膀胱結石が止まらない
平成19年11月、受傷してから初めての膀胱結石ができ、Kリハ病院に入院して内視鏡による結石摘出術を受けた。2度目の膀胱結石は、平成22年6月に局部麻酔で開腹での摘出術をKリハ病院でした。 それから、定期的にフォローしているが、現在は3ケ月に一度、膀胱鏡検査のたびに外来で結石が見つかり、取ってもらう状態が1年以上続いている。水を膀胱内に注入し溜めて行なう検査なので、女性より尿道の長い男性や過反射が強い人は無理かもしれない。おそらく、頸損の身体のことがよくわかっているKリハ病院の泌尿器科なので、外来でできるのだろう。私も結石が止まってほしいが、その点では任せて安心だ。ドクターに全幅の信頼をおいている。今は、怖くて検査の期間を半年は開けられない。何とか入院しないで済むように、フォローするのみといったところだ。 たぶん、ホルモンバランスなどが関与して、結石ができやすい体質に変化してしまったのだと思う。花粉症などのアレルギーも、突然なったという話をよく聞くし。突然でき始めたのだから突然止まってほしい! ドクターもあり得なくはないと言っていたので、その日が来ることを切に願っている。 膀胱ろうでカテーテルという“異物”を留置しているし、薬などによるこれといった予防策はない。カテーテルの先端に結石が付着している傾向があるということで、現在、腎盂カテーテルに変えて様子をみることになった。結石の成分は、リン酸マグネシウムアンモニウム・リン酸カルシウム・尿酸水素アンモニウムで、膀胱結石の成分としてはごく一般的なものだそうだ。 私が平成元年にKリハ病院に入院していたころ、アルカリ性食品や柑橘類を食べると結石になりやすいからと、よくナースに言われた。自宅にアルカリイオン水ができる浄水器をつけていたが、それをあえて飲まずにいた。久しぶりにKリハ病院に膀胱結石で入院したとき、病棟のデイルームにアルカリイオン水が出る蛇口があるのを見て驚いた。看護師に聞いたところ、「因果関係はわからないですね」との返事が……いやはや、長年、わざわざただの水道水を飲み続けていた私の努力はなんだったのだろう……思いっきり気が抜けた瞬間だった(苦笑)。 脊損歴が長い特に年配の人の中には、柑橘類をまったく口にしないという人もけっこういた。おそらく、これも“神話”に過ぎないのだろう。柑橘類はビタミンCなども豊富だし、冬場の風邪防止のため、1日に1〜2個くらい食べたからって考えてみればどうってことないと思う。脊損のご夫婦で片方は結石がバンバンできるのに、片方は全くできないという症例もあるとドクターが話していたので、食生活だけが原因とは言い切れないという証拠だ。確かにお小水のPH(ペーハー)がアルカリに傾くと、結石はできやすいとは思う。 Kリハ病院の泌尿器科のドクターから、頸損歴が10年を超えたら年に2度IP(静脈性尿路造影)検査を受けることがベストと言われている。膀胱結石の確定判断は、CTを撮るのが一番確実だそうだ。単純撮影のレントゲンだけの場合、ガス溜まりで結石が小さいと見落とす可能性があるので、エコー(超音波)検査との併用をおススメする。排便は、済ましてから検査したほうがよい。 Kリハ病院の場合、内視鏡か開腹で手術をするかは、結石の大きさが4cm以上かそれ以下かがひとつの基準になっているようだ。最新のレーザー治療はやっていない。腎・尿管結石の治療に汎用(はんよう)されている体外衝撃波治療装置は、結石が動きやすいため、膀胱結石の治療には不向きだそうだ。健常者の場合、膀胱結石があっても経過観察をすることが多いと思うが神経因性膀胱の脊損者の場合、2週間で急に大きくなることもあるとのことでKリハ病院の泌尿器科は、「トットとサッサと取れ」の方針だ。 頸損歴が長くなってくると、いろいろな合併症も出てきたりする。頸損特有の共通の問題なのに、トラブルなしの期間が長く続くと、頭ではわかっていてもつい油断し、どこか“他人事”になる。私が20年近く、膀胱結石とは無縁であったように……。結石は、大きくしてしまうと本当に厄介な代物。 昔、若年で頸損になった人の寿命は、40歳と言われたそうである。頸損が長生きできるようになってきた背景には、尿路管理の医学的技術が格段に進歩したということが一番の要因だと聞いたことがある。尿路系は、脊損者の生命をも左右する重要な臓器であるという認識を再確認し、皆さん、頸損歴が長くなってきたら何もトラブルがなくても年に一度、尿路系のチェックを。 編集担当:瀬出井 弘美 【連載特集!「介護する側、される側」】 特集 ヘルパーはなんだ?
私がヘルパーをやってみたいと思ったのは、職業訓練校の1日体験入学で体験してみたのが始まりでした。当時の私は何をしていいのかわからず、担任の先生に「とりあえず行って来い」と言われ行ってみたらすごく感動しました。 教えてくれる人の気づかいや、車椅子を押す姿、着脱の仕方、人とのふれあい等。早くこの人たちのようにヘルパーになりたいと思いました。初めてヘルパーの仕事を某事業所でやらしてもらったのですが、感動の嵐でした。ユーザー様の不自由な体なのに、いろいろ工夫しながら何でも自分でやろうとする真剣な姿勢、それをいろいろ考えながらサポートするヘルパーの姿。早く慣れていきたいと思い必死にやりました。 老人介護のボランティア等はほんの少しやったことがあったのですが、障害者の人と接するのは初めてだったので緊張しました。コミュニケーションのとり方やリフタ—の使い方、人それぞれの介助の違い、覚えることがいっぱいありやりがいがありましたが大変でした。ユーザー様は若い人が多くて、友達感覚になりがちになってしまい、直そうとして仕事と思うと硬くなりすぎちゃう。その中間がすごく難しかったです。だんだん慣れていき、だいたいお互いわかり合えてきてからいろいろ壁にぶつかりました。人間いろいろな人がいますし、考え方が合わなかったりするときはかなりへこんでしまいます。 なんでも「ハイ」と素直に従うのはいいと思いますけど、疑問を持つのも大事かなと思います。あまり私は強くいえないので、やさしく注意しても全く耳を傾けてくれないとか、少し言っただけなのにかなり落ち込んでしまう人、いろいろいます。「自分のことばかり考えてヘルパーのことをぜんぜん考えてくれてないんじゃないかな」などと思ってしまうこともあります。この仕事は、対人関係がうまくないとできない仕事だと私は思います。 ヘルパーはなんだ? ごきげんとりかと思ってしまうときも多々あります。最近は、すごくマイナスに考えてしまいます。結局ヘルパーは何なのか、今だにわからないままでいます。 ヘルパー・E 特集 ヘルパーは最上級のサービス業
自分がいろいろな仕事をしてきて感じたのは、ヘルパーは最上級のサービス業だということ。利用者様と日常生活を共にし、介助していくのは大変だ。利用者様と長時間過ごしていると慣れ等もあり、仕事の感覚が麻痺しかけることもある。時には納得いかないこと、嫌なことをやらなきゃいけないこともある。いろいろな問題が出てくる。 基本的な介助や知識は仕事をしていれば身につく。だからといってヘルパーをやっていくのは難しい。人を相手に仕事し、最後に頼れるのは自分だけだからだ。 利用者様の気分で1日が変わり、自分の気分しだいで利用者様の1日を変えてしまうこともある。まず、自分の気分で利用者様に危害がでないよう自己管理をしっかりして仕事に向かうこと。そして介助中も利用者様のことを考え、いろんな問題を受け止める心構えを忘れないこと。ヘルパー資格を持つプロフェッショナルとしての自覚を持つことで自分も成長し、利用者様により良いサービスを提供できると思う。 ヘルパーを続けるのに必要なのは目標、仲間、初心(やり甲斐)と無理をしないこと。これをなくしてしまうと仕事はつまらなく、ミスも増えてやってらんなくなる。 なんてことを思う今日このごろ。 仕事も大事。お金も大事。愛も大事。でも、結局は自分が一番大事ってことかな。最後にポエムを1つ。 自分大好き 僕のために君がいる。君のために僕がいる。僕と君は違う。違うから面白い。違うから助け合える。自分らしく生きることが誰かを楽しませ誰かを助ける。自分を好きになろう。いつの間にか幸せが降って来る。 ヘルパー・F お迎え〟&拙歌一首
先日、NHKのクローズアップ現代「天国からの〝お迎え〟」を観ました。「死んだ父親が会いに来た……」など、死を間近に体験すると言われる〝お迎え〟現象について初めての学術調査を紹介して、延命治療と在宅医療のあり方を考えるというものでした。 そういえば、その種のことはあまり信じない私ですが、受傷初期に幾度か見た夢がそうなのだろうか。 あるときは、上司と一緒に、会議に遅刻しそうで駅のコンコースをタクシー乗り場へ急いでいたら、通りがかりにあるトイレから同僚が呼び止めた。引き止める上司を振り切ってトイレへ……。同僚と連れション放尿を終えホッとした至福のひと時を漂う。 あるときは、私の骨が納まっている骨壷を、義母やその親族が取り巻いて何やら相談をしている。それを、私自身がその部屋の天井の一角から見下ろしている。 現れる上司や義母、親族はすでに亡くなった人々である。 同僚が死への誘いから引き戻してくれたのだろうか、義母たちが相談して現世の家族の許へ帰してくれたのだろうか。目覚めた後、家族らとそんな話をしながら不思議な現象にある種の畏敬の念と謝意を抱いたことでした。 私の見た夢も〝お迎え〟ではなかったのだろうか。ただ、途中で「お前は、まだやることが残っている」と現世に送り返されたのでは?……と思いながら、「ならば何かやらねば!」と頑張って来たような気がします。 [拙歌一首] ☆生かされて生きるも同じ生命なら生命の限りをましぐらに生く 受傷急性期のころ、他人の手を煩(わずら)わせなければ何一つできない、ましてや寝返りなど。ベッドに横たわったまま、天井の模様と過ごす日々。薄暗いスロープの下りに向かって、「このままブレーキを外せば壁に激突して死ねるかなあ……」 ハッ!と我に返ることもたびたび。生きるということを真剣に考えていた頃に詠んだものです。 佐賀県:K.N. |
ホームページ | ご意見ご要望 |