は が き 通 信 | No.60 - Page. 1 . 2 . 3 . 4 . 5 |
POST CARD CORRESPONDENCE | 1999. 11. 25. |
もどる 主人もけがをして12年目に入りました。入院生活5年施設生活も7年です。その間入院数回、通院数知れず、救急車2回、さすがに2回目の時は私も主人も覚悟を決めましたが、無事生還・・・肺に穴があく「自然気胞胸」でした。穴がふさがらなければずっと入院です。 「施設に戻りたい」それが口ぐせでした。施設での生活も良いことばかりではありませんが、病院よりましだと言っていました。施設側とのトラブルも数回ありましたが、何とかクリヤして現在に至っています。 介護保険が施行されると施設運営も大変になるそうです。そのしわよせが入居者にこないことを祈ります。
山形県 : M・妻M
連日、介護に明け暮れる毎日で、忙しさにかまけ、ペンをとるのが今になってしまいました。お詫び申し上げます。 障害にもめげずにがんばっていらっしゃる皆様の姿に、目頭があつくなる思いで勇気づけられております。主人も平成元年11月に足を滑らせころんだばかりに、「頚髄損傷による体幹機能障害(座位不能)」と言う、身障1級の名前をいただいてしまいました。それ以来、長い長い戦いがつづいております。 でも、何とか電動車イスやありとあらゆる介護用品を使って、ハワイ、日本各地と旅行しております。目下、66才になる主人の人生に、幸多かれと祈る毎日でございます。 遅ればせながら、購読料を同封させていただきました。これからも、「はがき通信」の御活躍をお祈り申し上げます。
東京都世田谷区 : YM妻
驚いた私は咄嗟に、どこを怪我したのか?首の方は大丈夫ですか、と無我夢中で問い掛けていました。すると外傷はすり傷だけという事でした。すり傷だけ・・・ その答えに少し安心し、気持ちも落ち着きましたが、どの程度の傷なのか、面会して見なければ分かりません。 川越の三井病院、初めての病院です。場所は、ホームラン劇場という映画館のすぐ裏という事で、急ぎ病院へと向かいました。長女の運転する車に乗り、私は不安な気持ちで一杯でした。 AM8:30病院へ着き、しばらく待ちました。今、検査中との事でした。1時間後、ストレッチャーに乗せられた直樹が運ばれて来ました。その姿は、右足には、ギブス包帯をしていました。病院へ運ばれた時は、意識不明だったそうです。 又、驚いた事に足首骨折だけではなく、右胸の助骨3本も骨折していました。胸には太いベルトが巻かれ、呼吸をしても、くしゃみをしても痛いと言います。背中には、追突のすさまじさを表すように、黒い大きなあざが2ヶ所もあり、身体中が痛みで身動き出来ない状態です。 又、骨折による熱も8度5分程出て、熱い熱いと言うので、氷枕をしたり、大変でした。 それからもう一つ肝臓にもダメージを受けたようで、数値が高くなっているとも言われ、内科的な治療も必要という事でした。 直樹は生まれて初めて、入院、点滴、ギブスなどを経験します。血管が細く、針が入りにくいと言われて痛い思いをしたようです。病室は5階506号室と決まり、大さわぎの内に一日が終わりました。今日から3ヶ月の入院生活が始まります。 思いもよらない事故と怪我の痛みに大きなショックを受けた直樹でした。やっと気持ちも落ち着き、どのような事故だったのか、どうにか加害者の人から話を聞く事が出来ました。 直樹の乗ったオートバイを4輪駆動の車が追い越そうとして、ぶつかったという事でした。バイクが右折のために速度を落として曲がろうとしたのと、追い越そうとしたのが同時だったそうです。 加害者は追い越しをしようとした私が全面的に悪い、と誠意を持って謝ってくださいました。 9月22日、事故の日から12日目、どうにか気持ちも落ち着いて来ました。 今日は、右足首の骨折部分を手術しました。2本のビスと鉄板をささえる小さな4本のビスで、2本の骨折部分を支えて固定するという手術でした。 術後、4週間で歩行の練習、リハビリに入るそうです。手術は約1時間。生まれて初めての手術に大変緊張しているようでした。午後2時から手術が始まり、予定時間内で終了しました。 手術は完璧に出来たという先生の説明があり、一安心しました。直樹も元気な顔で戻って来ました。痛み止めの薬を飲み、脊椎からは麻酔のポンプが付けられていました。足の痛み、背中の痛みも楽なようでした。 9月25日、術後3日目、背中の麻酔ポンプが取れました。麻酔が取れると、術後の足首や背中が痛みだし、どうにも身動きの出来ない苦しい状態です。一日も早くこの痛みから解放される事を願っています。 幸いな事に頸椎、脊椎の損傷も無く、呼吸も出来ます。手足のマヒも、しびれもなく、心から感謝の気持ちで一杯です。笑顔の見える日を待つ私です。 毎日病院へ面会に行き、身の回りの世話をして帰るのが日課となりました。 9月27日、術後5日目を迎え、右足首の傷も落ち着き、痛みも楽になって来ました。しかし、背中のあざの下部の痛みはひどく、寝返りも出来ない状態です。 CT検査により、この痛みは助骨3本の骨折から来ているようで、1ヶ月位は痛むでしょうという事でした。背中は鉄板を入れたように重苦しいと言います。 10月6日、手術後2週間が経ち足の傷の抜糸をしました。少し痛かったようです。背中はまだまだ痛みますが、車椅子へ乗る練習も始まりました。日数が経ち、少しずつ動けるようになって来ました。 10月10日、事故の日から1ヶ月が経ちました。車椅子に乗り、トイレにも行けるようになりました。背中はまだ痛み、事故の時の衝撃のすごさが分かります。 後で聞いた話によると、衝突した時に身体がガードレールの下に入ってしまっていたそうです。よく骨折だけで済み、命が救われたと云われました。 10月17日、今日は背中のMRT検査が行われました。結果は、背骨の一つがつぶれているので、神経までは行っていないが、まだ1ヶ月位は安静にしているように、と云われました。本当にあぶないところでした。 10月20日、今日は全身のCT検査が行われました。肝臓の方は、多少良くなっていましたが、まだ良くないそうです。肺の検査では、肺の囲りに水がたまっていたのが大分引いて来ているそうです。肋骨の骨折部分は、まだ骨が良くついていなと云う事で、まだまだ身体の痛みは続くのでは、と思います。 10月23日、いよいよ、今日からリハビリが始まりました。お湯の中に足を入れ、足首を動かす練習をしたそうです。やっとリハビリの出来る段階になりました。 10月26日、今日は入院から始めてお風呂に入れて頂いたそうです。1ヶ月半ぶりのお風呂です。やっと、身体がさっぱりして、足もきれいになりました。少しずつ、少しずつ、元気になって来ました。 何人かからも励ましの言葉を頂き、本当に嬉しく励まされました。そのお話しの中で、2年位かけてゆっくり静養し、身体を大切にするようにと助言を頂きました。本当に命が救われた事に大きな感謝と喜びを感じています。今年一杯は入院の予定です。 毎日、主人の介護と、直樹の病院への通いが当分続きますが、頑張ります。今後とも宜しくお願い致します。お正月は家へ帰り迎えられる事を祈っています。
埼玉県 : HS
仲間がいる実感を、今後ともお送りください。
広島県呉市 : IN
宮崎のFさんに「はがき通信」のことを教えてもらい、すぐに手続きしました。時々「はがき通信」のHPでバックナンバーを読んでいます。皆さんがいろいろな事に挑戦している事に、驚きと感動を覚えています。 ・1951年11月生まれ。47歳。妻と息子(17歳) ・1982年4月交通事故で頚髄損傷(C−5、6)。工事現場からの帰宅途中、運転手の居眠り運転(自分は助手席)で中央分離のガードレールに激突。6ヶ月後に労災が認められました。 ・1985年10月、自宅を新築して退院。 ・1995年9月、床ずれで3ヶ月入院。左挫骨部分の内部が直径3センチ空洞になっていた。 ・1997年4月、パソコンを購入してインターネット、E−mailを始める。 ・趣味はパソコンと読書。小説家は大藪、西村、北方、大沢、池波、門田、森村、司馬、柴田、清水一行に翻訳ものなどなんでもあり。 3年半の入院生活を経て、バリアフリーの住宅を新築して退院しました。食事は装具にフォーク、スプーンをさし込んで麺類、丼ものは自分で食べられます。晩酌の焼酎、ビールはストローで飲んでいます。病院では3時間毎に体交をしていましたが、自宅では妻が一人でしなくてはなりませんでした。子どもがまだ小さく、手がかかる事と、私の世話で、妻がいかに大変か分かりました。 それで人に聞いたり、本で何か言い方法はないか調べている時に、新聞でウォーターベッドの記事がありました。メーカー、家具店に問い合わせると、いいという事で、現在これを使っています。夜中の体交をしないだけでも妻の負担が減り、大変助かっています。 編集委員の皆さんには大変な苦労をかけています。感謝しています。
鹿児島県 : HS h-satou@po.synapse.ne.jp
また、ここまでを乗り越えた人、又、世間の中の自分を見たい人は障害者の集まりに出席したりするだけではなく、たとえば同窓会やいろいろなパーティー、市会議員、県会議員、国会議員さんの講演、後援会などに積極的に参加して自分の存在を知らしめる事が必要でしょう。そして、結果を持ち帰り、みんなに報告することは、これから重要な事ではないでしょうか。 おいらが動けば、空気に触れる 空気がゆれれば、風が舞う 風が吹けば、雲が散る 雲が去れば、お日様にこり 輝け草木、おいらが通る
広島県 : HK hiromi@tako.ne.jp
そこで、少し悲しい出来事がありました。車椅子の人が入ってきて「おはようございます。タイヤ、拭きますね」とぞうきんを持っていると、「私が汚いって言いたいの?」とひどく叱りつけられたのです。友達は、半泣き状態で落ち込んでいました。 そんな意味ではないのです。靴を履き替える代わりにタイヤを拭く、それだけのことなのです。私は8月に熊本で行われた、「火の国杯」の車椅子バスケの試合を見に行きました。そこでも、体育館に入る前には車椅子を拭きました。玄関にはボランティアの代わりに、ぞうきんとバケツが置いてありました。「自分で拭いてください」と言う意味です。しかし、それがあたりまえのことではないでしょうか。車椅子を操作し、バスケができるのです。タイヤくらい拭けます。何より私と一緒に行った、ものすごく状態の悪い人たちも、みんな自分でできました。 ボランティアの人に手伝ってもらうのは、障害者と健常者の交流と言う意味でもとても意義あるものだと思います。だけど、やってもらってあたりまえではないのです。確かに、障害者は弱い立場かもしれません。でも、その障害は、私たちに科せられた一生の荷物なのです。長い一生、たくさんの人に助けてもらうことになるでしょう。 だからこそ、感謝を忘れてはならないのです。 その時、その人に感謝して欲しい、そう思いました。障害者だから「何でもやってもらってあたりまえ」「何を言っても許される」というのは間違いだと思います。 それを言った人も、何気なく言ったのかもしれません。そして、気を回しすぎ、本当に傷ついたのかもしれません。しかし、ボランティアの人は、「自分の行為が障害者の人を傷つけた」「そんなふうに感じ取られたのだ」とショックを受け、もっと傷ついたのです。 私は、彼女のそんな暗い顔を見て残念に思うと同時に、心が痛みました。みんな、車椅子でスポーツをするあなたを応援したくて、手伝いたくて、参加してくれたのです。そのことを分かってもらいたい、素直に受け止めてもらいたい、そう思いました。 私たちは地域に出ること、社会活動に参加することを保証されています。健常者と一緒にスポーツをしたり、交流をしたりする権利を持っています。彼女ら、ボランティアによって、より現実なものとなることでしょう。助けてもらいながら、健常者と共に生きて行きたいものです。 長くなりましたが、助けてもらえることは助けてもらいましょう。しかし、感謝は忘れないで、そして少しでも多くの人が健常者と共に生きて行ける社会にするために、私たち(あなたたち)障害者も努力して欲しいと思います。
山口県 : ミカリン mikarin@mx5.tiki.ne.jp
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