![]() ![]() 膀胱瘻からの尿漏れの件、解決しました。いろいろとご心配ありがとうございました。 10月20日、膀胱鏡で検査してみたところ、カテーテルの先が膀胱壁に埋まった状態になっていて、尿の通路の穴をふさいでいました。瘻のところもいつもの固定角度が悪かったらしく穴も大きくなり、周りに瘍もできていました。カテーテルが壁にあたらない位置を先生が探してくださり、固定するとぴたりと尿漏れ解消です。穴も小さくなり、傷も治りました。 このたび診ていただいた先生は、入院中お世話になった広大の先生で、養護施設、脊損の患者さんを診察されていてとても熱心な方です。 以前より服用しているポラキス。寒いところでは膀胱も緊張し、尿漏れの一つになるのであらかじめ、少し多めに飲んでおくのもいいとのこと。副作用として口の渇きがあります。 尿漏れ解消でお腹の緊張も楽になり、排便もスムーズになって「ばんざい!」です。やっと安心して外出ができるようになりました。12月にはいると、忘年会ラッシュ。おもいっきり楽しんじゃおっと!(*^o^*) 2000.11.27 広島県 : ハローマリ hello-mari@enjoy.ne.jp
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静岡県 :松井編集顧問 ![]() ![]()
こんにちは。ガベちゃんです。11月9日に愛媛県の丹原高校で創立100周年記念の講演をしてきました。今年は体調が悪くて、10ヶ月ぶりの飛行機でしたが、行きは比較的楽に座れました。 前日に、松山空港に着きそこからリフトタクシーで1時間ほど東に走って、丹原町の市民文化会館に行き、リハーサルをやりました。サイエンスショー的なこともやる予定だったので、手伝ってくれる高校生たちと打ち合わせなければならなかったからです。市民会館はバリアフリーで、舞台も演劇ができる広さでした。客席は、約1000席くらいあるそうです。その日は私の実家に近い湯ノ浦ハイツのホテルを高校が手配してくれていました。そこに泊まりました。 翌日は本番です。朝刊に大きく創立記念講演のことが書かれており、私はとてもびっくりしました。その記事を読んで少し緊張しました。1時すぎまでに丹原市民文化会館に行きました。かなり緊張していて、胃が痛くなりそうでした。2時から講演が始まりました。校長先生からの紹介のあと、舞台中央に車イスを押していってもらいました。舞台中央に出たとたん、気持ちがすーっと落ち着いてきて、何のためらいもなく話すことができました。テーマは「つねに、チャレンジドで生きていこう」でした。1階席は丹原高校の生徒さん、2階席は保護者や丹原町の人々でした。私は1時間15分ぐらいの講演を予定していたのですが、1時間40分もしゃべってしまいました。どうも話す口調がゆっくりだったようです。 公演後、すぐサイエンスショーにとりかかりました。実験は3つ用意していました。実験のテーマは「空気のイタズラ」でした。しかし、メインの実験用としてもっていっていた直径が1.5㍍までに膨らむゴム風船が裏方で空気を入れていたときに破れるというハプニングがあり、この実験ができませんでした。たいへん簡単でしかも面白い実験だったのでとても残念でした。あと2つの実験は好評のうちに終わりました。 予定の行事が終わって、久しぶりに両親のお墓参りをしました。兄弟も集まってくれて、最近のいろんな話ができました。でもなかなか体調がすぐれなかったこともあり、回復がおそいようです。でも、こうやって大きい行事に穴を開けることもなく、良い出会いをさせていただいて、ありがたいと思っています。 兵庫県 : ガベちゃん gabe@po.aianet.ne.jp
![]() ![]() ![]() 旧作で、26年前の受傷の日を書いたものなど送ります。これでしっかり原稿料をいただいていますから転んでもただでは起きないというやつです。 ●昭和63年「ふるさと紀行」誌冬の号 特集〈私の中のドラマ〉 『14回めの記念日』 忘れようにも忘れられぬ年、というものが誰にでもあるのだろう。昭和49年といえば石油ショックの翌年である。その石油ショックも地方の一大学生にはほとんど影響らしい影響も与えず薄らいでいった。何の変哲もなく終わるはずの昭和49年という年が、ぼくには1868年の明治維新よりも昭和20年の敗戦よりももっと重要な転回点としての意味を持つことになった。 その年の10月といえば、中日が巨人の10連覇を阻んだころである。ぼくは夏休み、久重でのゼミの合宿を終えたあと一人で南九州をぶらりと半周して、女友達との決別に気持ちの整理をつけてきた。休みあけの試験でもほとんど単位をとり、土曜の午後になると父の亡くなった実家へ帰り、耕耘機を運転していた。 あとは11月の九州地区大学体操の新人戦に向けて何とかチーム状態をとりまとめればいいというところだった。同好会に毛の生えたようなクラブだったので、出場できるかどうかぎりぎりのところだった。ぼくは3年になってたらい回しのキャプテンをまかされていた。 部員たちは何かと言えば親睦のコンパを開きたがり、夜の街を飲んだり吐いたりして彷徨した。ぼくのアパートはたまり場になっていて、四人以上集まればすぐに麻雀が始まった。深夜お腹が空いてくると、下級生を自動販売機に走らせカップヌードルをすすった。すすっている顔を見合わせてしまい、一時間以上も苦し気な笑いの止まらぬこともあった。どうひいき目にみても、ぐうたらな暮らしだった。 佐賀市の空はぼう漠として広い。キャンパスのメタセコイヤもどこまで丈を伸ばせばよいものやら途方に暮れているようだった。お堀端をめぐる楠の大樹がふかみどりを増していた。 その月の31日といえば、世間で何が起こっていたのか思い出すこともできないほどありふれた一日であった。ぼくはいつものように7時半に起きインスタントコーヒーを飲み、五千円で買った中古の自転車に乗って学生食堂に向かった。八十円の朝定食を食べ終わるか終わらないうちにもよおしてくるので、学部のキレイなトイレに駆けこんで、せいせいとして出てくる。実に快食快便に恵まれていた。 午前中二時限の講義を聴き終わると、大学界隈の行きつけの学生食堂で150円のBランチを食べる。魚のフライとコロッケとゆで卵とサラダとキャベツのみじん切りの盛り合わせに、みそ汁とどんぶり飯がついて、今から思えば信じられぬようなボリウムだった。店の名前が「梁山泊」というところからも親父の心意気が察せられるというものだ。 午後も一時限の講義があったが出欠がやかましくないのでサボることにして街へ出た。パチンコ屋で小一時間ねばったがたいした成果もなく隣りあった本屋へしけこんだ。もっともそのパチンコ屋には千円だけで一週間暮らさせてもらったこともあった。立ち読みに疲れると、また自転車で街をさまよった。佐賀市には「クリーク」と呼ばれる水路が張りめぐらされていて、どこまで行っても水の匂いから逃れられない。ぼくは博物館前の老楠の蔭のベンチにへたりこみ「このままで済むわけはない」と思ったりした。あふれ出てくる若さと野心と情欲のやり場に悶えていた。 アパートに帰りつくと、その想いを日記とも小説ともつかぬノートにひとしきり書き殴り、パタンとひっくり返って自慰をした。しばらくぼんやりした後、大学の体育館へ向かった。十名足らずの部員で型通り練習をし、その日はみんな家庭教師のバイトの曜日と決めてあったので、早めに切り上げて後片づけを始めた。六時半を回っていた。 ぼくはいつもはそんなことしないのに、魔が差したようにひとり居残り特訓をしようと思いたった。新人戦のために前方宙返り一回転半という技をマスターしたかったのだ。マットの上にさらにウレタンマットを敷き、ロイター板で弾みをつけて跳び始めた。一回、二回、三回と繰り返すうちにだんだん感じが掴めてきた。そうして四回め、ポーンと踏み切った後の着手の感覚がなかった。痛くもかゆくもない。 変な格好で天井のライトが見えてきた。ほどなくしてぼくは胸から下の感覚がないことに気づき、愕然とするというよりも「ああ、これでぼくの青春は終わった」などと学園ドラマのような陳腐な台詞を思い浮かべていたりしたのだ。ほんとうはそこから人生の真実というものが始まることとなるのに。 いつまでも起きあがらないぼくを、帰りかけていた部員たちがざわざわと取り巻いてきた。その頃には呼吸が苦しくなり意識も混濁してきた。「こうやって死ぬのかな」などと割かたあっけらかんとしていた。 遠くで救急車のサイレンが聴こえてきた。 佐賀県 :中島虎彦 nakaji@po.saganet.ne.jp
![]() ![]() ![]() で、天災は忘れたころに……(?)である。受傷後10年めを迎えた今年、ぼくは4年ぶり3回めの入院をしていた。3回とも膀胱結石による入院。なぜか4年ごとにできる石は、今年もまたオリンピックイヤーにできた(メデタイ!!)。というわけで、この石は“シドニー”と命名した(もちろん、次はアテネね)。シドニー摘出には、前回同様10日間ほどの入院を要した。と、ここで担当になった看護婦さん、どう見ても若い。茶髪にピアス、胸の名札に貼られたシールのキティーちゃんが笑ってる…。間違いない!年下だ!!ついにきたかっ!!!衝撃の場面、赤面し、動揺する……はずだった!?が、実際はチョイ違う。いたって自然。ていうか、あのときのカワイイ悩みをすっかり忘れていた。 排便の介助を受けながらテレビのバラエティーを見てヘラヘラ笑っていた。看護婦さんの「ちょっと、出が少ないかも(失礼-_-;)」っていう言葉にも、「じゃあ、(浣腸)もう1本いっとく?」とか軽口までたたく始末。看護助士さんに入浴させてもらってても、下ネタのオンパレード(ぼくがはじめたわけじゃないよ、マジで)。恥じらいの「は」の字もありゃしない。うーん、案ずるより生むが易し。なーんて、のん気なことでは済まされない。 それはそれで、またショックなんだな〜、コレが。というより、そっちのほうがショック!(津波級)。10年という月日は人間をこうも変えてしまうのか。あのときの初心なぼくは一体いずこへ?? OK、OK。まー、これを「成長」と前向きに考えようではないか。障害は自分の個性。生きていく上で必要不可欠な営みに変な照れなんて必要ないっしょ。障害を負って、そのことを悟り大きく成長できた。 って、多少負け惜しみモードに入っていたぼくに親友の一言。「オヤジになっただけだろ」だって。……ありえないともいいきれないな。。。 愛知県 :YT gogou@pk.highway.ne.jp
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