は が き 通 信 | Number.31---P1 |
POST CARD CORRESPONDENCE | 1995.1.25 |
1年の計は元旦にあり、と言いますが、何を今年の目標にされましたか。去年、自主設計で天井走行型リフターを取り付けたところ、たったの16万円でできたのが印象的でした。他にも「はがき通信」でたいへん有用な情報に出会って参考にしました。今年もよろしく。 1995年1月25日 向坊弘道 |
こちら熊本は、元旦、2日と穏やかで、とても暖かい正月を迎えています。 世が世でありましたら、達筆にて(正直に申しますと、字は小学生のころより進歩していませんでした)新年の書き初めをしたかったのですが、不自由の身ですのでワープロにて打ち姶めを… 障害に負けず、みんなで頑張りましよう。それではまた…さようなら。 1995/1/2
ひとはひとを恐れている。 全50点の中で、1、2位を争う出来映えでした。Hさんがこんなに詩人だとは知らなかったなあ。障害を超えて普遍的な人間の内面へ追っているところがすばらしいですね。ますますご精進を願います。 ところでHさん、私の編集している「ペン人」誌に書いてみる気はありませんか。気が向かれたご一報下さい。不一。
私の通信は性格的(?)にどうも堅苦しくなりがちなので、内容はともかく今回は師走の楽しい(ボーナスも近いし)ルンルン気分で書いてみたいと思います。 前回のナカジュニアさんの“ハラヘリヘリハラ”は、ご本人の真剣(?)な悩み相談にかかわらず、思わずプッと吹き出してしまいました。私の場合全くその逆で、「よく食う!」と言われるほどのヤセの大食いだったのに、今はヘタしたらその5分の1も食べられなくなったかも…。 私の悩みは食べられないこと(寒くなると3時←それも戦場デスクで、ニンマリしながら匂いプンプンさせて肉まんなんかよく食べてましたよネエー)。たいして食べないのに、なぜかすぐにおなかがいっばいになってしまいます。何回にも分けて、ちょっとづつ食べるようにしています。私もあまり動かないし、運動不足だからかナーと思っていたのだけれど、ナカジュニアさんの通信によると寝ていてもハラは減るとのこと。この差は何なのでしよう。単に胃腸が丈夫なのかしら?(年のせいもあるかも?!ナカジュニアさんは私より○歳は若いだろうし…) 朝は全く食べられず、ミキプルーンで有名な三基の栄養補助食品を、車イスの友人から勧められてミックスジュースにして飲んでいます。その他、梅酒、卵、養命酒 etc…(さすがにドリンクまでは)飲み込んで滋養強壮になる物ばかり。いったいあの食欲はどこへいってしまったのやら…。不思議です。今は人並の分量食べようと思ったら、朝から絶食して夜まで待つような状態です。ホントに小食になってしまいました(家族は私のことを“ルワンダ難民”と呼びます)。 食べることってやっぱり楽しみですよネ。今は「特製ラーメン!30分以内につゆまで飲み干したらタダ!!」この手の看板を見ただけでウッとなりソ。バイキングは元手がとれなくて損だし、外食は私が半分残すのを見込んで、一緒に行った人に頼んでもらうようにしています。でも、お陰様で肉はないのにツラの皮が厚いせいか、尾骨の骨を削ってからジョクソウにはなりにくいので助かってます。これからの季節、鍋なんかいいですよネー。もう一度昔のように、何人前も死ぬはどおなかいっばい食べてゲップをしてみたい!!
ささやかな私のユメです。
私は、昨年の暮れ、3年ぶりに病院へ入院し、久しぷりの病浣生活を味わって来ました。急患でない場合、私たち頚損患者が入院できるのは内科しかなく、その内科は、お年寄りばっかりに占領されています。病院は治療をするところと言うのは昔の話で、今はみんな死に場所として来ているようで、理学療法科の患者の大半は、脳卒中の後遺症で、そんな中に置かれると、ひじょうに惨めな気持ちになります。 今回、私は、体調を崩して、発熱、倦怠感、寒さからくる震え、そして脂汗に襲われ、入院を余儀なくされ、治療方法として毎日点滴を打ち、やっとのことで退院したのが、クリスマスイブでした。個室ではなかったので、いっしよの部屋にいるお年寄りの点滴や行動が気になり、昼間は騒がないお年寄りも深夜になりますと、突然気が狂ったような大声を出し、それは毎晩毎晩続き、なだめようとする看護婦の声で、夜も殆ど寝られず、苦悩する日々でした。病院生活は何度も経験している私ですが、何でこんな拷問を受けなければとそんな風にも思え、普段とは違った世界を体験してきました。 テレビは、レンタルテレビになっており、テレフォンカードのようなテレビカードを買い、それを入れてテレビを観るのですが、500円で、500時間テレビが観られ、それは安いようですが、8時間20分という時間は、ベッドに寝ている患者にとっては短く、早い時は2日間で終わってしまいますので、朝8時のワイドショー、正午の「笑ってもいいとも」「徹子の部屋」は気になるゲストだけ観るようにし、最後は、午後6時のニュースで一日をしめくくっていました。 寝たっきりの場合、楽しみと言えばテレビ鑑賞しかなく、それもカードの度数を気にしながらなので、ゆっくり楽しむことが出来ず、今現在入院中の頚損患者の楽しみについて考えてみました。テレビという娯楽はありますが、それもカードを入れることが出来ない場合、人に頼むしかなく、ほんのちょっとしたことなのに、大変紳経を使わざるを得なくてはならなくて、健康な人なら何ともないことが、テレビさえも自由に観られなくて、短期間ではありましたが、治療目的の入院さえままならなくて、自由に近いいつもの生活に戻れることを夢に見ていました。 話は変わり、前回の30号に、疼痛に効く薬として、3つの薬が紹介されていましたので、その中の一つ、アミトリプチリンをもらい、現在服用しています。 今のところ、効果はなく、結果として痙性が以前より増したようで、体位を交換する際、ブルブルッと震えます。私の場合、疼痛があまりにも激しいので、今までにもいくつかの薬や治療を試してはみましたものの、直接脊髄に結び付くことでもしない限り、無理のようです。 最後に、前号の中に、「車いす一人のさぴしさを感じる中で」について、本人も分かっておられるでしようけど、私たち車いすの場合、寝たっきりで、とても働くどころではありません。また、手さえ動かせず、車いすにさえ長時間乗れない私たちから見れば、働くことによって社会参加出来ることが羨ましくてなりません。 勤労によって社会に還元するものがあると言うことは、誰からもうしろ指を差されることはありません。どんなことにでも堂々と対応され、そのことは同じ障害を持つ私たちの誇りですので、健康の人たちの中へ入っていけないシチュエーションほ仕方がないことと無理にでも自らを納得させ、他のことへ目を向け、その中から楽しみを見つけて下さいませ。「はがき通信」を読んでいるみんなもきっと応援していることでしよう。健康であっても付き合えない人は結構沢山いるのですよ。 何か夢を持ち、そのことを目標に頑張れば、希望がきっと見えてくるでしよう。働ける喜びを感じ、どんなことにでもチャレンジしていく姿は美しいものです。応援しています。 今年も良い年であることを願って。1995/1/4
■ 空港へ ■ 当日の朝は5時過ぎに起きて、食事、トイレ、着替えなどを済ませてボランティアの方に8時30分ころ迎えに来て項きました。 空港へ着いて搭乗手続きを終えて、もう一度しっかりと叩打排尿して、航空会社専用の車イスへ、ボランティアの方と航空会社の案内人(女性だったのですが、妙にガッチリとした体格の人でした!!)2人の介助で乗り換え、この後自分の分身である愛車(車イス)は荷物として預けることになりました。 空港で二分脊椎症の小学生との出会いがありました。倉吉市から来られた4人家族で、自分と同じく福祉機器展を見に行かれるとのことでした。 航空会社専用の車イスへ乗り換えたのはいいのですが、体のバランスを保つのが精いっぱいで、自分の車イス同様に取り扱うことはできませんでした。車イスを漕ごうとすると、体が前や左右に倒れそうになって、慎重にバランスを取りながらゆっくりでないと出来ません。まぁ誰が乗っても乗りずらいのではないかなぁと思いました。 乗り換えてから、出発ロビーへ上がり暫くしてから他の乗客の方より先に身体検査の検問所を無事通過して、機内へと向かいました。検問所を通過する時に「ちょっとしてこれくらいの幅であれば、自分の車イスに乗ったままでも通れるかもしれないなぁ」と思ったのですが、航空会社の業務を考えれば、機内の入り口まで自分の車イスに乗ったままでいるのは、自分の身勝手な願いかなと考えたりもしてみました。 ■ 窓際の座席 ■ 機内へ入るとスチュワーデスさんたちが笑顔で迎えてくれました。「やっぱり綺麗な人たちばかりだなぁ」と一人ニンマリとしました。 さすがに機内の通路は車イスが通れるだけの幅しかありませんでした。座席へはスチェワーデスが2人掛かりで窓際へ移してくれました。自分は「ラツキー!窓際の席だぞー!景色が見えるからいいなぁ」と何も知らずに、一人心の中で喜んでいました。落ちついて考えて見れば、もしも通路側であれば後から来られる乗客の方が入りづらいし、自分が立ち上がって移動できるわけではないので、窓際の席になるのは常識なのかなぁと思いました!! まあ、座席についてからスチュワーデスが膝掛けを持ってきてくれ、しばらくして他の乗客が入り、定刻の午前9時30分に離陸、快晴の空へと上昇していきました。
安定飛行へ入ると出されたジュースを頂き、澄まし顔で新聞を読んだり、下界を眺めたりしていましたが、残念なことに富士山は、左側の窓から見えたようで、右座席の自分は見ることができませんでした。 機内は暑く感じ、ジャンパーを脱いだのは良かったのですが、天井の方からどうも風が送られてくるようです。そのお陰で涼しくなったのは良いのですが、尿失禁をしてしまいました。あと30分ほどで羽田に着くのに、仕方ないかと諦めました。氷嚢で作った収尿器を使っていましたから多分漏れることはないはずですが、ひょっとしてと股の辺りに手を当ててみると、漏れは無かったのでホッとしました。 ■ 愛車と再会 ■ 羽田へ着いて一般の乗客が出てから、航空会社専用の車イスへ乗り、リフト付きのパスで移動して、空港内の身障者用トイレへ案内してもらうまでの10分から15分がとても長く感じられました。 倉吉から来られた家族とは、「展示場で会えると良いですね」ということでとりあえず別れることになりました。 やっとのことでトイレに案内してもらい、航空会社の車イスに乗ったままで体のバランスを崩さないように、しかも収尿器が外れぬように慎重に叩打排尿をしました。トイレに入っている間に案内人の方に、我が愛車を取りに行ってもらいました。 案内の方に「一人で乗れますか」と聞かれ、「一人では移れません。あと二人介助して頂けませんか」とお願いしました。二人に体を抱えてもらっている間、もう一人にローホクッションを我が愛車へ置いてもらい、やっと自分と愛車との合体出来ました。 ■ 電車で氷山へ ■ さてこれからモノレールなどを乗り継いで最終的に氷山までいくのです。事前にFさんから乗り継ぎの手順は教えて預いてましたが、方向音痴な自分はどこかで間違えなければ良いがと一抹の不安はありました。案内の方が携帯無線機(だったと記憶していますが?)で連絡を取っていたようです。 モノレールは駅員が車イスの扱いに慣れているようで、自分に車イスの持ち方を聞くこともなく、駅員がホームと車両の隙間と段差を、上手に運び、車掌のいる車両へ乗せてくれました。中はかなり混み合っていましたが、JR浜松町まで無事に到着しました。 待機していた駅員が用意していた鉄板のスロープでスムーズに下車できました。このような手作りのスロープは便利だと感じましたが、やはり一番望ましいのはホームと車両の間に隙間と段差ができない車両を作るのが良いのでしようが、今の日本ではちょっと無理なのかと思いました。 浜松町へ着いたころから少し体がほてる感じと喉の乾きがあったので、スポーツ飲料を飲めば良かったのですが、「まあもう少しだから良いか」と気楽に考えてしまい、水分補給をしませんでした。 駅員に「新宿から永山まで」と言うと、JR山の手線・新宿行きのホームまで連れて行ってくれました。ここでも「車掌さんが乗っている車両へ」乗せてくれました。この時もスロープはありませんでした。 電車に乗ってから、また少し体がはほてるのを気にしながらも、車窓の景色や乗客をぼんやりと眺めていました。新宿へ着いた時もホームで駅員さんが待機しておられて、スロープこそありませんが、きちんと降ろしてくれました。 駅員の案内で乗り継ぎのホームヘ行く途中、浜松町から新宿までの料金を支払、自動販売機まで案内してもらい、ここで氷山までの切符を買いました。とくに不自由は感じませんでした。 さて最後の電車に乗るため、改札口で駅員に「快速で氷山まで」と頼むと、エレベータのカギを取りに行かれ、暫く待たされました。駅員の案内で地下鉄のホームまで行きました。ここの身障者用のエレベータは、いつも施錠してあるのだろうか、他の駅も同じだろうか、せっかくのエレベータが宝の持ち腐れになってしまわなければ良いがと思いました。 ホームで数分待っていると快速電車が入ってきて、ここでも駅員が車掌のいる車両に乗せてくれました。 ■ ホームに一人降ろされて ■ やっとのことで永山に着いたのですが、駅員は待機してなく車掌にホームまで降ろしてもらいました。無情にも電車は出発して、ホームへ一人残されてしまいました。 待っていても駅員は来る様子もなく、身障者用のエレベー夕もなく(小さな駅に有るわけないですよね!)有るのは階段とエスカレータだけでした。大声を出して駅員を呼ぶのもちょっと恥ずかしいしなぁ、でもこのままでは時間が経つばかりなのでホームにいた男性にお願いして駅員に来てもらいました。 エスカレータを一度止めて、逆回転させて後ろ向きの状態で降ろしてもらいました。駅員の対応は慣れたもので安心できました。改札口を出てから排尿しておこうとトイレに案内してもらいました。入口は段差があったので上げてもらい、普通のトイレしかなかったので、駅員に「15分くらいしてまた来てもらえないか」と頼み、隅の方で後ろ向きになって叩打排尿して細長いナイロン袋へ移し変えて便器に流しました。後は駅員に来てもらい後始末を頼みトイレを出ました。 尿の量が少なく少し濃い色でしたので、やっと駅の自動販売機でスポーツ飲料を飲みました。 ■ Fさんに圧倒 ■ ほっと一息ついたところで、時計を見ると午後2時を少し回っていたでしようか。Fさんに電話をして、学生ボランティアの迎えを待っていると、10分くらいで来られた学生さんにFさんのアパートまで案内してもらいました。2階建てアパートの1階にFさんの部屋がありました。 中は電気がついていないせいか、少し薄暗く感じましたが、Fさんは奥の部屋でベッドに横たわった状態で迎えてくれました。会った瞬間、Fさんの生き生きした瞳と、柔和な表情と、自分の生き方に一本筋の入った人だなと感じとれて、圧倒されました。 とりあえず、Fさんが用意して下さった昼ご飯を戴きました。海老フライにキャベツ、大豆の入ったひじきの煮物と、しじみの味噌汁というご馳走でした。とくにしじみの味噌汁がとても美味しかったなぁ!! 食事を終えて簡易ベッドを倉庫から出し、しばらくベッド上に横になって休ませてもらいました。 ハプニングというのは、厚着と使い捨てカイロをたくさんしていたために「微熱」が出てきてしまったのです。ふだんの平熱が35度8分ぐらいです。体がほてるので熱を計ると、37度5分か8度ぐらいはあったでしようか。とにかく水を飲んでカイロをはずして、水割り用(?)の氷のたくさん入ったものを氷枕の代わりに使わせてもらい、熱の下がるのを待ちました。体温調節の出来ない体ということは分かっていたのですが、寒いより良いだろうと厚着をしたのが裏目に出てしまったのでした。チャンチャン!!(次号へ続く)
謹賀新年 つーこったで、TETSUYAっす、元気イー!!。
いきなり花子からの引用です、ハイ。年賀状を書かない俺にはとても思い浮かばない文だ。
LL RIGHT Whhhh!!。ようは気持ちサッ。 ちょっと前から彼女と一緒にパソコンとマンドリンのユニットで音楽をやり始め楽しんでいるんですけど、テープにとったのでお送りしました。
俺がパソコンでコンポから音を出して隣で彼女が演奏して、それをウォータマンでとっただけのインスタントな生撮りなので、音質悪いです。 後々、スタジオ(近所に録音スタジオがある!!)でちゃんといい状態、いい音でテープを作るのがとりあえず近い夢です。
あと色々なところで演奏したい。出張okっす。
写真は初詣に行ったときの写真ですIN 太田どんりゅう寺ⅩⅩⅩⅩ. プリント紙はまた音楽本に出たので見て下さいⅩⅩⅩⅩ。DTMっていう雑誌(コンビュータミュージック誌)です。 色々批評されているけど、あいつら何もわかってね一(笑)。
BACK TO 70”って言ってやりてーな。 P.S 1 宅建、今年も頑張るぞとっⅩⅩⅩⅩ。
ってことは…去年は落ちたぜ、ペイベー、FUC KIN’SHITTTT!!。 P.S 2 上村数洋 様
去年はコンビュータグラフイツクを始めるにあたって他、遠いながら色々お世話になりました。感謝してます。 同封のテープ。 DEMO#1/TETSU-YA&YH
私も交通事故で頚揖となり14年になりますが、3、4年前から同じ頚損の方2人と文通するまでは全く外部とは接触のないと言っていい状態でした。待っているだけでは情報は一切入ってこないことも分かっていましたが、余りにも情報不足に慣れっこになっているのかもしれません。 その本の最後に「重度四肢マヒ者の情報交換・はがき通信」というのがあるのをしりお尋ねする次第です。そして出来ることなら私も是非お仲間に加えていただきたいと思っています。何卒宜しくお願いいたします。 私自身、長く介護をしてくれた母が病に倒れた為に施設に入らざるを得なかったわけで、正直言ってあまり自立のことを考えていません。しかし、自立を考えている入所者の方にも本を回したところ可山氏と連絡を取ったようで、今月の3日には、驚いたことに可山氏ご本人が当施設まで来ることとなりました。歳は私より3つはど年少の筈ですが、自信に満ちた話ぶりや風貌から窺うと悟りの境地を開いた僧侶か哲学者を思わせる出で立ちでみえ、私も同席させていただいて2時間足らずの短い一時いろいろな話を聞かせていただきました。神経研の住所もそのとき教えていただきました。1994/12/18
S24年生まれのおじさんで、頚損(C6)歴18年目を迎えます。 私はHK氏と同じ綾瀬市に住み、F.L.C.の事務局を担当させてもらっています。ちょっとF.L.C.の説明から。設立10年目になり、多くの活動をして、現在83名の会月員数です。「はがき通信」の方にも今年の5月から会報「飛璃夢」を送らせてもらっています。 今、私たちは「障害者の自立生活サポート」を多くの方と活動をして(会員と会員外のワーカや施役職員など)、病院や施設から家に帰る人、独立生活をする人などのサポートをしています。 今年は、医療・福祉事業団から補助金を受けて、「障害者の自立支援事業」を姶め、パソコンやFAXを使ったサポートの研究をしています。 私たちの話はそれくらいにして、皆さんの「はがき通信」の記事を読ませてもらい、自宅に戻っても困っている方や生活を楽しんでいる方、勉強や仕事をされている方などが通信をよせているのに驚きました。 皆さんの多くは私より重度の方ですが、立派な文をお書きになり、投稿されていらっしやいますが、私も受傷当時は、自分で何もできずベッドに寝かされていたのですが、障害者の仲間(入院中同室)に励まされ、ADL(注:日常生活動作の自立)を学び、自宅に帰りました。しかし、家に帰ると何もせずに寝てばかりでした。心の割り切りができてから(約2年かかりましたが)、ADLを自分なりに始めて外に出るようになり、回りの多くの人たちに接して今の私が出来上がりました。 とても、皆さんのおカになるとは思いませんが、ある程度の情報は持っておりますので、ご連絡いただければご返事をさせていただきます。 では、皆さんのご健康・ご活躍を祈っております。1994/12/18
この時使っていた呼吸器は、6千時間点検中の代替器だったのです。しかも今まで使われていた機種ではなく、新しく開発された新型の機種(アメリカ製)でした。その後メーカと病院(注:訪問診療)は12月22日弁護士さんと松井先生、岡野先生の立ち会いの元に、呼吸器を引き上げていきました。そのとき、メーカは持ち帰って長時間作動させ、その記録データを病院へ提出すると約束しました。 その後10ヶ月が過ぎ、私は双方から回答を待ちましたが、病院からもメーカからも何の連絡もありません。そこで私は、病院へ問い合わせました。すると、そのようなことはメーカヘ問い合わせるようにと云われ、私は、すぐメーカへ問い合わせました。すると、病院からの要請がなければチェックシートは出さないと、たった1枚なのにチェックシートを出そうとしません。 病院はメーカに、メーカは病院にと責任のなすり合いをしているのには驚きました。「呼吸器事故とは一切認識していない。呼吸器に異常はなかった」とメーカは云うのです。病院は「なぜチェックシートがほしいのか」と云います。 私はいつも呼吸器点検時に、チェックシートを受け取っていますから、今回もほしいと申し出て、やっとコピーでよければ渡すということになり、病院まで受取にいきました。やっと手にしたチェックシートは、通常どおり30分の点検時間のみで、約束したはずの長時間の特別点検はありませんでした。それもコンセントからではなく、内部バッテリーのみの点検でした。これでは、結局何も分からないことになってしまいます(メーカが持ち帰り、メーカが点検するのでは、それも第3者の立ち会いなしに)。 その後、日本製の呼吸器を使っている方によると、そのメーカはアフターケアも十分で、注意やアドバイスもしてもらえるとのことでした。私は呼吸器を購入して以来、一度もアフターケアを受けた覚えはありません。外国製より日本製の方がサービスも良く、安全だったかもしれないと思えてきます。 今回のように事故が起きても、メーカも病院も誠意ある対応はしてくれないということが解りました。 最後に皆さんへのお願いです。 どうか呼吸器を付けている方の介護に当たる方は、呼吸器の警報がなったらただちに対応して下さい。どうか、Kの死が無になりませんよう、大切な命ですから! 1994/11/4
THさん自作の詩が「ハートで描く心のメッセージ展」(NHK福祉キャンペーン)に入選しました。Hさんの代理で、12月上旬、池袋のメトロポリタンプラザで開催された展示会場へ行ってきました。入選した詩にそれぞれ詩のイメージを描いたプロの絵が添えられ、華やかな雰囲気でした。Hさんの詩を描いたのは上野玲子さん、カメラを持っていきましたが、撮影は禁止でした。数日後、入選作品集が発売されましたが(NHK厚生文化事業団発行)、残念ながらプロの絵は入っていませんでした。 11月末日、TSですと、研究室に電話が入りました。麩沢さんに伝言を頼んでいましたので、Tさんとは電話でも初対面でした。麩沢さんに習っていつも「てっちゃん」と陰で呼んでいましたので、ついつい旧知のつもりになって、話が弾みました。 怪我する前、大学は茨城、下宿は東京、通学は週1日のみ、残りは東京で音楽ざんまいの日々を過ごしていたとか。麩沢さんの話し方に似ているというと、「すっかり群馬っぼくなっちゃった」そうです。最近、ガールフレンドとバンドを結成し、老人施設など慰問、演奏する曲は青い山脈など、孫のようだと涙を出して喜ぶそうです。 近くカーサミナノにも演奏に出かける。移動は車の手配ができるので、依頼があれば出張演奏するそうです。最後に「DTMコンピュータ・ミュージックの総合情報誌」(1995年1月号)に自分のことが掲載されているから、本屋で立ち読みして下さいと、どうやらこれが本題だったようです。 発売日、最初の書店ではまだ入荷していない、つぎの書店でもなし、特殊な本で入手は無理かなと思いましたが、翌日、池袋の書店に山と積まれていました。Tさんの紹介は「スクエア」、採用されたのはTETSU-YA作曲「SAY ANYTHING」、評価の基準は長い曲をマウススティックで入カした気迫!だそうです。付録のディスクに入っています。鹿児島のRGさんに送りました。Gさん、できれば次号に感想お願いします。 12月上旬、福井県の療護施設に入所中の頚損者を訪問し、ついでに能登半島を一周、驚いたことに東尋坊(私の聞き違いではないと思いますが)にも行かれたそうです。ボランティアの学生さん、さぞ大変だったことでしよう。 |
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