はがき通信ホームページへもどる No.128 2011.4.25.
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「はがき通信」collection(3)


過去に「はがき通信」に掲載された投稿文を再録するというコーナーです。
 今回は特集に関連して食事に関することを掲載させていただきます。




 マイスプーン給付・入手報告  〈83号・2003年9月発行〉 


 「はがき通信」の皆様、こんにちは。私はS@北海道です。いつもは読者ですが、今回は私の住む北海道上磯町(2006年に大野町と合併して、北斗市になりました)の下した英断を皆様に知っていただきたく出てまいりました。
 私は10年前にロシア春夏脳炎に罹患(りかん)し、四肢・体幹マヒ、構音障害を持つ身となりました。上肢がほぼ全廃は変わりませんが、しかし10年の時間が流れるうち、リハビリや日常生活の中で、幸いなことに右足の機能を不完全ながら取り戻しました。今では、電動車イスのコントロール、パソコンのマウスコントロールほか、低い位置でのボタン操作ならばできるようになりました。電動車イスは1997〜1998年にかけて、ヤマハのJW−Ⅰを札幌にある北海道立心身障害者総合相談所で足操作式に改良してもらいました。そして今回、同所へ車イス更新のためのシーティングを受けに行きました。
[4月中旬] シーティングが終わったあと、そこで紹介されたのが「食事支援ロボット・マイスプーン」でした。マイスプーンのことは以前に、東京の麩澤孝さんが「はがき通信」で書いていらしたのを拝見した記憶がありましたので、いい機会だと思い、デモンストレーションをお願いしました。しかし、その値段が約 ¥400,000(!)と聞いて諦めかけましたが、とりあえず、無料お試し期間2週間を申し込んできました。
[4月下旬] 製造元のセコムさんと北海道の販売元パラマウントベッドさんが、新品のマイスプーンをわが家へご持参くださいました。じつに懇切丁寧な説明を受け、期待と不安の中、無料お試し期間2週間を開始。
[5月上旬] 右足を使いコントロールすべく、足下にセコムさんが用意してくださった台を置き、大きいタイプのジョイスティック(パシフィックサプライ社)のスイッチをセットしました。最初は非力な首でがんばるので格闘しているようなもので、疲れさえ感じたのですが、お試し期間が終わる頃には、どうしても欲しくなっていました。自分のペースで、自分の好きなものを介助者である夫や義母と談笑しながら食べられる! とうに諦め、忘れていたことでした。そして義母の手間を少しでも減らせる、同時に私自身が気楽になれる……。
 さて、困ってしまったのは、その値段でした。手が出せません。そこで、ここはダメ元で、上磯町に相談してみようと思い立ちました。上磯町役場の福祉課へ、事の次第を説明し使用しているところを見に来てくださるよう、メールでお願いしました。するとさっそく係長と若い方がいらして、マイスプーンの実物と私の実演を見、なぜこれが必要なのかを話す私の言葉を真剣に聞いてくださいました。納得しつつも「現在の“上磯町日常生活用具・自助具給付等規則”ではマイスプーンに該当するものがないのですよ。上の者とも相談してみますが、期待しないで、でも希望も捨てないで……しばらく時間をください」と気の毒そうに言い置いて、帰られました。
 このことをセコムさんに知らせたところ「もう2週間お貸ししましょう」と思いがけず、嬉しいお申し出をいただきました。
[5月中旬] マイスプーンに慣れてきて、離れがたくなった私は、福祉課からの連絡を待てずに、直接、海老沢順三上磯町長に給付をお願いする手紙をしたため、マイスプーンの紹介ビデオとともに、近所に住む町職員の方に託しました。それから、何日か経ったある日、偶然、お会いした海老沢町長は、まっすぐに私の目を見て「お手紙を頂戴しました。もう少し、待ってください」とおっしゃいました。そして……待ちました。
 この時期に、セコムさんとパラマウントさん、北海道難病連の方が上磯町役場へ立ち寄られたそうです。
[6月中旬] ついに、待ちに待った電話が来ました。最初に家まで来てくれた福祉課の係長さんからでした。「お待たせしましたが、マイスプーンの給付が決定しました」「ありがとうございました!!!」興奮を抑えられないまま、セコムさんにメールを書きました。
[7月下旬] 正式な書類が来ました。
 これが、全国で初めて、マイスプーンを給付対象に入れた上磯町の英断物語です。上磯町は、この決定のために「上磯町日常生活用具・自助具給付等規則」を改正しました。その基本には、「国や北海道が認めていないものを上磯町が給付を認める場合の要件としては、その補助具が障害者に絶対必要なもので、なおかつ、障害者がそれを購入できない場合に、上磯町は助成を考える。」という考えがあります。規則を改正するまでには役場内でも、かなり検討を重ねたようでした。両上肢が利かず、マイスプーンを使える条件下にある対象者というと、どうしても限られてしまいます。不平等感なく、また他のものにも転用できるようにと熟慮された結果のようです。考え抜いてくれた上磯町を誇りに思う私です。
 ここで私が忘れてはいけないことは、今、これを読んでいらっしゃる皆さんの中にも、マイスプーンを必要としながらも、給付対象品目に入っていないがために、“自分で食べる”喜びを奪われたままいるかたがたがいらっしゃるということです。上磯町に住む私だけが、喜んでいて良いはずはありません。
 各市町村により財政事情はあることでしょう。けれど黙っていては声を届かせることはできません。その時に互いの真摯な思いがつながれば道は開けてくるものなのかもしれません。一地方自治体の小さな一歩が、どうか全国に広まっていきますように!

 ※マイスプーンの説明は麩澤孝さん主演のセコムのページをご覧ください。
 http://www.secom.co.jp/personal/medical/myspoon.html
 

北海道:A.S.


 写真だより 





 私がリハビリに通院していた病院の改築工事の風景です。青い空と雲が印象的だったので写しました。実際より建物を暗めに写してシルエットに仕上げてみました。



 剣道着を着た若者とすれ違いざまに振り返りシャッターを切りました。いつでもカメラのシャッターを切れるようにしています。夕日が沈む方向に若者が後姿のシルエットに偶然になりました。
(撮影=筆者)

 

福岡県:K.M.


 ささやかでも、私にできる育児〈前編〉 

43歳、C4、頸損歴26年

 「はがき通信」No.117『長女の誕生』とNo.118『長女の誕生までの道のり』の続きになります。前回の投稿から1年半が過ぎ、娘が3歳5ヶ月になりました。
具体的な育児については次号に掲載される予定ですので、今回は娘とのある出来事について書かせていただきます。
 『星がキラキラ鳴く夜は』
 近くのラーメン屋がニュース番組の取材を受けたらしい。テレビの画面に見慣れた店構えが映し出される。リポーターは「創業20年の老舗店です」と紹介していた。
 20年で老舗? と思った。ラーメンの起源には諸説あるようなので、現代風のラーメンなら20年で老舗になるのだろうか。これが酒蔵だったりしたら何百年という話になるのだろうけれど……。
 そうなると四肢マヒ歴26年の私はどうなるのだろうか。もうそろそろ老舗の障害者と呼ばれる頃だろうか。そんなことを考えていたら腹が減ってきた。
「ラーメンを食べに行こう」
 と妻を誘った。
「いま、ニュースで放送したばかりだから混んでるよ」
 と言いながらもついてきてくれた。
 娘もラーメンと聞いて目の色が変わる。大食いの娘だが、麺類には目がないのだ。
 車イスに乗せてもらうと、すぐに娘が私の膝に上って座る。3歳になったばかりだけれど、保育園の同じ組の中で一番大きい。遠慮なくよじ登って座るから、かなり重いし、痛い。それでも私はそれがうれしい。いつまでこうして登って座ってくれるかわからないから今のうちに座らせておきたい。
 ラーメンはいつもながら美味しかった。娘もよく食べた。小食の私よりもはるかにたくさん食べる。
 帰り道も娘は私の膝の上。どこからかコオロギの鳴く声が聞こえた。
「あんちゃん、虫が鳴いてるよ」
 膝の上の娘に話しかける。
「虫じゃないよ」
 と娘はすぐに返してくる。
「お星さまが鳴いてるんだよ」
 娘は空を指さしている。
 北の空に星が輝いている。
「ほんとだね」
「お星さまはなんて鳴いてるの?」
「キラッキラッって鳴いてるよ」
 愛おしくて私は娘を抱きしめた。力のない腕では強く抱きしめることは叶わないが、娘のぬくもりを感じることはできる。
「寒いから帰ろうか」
 と娘に聞く。
「寒くないよ」
 と娘は言う。
 私は膝に座る娘をじっとずっと見つめた。
 最近、私のような障害を持つ方たちがまわりで亡くなる話をよく聞く。平均寿命から比べるとずっと早い死。私もこの体になって26年。43歳。いつか私にもその日が訪れるのだが、娘が成人するまではこうして見つめ続けていたい。
 娘が私に教えてくれたことがある。
 私はこれまで多くの人に支えられてきた。妻は何も持たないどころか、マイナスの方がずっと多い私と結婚する道を選んでくれた。私は、その恩に報いるために生きなければならないと思っていた。私なりに努力し、妻の負担が少しでも少なくなるように努めてきた。それが私にとっての究極の生き方なのだ、と感じていた。
 しかし、娘が生まれ、見返りを求めない無償の愛の存在を知った。もちろん、娘には健康で元気に育ってほしいと願ってはいるが、それは見返りではない。願いだ。私はただ無償の愛を娘に注いでいる。それができている。
 人は人のため、人の幸せのために生きることこそ、究極の生き方なのではないか。そう感じるようになった。もちろん、それは娘にだけではなく、万人にそう接することのできる方もいるだろうが、そこまでは私にはできない。だから今、私は娘にその力を注ぎ、私と同様に、娘に無償の愛を注いでいるであろう妻のために生きたい。
 無償の愛。娘は私にそれを教えてくれた。これからさらに年を重ね、また新たな生き方を見つけるかもしれないが、今は、娘への無償の愛こそ、今の私の進むべき道と思っている。

 

匿名希望

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