も く じ | |
ごあいさつ | 編集顧問:向坊 弘道 |
マイスプーン給付・入手報告 | 北海道:S・A |
「はがき通信」の仲間に | K |
希望を忘れずに | うらら |
『車椅子のリアル』をよろしく | 編集委員:石川ミカ |
15年めにして頸損第2の人生 | 編集委員:瀬出井弘美 |
カニは死んだのかに? | H・K |
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今年の夏に寄せて | S |
読書メモ(4) | 編集委員:藤川 景 |
ひとくちインフォメーション |
マイスプーン給付・入手報告
「はがき通信」の皆様、こんにちは。私は S @北海道です。いつもは読者ですが、今回は私の住む北海道上磯町の下した英断を皆様に知っていただきたく出てまいりました。
私は10年前にロシア春夏脳炎に罹患し、四肢・体幹マヒ、構音障害を持つ身となりました。上肢がほぼ全廃は変わりませんが、しかし10年の時間が流れるうち、リハビリや日常生活の中で、幸いなことに右足の機能を不完全ながら取り戻しました。今では、電動車イスのコントロール、パソコンのマウスコントロールほか、低い位置でのボタン操作ならばできるようになりました。電動車イスは1997〜1998年にかけて、ヤマハのJW-Ⅰを札幌にある北海道立心身障害者総合相談所で足操作式に改良してもらいました。そして今回、同所へ車イス更新のためのシーティングを受けに行きました。 [4月中旬] シーティングが終わったあと、そこで紹介されたのが「食事支援ロボット・マイスプーン」でした。マイスプーンのことは以前に、東京の麩澤孝さんが「はがき通信」で書いていらしたのを拝見した記憶がありましたので、いい機会だと思い、デモンストレーションをお願いしました。しかし、その値段が約 \400,000(!)と聞いて諦めかけましたが、とりあえず、無料お試し期間2週間を申し込んできました。 [4月下旬] 製造元のセコムさんと北海道の販売元パラマウントベッドさんが、新品のマイスプーンをわが家へご持参くださいました。じつに懇切丁寧な説明を受け、期待と不安の中、無料お試し期間2週間を開始。 [5月上旬] 右足を使いコントロールすべく、足下にセコムさんが用意してくださった台を置き、大きいタイプのジョイスティック(パシフィックサプライ社)のスイッチをセットしました。最初は非力な首でがんばるので格闘しているようなもので、疲れさえ感じたのですが、お試し期間が終わる頃には、どうしても欲しくなっていました。自分のペースで、自分の好きなものを介助者である夫や義母と談笑しながら食べられる! とうに諦め、忘れていたことでした。そして義母の手間を少しでも減らせる、同時に私自身が気楽になれる……。 さて、困ってしまったのは、その値段でした。手が出せません。そこで、ここはダメ元で、上磯町に相談してみようと思い立ちました。上磯町役場の福祉課へ、事の次第を説明し使用しているところを見に来てくださるよう、メールでお願いしました。するとさっそく係長と若いかたがいらして、マイスプーンの実物と私の実演を見、なぜこれが必要なのかを話す私の言葉を真剣に聞いてくださいました。納得しつつも「現在の“上磯町日常生活用具・自助具給付等規則”ではマイスプーンに該当するものがないのですよ。上の者とも相談してみますが、期待しないで、でも希望も捨てないで……しばらく時間をください」と気の毒そうに言い置いて、帰られました。 このことをセコムさんに知らせたところ「もう2週間お貸ししましょう」と思いがけず、嬉しいお申し出をいただきました。 [5月中旬] マイスプーンに慣れてきて、離れがたくなった私は、福祉課からの連絡を待てずに、直接、海老沢順三上磯町長に給付をお願いする手紙をしたため、マイスプーンの紹介ビデオとともに、近所に住む町職員のかたに託しました。それから、何日か経ったある日、偶然、お会いした海老沢町長は、まっすぐに私の目を見て「お手紙を頂戴しました。もう少し、待ってください」とおっしゃいました。そして……待ちました。 この時期に、セコムさんとパラマウントさん、北海道難病連のかたが上磯町役場へ立ち寄られたそうです。 [6月中旬] ついに、待ちに待った電話が来ました。最初に家まで来てくれた福祉課の係長さんからでした。「お待たせしましたが、マイスプーンの給付が決定しました」「ありがとうございました!!!」興奮を抑えられないまま、セコムさんにメールを書きました。 [7月下旬] 正式な書類が来ました。 これが、全国で初めて、マイスプーンを給付対象に入れた上磯町の英断物語です。上磯町は、この決定のために「上磯町日常生活用具・自助具給付等規則」を改正しました。その基本には、「国や北海道が認めていないものを上磯町が給付を認める場合の要件としては、その補助具が障害者に絶対必要なもので、なおかつ、障害者がそれを購入できない場合に、上磯町は助成を考える。」という考えがあります。規則を改正するまでには役場内でも、かなり検討を重ねたようでした。両上肢が利かず、マイスプーンを使える条件下にある対象者というと、どうしても限られてしまいます。不平等感なく、また他のものにも転用できるようにと熟慮された結果のようです。考え抜いてくれた上磯町を誇りに思う私です。 ここで私が忘れてはいけないことは、今、これを読んでいらっしゃる皆さんの中にも、マイスプーンを必要としながらも、給付対象品目に入っていないがために、“自分で食べる”喜びを奪われたままいるかたがたがいらっしゃるということです。上磯町に住む私だけが、喜んでいて良いはずはありません。 各市町村により財政事情はあることでしょう。けれど黙っていては声を届かせることはできません。その時に互いの真摯な思いがつながれば道は開けてくるものなのかもしれません。一地方自治体の小さな一歩が、どうか全国に広まっていきますように! ※マイスプーンの説明は麩澤孝さん主演のセコムのページをご覧ください。 http://www.secom.co.jp/myspoon/ 北海道:S・A E-mail: ponpoko@hotweb.or.jp
「はがき通信」の仲間に
2001年3月に仕事じょうの事故で頸髄損傷、肺挫傷、右椎骨動脈損傷のけがで人工呼吸器を使用中、最初は仙台の国立病院にいたのですが7月にいまの病院に移り現在に至ってます。
けがした当初はなんで俺がこうなるんだと悔やみました(仕事でいろんな病院や施設を見ているのでこんな身体になったらたいへんだなと思っていました)。 実際自分でこんな身体になるとは思いもしませんでした、こんな身体でどうやって生活していったらいいのかずいぶん悩みました。最初のころ何度か自分で呼吸を止めてみましたが苦しくてだめでした。そのたびにナースセンターからのスピーカーでちゃんと呼吸をしなさいって怒られた。苦しまずに死ねないものかと思いましたが無理でした。それから半年くらいは夢の世界に逃げ込んだみたいでどちらが現実なのか区別がつかなくなり記憶が薄れよくおぼえておりません。 日にちが経つにつれ病院のスタッフや身内、会社の社長や仲間、友達にずいぶん励まされました、会社には保険や役所の手続きなどで多大な迷惑をかけました(今でもかけてます)。せっかく生き延びられたのだから自分なりにできることをやり、できだけわがままを言わないでがんばっていこうと決めました。とりあえず病院にお願いしてパソコンができるようにしていただきリハビリの先生に習ってます。皆さんのアドバイス(雑談でも)お待ちしてます。 ( K ) E-mail: minatokumagai290@yahoo.co.jp
希望を忘れずに
つい、2ヶ月ほど前、わたしは絶望という名の悪魔に追いかけられながら、インターネットの世界をさまよっていました。そこで遭遇するじつに多種多様な情報をかきわけ、一喜一憂しつつ、ようやくたどり着いたのが、この「はがき通信」でした。さまざまな方が、さまざまな目的で、この貴重な情報源にアクセスされておられることでしょう。このたび、拙文を投稿したのは、2ヶ月前のわたしとおなじく、脊損からの回復の情報を求めて、絶望と闘いながらも希望を捨てずにインターネットの世界をさまよっておられる方に、わたしの拙い経験が、すこしでもお役に立てればとの思いからです。
わたしの妹は4月に外傷で腰髄(L1)を損傷しました。医師の所見は、両下肢の完全マヒでした。肛門反応・下肢の動きとも、完全に消失しておりました。それでも、この「はがき通信」のみなさまにくらべると、彼女の障害などごく軽度のものでしかありませんが、われわれ家族にとって、それはじつに重い宣告でした。手術後、自宅近くの病院を経て、専門のリハビリ施設をもつ某病院に入院しました。われわれは当初、マヒから回復するための徹底的なリハビリを期待しておりました。しかし残念なことに、それは、プッシュアップおよび障害のない上肢中心の訓練という、われわれの希望とかけはなれた内容でした。入院中、本人がかすかな脚の動きに狂喜しそれを訴えても、主治医からは徹底的に無視されました。手術直後から、一縷の望みを求めてカーテンの陰に隠れながら脚のマッサージを毎日欠かさなかった家族にとって、医師をはじめとする病院側の姿勢は、家族全員を絶望の淵に追い込むようなものでした。 そこで、この病院へ入院してからしばらくして、小樽の右近清先生にご意見を伺いました。この「はがき通信」で森照子さんのことを知っていたからです。すぐにメールをいただきました。中途退院を決断し、在宅でのリハビリに光明を求めました。退院直後の6月下旬に、小樽でリハビリ指導を受けました。その初日のことです。リハビリ開始わずか5分ほどで、なんと、それまで凝視してやっと確認できるほどのヒクツキしかできなかった脚がみごとに動いたのです。左右、どちらの脚も。それどころか、1時間後には冷蔵庫を背にして立つことまでできたのです。驚愕しました。その後、約1週間におよぶリハビリ指導で、妹は歩行器で足を踏み出したほか、松葉杖で立位をとりながら杖を前後左右に操作できるまでになりました。 現在、小樽から戻ってきて1ヶ月になりますが、1日6時間を自宅でのリハビリに費やす毎日です。その結果、腰周囲の筋肉の強化により、小樽でもみられた上肢のふらつきがほとんど解消され、上肢とともに下肢まで安定しました。排便・排尿も自力で可能になり、さらには、介助なしで歩行器をもちいて軽く歩くことすらできるようになったのです。おそらくこの目覚しい回復は、L損で上肢が動くため腰・下肢へのリハビリが効率的・効果的になったこと、リハビリを受けたのが急性期であったこと、これらの要因が相乗的な効果をもたらしたためであると思われます。 ちょうど、受傷後3ヶ月が経過しました。もしあのとき、中途退院の決断を下していなければ、妹はあのまま病院でほとんど何もせずに、急性期という一生を左右する貴重な時間を無為に過ごしたことでしょう。言葉にできないほどの恐ろしさに襲われます。これはわたし個人の、無知な素人としての意見ですが、現在、日本のリハビリ病院で主流を占める「残存機能へのリハビリ」なるものは、極論を言ってしまえば、受傷後いつでもできるのではないでしょうか。残っていて当たり前だからです。その一方で、急性期には、急性期だからこそ効果的なリハビリがあるように思われます。回復を目指すのか、それとも車イスでの生活を目指すのか、どちらに主眼を置くかでリハビリの内容が正反対になるということでしょうか。しかし、最初から車イスでの生活を目指す方は、ごくわずかだと思います。したがって、急性期を有効に過ごすためにも、外科・内科の治療が一段落したのであれば、できるだけ早い段階で、回復を目指したリハビリを集中しておこなったほうが、良い結果が得られるように思われます。残念なことですが、現在の日本では、医療制度上の欠陥もあって、その要求に応えてくれる病院はきわめてかぎられています。 たしかに、たかがひとりの身内の経験を、すべての脊損患者に一般化するようなことは、ひじょうに危険だと思います。私じしん、そのような意図はありませんし、妹の経験が1年に約5000件も発生する脊髄損傷のうちのたったひとつの事例にすぎないものであると、じゅうぶんに自覚しています。まして、ひとくちに脊損といっても、じつに多くの病態がありえるわけですから、誤解をあたえるような軽率な物言いは、厳に慎まなければなりません。しかし、たったひとつの事例にすぎないとはいえ、妹の経験もまた、歴然とした「事実」なのです。まぎれもなく「現実に起きたこと」なのです。もしかすると、これを「奇跡」ととらえる方がいらっしゃるかもしれません。しかし「奇跡」ではありません。あくまで「事実」なのです。さらにいえば、ごく一部の方をのぞいて、この「事実」を「事実」として真正面から受け止め、それを科学者として根源まで探求しようとする医療関係者が、この日本ではかぎられてしまうこともまた、残念ながら「事実」なのです。残りの多くの方は、妹の「事実」もまた「奇跡」とするでしょう。しかし、科学者たるもの、限定されたパラダイムでの「常識」に安住し、その「常識」にそぐわない「事実」を「奇跡」の名のもとで一蹴し、その思考を停止した瞬間に、その「科学者」はもはや科学者ではなくなります。もちろん、医者もその例外ではありません。 どんなことがあっても、希望と冷静な判断だけは捨てないでください。あきらめたら、その時点ですべてが終わります。希望を捨てずに、情報を取捨選択したうえで、冷静に判断しているかぎり、かならず道は開けるはずです。 妹の身体だけではなく、その心、さらには疲れきっていた家族全員の心のリハビリまでしていただいた、右近清先生、森照子さん、アシスタントの塚本美子さん、ヘルパーのみなさん、今回貴重なリハビリの時間をお譲りいただきました方のほか、今回小樽でのリハビリを支えてくださったすべてのみなさんに、この場をお借りしてお礼申し上げます。また、われわれに希望と勇気と貴重な情報を与えていただきました、この「はがき通信」のみなさんにも、お礼申し上げます。 どんなときにでも、道はかならずいくつか残されています。 (うらら)
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