はがき通信ホームページへもどる No.160 2016.8.25.
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 みんなのバリアフリーマップ 

ロシア春夏脳炎、障害歴23年、59歳

 私達「With You〔前向きな障害者と仲間達〕」のメンバーであるS.Oさん(頸損)が7年近くかかって作ったサイトを紹介いたします。次の3点を目標としてさまざまな場所を「みんなで紹介し合う」サイトです。 

(1)車椅子の人が外出するのを助ける
(2)車椅子を使わない人にもバリアフリーについて意識してもらう
(3)詳細なバリアフリーマップを作るときに参考にしてもらう


 
具体的には下記のように、皆さんに参加していただきます。
1〉 誰かが外出する
〈2〉 バリアフリーな場所を発見!
〈3〉 携帯電話やスマートフォンでその場所の情報をマップに送信
〈4〉 マップのその位置にマークが置かれる
〈5〉 ほかのひとはマップ上のマークを参考に外出する(〈1〉へ戻る)


 現在は北海道と関東を中心に展開されていますが、知人を通して全国へまた世界へと広げてゆきたいOさんです。「はがき通信」の皆様にもご参加いただきたいと存じます。
 旅の事前調査や旅先での情報収集に活かしていただき、またお互いの経験を発信して、みんなで共有していければ何よりと思います。
 よろしくお願い申し上げます。

『みんなのバリアフリーマップ』
  サイトのURL
  http://happybf.com/  


北海道:A.S.



 腹部大動脈瘤手術 

60歳、男、C4、受傷歴:32年

 人工肛門(ストマ)造設をすべく、外科の外来検査でCTを撮ったところ、腹部大動脈瘤(りゅう)が見つかった。腹部大動脈は心臓から出て腹部にいたるからだの中心を走る血管である。
 通常の直径は3cmぐらいだが、最も太い所で6cmに膨らんでいた。動脈硬化などで弱った血管に高血圧が加わるとできやすいらしい。5cm以上が手術対象なので、早い時期での手術がきまった。
 手術の方法は、年齢、障害などを考慮し、体への負担の少ない、腹部ステントグラフト内挿術で行った。全身麻酔で鼠(そ)径(けい)部(両足の付け根)を切開し、直径8mmぐらいのカテーテルを大腿動脈内に挿入する。造影により、血管内を進むカテーテルの動きや腹部大動脈の動脈瘤の状態を確認し、ステントグラフトを腹部大動脈瘤の適切な位置に挿入し、血管を補強する。


(イラスト:左図は動脈瘤のできた血管、右図はステントグラフトを挿入した血管)

 手術時間は、準備も含め4時間の予定だったが、7時間弱かかった。気管内挿管や点滴などの準備に時間を要したらしい。手術は成功した。入院は2週間の予定であったが、CRPの値が下がらず、微熱が出たので、3週間かかった。術後1ヶ月、6ヶ月、1年毎には、経過観察が必要である。
 腹部大動脈瘤は、自覚症状がほとんどないので、CT検査をしないと分からない。今思えば、みずおちあたりがモヤモヤしたり、血圧の変動が大きくなったり、 呼吸が浅くなったりしたのが、自覚症状だったかも?と思う。後日、他の病院で5年前に撮ったCT画像をみてみると3.8mmであった。この病気は50代から70代の男性に多いらしい。たまにはCT検査をお勧めしたい。

広島県:Y.O.



 夢がかなった! が、待っていたきびしい現実 

C7、頸損歴35年、××歳

 《夢はかなえども……》
 【夢は南の島で空を飛ぶ!】平成27年の年賀状に書いた夢をかなえるチャンスがやって来た。脊損の会の旅行が沖縄に決まり、私を含めた頸損者3名がパラセーリングに挑戦することに……。
 平成27年12月27日、車椅子7台に家族付き添い等で沖縄へ飛ぶ。那覇空港からチャレンジャー3名が車椅子タクシーにて中城村にあるパラグライダー基地へ。



 最初にK君がAインストラクターと飛び、私が2番目にBインストラクターと飛びました。夢の空中遊泳です。
飛んだど〜\(^o^)/



 空中でK君とバイバイをしてK君は3人のスタッフが待つ着地点へ。次にSさんがAインストラクターと飛び上り、私もスタッフが待つ着地点へ、と、思ったら、ら、ら、ら〜、オーバーラン(;゜Д゜) 海が私を呼んでいる〜( ゜Д゜) インストラクターが「立って、立って」と言うが、あたしゃ頸損、足立たぬ〜( ;∀;) 脛(すね)から着地。左足は海の中、右足はかろうじて砂浜へ。その後、Sさんが無事着地点へ。私1人がババ引いたー! スタッフたちが走り寄って来て車椅子へ抱え上げてくれた。「大丈夫ですか〜?」と聞いてくれたが、マヒした身体は痛みを感じず。濡れたズボンと靴の方が気にかかる。
 ホテルへ急ぎ、チェックイン後ベッドへ上がって傷がないかを確認し、ズボンと靴下を着替えて仲間の待つフロントへ。心配したSさんが「大丈夫?」ときいてきたので、「腫(は)れてもないし、傷もなく、色も変わってないから大丈夫とは思うけど、マヒした身体は何が何だか分からない〜」と私。その後、他の人たちは国際通りに繰り出したが、ランドリー交渉に靴の洗濯・乾燥などで時間を取られ、ホテルの白いスリッパでは外出もできず、ホテルのレストランへ。
 翌朝も、翌夕も翌々朝もホテルのバイキング、何で〜(ノД`)・゜・。 2日目の朝は何ともなくて、夜、何となく違和感が……? 3日めの朝、左の脛がまっすぐ伸びず、ぐにゃぐにゃになっていた。でも、痛みは感じない……。那覇空港へ向かうバスの中から普段診てもらっている総合病院の整形外来へ電話をかけた。時は年末、仕事納めの12月28日、「今すぐに来てください」と言われたが「今、沖縄にいるので、どんなに急いでも6時過ぎになります」と答えたら、「当直の先生に伝えておくから、夜間救急外来受付へ来てください」と言われた。
 出発が遅れやきもきしたが、高松へは予定通りに着き、空港から主人が高速をすっ飛ばし、6時過ぎに総合病院の夜間救急外来へ到着した。事前に電話はしてあったものの、普通に車椅子に乗り、痛がりもせず行ったからか、順番どおりに待たされてようやく診てくれた。
 問診の後、外科のDr.が「どこがどうなの?」と膝を押したとたんに強烈な痺(しび)れ痛と飛び上るような痙性(けいせい)が……。すぐに左股関節と膝にかけてのレントゲンの指示があり、脇と両膝を2人がかりで持ち上げてレントゲン撮影をした。やがて「あっりゃ〜、左大腿(だいたい)骨がぽっきり折れていますよ、これは大変……」 胸のレントゲン撮影後のCT撮影室へは、バスタオルを敷きバスタオルごと持ち上げて、ストレッチャーで移動した。どうやら入院になりそうだ。点滴室へ移動して点滴をしながら整形外科のDr.を待つ。10時前に忘年会から駆けつけてくれた整形Dr.が「曲がった足が気にかかる」とシイネ(添え木)を巻いてくれてようやく病棟へ。ここから24時間ベッド上生活が始まり、このシイネのせいで踵(かかと)に大きな褥瘡(じょくそう)ができてしまい、試練の日々が続くことになるのである。




《手術と褥瘡と入院生活》
 入院生活2日目の朝の回診時、シイネ(添え木)の包帯を外したら「あら、もう足の甲と踵が赤くなっている」と看護師さんが……。そして1週間貼りっぱなしでも大丈夫だという何か(?)を貼られた。枕元には毎回褥瘡チェックと体位変換の張り紙が……。入院時、主治医が「何が心配ですか?」と言ってくれたので「褥瘡だけは作りたくありません」と答えたのに、毎日シイネの包帯を巻き替えて足の様子をみてくれるのだが、褥瘡チェックは何かが貼られた上から……。毎回、私が「踵は大丈夫なんですか?」と訴えても看護師は無言のまま。
 1週間後には立派な褥瘡が育ち、踵は真っ黒だったそうな……(ノД`)・゜・。私は、寝たまま確認もできず……(ノД`)・゜・。仕事始めの1月4日に来た主治医が「これは意味がなかったね……」とシイネを外す。(納得いかない……ヽ(`Д´)ノ)
 何度かのカンファレンスを経て、入院12日めの1月8日に、ようやく手術となった。主治医が「痛みを感じないから麻酔なしでもいい?」ときいてきたので、「痛みは感じないけど、かなりの痙性で足が暴れると思います」と答えると、「じゃあ、腰椎麻酔で行きましょう」ということになった。血管確保の点滴を打たれ、手術着に着替え手術室へ。抗生剤その他を追加、腰椎麻酔を打たれた。主治医から私の足を動かして「痙性来る〜?」ときかれ、「いいえ」と答えると、「よし始めるよ」と手術開始の合図があった。
 レントゲンが運ばれ骨の微調整が始まった。痛みは感じないが足を引っ張ったり押し込んだり、かなり上半身にこたえてくる。脛(すね)を切ったのか吸引の音、やがて木槌(きづち)で何かを打ち込む音がした。ドリルの音や金槌の音、『おっかね〜、おっかね〜、寝てしまおう……』と思ったら、看護師が10分おきに「大丈夫ですか?」と声をかけてくる。どうも寝かせてくれないようだ。それじゃ、見える範囲で見てやろう……。と思ったら、胸の辺りでカーテンを引かれた……( ;∀;) 見えるのは左側に麻酔時間と手術時間、右側は吸引器の一部のみ……。やがて「お疲れさま〜、あと縫ったら終わりね〜」と主治医が声をかけてくれた。その後、包帯を巻いて、血圧、脈拍、酸素量をチェックし、最後にレントゲンを撮り、手術室待合へ向かった。
 家族説明のとき、写真を見たら長いボルトが膝上から股関節あたりまで入り、太い横ボルトが3本止められていた。『すごいなぁ、お医者様は、こんなにうまくつないでくれて……』と(感謝)2。
 その夜看護師さんが体交に来たときに、「よかったなぁ、もう足を持ってもくにゃくにゃやないわ♪」と声をかけてくれて、私も術後の疲れもあり、よく眠れました。

 《リハビリ病院へ、そしてわが家へ》
 入院2日めに、担当看護師から言われたことは、「ここは救急病院ですので、次に行く病院を考えておいて下さい」だった。「手術もまだなのに、そんなこと分からんわい!」と主人が腹を立てていたが、手術も終え、抜糸も終わってしまえば、リハビリ専門病院のほうがいいような気がしてきた。総合病院では約1ヶ月の入院のあいだ、術前1回と抜糸後に1回のシャワー浴のみだったが、リハビリ病院では週3回の特浴があるというので、早々に転院した。
 若い作業療法士と運動療法士がわんさかいて、担当が休みの日は代わりの訓練士が診てくれた。1日3時間、プッシュアップに筋力トレーニング、家事訓練と称してたこ焼きを作ったり、肺活量アップにカラオケもあった。
 転院した当初、2階の病棟でノロが流行していて、そのせいかどうか(?)3週間は腹具合が悪く、デイ友が見舞いに来てくれたときはちょうどリハビリ中で、リハの先生が足を上げたとたんにぷりぷりと失禁、リハ室でマットに上がったとたんに失禁、寝ていて失禁、車椅子で失禁、その他、失禁、失禁……、いやもうこの間3年分くらいの失禁を経験した (;゜Д゜) 。
 その後お腹のほうは落ちつき、曲がらなかったほうの足は120度曲がるようになり、病院外周もこなし、スロープも上り、外出、外泊を経て1ヶ月半で無事退院した。
 退院はしたものの、入院中、黒いかさぶたが剥がれないままの踵の褥瘡のせいで、訪問浴と訪問看護をお願いすることになった。退院後、総合病院の皮膚科に通い、かさぶたを剥がされて3ヶ月、やっと肉らしきピンク色の皮膚が見えて来た。褥瘡はあっという間に育つが、治るまでは長い、本当に長い (゜Д゜)ノ。 車椅子のステップの上に薄い板をガムテープでぐるぐる巻きに止め、食器磨きの白いスポンジを貼り、踵を浮かすように乗せている。痙性で足が外へ外へと動くため、ダイソーで買った簡易枕(1個300円)をひざ下へ挟むように巻いている。右足は靴を履き、褥瘡の左足は靴下のまま。これで電車に乗り県内どこへでも出かけている。空いていれば座席に足をのせて踵を浮かせている。こういう場合ローカル線は便利である。乗客数が少ないもの……(^^;) 骨は3ヶ月でくっつくけれど、褥瘡は半年かかるとか!? 「なって半年?」と聞いたら、「退院してから半年」だと言う。
 夢はかなえたが、代償は大きかった。代償と思えば悲しいが、いい経験だったと思えば何てことはない。これからも色んなことに挑戦していきたいものである。
 追伸:入院の副産物? ダイエット成功(^_-)-☆ 7kgやせたどー\(^o^)/

香川県:○○丸子



 『臥龍窟日乗』-42-アグレッシブ・リハ10年の決算〈1〉 


 私が台湾で交通事故に遭ったのは2004年1月12日だった。(拙著『ワラをも掴め』参照)。今年の1月は、だから13回忌になっていたかもしれない。三つの病院、二つのリハビリ病院を転々としたが、医師からは「永くて5年」といわれた。
 12年も「憚(はばか)った」のは不幸中の幸いが重なったというほかない。受傷したのは高速道路上だったが、台湾最大の病院まで車で10分だった。執刀医がアメリカ帰りで、相方の医師が手術中になんどか匙(さじ)を投げたのを、「ダメモト」で頑張ってくれた。
 命は助かったものの、受傷後の3年は身体的にも精神的にも本当に辛かった。何故あのとき死ななかったのかと、運命を恨んだものだ。その一方で「このまま死んでたまるか」という強い意志も残っていた。なんどもリハビリを願い出たが、担当医からは「あんたは呼吸強化が優先だ」といなされた。
 一度、損傷を受けた脊髄は元には戻らない、という神の声が医学界には蔓延(まんえん)していて、リハビリなんて考えないほうがいい、と医師たちからは言われたものだ。
 民間療法だがアグレッシブ・リハなるものをやっている人が小樽にいると知ったのが、2006年の夏ごろだった。医師がやっても無駄と決め付けているのに「そんなはずはない」と小樽へ駆け付けたのが、2006年10月12日だった。受傷から2年9ヵ月が経っていた。
 アグレッシブとは「積極的な」とか「攻撃的な」という意味だが、完全四肢麻痺の私を無理やり立たせようとしたり、屈伸運動させようとする。3年近くベッドに横になっていた私には、全身の骨格が崩れ落ちそうに思われた。長期の寝たきり生活のせいで、体重は40キロ近くも減り、両足の脛(すね)は筋肉が削げ落ちて枝のようになっていた。
 この秋には、アグレッシブ・リハを始めて満10年になるが、その成果があったのかどうかを記さねばならない。10年前にアグレッシブ・リハの効用を煽(あお)った私の義務だと思うからだ。
 リハビリの経過をたどる前に、私の負った症状を細かく提示しておく必要がある。頸損・脊損は、たとえば100人の患者がいれば、100通りの症状があると言われる。したがって、これから述べるのは私個人の辿(たど)った経緯であって、普遍的なものではないことをお断りしておかねばならない。
 台湾の高速バスに乗車中、居眠りしていた私は、バスが渋滞に巻き込まれたのを見届けたうえ、階下の荷物置き場に下りて行った。バスが二重構造になっており、トイレは荷物置き場の脇に設置されていたからだ。降りてみて驚いた。一階の天井は胸辺りまでしかない。腰を折って前屈みの姿勢で2m離れたトイレにたどり着くしかない。
 引くに引けないと思案していたら、バスは急発進した。私の手はトイレのドアノブに数cmの所だ。驚いたことにバスの運転手は急ブレーキを掛けた。私の身体は荷物置き場のなかを数メートルもすっ飛び、運転席の後ろの壁に激突した。
 かくして私は頸髄損傷C3−4と診断され、完全麻痺の重度障害者となった。人間の中枢神経は、脳髄の下から仙骨までのびているが、上からC1−C8、T1−T12、L1−L5、S1−S5と区分けされている。上であればあるほど神経の支配部位は広くなるから、通常、症状は重篤とされるが、これがそもそも誤解のもとになる。
 私の友人にAさんという方がおられるが、彼の症状はC2−C6と聞いていた。C2とかC3というと呼吸にダメージを受けて、自発呼吸ができない。予想できるのは人工呼吸器を携帯しての外出だ。
 初めてAさんにお会いしたとき、私はAさんの悲愴(ひそう)な姿を想像していた。ところが現れたAさんは肩の筋肉が盛り上がり、右腕を持ちあげて食事をしておられる。びっくりしている私に、笑いながら彼は説明した。
「C2と言っても、上からの落下物が斜めに入ってC6で止まったんです。だから症状はC6と同じなんです」
 問題は、損傷の部位もさることながら、脊髄に対してどんな角度で、どんな強度で、どれくらいの深さで損傷が入ったかなのだ。         (つづく)
 

千葉県:出口 臥龍

●ひとくちインフォメーションに『ワラをも掴め』は紹介されています。
http://www.normanet.ne.jp/~hagaki-t/pcc138a.html
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