同じ世代の人たちと交流希望
富山県 KN去年の暮れにはがき通信のことを知り、お仲間に入れてもらいました。 僕は今29才で、中2の時、学校帰りに自転車で転倒して第五頚椎を損傷しました。その後、2年遅れて養護学校の中2に復学し、高枚は普通学校に進みました。卒業後は、小中学生を相手に学習塾のようなことを、去年の春まで7年間していました。
仕事を選べる立場にはなく、甘いとは思いながらも、いろいろと考えるところがあって、せっかくの仕事を手放しました。無職の今の生活は、月に3、4回、本屋に行く以外はずっと家にいて、母がしている内職の手伝いを少ししたり、読書をしたり、ビデオを見たりしています。こんな生活ではいけない、何か在宅で出来る仕事がないか、将来の事など、いろいろ考えていますが、ぬるま湯に浸かったような生活にずるずると流されています。
去年のはがき通信を何冊か頂いて読んだのですが、皆さん明るく、積極的に生活している様子が書かれていて、改めて自分の弱さや甘さを痛感しました。
実のところ、この手紙を出すことに気が引けています。ぜんぜんいい事が書けないからです。でもこれが今の自分であり、この場で自分に嘘をついていいカッコをする必要もないし、こんなヤツもいる事を誰かが認めてくれればそれでいいです。簡単な事ではないとわかっていながらも、いつの日か、誰かの励みになるような事を書ける、そんな生活をしなければいけないと思っています。こんな事を書くこと自体、いいカッコしいと言われそうですね。
ところで、僕は今まで同世代の同じ障害を持った人と出会う事が一度もありませんでした。もしよかったら、どなたか手紙を下さい。
1994年3月2日
当事者の生の声を
大分県 ST私、STと申します。 日中は暖かくなってきたものの朝晩はまだまだ冷え込む今日このごろですが(はがき通信の皆さん)いかがお過ごしでしょうか。 私は22才の時、交通事故により頚髄の7番を損傷しました。 福岡県行橋で事故を起し、近くの病院へ運ばれ、以後、病院を転々とし、現在大分県別府市にある重度障害者センターにて家庭復帰を目指しリハビリを行っています。
このはがき通信を知ったのは、福岡県北九州市出身のKHさん(同センター入所中)にはがき通信を見せてもらったのが最初のきっかけでした。去年の11月から約2ヶ月あまり福岡県飯塚市にある総合せき損センターに入院していました。そのとき現在(はがき通信を続読している)KMさんと同室になりそこでまたはがき通信のことをくわしく教えてもらいました。それまで(はがき通信)とはハガキによる情報交換だと思ってました。ところが前記したように村上さんに、くわしく教えてもらい是非自分も続読したいという気持ちを伝え今回紹介してもらいました。
私も独学で福祉の勉強をしており、一人でも多くの仲間を増やし私達当事者の生の声を聞きかつ、情報交換をしたいと思っています。
今回が初めての投稿になりますが、これからも情報交挽し合っていきたいと思っています。皆さんよろしくお願いします。
敬具
生年月日:昭和39年11月1日 29歳受傷 :昭和62年(交通事故) 現在 :国立別府重度障害者センターに入院中 位所 :大分県 趣味 :読書(福祉関係)、スポーツ(バスケットポール)
1994年3月4日
広報部だより
広報部長・麸沢孝カーサ・ミナノ入居以来の夢でした、本格的な?『アマチェア無線局』を開局することが出来ました。 沢渡温泉病院入院中もハンディータイプの無線機で、近くの方とは話していましたが、やはり入院中ということで、施設に入居してすぐにアンテナを建て、新しい無線機で思う存分、交信したかったのですが、資金の都合で今になってしまいました。
夕食後、テレビか読書くらいしかすることがありませんでしたが、今は顔も知らない人たちと話しています。なかには「手が不自由なので口に棒をくわえてスイッチを押しています」なんて言うと、交信相手が妙に恐縮したり「障害者施設でアマチュア無線なんて出来るのですか?」なんて誤解を受けたりもしますが、一度交信すると、また声を掛けてくれたり、小学生と話したりと、楽しくやっています。
リグは、KENWOOD TM-732(10W)アンテナはGPダイヤモンドX-5OOHを地上高10mに取り付けました。PTTスイッチや、その他の操作は、マウススティックで操作でき、主にベッド上(8:30〜10:30・18:00〜)でONAIRしております。
聞こえてましたらQSOよろしくお願いします 73&88 JM1TTE ▲食事介助ロボットの開発 国立身体障害者リハビリテーションセンターの研究所と、セコム社(セキュリティーで有名な)の共同開発の食事介肋ロボット(仮名)の開発モニターをする事になりました。本体をテーブルに乗せ、食べ物をスプーンですくい、口まで運ぶのだと思いますが、話しだけでよくわかりません。四肢麻痺で坐位がとれ、ある程度、首の動きが自由になる人に適応ですから、C4くらいの頚揖者だと思います。次号のはがき通信では、写真と詳しい説明が出来ると思います。お楽しみに! ▲IA君退院、自宅に帰る 1月下旬「はがき通信」の仲間であるIA君が、退院され自宅に帰られました。私とA君の出会いは、5年前、東京で行われた頚髄損傷者連絡会の総会にA君のお母さんとお姉さんが参加され、話しをする事が出来たのがきっかけでした。その後何度か病院におじゃまして、A君と話しをしましたが、気管切開のため声があまり出せず、車椅子のためベッドサイドまで近づけない私は、顔だけ見て帰るときもありました。
毎日、同じことの繰り返しで、私もそうですが、動けない歯がゆさや、どうしようもないやりきれなさで、自分の気持ちを閉ざし、何もかもが嫌になった期間も長くありました。でも、A君は今までよく頑張って来られたと思います。
私が沢渡温泉病院に入院中に発作のように、退院を希望し、家に電話や手紙を書きました。しかしすぐに入れる施設もなければ、在宅の準備が出来ているわけでもありませんから、両親の説得でその発作も治まるのですが、たぶん施設入所が3ヶ月も遅れていたら、爆発していたかもしれません。当時、家に書いた手紙を見ると、その頃の辛さを思い出し、自分を見失いそうになると、今だに読み返すようにしています。
私は「A君が退院し在宅生活を始められた」と聞いたとき、自分のことのように嬉しかったです。今は患者ではなく、在宅の頚髄損傷者です。これから先、可能性を見つけ、大変なこともたくさんあると思いますが、「はがき通信」の仲間が応援しています。お互いに頑張りましょう。
1994年3月14日
▲編集部より Iさんが1月25日8年ぶりに自宅に戻りました。 自宅はエレベータのない5階建ての高層住宅の5階です。アンビュー(手動の呼吸器)で人工呼吸しながら、数人がかりでIさんを1階から5階まで運び上げ、人工呼吸器、加湿器、ベッド、エアマット、消毒用具なども運び入れ、部屋に落ちつくまでたいへんな作業だったようです。
1月31日、上京された山形のMMさんとともに、Aさんを訪問してきました。Iさんの表情にはまだいくらか硬さが残っていますが、お母さんの負担を少しでも軽くしようと懸命に考えている様子でした。
なによりも驚いたのは、Iさんからホイストなど介助機器のカタログを欲しい、痰の吸引などしてくれるボランティアも探したいと云われたことでした。自宅で生活するための介助体制をIさん自身が考えはじめていました。
入院中、お母さんが心配されていたIさんとお父さんのコミュニケーションも解決されていました。Iさんが積極的にお父さんに働きかけ、お父さんはIさんの指導で吸引もできるようになったそうです。 「Iの指示にしたがって私は動いているだけ、入院中、恐れていたことがうそのよう」とお母さんもすっさりした表情でした。
Iさんの自宅退院は、数年がかりの計画でした。昨年秋、その第一歩として外泊訓練をはじめました。お母さんは病院に泊まり込みで膀洗、気管カニューレの交換などIさんに必要なケア技術の特訓を受けてきました。いよいよ外泊という寸前になって、お母さんは自宅で倒れ、救急車で近くの病院に入院してしまいました。心囚性の胃潰瘍でした。「胃潰瘍になるようなストレスの原因は?」とたずねた救急病院のドクターがIさんの在宅診療を引き受けてくれることになり、今回の退院が実現しました。
Iさんはリハビリテーション病院の転院も横隔膜ペーシングの手術を受けるための検査入院も、希望することすべて拒絶されてきました。お母さんもうちは最悪と落ち込むし、Iさんもお母さん以外の人すべてに心を閉ぎしてしまったかにみえました。そのIさんが主治医にどうしても家に帰りたいと頑強に要求したそうです。 寡黙なIさんから想像しがたいような行動でした。麸沢さんがいわれるように爆発寸前の状態だったのかもしれません。
2月28日、2回目に訪問したときは、室内が段ポールの箱で埋まったようでした。車イスで出入りできる1階の住宅に移れるようになり、引っ越しの準備真っ最中でした。「1週間だけでも入院してきてというのに、Iがカップラーメンだけでもいいから、家にいさせてほしいっていうので」とお母さんも嬉しそうでした。
Iさんは1階の住宅に移ったら電動ホイストを導入する予定のようです。ということは車イス生活の準備をはじめたのかと、Iさんの心境の変化にただただ驚いています。
海外情報・その6 米国高位頚髄損傷者の実態−合併症と在宅生活
HK
退院時ベンチレータ使用群は平均43%が毎年尿道の感染症に罹った、一方ベンチレータ非使用群のグループは39%の発生率であった。
呼吸器疾患は肺炎を含めて、使用群のグループは一年に約19%の人が罹った、一方非使用群のグループは7%であった。
使用群の肺炎の報告は年平均15%で、非使用群のグループでは6%であった。
感染症以外の色々な尿道感染の発生率は使用群と非使用群の間の差は比較的小さかった。
色々な手術が追跡期間中に報告された。そのうち最も目立つのが22人に行われた外尿道括約筋切除術であった。
13人に皮膚の外科的手術が行われた。
脊椎固定術は7回行われた。気管切開は4回行われ、そして椎弓切除術は2回行われた。追跡期間中毎年平均50%の人が入院していた。入院率は使用群のグループが僅かに高かった。(1年につき使用群は57%、一方非使用群のグループは48%であった) 使用群の人は年平均22.2日入院し、非使用群の人は年平均10.5日入院した。使用群のグループは追跡期間の後の方になって入院が長くなる傾向があった、しかし非使用群のグループは逆にそれが短くなる傾向があった。 家庭でのケアについて4つの状態、つまり
について調べた。 使用群のグループでは、大多数の時間(59%)は賃金を払う付添いと一緒に過ごしていた。15%の時間は賃金を払わないケアをする人と過ごしていた。23%の時間はケアをしない人と一緒に過ごしていた。僅かの3%の時間が1人で過ごした。
非使用群のグループでは、3つの分類で過ごした時間はほとんど同じであった。つまり賃金を払った人のケア(34%)、賃金を払わない人によるケア(28%)、ケアをする人以外の人と一緒の時間(31%)そして(2%)の時間は一人で過ごした。
賃金を払った付添いの最も多い技術水準は、資格のある訪問看護婦や家庭や友達や他の技術のない人と一緒に介助する事であった。僅か(19%)でチームを組んだ資格のある看護婦を使っていた。3分の2以上で、賃金を払った付添い費用は1時間当り3ドルから10ドルの間であった。
編集部のニューフェイス
MNはがき通信の皆さん初めまして!私はMN、29歳、日本社会事業学校を今春卒業します。 私は、三年前の春、当時20歳だった弟を頸損で亡くしました。 弟は、交通事故により受傷後わずか10日間であっけなく逝ってしまいました。 7日目までは意識もしっかりしていて、食事も自力呼吸も出来ていたので、家族全員24時間付きっきりで必死に看病しました。ところが、ストレスから胃潰瘍となり大量の血を吐く姿を目にしたとき、私は自分の無力さを思い知らされ、愕然としました。
この間、医師から「息子さんは全身麻痺となりますから、一生寝たきりです」と宣告された父は、弟の将来を案じ、施設(太陽の国:福島県西白河郡)で生活している頚損(C5)の男性Nさんを訪ねました。そこで、Nさんの励ましと、その施設のケースワーカーの「医者が施すのは治療です。これから私達が行おうとするのは機能回復であって治療とは全く違うのですよ。医者の診断が全てではないのですから」という言葉に励まされ涙ぐんでいた父の姿を今も忘れることができません。私も、単なる人の言葉がこんなにも力強く心に響くものかと大きな驚きを感じました。
当時、外為デイーラーだった私は、それ以後、それまでの仕事にこれ以上の価値を見いだせなくなり、まる2年考えた末に、福祉職に就くことを目的に日本社会事業学校へ入学し、そこの教授(佐藤久夫先生)の紹介で松井先生やはがき通信に出会うことが出来ました。そこに見たものは、私の想像していたものとは遠くかけ離れたものでした。そして、半ば「弟のかたき打ち」のような心境でこの世界に飛び込んだ私の気持ちはいつのまにか(うまく説明できませんが)なにか穏やかなものに変わっていきました。
「世の中には当り前のように春が巡って来るのに、うちにはもう春が来ないのかな」弟を亡くしたとき、母が言った言葉です。私もそれ以来、春が来るのがとても嫌でした。桜など咲かなければ良いのに・・と思ったほどです。でも今年は少し違った気持ちで春が迎えられそうです。多分、重度の障害を持ちながらも海外で生活したり、復職したり、自立生活したり、あるいは自宅で、施設で、必死に頑張っている皆さんの姿が私の気持ちを変えてくれたように思います。
この世界では、まだまだ初心者で、「なにも解っちゃいない・・」などと思われることもあるかもしれませんが、私なりに勉強と経験を積みながら、頑張っていこうと思っています。これからもいろいろ教えてください。 よろしくおねがいします。
1994年3月15日
お知らせ
▲故・KSさんのお母さんから昨年11月末、KSさんが急逝されました。 享年19歳、ベンチレータの事故でした。亡くなった経過については、Kさんの追悼をこめて、「脊損ニュース」(1993年12月号)に報告させていたださました。
2月に入って、Kさんのお母さんから神経研に電話がありました。
「Kが亡くなってから、はがき通信も途絶えてしまって寂しい。これからも通信は送ってはしい。蒸留水やガーゼ、新品のアンビューバックなど使えるものがいろいろあるので、必要な人があればさしあげたい」
最近、頻繁にベンチレータ使用の頸損者と係わりが多くなってきました。ベンチレータを長期に使用する場合、痰が詰まったり、回路が外れる事故は頻繁に起こりうると実感するようになりました。Kさんのお母さんは事故原因をどこまでも追及して明らかにしたいし、5年も在宅でKさんをケアした経験を活用したいそうです。
ベンチレータのことで困っている方、呼吸器ケアに関する情報の欲しい方は電話で相談にも応じられるそうです。直接、下記へご連絡ください。
連絡先は情報交換誌「はがき通信」に掲載
▲PMスピーキングバルブの国内販売が認可される Passy−Muirスピーキングバルブは気管切開用ベンチレータ使用者のためにアメリカで開発された音声を出す補助装置です。
そのPMスピーキングバルブが日本でも販売許可されました。ちかく販売され、使用できるようになります。
数年前、カナダの呼吸療法士イレーネ・マティーンさんから贈ってもらったものを、何人かの頚損者が試用した結果、従来の装具、たとえばスピーキング・カニューレより効能が良いと評価されていました。そこで日本でも自由な購入が期待されていました。 取り扱い店はシズメ メディカルです。 TEL:03−3815−8873
あとがき
*今回よりプロの編集者・KF氏(「上の空」の著者)の編集指導を受けることになりました。編集の基本は読みやすく、わかりやすくすること。原文を損なわない程度に手を入れること、略語や専門用語には注釈もくわえるようにとのコメントをいただきました。
今回の通信でも、C4とかC4−5など専門的な略語が頻繁につかわれています。ただこれはかんたんに注釈をつけられる問題ではありません。同じようなことが他にもいくつもあります。なるべく早く頚髄損傷に関するこうした用語のマニュアルを作りたいと考えています。
藤川先生は、そうとう手加減して下さっているようですが、なかなか手厳しい。不肖の弟子でいつあいそをつかされないかと心配です。言い訳はしないつもりですが、じっくりパソコンと向き合う時間がありません。どうか今回はこのレベルでお許し下さい。
*向坊さんは17日に帰国の予定です。年内に蘇るシリーズの3作目「よみがえる命」(仮題)を樹心社から出版予定です。そのなかではがき通信もふれられています。楽しみに待っていて下さい。
*通信原稿は原則として個別に催促しない、お願いしないことにしていますが、お蔭さまで今回もたくさん集まりました。いつもながらTETSU−YAさんの通信には思わず吹き出してしまいます。神経研の心理学の先生によりますと、「この人は根はとても真面目」だそうです。如何でしょうか。宅建の合格期待してます。
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