はがき通信ホームページへもどる No.145 2014.2.25.
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<特集!「はがき通信」懇親会in広島2013(その2)>

 前号に引き続き、昨年9月27日(金)〜29日(日)に開催された
広島懇親会のご投稿(後編)をご紹介いたします。




 特集 はがき通信懇親会in広島に参加 

56歳、C4、頸損歴20年目、人工呼吸器、電動車イス使用

 はがき通信懇親会には、今年で4年連続参加させていただきました。幹事の方々はじめ御協力の皆さん、また参加された皆さんにはお世話になり、本当にありがとうございました。広島の観光としては瀬戸内海クルーズ〜厳島神社〜原爆ドーム・記念館に行きましたが、今回はトラブルが多かった印象です。本稿では、反省を兼ねてトラブルのおさらいをさせていただきたいと思います。

 ◇新幹線予約遅れ
 新潟から東京経由広島を新幹線で行くことは当初から決めていたのですが、予約で駅に行ったのが半月ほど前で、指定席は帰路の東京—新潟しか取れませんでした。結果として、往路の新潟—東京は自由席車間のデッキで過ごすことになりました。私は車イスだからいいのですが、付添さんは小さい折り畳みの携帯用の椅子を使わざるを得ませんでした。また、東京—広島は付添さんの指定席が離れていたところを車掌さんが当日の乗客の方にお願いして、座席交換してもらってことなきを得ました。帰路の広島—東京は車掌さんに頼んで多目的室を利用させてもらいましたが、車イスが大きすぎて通路に頭が出ていました。いろいろな体験ができて面白かった面もありましたが、新幹線は1か月前に予約すべきと再認識しました。
 余談ながら、東京駅での乗り継ぎを何年かぶりに経験したのですが、エレベーターではなくスロープになっていて、とてもスムーズだったのには驚きました。

 ◇起立性低血圧
 今回の旅行前は、寝起きに起立性低血圧に悩まされておりました。1日目は始発の新幹線に乗る予定で、起立性低血圧のことも考慮して、早朝3時半起きでした。着換え〜車イス移乗も5時頃に終わって、あとは起立できれば出発できるようになってもなかなか低血圧が治りません。そして、始発に間に合わなくても仕方がないさっと思った頃、いきなり低血圧が治って始発に間に合ってしまいました。
 2日目には瀬戸内海クルーズに予約していたのですが、朝食を終えてから起立性低血圧に悩まされてしまいました。クルーズに御一緒する皆さんが出発されるのを横目に、私はホテルのロビーで車イスのギャッチアップ・ダウンを繰り返していました。そしていきなり回復して、広島電鉄で港に向かうときには、クルーズの出発に間に合わないことを覚悟していましたが、これにも間に合ってしまいました。ご心配をおかけした皆さん、すみませんでした。
 旅行から帰ってからのドクターのお話では、間に合わないと思う危機感が血圧を上げたのではっということでした。未だに上手に血圧をコントロールできないでいます。




 ◇厳島神社での迷子事件
 2日目の瀬戸内海クルーズのBBQでお腹一杯になった後、私は宮島港で降ろしてもらい厳島神社の見学に行きました。M先生やIさんやHさんも一緒でした。さすがに世界遺産で多くの観光客でにぎわっていました。




 参拝も終わって帰り道、付添さんが私のお茶を買いにお店に寄っている間に、何の気もなく私は一人で先に進んで行きました。道も一本で三々五々目指すところは桟橋しかないので、途中で待っていれば追いついてくるという目算でした。しかし、付添さんは相当慌てたそうです。M先生等に電話したり、たまたま出会った懇親会に参加した方に私を発見したら連絡してくれるよう頼んだり……私を見つけてからも、付添さんの興奮はしばらく収まりませんでした。




 ◇車イスのバッテリー切れ
 2日目の夜は、Oさんのお誘いで広島名物お好み焼きを食べに行きました。昨年の福岡では体調不良で夕の会食を断念せざるを得なかったので、私にとってはようやくの念願達成でした。それはよかったのですが、ホテルからお店に行く途中で車イスのバッテリーが切れてしまったのには参りました。実は、車イスは旅行1週間前に来た新車で、バッテリー容量までは把握していなかったのが敗因です。結果として、お好み焼き店からホテルまですべてを、付添さんに重い車イスを押してもらうことになってしまいました。

 ◇最後に
 総じて今回の広島旅行は、付添さんにとって受難の旅になってしまいました。旅行中M先生にも、旅行後もOさんから、付添さんを大事にするように御注意をちょうだいしましたが、本当にその通りであることを再認識する機会になりました。皆様いろいろな意味でありがとうございました。(2013年10月30日記) 
 

新潟市:T.H.


 特集 懇親会写真だより 



●新幹線のぞみ号「多目的室」。夏の設定温度は23度なので保温対策が必要


●ANAホテル裏の店で食べた「穴子の刺身」950円


●Aさんのお姉さん。肩こり解消法などを講演・実践


●C8損傷レベルでサキソフォンを吹くTさん


●C4で前傾姿勢を取りながらカラオケを熱唱するというMさん


●めずらしい呼吸器をつかってしゃべるBさん


●一休みするO幹事。83名の団体旅行をまとめるのはさぞや大変でしょう 


広島港船上ランチクルーズから見た厳島遠景。山稜が横たわった女性の姿に見える。白いところが「目」
 

東京都:F川



 『臥龍窟日乗』 —6本目の指—


 30代も半ばを過ぎた頃だった。立っていると左足の裏がやたら痺(しび)れる。神経科や内科の医者に診てもらったが原因が分からない。
 私の左足は、物心付いた頃から小指が潰(つぶ)れ、平べったくなっていた。足裏の皮をひっぱって、表に回しているから、上から見ると小指の縦半分が白くなっている。
 幼児の時に、なぜ形が変わっているのか、なんどか母に訊いたことがある。
 「自転車に轢(ひ)かれ小指が潰れたんだ」
 という返事だった。
 子供というのは残酷なもので、体育の時間に女子の一人が、
 「きゃー、気持ち悪い」
 と叫んだことがあった。何人かが群がって覗(のぞ)き込む、
 「自転車に轢かれたんじゃ。お前らのオ○コとそっくりやろが」
 と嗤(わら)って見せるふてぶてしさが、私にはあった。ただ、指の変形は自転車の事故によるものだとばかり、無邪気にも信じきっていたのである。
 痺れは日増しに強くなっていった、立っているのが辛くなって整形外科病院に行った。医師は60年配の、布袋(ほてい)さんのような人だった。「どれどれ」と言いながら、触診を始めた。思い当たることでもあるのか、
 「レントゲンを撮ってみよう」と唇を引き締めた。
 「やっぱりそうだ」出来上がったフィルムを指差しながら、医師は言った。「あんた、指が6本あったんだよ。ほれ、ここに小骨があるだろ。これが神経を圧迫していたんだな」
 「すると奇形だったんですね」
 思わぬ展開に、いささか動転していたかもしれない。
 「昔は、6本指の男の子は皇帝になるといわれたものだがね。なまじっか取っちゃったから、皇帝にはなれなかった。残念だったね。ガッハッハッハ」
 もちろん皇帝云々の話は、私のショックを和らげようとの気遣いである。私は、奇形であったということより、それが35年間も《秘匿(ひとく)》されてきたことに戸惑いを感じていた。
 病院は都内の大きな交差点の角にある。病院の前に、ボックス型の公衆電話があった。実家に電話をかける。母が出た。
 「オレの左足の指って、6本あったらしいね」
 医師との遣り取りをコミカルに話した。返事はない。しばらくたって母は、
 「ごめんね」
 と呟(つぶや)いた、努めて湿っぽい話にならないように、気を付けたつもりだが、受話器の向こうからは「ヒクッ、ヒクッ」という声が聞こえる。母は哭(な)いていた。
 ロクな人生ではなかったと思う。
 戦中、2歳年下の弟・勇が、17歳で少年兵を志願した時、母以外の家族が反対した。
 「本人が行きたがってるんやから、行かせればええ」
 と《後押し》したのは、母一人だった。その勇叔父は1年後、台湾沖で魚雷に遭い戦死した。
 「お前が勇を殺したんじゃ」
 と親兄弟に罵(ののし)られた。
 「戦時中、敵とは全く遭遇しなかった」という父と結婚。私と、2歳下の弟が生まれた。父と母の間に、戦争をめぐるどんな思惑違いがあったか知らない。父は毎晩のように大酒を呑み、深夜に帰宅しては母を殴り蹴った。母は私の弟を背負い、私の手を引いて、10キロも離れた母の実家に避難した。夜中の2時、3時のことだ。
 〈母は若死にをする〉
 少年の頃の私は、ずっとそう思い続けた。
 今年92歳になる母は今、病床にある。一昨年5月、ベッドから落ち大腿骨を骨折した。手術すれば、麻酔によって認知症が出るかもしれないと医師に言われた。放置すれば命に係わる。
 週に一、二度、見舞いに行くと、頭をのけ反らせ、大口を開けて鼾(いびき)をかいている。人前でそんな姿をさらす人ではなかった。主治医は、もう元に戻ることはないだろうと言う。
 私が頸損になって2年間の生き地獄を、今母はさまよっているに違いない。まだまだ長生きをして欲しいという気持ちと、もういい加減、苦しみから解放してあげたいという気持ちのはざまを、私は今、揺れ動いている。          

千葉県:出口 臥龍

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