はがき通信ホームページへもどる No.133 2012.2.25.
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<特集!「四肢マヒ者のスポーツⅡ(その4)」> 

 前号の特集に引き続き、「四肢マヒ者のスポーツ」の第2弾・その4(第1弾は116号・2009年4月発行)を情報交換のためにご投稿をご紹介させていただきます。




 特集 車いすバスケットボール「足立クラブ」&ラオス指導体験記 


 「足立クラブ」(通称:北九州足立クラブ)は、北九州市で唯一の車いすバスケットボールのクラブチームです。選手構成は下肢に障害のある選手が10名、健常者11名の21名。
 練習場所は、小倉南区の障害者スポーツセンターで木曜、土曜の午後6時半から9時の週2回行っています。健常者の選手が多いのは、車いすに座れば障害者と変わらないとの理由で、地方大会では健常者も出場できる大会が増えてきたからです。
 創設は古く昭和42年頃、九州労災病院の患者さんたちのOBが結成したチームです。過去には、全国大会等で4度の優勝を誇る成績を収めた名門チームです。現在は九州大会でも優勝から遠ざかっていますが、若い選手も少しずつ増え、先輩たちが残してくれた栄光を取り戻そうと頑張っています。チームのモットーは「楽しく、みんなで勝ちに行こう!」です。
 ルールは一般のバスケットとあまり変わりなく、大きな違いはダブルドリブルが適用されないことと、個々の選手に障害の程度に応じて、持ち点が決められコートに立つ5人の合計点が14点以内でプレーすることです。
 北九州市では、毎年10月半ばに「北九州チャンピオンズカップ国際車椅子バスケットボール大会」が開かれます。世界の4大陸から選ばれたクラブチャンプたちが、世界の頂点を目指した激戦が繰り広げられます。車いすバスケを目の当たりにするいい機会です、ぜひ見に来てください。障がい者手帳をお持ちの方と付き添いの方、学生、65歳以上の方は入場無料です。
 車いすバスケットに興味のある方は障害のあるなしに関わらず、足立クラブ・本山(代表)までご連絡ください。
 2009年11月17日福岡空港発、タイ国まで所要時間5時間10分、バンコック発ラオス共和国まで1時間。乗り換え時間4時間を合わせると10時間を越える長旅。今回で3度目のラオス行き。この旅にも慣れたが、待ち時間はさすがにしんどい。
 そもそも、なぜ私がラオスまで指導に行く羽目になったかというと、九州の車椅子バスケットボール協会がアジアの指導者的立場にあり、私が九州の強化部担当であるから指名された訳だ。他にもいろいろ訳はあるのだろうが、面倒なので聞かなかった。とにかくバスケットボール普及を通じて、海外の選手と交流できるのだから、私としては別に不満はなかった。今、ラオスは開発ブームで好景気である。近隣諸国(タイ国、中国、ベトナム、他)の出資で道路、建物、川岸が新しくなっている。お陰で車やバイクの排気ガスで街は空気が悪い。信号が少なく、急激に増えた車やバイクで事故も多いようだ。
 私が滞在した2週間に3件ほどの事故を目撃した。特にバイク事故が多く、軽傷の場合がほとんどなのでその場から立ち去ることが多く、私を送迎してくださった日本人の方の車もバイクに接触されて、車体が凹んでいた。ぶつけたバイクは当然逃げたそうだ。1台のバイクに3〜4人乗りはざらで、中には幼子が母親の運転する後ろと前に乗っていることもある。
 ともあれ、ビエンチャンに着いた翌日からNRC(ナショナル・リハビリテーション・センター)で夕方の5時から8時まで、バスケの経験者から未経験者の女性を含めて計15〜6人を指導した。
 ハード面、ソフト面ともに整備されておらず、競技用車いすも少ない。先に来た順番に乗り練習をする。それでもここ数年は日本からの寄付もあり、10台くらいは使える。
 残りは見学者と交代して、練習していた。脊損者が少なくポリオの選手がほとんどで、ふだん車いすを使用していないので仕事が終わるとNRCにバイクや手こぎ三輪車で集まる。今回のクリニックも、ガソリン代を支給しないと集まらないらしく、驚いてしまった。当然車いすバスケ専属の指導者もいない。バスケ指導は、私の日本語を通訳が英語で、ラオス人の通訳が英語をラオス語で解説するので、選手たちが理解して行動をおこすまで時間がかかった。何ともイライラするが、私が英語、ラオス語が話せないのでしかたがない。
 過去に、クリニックを受けた人たちがいるのに経験者が初心者に指導していない。日本では、当たり前に指導していることが、なされていなかった。「3度も来たのに……」と気力がいっぺんに落ち込んだ。基礎練習のパスもボールの持ち方、力の入れ具合、指の開き、肘の曲げ具合、全て最初からの指導になった。
 後に知ったことだがクリニックが終了すると、数人の選手以外は練習に来なくなるので指導できなかったということだ。それでも日にちが経てば、全てに慣れてくるから不思議である。集合時間にしても少しずつ守るようになり、進んでコートを掃除し、返事もハッキリいうようになった。
 東南アジアの人々はのんびりした国柄で、私ほど焦っていない。当初、こちらの話を聞いているのか、理解されているのか不安だったが、日本人スタッフに「これが普通ですよ」と諭され、私もやっと納得した。『郷に入れば郷に従え』この言葉が身にしみた。
 彼らも私を理解したようで、態度が変わってきた。私自身も、少し穏やかになった気がする。いつも、ニコニコ接してくるラオスの選手たちの笑顔が、私をずいぶん救ってくれた。指導者は、気長に選手を見守っていかなければならない。
 焦っても、決して良い結果は得られない。自分の所属チームでさえ当然なのに、民族の違う選手であればなおさらのことだ。今回は、私自身を鍛え上げてくれるクリニックになった。将来、ラオスの選手たちが国際大会に参加して良い成績を残せるよう、機会があれば指導者として、クリニックに参加したい。私一人の小さな国際交流が、車いすバスケを志す若者たちの、大きな未来につながる架け橋になる喜びを改めて体験できればこんな幸せはないからだ。
 
 「足立クラブ」 検索でヒットします。  

北九州市:足立クラブ 代表 本山 眞人



 特集 誰もができるふうせんバレーボール(2)〈後編〉 


 1989年に始めた「全国ふうせんバレーボール大会」も今年で22回目を迎えます。これまでは、国内のみの「ふうせんバレーボール」だったものが、一昨年から海を渡りドイツへと飛んでいきました。
 そして、今年7月にドイツから障がい者スポーツの権威と言われているストローケンデル博士を招いてシンポジウムを行いました。
 博士は、ドイツでも日本でも有名な方で、元ケルン大学治療教育学部教授。ケルンスポーツ大学で「車いすスポーツのための機能的なクラス分け」で博士号を取得。この論文が車いすバスケットボールをはじめ、現在の障がい者スポーツのクラス分け法の基礎となっています。
 ストローケンデル博士は、「ふうせんバレーボール」のよさを一番に認めて、ドイツからさらに世界へと「ふうせんバレーボール」を飛ばそうと活動されています。
 私がふうせんバレーのルールの中で他のスポーツにない一番だと思っているのは、全員がボールにタッチしないと相手コートに返せない、というところです
 野球にしてもバレーボールにしても、自分のポジションにボールが回って来ないこともありますが、ふうせんバレーでは全員がボールを打ち、打つ瞬間は緊張し、興奮も味わいます。
 また、もう1つは、ハンディプレーヤー(HP)とアドバンテージプレーヤー(AP)というものがあります。
 これまでは、障がい者と健常者というと何かまったく別々の世界で暮らしているようなそんな感覚でしたが、けっしてそんなことはなく、アドバンテージは、言うまでもなく有利という意味ですが、障がいをもってる人に対して、ほんの少しだけ有利なプレーヤーということでAPとしました。
 「ふうせんバレーボール」は、障がいがある人とない人がお互いに助け合って、HPだけでなく、APも熱くなって楽しめるスポーツです。
 「暗い一日も」「楽しい一日も」一日は一日、ならば楽しい一日の方がよいに決まってます。障がいをもっていようがいまいが、障がいが軽かろうが重かろうが、体を動かすこと「スポーツ」は私たちに必要不可欠なものです。
 そして、不慮の事故あるいは疾病等で皆さん障がいをもつ身になりましたが、それでもせっかく拾った命を大切にし、スポーツをして長い人生をエンジョイしましょう!
 詳しくは、「ふうせんバレーボール振興委員会」で検索していただければ、詳しいルール、大会等の案内もあります。問合せは下記までお願いします。
 
 fusen-volleyball-owner@yahoogroups.jp

ふうせんバレーボール振興委員会副会長
 北九州市:S.S.



 特集 私と車いすスポーツ(3) 

42歳、C6、受傷歴20年
 こんにちは、Sといいます。福岡市在住C6の頸損です。今年でちょうど、受傷して20年になりました。 
 前回132号では、私の受傷後のスポーツ体験として陸上競技まででしたが、最終回(今のところ)としてウィルチェアーラグビーについて触れてみたいと思います。
 陸上競技で一つ障害が軽いクラスと判定された私は、次に車いすラグビーをはじめました。実は、以前からラグビー経験者ということで、130号にも掲載された大分県のS.Sさんからも誘われていました。当時のウィルチェアーラグビー日本代表の合宿が大分県別府市の太陽の家であり、私を含めて数名が見学(?)で声をかけていただきました。陸上で東京のジャパンパラリンピック等に出ていたので、日本代表にも顔見知りの選手もいて、お尻が入る専用の車いすを借りて一部の練習に参加させてもらいました。以前経験したツインバスケットと違い、車いすがぶつかっても反則とはならないので面白いなと思っていました。ただ、陸上で世界を目指しており、ケガが怖かったのと専用の車いすもなく、福岡にチームがないということもあり、本格的に取り組むのはあきらめていました。
 この競技は、四肢マヒ者の集団競技としてカナダで考案され、日本には、90年代半ばに入ってきました。ラグビーと言うよりアメリカン・フットボールに近いスポーツだと思います。
 ただ、さすがにラグビー王国ニュージーランドは、オール・ブラックスという健常者ラグビーのナショナルチーム名にならって、ウィルチェアーラグビーの同国代表は、「ウィール・ブラックス」という力の入れようで、選手はホイールカバーに黒地に白のシダのマークが入った車いすに乗っています。ゲーム前には、ハカ(ウォー・クライ)も行うほど気合十分です。それは、もうとても頸損のスポーツとは思えない雰囲気になります。
 話がかなり横道にそれましたが、競技は、1チーム4人(障害の度合いにより個人の持ち点が0.5〜3.5に分かれ4人の合計が8.0点以内)、バスケットコートで、バレーボールのボールを使って行います。エンドライン上にある、コーンとコーンの間をボールを持って通過すれば得点(1点)です。ボールを前に投げてもかまいませんし、ボールを持っているかいないかにかかわらず車いすを激しくぶつけてもかまいません。ディフェンス側は、3人までゴール前のキーエリアというゾーンに入って守れます。バンパーのついた車いすで、がんがん当たり合います。ゲーム中車いすの転倒、パンク等はしょっちゅうです。端から見ているとぶつかり合う金属音の大きさで少し恐い感じがしましたが、実際中に入ってみると、もともとラグビーをしていた闘争本能に火がつきました。
 車いすラグビーのチームは、福岡からは一番近くて別府にしかなく、日曜日に高速道路で2時間かけて練習に行く日々が続きました。当時、同じチームにその後アメリカのプロリーグでも活躍するようになったS川選手という「世界一速い頸損」がいて、彼らと一緒にやれるということで、長距離の移動も苦になりませんでした。そして、練習を重ねて出場した全国大会でベスト4まで勝ち進みました。また、自分でも1.0点の最優秀選手にも選ばれました。
そして、日本代表候補になった私は、東京での5回にわたる合宿に参加しました。約2週間おきぐらいで合宿が組まれていて、金曜の午後から休暇を取って土日の合宿に出て、日曜の最終便で帰ってくるというハードスケジュールでした。それまでは、がむしゃらに「速い選手を止めてやる。」という気持ちだけでやっていましたが、代表ではチーム内で4人それぞれの動きや守り方が決まっていて、肉体的な疲労より頭の方が疲れました。飛行機の移動中に、会議資料のような分厚いフォーメーションのマニュアルを読み、平日の夜、体育館が空いている時は、障害者スポーツセンターでダッシュやターンを繰り返しました。
 そして、2002年5月末からスウェーデンのヨーテボリで行われた世界選手権の日本代表に選ばれました。同時に大学ラグビー部の後輩であるS田君が、代表スタッフとして加わったため非常に心強かったです。余談ですが、彼のお父さんがあの向坊さんが高校の同級生で、その縁もあり、前回の「はがき通信」の福岡懇親会の時は、強力なボランティアとして手伝っていただきました。
 私は前回でも紹介しましたが、(100cmの座高計で計測できないほど)座高が高く、国内では自分より大きな選手を見たことはありませんでした。優勝候補のアメリカ、カナダ、オーストラリア等は私より大きな選手ばかりで圧倒されました。その大きな相手に日本はスピードとコンビネーションで対抗し、初出場ながら12カ国中8位でした。初戦で優勝したカナダに善戦しましたが、予選リーグと最終順位決定戦で共に開催国スウェーデンに僅差で競り負けたことが響きました。自分自身も、ベストのエース2人が常時試合に出るとチームの合計持ち点が超えてしまうこともあり、2試合しか出られませんでした。
 スウェーデンは、福祉国家と聞いていましたが、何も特別驚くような設備があるわけではありませんでした。ただ、エレベーターやビルを大事に使っているなという印象で、車いすの駐車場など意味が分かっていてみんながそれを守っていました。試合会場からホテルまで車いすで帰っていると、「試合はどうだった?」と声をかけられたような気がしました。さすが関心が高いなと感心して話していると、実は私たちの試合のことではなく、サッカーの日本対スウェーデンの調整試合の結果を聞いていたようでした。当時日韓ワールドカップ直前でした。
 ここまで、私の車いす生活になってからのことをお話ししました。障害者にとってスポーツは、一般社会との最も自然な接点だと私は思います。一緒に体を動かし、声を出し、ボールを追いかけたりすることで自然と心が通じ合えます。一人でも多くの障害者が自宅や施設にこもることなく外に出ていき、気軽にスポーツを楽しめる環境作りが大事だと思います。
 私は、現在残念ながら何もスポーツをやっていません。仕事、家庭(子育て)以外で自分の自由になる時間は、ほぼ休息時間(ベッドで寝ている)になってしまうからです。でも、いつの日かまた、スポーツができる日が来ることを信じて、体調管理をしっかりしておきたいと思います。
 最後に、私が大切にしている言葉を皆さんに紹介して終わりにしたいと思います。イギリスのストークマンデビル病院は、第2次大戦の負傷者(主に脊髄損傷者)のために作られた世界初の本格的なリハビリテーションの施設です。ちなみに、ここで1948年から毎年開催されていた競技会が後にパラリンピックに発展していきます。そこの医師であり、競技会の提唱者であったグッドマン博士がこういう言葉を残しておられます。
 「失ったものを数えるな、残された機能を最大限に生かせ。」
 素晴らしい言葉だと思います。
 私も、確かに失ったものがありますが、それによって得ることができたもっと大きなもの、いろんな新しいものがあります。だから、私はケガをしたことを後悔していませんし、これからもどんどん前向きに生きていこうと思います。
 

福岡市:Y.S.



 T.Hさん宅訪問 


 昨年11月末、療護施設から新潟市内で地域生活をスタートしたHさん宅にお邪魔しました。Hさんとは十数年前くらいに知り合い、私も療護施設生活経験者ということもあり、それ以来ときどきメールをやり取りする頸損仲間でもありました。
 「はがき通信131号」にもありましたが、Hさんは夢を実現し地域生活をはじめましたが、人工呼吸器使用、まだ福祉サービスが十分でない新潟で実現したことに本当に敬服しています。



 玄関にはスロープ、床走行式リフト、ベッドにはハンズフリー電話など支援機器も工夫されています。美味しいお料理をヘルパーさんが準備してくれ、新潟の日本酒でHさんと一杯やりました。療護施設から地域移行したからこそ、こうして友人を迎え、交流し、楽しい時間を自分で創ることができることをお互い実感した訪問でもありました。



 Hさんは、また新たな夢に向かい進みはじめています。ぜひ、これからも、重度頸髄損傷者の在宅生活者として情報発信してほしいと思います。

広報担当:麸澤 孝

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