はがき通信ホームページへもどる No.74 2002.3.25.
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言葉が人を殺す瞬間(とき)

 頭部外傷とC5骨折と髄膜炎の後遺症による、不全四肢麻痺のAさんに起こったある日の出来事。ある意味では、ほんの些細な出来事。でも、本人は『痛んで』しまったのです。
 まず、Aさんのこと。
 彼女は、高校3年生の時に体育の授業中に他人と接触して転倒、頭部外傷Ⅲ型とC5に骨折をした。当初は、左上下肢に軽いシビレと麻痺が出現しただけであった。しかし、その後に激しい頭痛と頸部の痛み、左上肢の麻痺の進行があり、頸部にかかる負担を除くために『肩』にメスを入れた。しかし、予後は思わしくなく、1992年に硬膜外からチューブを入れ麻酔薬を持続して注入するという治療を1ヶ月行った。チューブを抜去直前に40℃を越す熱発をおこし、四肢麻痺が出現した。幸いにして約1ヶ月後には、座位が取れるところまで回復をした。さらに1年弱の入院期間を経て自宅に戻り、事務職として再就職を果たした。
 それから10年、頸部の慢性疼痛等、一般的な頸損の人と同じ悩みを持ちながらも車椅子とクラッチの併用で仕事を続けている。ただ一つ違うとすれば、立ち上がりと歩行が可能であるということ。
 Aさんに起こった出来事。(きっかけ)
 現在、外来通院で通っている病院で起きたトラブル。関節の可動域を保つために月2回のペースでPTを受けているが、元々の頸部の痛みと手術で削った鎖骨周辺の痛みがあるために「まず」・麻酔科でSGBと局注を受けてから、薬が効いているうちにPTを受けるという手順で進めている。
 最近、職場での疲れのためか熱発で、体調があまり良くなかったため、投薬の希望を『担当医』に伝えていたところに通りかかった『偉い・せんせい』が診察室に乱入してきました。
 「今更、話していても無駄だから、早く次の患者を呼べ」
 「何年やっていても良くならないんだから(治らない)意味ない」
 「今更、何をいいがかりをつけているんだよ」
 「どうせ、※※科の分野だよ」
 「……」、「……」、「……」、「……」
 とても、活字にできない内容です。言いたいだけ言うと『担当医』とAさんの前を去っていきました。
 Aさんも負けじと「意味がないとあなたが言っているその治療方法で様子を見ましょうと言って馴れ合いで診察しているのは、そっちでしょう」と言い返していました。
 目の前の『担当医』は『偉い・せんせい』が去った後で「あなたにはペインクリニックでの治療は必要だし、受診をやめないでほしい」と言っていました。Aさんから目の前の『担当医』への答えは「意味がないとまで言われて受診する気はない」「通院に拘束される時間をもっと違った意味のあることに使いたい」    
 以上が起こった出来事です。
 念のためにハッキリとさせておくと。今回の問題は、言いあいになったことではなくて、イキナリ背後から入室してきて言いたいことを怒鳴っていった、失礼な『偉いせんせい』のことに怒っているのでもない。まぁ、腹は立っているから言い返したのは事実だろうと思うけど。。。
 今回Aさんにとって問題になったことは。病院の外来で起こったトラブル。これがキッカケとなり、約10年前の出来事を思い出してしまったことが辛いのです。
 約10年前に硬膜外ブロックから感染を起こして動けなくなった時(寝たきりだった時)に40℃以上の熱発が続き、酸素マスクをしている患者に対して、DRから正当性のないことを頭ごなしに怒鳴られるということがありました。
 「病院食を完食しないから、歩けない」
 「働きたくないから、歩けないフリをしている」
 「病院を困らせて、何が目的だ」
 「あなたの親なんか、怖くない」
 「……」、「……」、「……」、「……」
 こんな毎日が続きました。その結果、座位がとれるようになって約半年後、物がつかめるようになった時に「身体は動かない」・「DRに怒られる」という2つのストレスから、睡眠薬を一山飲んで果物ナイフで腕を切りつけました。幸いにして、頸損の握力ではリストカットは無理でした。ましてや、腕が上らないので「首にも胸にも」ナイフは届かず、バランスを崩して倒れこんだところを看護婦さんに取り押さえられました。
 「死のうとしていた時の辛かった気持ち」と「辛い思いをした状況」が思い出されると、目の前に「死」の誘惑が出てきます。自分は生きていても良いのだろうかと。
 「身体の痛みを耐えていられる」のは。「自分の身体を愛しいと思う気持ち」と「自分の身体だから逃げられない」という気力だけで、仕事を続け・日常を過ごして行くのです。過去の「トラウマ」を忘れようとして、考えないようにして、そうまでして「生きなくては」と思う気力を断ち切るような出来事にはモロイのです。今以上にさらにキツイ思いをしてまで「生きられるほど、心は強い人間ではありません」。
 何の思慮もない人間が放った一言が『言葉が人を殺す瞬間(とき)』があるのです。
 先が見えない一日一日の綱渡りの生活を続けているから、やれる時にやりたいことをしたい。わがままなのはわかっているけど、今しかできない現在の生活を守りたい。もう、のんびりしている時間がない。確実に気力、体力は下り坂になっている事実は否めない。
 仕事場では「障害者だから」と軽く(低い位置に)見られる。「障害を持っている仲間たちから」は『何だ、立てるのか』と引かれてしまう。残された機能が多いことは、自分の身体に感謝の気持ちが絶えない。しかし、中途半端な自分が次に進んでも良い道が見つからないから。
 とっても、若い友達が9月に亡くなった。呼吸器を使っている関係で、ずーっと病院暮らしがメインになっていたようだけど『私は今とても幸せです』と最後に彼女が書いていた文章がとても印象に残っていて、涙が止まりませんでした。21歳で言える言葉でしょうか? 1993年に一緒に入院をしていた友達が、やはり21歳で亡くなった時にも同じような言葉を残して逝った。辛いですね。
 ≪幸せってなんだろう≫と考えることよりも、≪生きるってなんだろう≫と考える。より良く自分らしく生きなければ、生きていく価値が見出せない。『良く』って何? どうすればいいのかな。
 やりたいことも叶わず日々の生活に追われて、ただ時間を過ごしていることに生きている価値ってあるのかな。『ペンタジン錠』を飲んだ後の副作用に出てくる焦燥感を抱えながら、こんなことを考える。……甘いんだよって、みんなの声が聞こえてきそうです。ゴタゴタ考えていないで、日々生きていることが答えだとも言うらしい。でも、それでは納得できないのだ。
 自分の中にある理想の日々は、普通に仕事をして、大好きな運動をする。そして、ちょっとだけお勉強を続ける。こんな生活を夢見て悪いのかな。どうにもならないママ、毎日が過ぎていく。何だよこんなのあり? 今の自分にとっての基本は、曲りなりにも仕事に行って「給料をもらう」ことができなければならない。でも、それだけかい? 本当に。一日が終わった後は、口もきけないほどにバテてしまって動けない。こんな毎日を過ごしてどうなるの? 時間が過ぎていくだけ。目的も、手段もあったものじゃない。
 よく言うじゃない「何か良いことない?」って。これは少しヘンだと思う。「良いこと」とは自分が感じること。自分が見つけて作り出すものだと思うのね。落ちていたりしたら≪とっくに誰かが拾っている≫と思う。ただ時々、「良いこと」って何だかわからなくなってしまう。……ただそれだけのこと。
 そして、この話の主人公Aさんとは、皆様がお気づきのとおり筆者の私のことです。
 東京都:KS tokyo24ku.sato@dream.comメール
 


 本の中で新しく生まれ変わった建二 

 「通信」の皆様お元気ですか? 寒かった冬も終わり、やっと吹く風にも春を感じるようになりました。おかげさまで私も主人も大きな風邪も引かず、元気で過ごしております。皆元気で過ごせることは、ありがたいことと思います。
 昨年5月から今年2月にかけて、私はたいへん忙しい日々を過ごしました。昨年5月10日午前11時頃、突然一本の電話が入りました。新聞などで見かける出版社・文芸社からでした。もう8年も前に自費出版しました『あの子の笑顔は永遠に』の本を東京世田谷の図書館でスタッフの方が見つけ、「たいへん社会性のある本なので、ぜひ全国出版してみてはどうでしょうか」そして、本を1冊送ってほしいとの電話でした。本当にある日突然のことでびっくりしてしまった私でした。
 家族といろいろ検討もしました。建二のような事故が2度と起きてはならない、忘れてはならない、もっと多くの人に知ってほしいとの思いで出版することに決意しました。
 以前の本の内容を大きく編集し、本の題名、まえがきなど全てを変え、新しく建二の本は生まれ変わることになりました。本の中の写真もほとんど差し替えになりました。
  • 7月3日、文芸社より1通の手紙が届く。審査が通り、全国出版ということになる。
  • 7月9日、文芸社より電話が入り、担当の方と話す。以前の本380ページを大きくどのように編集したらよいかということに重点が置かれ、専門家の人たちによってヒューマンドキュメントとしてチームが組まれるとのこと。スポーツ事故として大きな裁判にもなり、弁護士さんにも相談し、高裁での和解調書第4項にふれないように気をつけること。
  • 7月26日、文芸社からの書類を弁護士さんに送る。いろいろと裁判になった事故ということで大変でした。
  • 7月30日、いよいよ文芸社により出版に関する書類が届き、全国出版に向けて準備が進む。何かドキドキする私。どうか素晴らしい本に建二が生まれ変わることができるようにと、祈るような気持ち。出版は来年2月後半の予定。
  • 8月7日、文芸社の編集担当の方から電話が入り、いよいよ本の編集が始まるとのこと。10月1日に池袋でお会いし打ち合わせをする。
  • 10月1日、今日は初めて文芸社編集部の方と池袋でお会いする。『あの子の笑顔は永遠に』の本を見ながらカットする内容、新たに入れる写真などの指定をしたり打ち合わせをする。少々緊張気味の私でした。10月中にまえがき・あとがきを書いて下さいと宿題が出されてしまった。
  • 10月31日、宿題のまえがき・あとがきを文芸社に送る。やっとひと安心する私。
  • 11月6日、文芸社より第1校正の原稿が届く。ワープロで打たれた字も大きく読みやすい原稿で、すでに編集されている原稿でした。事故の時のこと、建二との会話など、建二の声が聞こえるような気がして、建二は永遠にこの本の中で生き続けることができるような気がした。
  • 11月19日、文芸社との第2回打ち合わせを池袋で行う(11月19日、この日は何と8年前に呼吸器のトラブルと思われる事故で脳死状態になった日でもあり、何か不思議な気持ちになる)。今日は言葉の使い方に注意する点、文芸社顧問弁護士により和解の調書第4項と照らし合わせ、文章を検討するということ。第2校正は12月中頃になるとのこと。
  • 12月19日、文芸社より本の口絵になる写真の見本が届く。第2校正もあと少しで終わる。本の題名も4種類の中から選び、『わが家の太陽、建ちゃん』と決まる。オレンジ色のあたたかみのある表紙に建二の笑顔が輝いている素敵な表紙で、きっと建二も満足していることと思う。この事故のことをもっと多くの人たちに知ってほしいという建二の願いから、この本ができたのではないかと私は思っている。
  • 12月20日、第2回校正が終わりひと息つく。
  • 12月29日、文芸社より第3校正(最終の校正)の原稿が届く。だんだん本の形になってきている。暮れの忙しい中で頑張る。とうとう年賀状は1枚も書けずに終わる。お正月になってからゆっくり書くことにしようと決める。
  • 1月7日、今日は朝から残っている校正を一日かけて頑張る。明日にはでき上がる予定。指定された1月9日には余裕がある。ひと安心する。
  • 1月8日、文芸社より12月19日に決めた表紙絵が送られて来る。表題にふさわしい太陽の光のようなオレンジ色がとてもあたたかさを感じさせるので素敵、素敵と喜ぶ私。
  • 1月10日、文芸社より本の中に入る写真の見本が届く。建二が赤ちゃんの時から初めて全国大会の試合に出た日の懐かしく思い出深い数々の写真は、新しい本の中で息づいているように見えた。いよいよ第3校正も終わり、後は本のできる日を待つ私です。
  • 2月1日、早朝ひとつの小包が届く。文芸社からの、何と今でき上がったばかりの20冊のピカピカの本『わが家の太陽、建ちゃん』でした。こんなに早く、こんなに立派な本にでき上がったことに深く感動し、うれしさいっぱいの私。家族ともども感激した一日でした。ページ数は324ページ、どうしてもこのくらいのページになるそうです。
  全国出版の日は、3月15日に店頭に並ぶそうです。
 最後に文芸社スタッフの皆様に心からお礼を申し上げるとともに、感謝の気持ちでいっぱいです。皆様のご努力により建二はまた生まれ変わることができました。そして、建二は新しいピカピカの本の中で生き続けることができるようになりました。ありがとうございました。
 「通信」の皆様、これからも建二を見守っていて下さいますようにお願い申し上げます。どうぞ季節の変わり目にてお身体を大切にお過ごし下さいますように。 
 埼玉県:HS


ギブ&テイク宣言

45歳、C4、頸損歴10年め、施設5年め、夜間と作業時人工呼吸器使用、電動車椅子

 前号において、初投稿「人工呼吸器とさよならする方法を教えてください」を載せていただいたT.Hです。頸損10年めにしてようやく掲載まで漕ぎつけたという感慨と、年頭の冒頭掲載は「2/22マイクロソフトのX・Box発売」並みの扱いと一人勝手に感激し、狂喜乱舞(可能ならば)の心持ちでありました。
 さて反応はいかに、と待つこと1ヶ月。結果は2件でした。この2件だけでも調査〜発展性をもつ貴重な御助言でありましたが、多数の実施例を期待していたので少々落胆。しかし、いただいた情報から調べていった先に、松井先生の「10年近くの間に長期人工呼吸依存者でこれまで継続的な関わりをもったのは25例」(2000年1月発行のpcc61)との記述がありました。さらにその中から情報発信までできる人となると、これはもう希少という他ありません。従って「方法を教えて〜多数の情報の期待」はかなり無理があったのでは。
 翻ってこうして投稿できる人工呼吸器使用者の私自身が希少なのでは。こんな認識で改めて前回の私の原稿を見てみると、発想は情報の「テイク」期待ばかりでした。ここまでできるようになったのなら、その時の心技体(気力・能力・体力)に応じて、私自身が「ギブ」すべきなのでは。考えてみればこの「はがき通信」を運営している方々は「ギブ&ギブ」の人です。そこまではまだまだとしても一歩でも近づきたい。
 ということで突然ですが、今後可能な限り「ギブ」することを宣言いたします。いろいろな疑問・質問を歓迎します。可能な限りお答えする積りです。一方「テイク」の続行もお許しいただくとして:呼吸器離脱経験者の方、離脱途上の方、あるいは医療関係の方、呼吸リハビリ方法等呼吸器離脱に関する個別実施例の知識・情報を改めてお願いいたします。
新潟県:THth36th@hotmail.comメール
 

新車に反省

頸損歴13年、C3〜5不全、62歳

 12年間チョコチョコ修理しながら乗り続けた、生まれて初めてのマイ車椅子(自走式)。ギシギシと軋みが出だしたので慌てて引退させることにして、2代目を作りました。業者は、闘病当時の病院の処方指示で初代車椅子を作った業者。処方箋は、現在電動車椅子でリハ通院している病院から出してもらったが、出入りの業者でなかったこともあって、接触は専ら小生と業者のみ。採寸データは初代のものを業者が保管しているということもあって、そのまま使うことにした。
 変更箇所は、介助の時「握り手が低く腰が痛い」ということで、この背もたれ部分を2cm高くしたことくらいでした。期待を込めて新車に乗ったのは良かったが、時間が経つにつれ、背中→肩→首さらに頭まで痛くなり、散々の乗り心地。背もたれを2cm高くしたことも原因とは思うが、全体的に微妙に身体を動き難くする。
 12年も乗り続け身体に馴染んだ初代に比べると、やはり慣れが大事なのかとなるべく新車に乗ることにしている。最大の反省は、病院・業者・使用者の3者が使用者の機能や体躯を十分把握し、微調整を重ねながら完成させることが必要である。それにしても、今更ながら古女房の良さが身に沁みるこの頃である。  
 話しは変わるが、小生のPCメール、送信しても相手に受信されない時がある。送信済みアイテムにはちゃんと残っているし、サーバーからも何も言ってこない(以前、何回か入ったことがあるが英文で何のことやら……)。俺のメールはいったいどこを彷徨っているのか?


 散蓄財遺産考・玉葱の不朽愚学 

 玉葱に老いは無いと公言して数年。毒妻者にオイ・おい、おーいと呼ばれているうちに、老いを予感させるかのような<老>の記事や報道が気になってきた。
 記憶は定かでないが新聞記事で、老後の安心には幾らのお金が必要と思うかというアンケートの結果が掲載されていた。預貯金が一千万円を越えると、安心できる預貯金額の数字が急カーブで上昇するという。つまり、貯めれば貯めるほど、安心料を積み増ししなければならないということのようだ。それが保障と言うものの心理かも知れない。
 さて、大半の障害者群は、老後の安心にと蓄財に励むことは不要なのかも知れない。老いの無い玉葱は別だが、頸損者の老後に思いを馳せる。ある会合で84歳の頸損者に出会った。倅が還暦を過ぎたら、体力が落ちてシャンとしないので困るとぼやいておられた。その人にとって生活費のことより、介護者の確保がより重要課題であろうか?
 年金暮らしの余りで蓄財をするには、涙ぐましい努力が必要であろう現実がある。日々の暮らしを切り詰めて小さく細く生き長らえ、長寿を全うすることも生き方として意義のあることだと思う。また、我慢も忍従の人生もあろう。個々人の価値観は多様だから。
 ところで、障害者にも介護保険の適用が始まろうとしている。介護料の一部負担で十分となれば文句は少なかろうが、一定の枠を超えると有料でかなりの負担増を強いられる場合、果たしてどんな状況になるのだろう。精神年齢じゃない時間に組み込まれた老人世代に、編入を強いられた障害者の場合に蓄財が有れば……と、悔しがらないようにしたいものだ。
 気楽に散財や蓄財を考える愚鈍な玉葱の浅知恵では、思考もウロウロと空転するばかりである。まぁ、無難にジャンボ宝くじに望みを賭けようと大枚をはたいて夢想に耽るお決まりのコースです。
 ともあれ、老いを深刻に捉えなくても良い障害者の群像に、老婆心ならぬ老爺心を先行させる玉葱の愚考に、側で毒妻者の楽居が「アホじゃねー」と苦笑。
広島県:玉葱おやじecosakohata@do2.enjoy.ne.jpメール




 35℃の快適生活

 2月11日から24日まで、フィリピンのルセナに滞在した。35℃の快適生活であった。
 交通機関:
 不便である。障害者のメリットは、大型船が無料であること。各地の港からは、さまざまな方面に船が就航しているから、障害者は島から島に無料で旅行できる。一円もかけないケチケチ旅行に誰か挑戦を!(ただし、階段介助には50p〜100pのチップが必要)
 公式1:
 トライシクル…手動車イスを折りたたんで、乗車可能。
 ジプニー…電動車イスで可能。幅90cm、天井30cm。重くても昇降時には通行人など皆が手伝ってくれる。
 長距離バス…最前席に車イスマーク。昇降の介助は受けられる。問題ない。
 公式2:
 小型高速船は、ドアも高さがない。前方ドアでは、電動車イスのコントローラーの黒い棒がドアの上部にひっかかった。
 大型カーフェリーは、車デッキから一直線に30段(幅70cm)を上る。電動車イスの場合、大型カーフェリーのほうが良い。
日本と同じである。沖縄や四国の島巡りと同じ状況にある。
食事:
港に近いので、新鮮な魚貝が安い。衛生管理も向上した。Taho(豆腐、タピオカ、黒ミツ…日本でも作れる)が美味しかった。
35℃で真っ黒に日焼けし、フィリピン人のように色黒な肌になってしまった。神様は、地球上にこんなにも差をつけてしまうのだから、平等とは言えない。ルセナの日本人障害者村を見ても、冬の間だけでもここに住むと楽である。進行性筋萎縮症患者がつぎつぎと来る。私と入れ違いに2人が来るので、運転手は私を降ろして新客を乗せて、ルセナに帰った。
 いろいろな人生があると感じた。地球上、どこでも生きていける。積極的な人生のほうがおもしろい。老人ホームを逃げ出し、自由を求める人もいた。自由は空気のようにただで手に入るものではなく、必死で獲得するものと感じた。寝たきりの障害者でも、日本の年金だけでフィリピンで最高級の生活していた。
 フィリピンも長いあいだ行きたかった所で、多くのボランティアに声をかけたが、何かあっても障害者の責任をとれないと感じるボランティアは私の希望に応じなかった。結局は一人で行く以外になかった。2回目の単身旅行であった。親日的で、皆親切であった。自分が日本で親切にされたから、恩返しをしてくれた様子。人は鏡のように照らし合っている。一人一人が全人格的に向上すること。幸福は多くの収入を確保することではない。日本で働いていた地域や生活、日本人から受けた親切を語る時、彼らの顔には満面の笑みがうかび、本当に楽しそうな口調になり、なつかしい思い出を得々と語る。
 そのおかげで、私たちも親切を各地で受けた。お互いに相手を尊敬し、大切にすることから平和が生まれる。日本とフィリピンは海底でつながった島国。共通点も多い。太平洋地層が深く食い込んでいて、地震も火山噴火も多く、海に沈んでしまう可能性もある。結婚する者も多い。血が混じってさらに優秀な国民が生まれていく。
 「日本人のおかげで、私たちフィリピンも豊かになってきた」と。通貨ペソは、強くなった。銀行の利子は10%なのだから、驚く。これからも相手を尊敬し、私たちは仲良く生きていくことである。
 自然の豊かなフィリピンは、この自然を守ることこそ、豊かさの維持につながる。金を多く得てもこの豊かな自然を失ったら、貧しい国になる。金持ちになることが、豊かさではない。

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