はがき通信ホームページへもどる No.163 2017.2.25.
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 求む! NSシーケアパイロットⅡ 

頸損歴15年、61歳


 ウェブの「はがき通信」を読んでいます。
 私は長年にわたって環境制御装置としてNSシーケアパイロットⅡを愛用しています。
 シンプルで、故障もなく丈夫で、価格もお手頃と、とてもいい製品だと思います。チャンネル数が少ない、エアコンが使えない等欠点もありますが……。
 できたらもう1台欲しいと思っています。
 もし読者の皆様のなかに、現在使われていない方で、不要なかたがいらっしゃいましたら、お譲りください。
 ご連絡をお待ちしております。
 メールアドレス:

佐賀県:H.H.





 最近思うこと 

39歳、頸損レベルC6B2、受傷歴9年

 9年前に海の事故で頸椎を損傷し、その後約2年間のリハビリ入院を経て社会復帰をしました。社会復帰といっても親の職場に居場所を作ってもらい、ぼちぼち生活をしている程度でした。
 プライベートでは、私が住んでいる佐賀は平野なので車イスで散歩に出ることから始め、友達と飲みに行ったり、ヤフオクで中古の電動車イスを手に入れて、バス、電車、タクシーに乗ることに少しずつチャレンジして車イスで一人で活動していく手段を身につけていきました。
 どれも行き当たりばったりで、うまくいかなかったら人に聞いたりして、どうすれば良いか試行錯誤していました。このときに、このご時世に障がい者になって良かったと思ったのですが、先人の方々が開拓してくださったおかげで、どの交通分野に問い合わせても理解があり良く対応していただけたのです。たまに例外もありましたが(笑)。
 ほかにも、趣味だったサーフィンが忘れられず、昔の仲間に手伝ってもらいながら年に数回サーフィンをやっていました。数年そんな日々を過ごしていたなかで、一つの転機が訪れました。佐賀に私以外に昔サーフィンをしていた車イスのかたと知り合ったのです。すぐに仲間になり、車に一人で乗れない私はガソリンスタンドで待ち合わせをし、給油のついでにスタンドのお兄さんたちに抱えてもらって車に乗り込み海へ行きました。その道中は楽しいものでしたが、長いドライブの中で必ず出てくるのが仕事の話でした。サーフィンをもう一度したい。そのためには、サーフボード、ウェットスーツ、車が要る。でも働きたくても仕事がないから買うのが大変と、いつも仕事がどうにかならないかと話をしていました。
 どうすれば良いか考えた結果、障がい者の環境を変えなければいけないというところに行き着き、そこから障がい者の活動が始まりました。「はがき通信」に出会ったのもその頃です。それから数年、いろいろやりました。
 まず手をつけたのが、障がい者の現状把握でした。人に話を聴きに行ったり、障がいの種類に関係なく色んな方に集まってもらい何に困っているか話す、障がい者意見交換会を開催しました。ここで感じたのは、障がいがあると自分の障がいについては理解を求めるのですが、意外と他の種類の障がいのことを知らないものだ。理解してもらうためには隣のことも理解していかないといけないということでした。
 次に障がい者が社会に出てこられるようにイベントを企画しました。障がい者を対象にした合コン、料理教室、花火鑑賞会、メイク教室、車イススポーツ大会、バリアフリーマップづくり等です。
 そして、最後に仕事の創造です。一番苦戦していますが、すごく助かったのは、佐賀では「ユニカレさが」(就労移行支援・自立訓練“生活訓練”多機能型事業所)という障がい者を対象としたビジネススクールがあります。ここの校長は、障がいがある人は一般の社会の流れに乗りにくいため、雇われるより自分で仕事をしたほうが良いという考えの方です。現在は、そこでの学びを終え、起業し新しいビジネスを始めたところです。
 障がい者への理解や取り巻く環境は、まだまだ十分とは言えません。しかし20年前に比べると格段に良くなっていると思います。パソコンという素晴らしいツールもあり、勝負できる部分があると思います。障がいがあってもできる、役に立つということをアピールしていくと、きっと上手くいくと思っています。

佐賀県:A.N.




 『深部静脈血栓症』の経験 

35歳、C5、頸損歴19年

 あれは、2011年の8月か9月頃のことだったと思います。なぜか左足の膝から下に「じんじん」とした痺れのような感覚があり、また「ぴりぴり」と痛みのような違和感がありました。今まで頸髄を損傷して肩から下に“痛み”の感覚など分かるはずがないのに、何故こんな感覚があるのだろうと、不思議に思っていました。現在は1人で自立生活をしていますが、その当時母親に話してみても「なんでやろな」と言うぐらいで、またヘルパーさんにも痛みがあるから左足を触るときはゆっくり動かしてもらうようにと伝えるだけで、特に足の違和感を気にすることなくいつもと変わらない生活を過ごしていました。まだ、このときは、痺れや痛みなどの違和感がときどきあるぐらいだったので「まあ〜大丈夫だろう」と、不安感どころか痛みの原因を知ろうとも思いませんでした。この危機感のなさが、後の日常生活に大きく影響するとは全く思いもしませんでした。
 足の痺れや痛みなどを気にすることなく2〜3ヶ月が過ぎた2011年11月1日、朝は腫れていなかった足が夜になりベッドに移乗してから見てみると、左足が右足の1.5倍ぐらいにまで腫れていました。こんなにも急に人の足が腫れるなんてビックリしました。また、左右差がある足を見ていると自分の足じゃない不思議な感覚にもなりました。このときに初めて目で見て足の具合が悪いと分かったので、病院で診てもらった方がいいのではと思い両親に話をしたのですが、少し面倒くさそうに「もう少し様子をみて近所の整形外科に行こう」と焦ることない危機感ゼロの返事でした。僕も足が腫れているにも関わらず、2日後の11月3日にヘルパーさんとウインドーショッピングがしたくて、大久保にあるイオンへ外出していました。足が腫れてからの外出は初めてで、点字ブロックの上を通るだけで足に振動が伝わりとても痛かったです。今、思えば、足が痛いんだったら早く病院に行けよと自分に言いたいです。しかも、目で見てはっきり分かるぐらいに足が腫れているんだから。内心は、おかしいなと思いながらも、まだ病院に行くのを躊躇ちゅうちょしていました。何故かと言うと11月3日は文化の日で病院は休み、救急車で病院に行ってもいろんな検査ができないんじゃないかと勝手な自己判断があったからでした。もう1つ、救急車を呼ぶのをためらった理由は、近所の人に心配をかけたり気にされたりと迷惑じゃないかと思っていたからでした。
 さすがに足の腫れと違和感があるので周り近所のことを気にしている場合じゃない、そう思い、3日後の11月4日に救急車で病院に行きました。移動中は心電図や血圧、体温、酸素などいろいろと測ってもらいすべて正常値だったので「どこが悪いのだろう」と、足の具合を深刻に考えずに早く病院に着いたらいいなと気持ちに余裕がありました。ただ、救急車に乗っていると思えば少し不安になり、居心地が良いものではありませんでした。
 病院に着いてからも体温や血圧を測り、次に採血をして点滴の針を入れるなど手際よくしていただき、あとは採血の結果を待っていました。しばらく点滴を見ていて「入院するのかな」とぼんやり考えていると、少し不安が大きくなり早く結果が知りたくなりました。
 最初に診ていただいたドクターは皮膚科で、足の腫れがキズからの炎症だと思っていたみたいなので、採血の炎症反応が正常値だったことからキズからの腫れではないと分かると、すぐにドクターが循環器内科に変わりました。まずは腫れている左足のエコーを撮り、次は心臓のエコーを撮りに行きました。1つ2つと検査が終わるなか、バタバタと続けて次はCT検査と時間が過ぎるのを惜しむかのように、病院の中をベッド上で動き周っていました。なんとなく周りにいるドクターや看護師さんが慌ただしく動いているように感じたので、「足の具合は悪いのか」と心配になりました。
 ようやく、ドクターから言われた結果が左足からお腹の辺りまで血栓ができているとのことで、病名は「深部静脈血栓症」でした。
 インターネットで調べると医学的に言うと、旅行中(特に飛行機の中)に起こる深部静脈血栓症に伴った急性肺動脈血栓そく栓症のことです。旅行血栓症という用語も使われております。飛行機の中では長時間座ったままでいるため、下肢の圧迫による下肢の静脈のうっ滞と水分不足による血液粘度の上昇がおこり、これが引き金になり血のかたまり(血栓)ができ、血管壁に付着します。飛行機が目的地に着陸し、席を立つと、長時間圧迫されていた足の静脈に付着していた血栓が血管壁からはがれ、静脈流に乗って肺にとび、肺の血管を閉塞(詰まらせること)させ、急性肺動脈血栓塞栓症がおこります。すなわち、いままで元気でいた人が急死することになります。航空機内のエコノミークラスの旅客から多く報告されたため、エコノミークラス症候群という名前で知られるようになりました。この血栓が、脳に移動して血管を閉塞させると脳塞栓、心臓の血管を閉塞させると急性心筋梗塞となり、とても危険です。
 何年か前に上記に書いてある内容を聞いたことがありましたが、まさか自分が同じ症状になるなんて信じられませんでした。僕の場合お腹まで上がってきていたので、いつ心臓にまで上がってきてもおかしくないぐらい危険な状況だったそうです。そのため、即その日の夕方に血栓が心臓まで上がってこないように、お腹にフィルターを入れる手術をすることになりました。「血栓」と聞いて、初めて僕の足はそうとう悪い状態なんだと緊張が走りました。この手術名は“下大静脈フィルター留置術”で、インターネットで調べたのですが、下肢の静脈に血栓が残っていたり、新たに血栓ができてもそれが肺動脈に到達しないように、下大動脈にフィルターを入れて血栓をとらえる方法です。1週間ほどで取り出す一時的フィルターと、ずっと入れておく留置用フィルターがあります。このような手術で血栓がお腹にあるフィルターより上に流れないようにしてもらい、僕の命は助かりました。そうとも知らず、こんな足になるまで何もせず生活していたなんて、もっと早くに病院に行くべきだったと反省するだけでした。今回の手術で○○毛を失いつるつるの少年になってしまったか、若しくはチャプリンのちょび髭(ひげ)のようになってしまったのかもしれません……。
 そして悪い予感が当たってしまい、11月4日から11日間の入院生活が始まりました。
 入院1日目は検査が多く、手術を行いいろんな出来事が凝縮された1日で驚くことばかりでした。24時間、血栓を溶かす点滴をしていたのでベッド上で過ごす日々が続き、退屈なのだろうと入院生活が重く感じられました。心臓の様子を常に診るため、心電図を測っていました。いつもドクターや看護師さんから「胸は苦しくないですか?」と質問され、「苦しくなったら言ってくださいね」と嫌になるぐらい言われていました。それほど、血栓が心臓にまで上がることが恐ろしいのだと思いました。また、足首やふくらはぎなど約3ヶ所のサイズを測るため、足にマジックでバツ印を付けられていました。ただ、サイズを測るためだけではなく足に印を付けたのは、機械で静脈の音を聴くためでした。なんだか、僕の人間性にバツ印を付けられたみたいでショックでした。
 入院2日目以降、飲み薬が増えて1日に多くて3回も採血をして、点滴と飲み薬の効き具合を診て薬の量を調整しながらの治療が1週間続きました。僕の血管が細く、何度か失敗することがあったので採血のときが嫌になるぐらいでした。いつも、同じ場所から採血をするので多数の跡が残りました。この日から音楽を聴いて退屈を紛らわせていました。入院3日目から飲み薬の数が減り4日目には点滴が1つになり、だんだんと調整ができてきたみたいで良かったです。これも、嫌だった1日に3回の小まめな採血のおかげだったと思います。やっと6日目に点滴が全て終わり、7日目に車椅子に移乗することができたので、食堂に行き珈琲を飲みくつろぎました。久しぶりの珈琲にとても美味しいと感動し、至福のひと時を感じていました。1週間ぶりに車椅子に乗ったせいか貧血になり、少し気分が悪くなりました。
 入院生活8日目・9日目と飲み薬だけの治療になっていましたが、気になることがありました。入院当日の手術でお腹に留置したフィルターを取り除くか、体内に留置したままにしておくかの問題が残っていたのです。このフィルターを体から取り出せるリミットは10日以内で、それ以上経ってしまうとフィルターが血管に癒着して一生取ることができないそうです。そこで、10日目のCT検査の結果次第でフィルターを取り除いてしまうか、フィルターの位置を少し動かして癒着するのを10日間だけ引き延ばすかの選択でした。結果から言うと、フィルターを無事に取り除きました。それは、CT検査で血栓が下腹部まで下がっていたからだそうです。検査結果により、昼からの手術でフィルターを取ることが決まりました。入院日、当日の手術ではフィルターを股間の右横から静脈を通して入れましたが、取るときは首の右下(鎖骨の首より)のあたりからワイヤーを入れて取り除きました。今回は痛みを感じる部分からの手術で、もちろん局部麻酔をしていたのですが、首の横からワイヤーをグイグイ押し込まれたり手術中、首を左に傾けたままの体勢だったり痛みと恐怖に耐えていました。また意識があるので、周りの声が聞こえていて手術中に一番気になった言葉は「ちょっと待って!」でした。そのときの僕からすれば「何をちょっと待つん」と、心の中で叫びました。僕に対する問いかけであれば周りの声が聞こえないと困りますが、それ以外の声が聞こえるのは怖いだけでした。正直、全身麻酔の方が良かったです。たった約30分の手術がとても長く感じました。術後1時間、手術中と同じ首の体勢だったので肩が凝ってしまいました。
 実は手術が始まる前、ドクターから首の方からフィルターを取ると聞かされていなかったので、オペ室で首の方に麻酔をしますと言われ、思わず「え、首からですか?」と聞いたところ「そうです」とあっさり言われてしまい、心の準備をする間もなく手術が始まったのでした。
 手術後、夕方にドクターから手術の説明や血栓の状態を伝えていただき「明日、退院です」と言われ耳を疑い、「明日、退院ですか」と聞くと「無事にフィルターが取れましたので入院していても何も処置することがない」と言われ驚きました。なぜなら、入院中に多いときは1日に3回も採血をしたり、毎日足のサイズを測ったり、常に心電図を測ったりして、あれだけ経過を事細かく診ていただいていたので「ほんまに退院して大丈夫なんかな」と、不安な気持ちがあったからです。でも、退院できるなら早い方が嬉しいので良かったです。あとは飲み薬の調整が大事で、定期的に通院することになりました。
 11日目の午前中、無事に退院することができ、短いようで長かった入院生活が終わりました。
 今回の入院生活を経験して最初に思ったのは、自分の足も含め自己管理が大切で僕には欠けていることでした。もっと自分の体を大事にするべきで、また体調も自分が一番良く知っておくべきなのだと反省しています。また、介助者や家族からの目線や声かけなど、自分が気付かないことを伝えてもらうことも大事だと思います。もっと大事なのは、今回の僕のように2〜3ヶ月も前に感じた違和感を「大丈夫だろう」と安心して放置せずに、「おかしいな」と思えばすぐにでも病院に行って診てもらうことです。もし、身体に違和感があり、病院に行って原因が見つからなくても行かないよりはいいと思います。とても小さいことが、入院するような大きなことにならないように。
 その他に病院では、完全看護で息を吹くと鳴るコールを付けてもらっていたので、安心でした。ただ、朝と夕方の時間帯が忙しいので、朝と夕方の食事介助は家族に来てもらいました。入院中のほとんどがベッド上で、食事のときにベッドの背上げをしてもらって起きあがり、食事が終わればベッドの背を下(おろ)して寝転ぶような生活だったので1人で過ごす時間が多く退屈でした。何が言いたいのかと言うと、何かするには“介助者”が僕には絶対に必要だと言うことです。何もできない自分に虚しくなりイライラすることもあり、介助者が自分にとってなくてはならない存在に思いました。
 今回のような、命にかかわる入院は事故以来で2回目でした。ふと思えば、まだまだ寿命があるからこそ生きているのだと感動しました。それから、家族や周りの人たちに支えられているから元気に退院できて心から感謝です。
 家に帰ってからの治療は食後の飲み薬ぐらいで、車椅子に乗る時間を少なくしたり足を上げたりと気にかけています。あと車椅子に乗っているときは、足の血栓がお腹の方へ上がらないように、足首のゴムが硬い弾性ストッキングを常に履いています。当分、薬は欠かせないので月に1度通院しています。退院後、最初の通院で飲み薬の効果が悪かったので薬が半錠増えてしまいました。2度目の通院で薬の効果が良かったので薬の量は変わりませんでしたが、3度目の通院で1度目のときと同じ結果で薬がさらに半錠増えてしまいました。これからも薬の量の調整と薬の効果が弱くならないよう、食べる物にも気を遣いたいです。
現在、8週間に1度の通院で、採血をして薬の調整をしています。食べる物によって薬の効能が変わりますので、薬の量が変わることも多くあります。身体に血栓はありませんが、足がむくまないように車椅子に移乗する際には、弾性ストッキングを常に履いています。ストッキングは、ドラッグストア等で購入できるものです。
 同じような経験をされた方、退院後の日常生活で気にかけていること、足の痛みを緩和する方法、血栓の予防方法など、ぜひ情報提供をよろしくお願いいたします。

兵庫県:T.Y.

【編集部注記】
 Y氏の自立生活の記事を拝見していたところ、自立生活の引き金のひとつにもなりました『足の血栓』入院に目が留まりました。
 頸損者なら、誰でもがなりうる合併症だと思います。
 ぜひ「はがき通信」にも情報のご提供をいただきたく依頼をしたところ、すでに執筆済みとのことで、兵庫頸髄損傷者連絡会の機関誌に掲載された原稿に一部加筆していただきました。

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