五平餅を作る《海外通信》
昨日の日曜日、以前近所のSMモールで買って来た信州味噌と胡桃を使って五平餅(ごへいもち)を作る。 20年前、ここルセナで信州味噌が普通にお店で売られる日が来るとは、一体誰が想像しただろうか……住んでて良かった。 昨日の夕方、妻に胡桃をすり鉢ですってもらい、そこに信州味噌と砂糖、お湯を加えて胡桃味噌を作る。 いつも食べているローカル米では粘りがでないので昨日はカリフォルニア米を炊き、すりこ木でついて潰して丸めて割り箸につけて平たくのばす。まあ……日本のお米のような訳にはいかないが、ここでは気にすることはないのだ。 ちなみに五平餅とは…… 『五平餅(御幣餅)は、中部地方南部の山間部(長野県木曽・伊那地方から岐阜県東濃・飛騨、富山県南部、愛知県奥三河、静岡県北遠・駿河)に伝わる郷土料理。潰した飯を串焼きにしたものである。』 〜以上、ウィキペディア(Web フリー百科事典)「五平餅」より抜粋〜 と書かれているように日本で全国的にメジャーな食べ物ではないが、南信州育ちの自分にとって五平餅は、懐かしい郷土料理なのである。 で、昨日は息子に庭で炭をおこしてもらい、まずは割り箸につけたご飯を軽く炙(あぶ)ってもらう。そして、炙って表面の乾いたご飯に胡桃味噌を塗りつけて、再度炭火で炙ってもらえば五平餅のでき上がり。 炭火で炙られた胡桃味噌の香りは、なんとも食欲を誘う。ここで買った胡桃は風味が劣るせいか、昔日本で食べた五平餅の味とは若干違う気がするが、これはこれで懐かしくも美味しい五平餅となった。 それにしても、まさかここルセナで郷土料理の五平餅を作って食べられるとは……幸せである。 フィリピン:ルセナの隠居 JAL成田⇔マニラ線 電動車イスでの利用レポート
◇予約 JALのホームページから、国際線の予約を進めて行くと、車イスの利用者にいくつかの質問項目ある。入力を進めていくと、どうやら私の障害程度では、ネットからの予約はできないようだ。 プライオリティゲストセンター(障害者予約専門窓口)に電話をすると、先に航空券の予約を入れてから電話をとのこと。悩むところだが、改めてネットで予約を完結させ、再度プライオリティゲストセンターに電話をする。障害程度と電動車イスの情報提供をして、無事にすべて予約完了。 ◇フライト当日 成田空港で電動車イスの情報提供、座席への移乗の方法、電動車イスの梱包方法の打ち合わせをした。 搭乗ゲートまでは自分の電動車イスで行き、リクライニング式の機内用車イス(アイルチェアー)に移乗、目の前で電動車イスをプチプチ(気泡緩衝(かんしょう)材)で梱包してくれた。対応はとても良い。 数名の空港スタッフで客席に移乗させてもらい、ひと安心をしているところに今度はバッテリーを外せないのか、と言ってきた。 見えないところで、電気系統を素人にいじられると故障をしかねない。チェックイン時の打ち合わせでは、バッテリーはそのままでOKの確認はしたはずだ。難色を示すが、選択の余地はない雰囲気だ。仕方がなく、バッテリーの場所とコードの外し方を教えた。以前、デルタ航空のフライトでは、バッテリーコードは外さなくてもOKだったので、油断をしてしまった。 ●成田空港にて ●電動車イスのバッテリー マニラ側にも、バッテリーの件を伝わるように強くリクエストした。努力するとの回答、かなりの不安が残るフライトだ。 ◇マニラ空港ターミナル1 マニラ空港では構造上、搭乗ゲート前には、電動車イスを持ってきてはもらえなかった。空港スタッフ(Wheelchair attendant)数人で、座位の取れない私の体を支え機内用車イス(リクライニング式ではない)で長い距離を移動した。手厚い対応には感動したが、やはり怖かった。 ●マニラ空港 Wheelchair attenda 問題のバッテリーだが、不安は的中してしまった。コネクターはバラバラのままだ。もちろん電動車イスは動かない。バッテリーの件で、成田側からは何も連絡はきていないのか? 空港スタッフに質問をしても、バッテリーコネクターのどこをどう外したのか分からない様子。成田からのメールを確認、結局メールの内容では解決はしなかった。残念なことに、同行者もまるっきり電動車イスのバッテリーのことには知識がなかった。 さらに台風もマニラに上陸してきており、事態は最悪になってきた。嵐の中、このまま空港にとどまっているわけにもいかず、電動車イスを手動にしてレンタカーでホテルへ向かった。このときは、フィリピンに渡航したのを思いっきり後悔した。 フィリピン人の介助者に見てもらったら、コネクターが1本隠れていたのだ。電動車イスのスイッチは入り、問題なく動いた! よかった。生き返った気分だった。 JALの車イス利用者応対はかなり良いと思う。やはり、自分の電動車イスの必要最低限なことは、把握しておいたほうが良いと思った。 東京都:T.S.
盲腸ポート造設経過報告(続編)〜初めてのガストロボタン交換〜
ちょうど1年ほど前に、盲腸ポート造設から2年目を迎えた時点で経過ご報告をさせていただきました、福島の相山です。 そして、今年で造設から3年目、意を決して、7月8日に初めてのガストロボタン交換に青梅市立総合病院へ行ってきました。正確に言えば、盲腸ポート造設施術後2年半でしょうか。今回は、そのご報告をさせていただきます。 基本的にはガストロボタンが汚れたら交換なのだそうですが、ふだん見える部分だけではわかりません。たぶん2〜3年置きくらいを目安に皆さんは交換されているようですので、そのくらいの頃にお電話して予約しました。特に、ガストロボタンに異常を感じた訳ではありません。「あっという間だよ、簡単簡単、グサッと抜いてグサッと入れるだけ」と知人からお聞きしてはいたのですが、あのガストロボタンを引っこ抜くのかと思ったらとても恐怖でした。でも、結論から言うと本当に簡単でした。今思えば、どれほど痛いのだろうかと内心びくびくしていた自分がおかしいくらいです。 ●図〈1〉 ●図〈2〉 ガストロボタンの交換は、レントゲン室で画像を見ながら行います。まずは造影剤をガストロボタンから入れ、2〜3枚写真を撮り、その後素早く図〈1〉のガストロボタンの左端の“ぼこんとした部分”の手前で切断し、右側の部分だけを抜き、同時に新しいガストロボタンを差し込みます。“ぼこんとした部分”は切り離され大腸の中に残されるのですが、後で便と一緒に出してください、ということでした。ただ、新しいガストロボタンの先端は、以前のものとはずいぶん変わっておりました。改善されたもののように思われます。キノコのように、ぼこんとしたところが薄く平たくこじんまりとした形になっておりました。図〈2〉のような形です(うまく説明できないので似たような図を探してみました)。造影剤も刺激になっているのか、膀胱瘻(ろう)のカテーテル交換の時のように内臓過反射はかなりきましたが、ガストロボタンの交換はほんの数秒の出来事でした。次回は2年後くらいに、とのことです。 なんとも呆気なくガストロボタンの交換は終わりましたが、私にとってもっと大変だったのはその翌々日、大腸に残された“先端のぼこんとした部分”を排泄することでした。かなり奮闘したので、新しいガストロボタンの先端の形が変わったのは後で出しやすいようにということなのだろうと確信したのですが、本当のところはわかりません。ガストロボタンの交換後、新たに肉芽が盛り上がることもなく、何事もなかったかのように現在に至っております。 あまり特筆すべきこともなかったようなご報告でしたので、最後に、盲腸ポートを造設してから3年、気付いたこと、思うところを少しだけ加えさせていただきたいと思います。 まずは、盲腸ポートにしてからガスが溜まるのがとても気になるようになりました。これはかなりの苦痛でもあります。ただ、盲腸ポートが原因なのかどうかは正確にはわかりません。老化退化による苦痛や疲労も日々実感しているので、腸の動きが悪くなってきているからなのかも知れません。また、盲腸ポート施術を行う病院・医師が少なくなりつつあるように思います。私が施術していただいた青梅市立総合病院では、もう行われてないそうです。 不安が募る折りも折り、昨年の秋に東京で開催された「頸損の排泄を考えるシンポジウム」に参加させていただき、盲腸ポートと人工肛門のお話を造設当事者の方ならびに皮膚・排泄ケア認定看護師さんから詳しくお聞きすることができました。たぶん、私と同じく、「人工肛門も悪くないかも知れない」と思われた方も多かったのではないでしょうか。私は同時に、ここでご紹介された病院が近くにあって、この皮膚・排泄ケア認定看護師さんに関わっていただくことができたならと、とても羨ましく思いました。が、とにかく現実は難しいので、現状維持を心掛けなければなりません。また、盲腸ポートから人工肛門に移行された方のお話の中で、盲腸ポートのガストロボタンを抜いても穴がふさがるまでには数ヶ月かかるようであり、現在も盲腸ポートと人工肛門の両方に袋をつけているという事実にとても驚いてしまいました。単純ですが、とにかく盲腸ポートを造設した以上はできるだけこの今の自分の身体で頑張ろうと、改めて気合いを入れた瞬間でもあります。できるだけ自然体で、できるだけ身体にメスを入れることなく、という思いは歳を重ねるごとに強くなります。体力が衰えつつあるからなのでしょうか。盲腸ポートから浣腸液を入れての排泄は私の場合とても体力を必要とするのですが、できるだけ今の自分の身体を維持していかなければと強く思っております。 2014年9月12日 福島県:T.S. 車いすでけん玉をすること
『けん玉』日本人なら知らない人はいない、日本の玩具です。じつは、私の地元・広島県廿日市市が発祥の木製玩具なのです。私が子どもの頃、あまりにも身近にありすぎてじつは遊んだ記憶がありません。 最近ではこのけん玉、世界中の若者の間で流行っている。X-GAME(BMXやローラースケート、スケートボードなどの世界大会)の選手が、休憩中にけん玉をやっている姿を見たファンの間で流行り始めたのを最初に世界中に広まり、海外で新しい技や新しいメーカー、プロ選手まで生まれ、日本に新しい文化として逆輸入されました。 新しい物好きの私のこと、まずはけん玉をやってみよう。しかし、けん玉というものの基本は膝にあります、膝のクッションで技を決める……やってみて難しいし、クッションが効かないから玉が跳ねて失敗続き。遊び程度に考えていた私ですが、『車いすでけん玉ってこんなに難しいなら本気でチャレンジしてみるのも楽しいな』そう思いました。 そうして始めたけん玉、しかし基本がなってない……地元のけん玉の先生(日本けん玉協会段位)に相談してみよう。FB(フェイスブック)でさっそく交流してみると、『一緒に練習しましょう』ってお誘いのお言葉。先生も一緒に椅子に座って膝を使えないようにして練習。これが後に大きな話になるとは思っていませんでした。 しばらくして先生と一杯飲みながら話をしていて『Tさん、障害のある方々でもできるけん玉をやろう!』と意気投合。速攻で、『全国車いすけん玉倶楽部【夢】』を立ち上げることになりました。車いすと題しておりますが障害を限定せず、小さいお子様もご高齢の方々にも楽しんでもらえるように考え、新商品として『紙けん玉』を先生が開発されました。力の弱い方でもできるように、軽さ30gの紙製のけん玉です。まだ生まれたばかりの団体であり、生まれたばかりの商品です。会員も数十人ではありますが、デイサービスの職員の方、経営者、障害者団体の方々が練習を見学されたり、お問い合わせをいただいています。 先日、地元・廿日市で世界でも初めて開催された『Kendama WorldCup 2014 Hatsukaichi』では、海外のプロ選手をはじめメディアの方々や地元自治体などいろいろな方々に知っていただくことができ、私もイベントステージで実演を少しだけさせていただきました。 これから大きくなるであろう、この車いすけん玉ですが、大きい視野で考えて、はじめは紙けん玉から始めた人が練習をして普通のけん玉にチャレンジして将来はワールドカップにも出場ができて、私たち車いすけん玉倶楽部からプロ選手が生まれる、そんな夢を想像しています。もちろん障害のレベルはありますが、たとえ手が使えなくても私たちは公式審判員の練習をしてもらってレフリーになっていただけるような環境も考えて、たくさん障害者にチャレンジしてもらえたら、と考えます。 全国・全世界の仲間たちとみんなで楽しみ、みんなで競う。そんな『全国車いすけん玉倶楽部【夢】』でありたいと考えています。 『全国車いすけん玉倶楽部【夢】』 公式HPhttp://www2.hp-ez.com/hp/whkendama ●倶楽部スタートイベントの風景 広島県:K.T. |
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