せ、殺せ」という怒号が飛び交ったそうだ。知人から伝え聞いたときには、さすがに心が痛んだものだ。
『天空からの招待状』は2013年に公開された。台湾の美しさに魅せられた斎柏林(チー・ポーリン)というサラリーマンが、20年にわたって撮りだめした空撮映像をドキュメンタリーにしたものだ。
東海岸の切り立った崖。花蓮のそそり立つ峡谷。阿里山系の岩肌など、息づまるほどの迫力だ。25年間、台湾に通い詰めた私にとっては、思い出の場面の連続。手に汗にぎる興奮だった。
この25年は、日本が経験した高度経済成長をなぞるような、台湾の発展期でもあった。
軽工業製品の生産基地として力をつけた台湾は、半導体の生産地として脚光を浴び、莫大な外貨を得た。
外人バイヤーを迎えるメルセデスが、高速道路を突っ走り、大都市には高級マンションが林立した。
世界中から殺到する注文をこなすために、工場は美しい海岸を埋立て、森林を伐採し、工業団地を造成したり、港湾を増設したりした。人々の生活水準も桁違いに上がった。
繁栄と自然破壊は同義だと私は考えている。
山の斜面を固めていた樹木の根が、ごっそり抜きとられたため、土石流や山崩れ、鉄砲水がいたるところで大きな被害をもたらすようになった。
台湾の麗しい自然をつづる『天空からの招待状』は、後半になって流れを変える。工業地帯拡張のため、つぎつぎに埋め立てられる美しい海岸線。巨大工場の煙突群から吐き出される煤煙。撮影者の憤りが伝わってくる。
私自身の経験が重なる。
田圃(たんぼ)のなかに造られた工場の裏手から、緑色の廃液が田圃に流れ込んでいる。その光景を目撃した私は、台湾でも第二、第三の水俣病が発生すると懼(おそ)れた。
映画の最後、原住民族の少年合唱隊が玉山に登るシーンがある。玉山の山頂で少年たちは、台湾の国旗を手に合唱する。出だしが何度聴いても「ニイタカヤマ」と聞こえる。
台湾は、2004年、私が重傷を負った国だ。命を救ってくれたのも国である。第二の故郷と思っている。『セデック・バレ』にたいする台湾人の反応に首を傾げていた私は、涙が止まらなかった。
『天空からの招待状』は3ヵ月を超えるロングランになった。今年6月8日、斎柏林氏は続編の撮影に入ると記者発表をした。ふつか後、花蓮でヘリが墜落し、スタッフとともに亡くなった。
千葉県:出口 臥龍
頸損になって34年、今考えること
今年の年末には受傷34年になります。あの当時、C4レベルですと医師から「長生きは難しい」「一生ベッドの上」と言われるのが普通で、私もそのひとりでした。正直、今こうして都内で生活をしていることを30年前の私は、想像もつきませんでした。
施設生活の5年間を経て、都内での自立生活も20年たちました。常時介護が必要な高位の頸髄損傷者が、地域生活をすることはそれほど多くありませんでした。その中で「施設には戻らない」「家族に迷惑をかけない」ことだけ考えていたスタート数年で、自己決定や自由はその次でした。
スタート直後は介護者(当時資格不要)を家政婦紹介所に登録させていただき、募集・面接・研修は自分で行いました。2003年に支援費制度に改正と同時に事業所を立ち上げ、募集・面接・資格取得・研修・シフト調整・給料支給・納税・請求をすべてひとりで行ってきました。はじめは大変だったけれど、今は逆に楽しむようにしています。
今思うと一番感謝したいのは20年、一度も入院しなかったこと(ストーマ造設は除く)。褥瘡悪化や尿路感染、肺炎の手前はありましたが、入院はしないですみました。手前味噌ですが、良いケアを受けられている証拠なのかもしれません。シーティングに優れた電動車いす、エアーマット、ECSなど、住環境、支援機器も大きく影響していると思います。
数年前からは体力の低下は著しく、同世代の「はがき通信」仲間と会うと「昔の懇親会では朝方まで飲んで食べて笑って無茶した懇親会」を懐かしく、話すたびに年齢を感じています。
この歳になり「このままでいいのかな〜」と不安を感じている毎日でもあり、なんとなく何をモチベーションに生活して良いのか? 昨年には気持ちが不安定な時期もあり、メンタルを上手く維持していくことも改めて感じた時期でもありました。
とにかく自己管理から食生活を見直し、炭水化物、特に白米はほぼ食べなくなり、砂糖の入った飲み物は飲みません。アルコールもなるべく糖質オフ、カロリーオフを選ぶなど気を付けているつもりです。
ここ数年、私より若い頸損の後輩たちが風邪からの肺炎、褥瘡からの敗血症などで亡くなる方が続けてありました。日頃は忘れがちですが頸髄損傷は大きなリスクを抱え、生きてるいるのだと、やっぱりいろいろ考えてしまいます。だからこそ頸損ならではの楽しみ方を思いっきり楽しもうと、今は少々吹っ切れた気持ちでもいます。
日常生活を支援してくれる皆さん、頸髄損傷の仲間、私に関わってくださったすべての皆さんに感謝の思いでいっぱいです。
東京都:T.F.
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