『臥龍窟日乗』 —アグレッシブリハ、危険も—〈1〉
No.137にアグレッシブリハについて書いた。この号が出来上がる頃には、私のリハ歴は丸7年になる。バカの一つ覚えのように、毎日午前2時間、午後1時間の散歩、夜2時間のリハは続けている。
1年を通じて、休むのは2日か3日くらいのものだろう。7年やって何か変わったか? 何も変わらない。手も足も指も、ピクリとも動かない。身体を強制的に動かすわけだから、廃用性内臓疾患のようなものはない。だが肝腎カナメの手足は微動だにしない。
私は受傷歴10年半になるが、頸損を10年もやっているといろいろなことが見えてくる。勘違いも多々あった。
脊髄損傷も頸髄損傷も脊髄を損傷して起きる障害だが、後遺症は誰一人として同じではない。それは脳から背骨に沿って伸びる脊髄の「どこを、どのような角度で、どのくらいの深さ損傷したか」同じ人は一人としていないからだ。
私の後遺症について、いくら細かく書いても、それは『私の』後遺症でしかない。だが症状の近い人にとって『参考』にはなるはずだ。後続の方たちのためには、損傷条件は出来るだけ細かく書かねばならないだろう。
2002年、満56歳の時、出張中の台湾で事故に遭った。高速バスに乗車中、急ブレーキをかけられ、首を捻じるような形で転倒した。
自分では知らなかったが、後縦靭帯骨化症(こうじゅうじんたいこっかしょう)という持病があった。骨化した後縦靭帯が、首の捻じれによって脊髄を圧迫し、損傷を与えた。
裁判の過程での計測では、首の部分の脊髄の直径19ミリ中11ミリが壊死(えし)していたことが分かった。狭窄率(きょうさくりつ)は58%強と出た。
損傷部位はC3−4、もしくはC4と診断された。
脊髄を守る脊椎は、上から頸椎 (C1−7) 、胸椎 (T1−12) 、腰椎 (L1−5) 、仙椎 (S1−5) 、尾椎 (1)と呼ばれる。損傷部位によって麻痺の範囲が限定される。上になればなるほど重症とされるが、実はこの通説がなかなかの《曲者》でもある。曖昧(あいまい)さに《インチキ性》が介在してくる。
分かりやすく書き直してみよう。
「どこを、どのような角度で、どのくらいの深さ損傷したか」と前半に書いたが、同じC1の二人でも《損傷度》によって症状は雲泥の差となる。
私の親しい友人にAさんがおられる。AさんはC1−7と聞いていたので、さぞかしひどい状態だろうと思っていた。会食の機会があって初対面となったが、驚いたことにAさんは、スプーンを使ってどんどん食事を進められた。
普通C1と聞くと、まず生きてはいられないだろうと想像する。唖然(あぜん)とする私にAさんは「落下物を斜めに受けて、C1からC7までざっくりやられたんです。実際はC6くらいでしょうか」とおっしゃった。
人格者であるAさんには何の関係もないが、こういう曖昧さに、世の《インチキ性》が介入してくる。
同じように『完全麻痺』『不全麻痺』という言葉も、いい加減なものだ。「これだけ医学の発達した世にあって、ボーダーラインがはっきりしないとは何事だ」と永いこと考えていた。しかしこれも「どこを、どのような角度で、どのくらいの深さ損傷したか」ということに尽きるのではないか? 中枢神経のどの部分が、身体のどの部分を宰(つかさ)どっているかなんて、皆目分からないのではないか?
まさに『神の領域』なのだろう。
今では「立ったり歩いたり」なんてことは一切考えないことにしている。それでも、なおかつリハビリを続けるのは、iPS細胞の臨床が開始された時、筋力は付けておきたいと願うからだ。幸いにしてまだ拘縮は起きていない。
体脂肪率と同じように、筋肉量を測定する計測器が開発されたと聞いたのは昨年の夏だった。半年ごとに計測することにして、昨年8月、今年2月、今年8月の3回、測ってもらった。その過程でどえらい事故に巻き込まれることになった。(以下次号)
千葉県:出口 臥龍
私がストーマにした理由(わけ) 決断〜入院〜現在
約3年、考えに考え決断した手術でした。「本当にストーマ(人工肛門)にして良いのか?」「後で後悔しないか?」直前まで悩みました。受傷して約29年、地域で暮らし訪問看護での排泄、時々は失禁があったものの薬やオムツなどでそれほど支障が出ないように創意工夫を繰り返してきました。しかし、ここ10年くらいから排泄に非常に時間を要し失禁も多くなり、時には大切な会議を失禁のため「ドタキャン」することも多くなり、非常に悩んでいました。
以前より同じ頸髄損傷者の仲間から「ストーマ」について聞いていましたが、正直あまり良い印象は持っていませんでした。病気や事故などでしかたなくストーマにするイメージで「いくら排泄に悩んでいてもそこまでは……」
しかし、友人のストーマについての話や、手術、管理などを聞いたり、ストーマ生活者のホームページを見たりしていくうちにイメージが大きく変わりました。その中で気がついたのが(私もそうですが)やはり良いイメージを持っている方が少ないこと。そして、ストーマ生活者は比較的「良かった」「手術して正解」という声が多かったものの、「友人の友人から聞いた話」「同じリハセンターの知り合いが聞いた話」など悪い話は拡がるもので消極的な話も多く、混乱し決断には時間がかかりました。
昨年の初冬、褥瘡(じょくそう)の専門であり、皮膚管理や排泄管理の学会で活躍されている大学教授にストーマに症例を持っている病院を紹介していただき、さっそく外来を受診、その場で腹部CTなど手術に必要な事前検査、担当病棟のスタッフと頸髄損傷についてと必要なケアについても説明、打ち合わせができました。良い方向に進んだものの、やはり看護師とはいえなれている介助者以外のケアや2週間ほど家を空けることにも不安がありました。
その後、担当医、病棟、ベッドの空きなど考慮し手術日が決まりました。2日前に入院、直後から絶食は辛かったものの、看護師皆さん良い方ばかりでマウススティックのセッティング、頭を掻(か)いてくれたり、普段の業務以外のお願いも気持ち良くお願いできました。
病室にiPadを持ち込みインターネットやメール、Skypeなど普段と同じように外部とのつながりを持てたこと、またエアーマットも持ち込んで、少しでも快適さを求めたことも正解でした。
主治医もストーマの説明、手術の説明、朝夕病室に来ていただき本当に気を配ってくださり、一番不安な時期に安心できました。「ここまできたらやるしかない」と思いながらも、やはり「手術は不安」でした。
約90分の手術の後、病室にもどりお腹を見せてもらいました。正直、グロテスクです。その後もストーマの袋(パウチ)交換や皮膚管理など教わり、介助者数人にも病院に来てもらい専門看護師からポイントなど教わり、退院に備えました。流動食からおかゆ、常食と変更され、発熱もなく「せっかく病院にいるのだから」と、胃カメラやその他の検査も行うことができました。
自宅に戻ったあとも訪問看護や介助者と便の捨て方や、パウチに抵抗のないようにズボンを工夫したり、1ヶ月くらいはいろいろ試行錯誤を繰り返し、だんだん慣れてきて生活の中でのストーマ管理も板についてきました。
「失禁してパンツを汚す、それを介助者に清拭、交換してもらう」その心配がない。以前の排泄や失禁に対しての考えがまったく嘘のように変わりました。外出しても以前は冷たいもの、生ものは「もしも……」のことを考え控えていましたが、友人と食事したり旅行先での名産物こそ食べたい。それを安心して実現できることに、本当に「思い切って良かった〜」を実感しています。
今回の手術で得たものは、「排泄の安心」以外にも検査ができたことや、改めて介助者への感謝と自己決定の大切さを再認識できました。
これから上手くストーマと付き合っていかなくてはなりません。月に1度、ストーマ外来に通って専門看護師さんの診察を受けています。これから先、リスクもたくさんあります。
頸髄損傷など排泄に障害のある方にストーマによる排泄が合っているなど言いたいのでなく、ひとつの排泄法、ひとつの選択肢として参考にしていただければと思います。
最後にいろいろアドバイスをしてくれた頸髄損傷者の皆さん、お世話になった担当医、病院スタッフの皆さまに心より感謝いたします。
広報担当:麸澤 孝
どたばた、パパ!(その6)『歯が生えたぞ〜!』
桃太郎が生まれて7ヶ月が経ちました。身長70.5cm(+18.5cm)体重8650g(+4760g)順調にすくすくと育ち、親としては嬉しい限りです。この頃になると、手と足の観察をすることが少なくなりました。どうやら、手と足を認識できるようになったようです。手指の動きが活発になり、側にある物を手当たり次第に引っ張ってなめてみたり、手に持ちながら観察するようになりました。
おもちゃよりビニール袋、コード、ヒモ、電話などを取ろうとして懸命に腕を伸ばしてみたりしました。物が取れなかったり、気に入らないと、「ウー!」「ウギャー!」「アェー!」と大声で奇声を発し、手足をバタバタとさせ怒りまくります。嬉しいときは、満面の笑顔で手足をバタバタさせるなど、感情表現が以前より増して豊かになりました。仰向けからの寝返りは、怖さが先に立つようで体が横になるぐらいしかできませんでしたが、腹ばいからの寝返りはようやくできるようになりました。お座りは、1分ぐらいは自分で座れるようになって、箱などを叩いたりして遊べるようになりました。つかまり立ちも少しできるようになり、「ハイハイより早く歩けるかもね」と話をしていました。とにかく、子供の成長の速さには驚きの連発で、男の子とは言えあまりにも悪たれ過ぎに先行き不安になることが多々ありました。
6ヶ月を過ぎた頃から桃太郎が、「ぶー」とふきながら唾を吐き始めました。最初は、「何だろう?」「機嫌が悪い?」「どこか具合が悪い?」と心配しましたが、時期的に歯が生えてくるせいか痒(かゆ)いときに見せる仕草みたいで一安心しました。「ヤッター」と思い妻が、口の中を見たり触ったりしましたが、まだ生えてくる気配はありませんでした。ちょっとだけガッカリしました。
桃太郎は、日に日に増して「ぶー」「ぶー」とふきながら唾を吐く回数が増えていきました。「よっぽど痒くてしょうがないんだろう」と思うと、可愛そうになり頭を撫(な)でてあげました。2週間ぐらい経ったある日、ついに桃太郎に歯が生えました。1ミリぐらい「チョコン」と顔を出していました。パンパカパ〜ン『おめでとう! 記念すべき1本! これでますます美味しい物が食べられるようになっていくね』。その後は、上の歯が生え、次に下の歯が生えました。妻は、「下2本が生えた後に上の歯が生えると思っていたのに桃太郎は、上の歯が早いんだね」と笑顔いっぱいの顔で言っていました。
桃太郎の離乳食の進み具合は、大きい問題もなく順調に進んでいました。たまに食べさせるタイミングを逃し大泣きしましたが、ミルクを多めにあげて解決していました。私たちは、好き嫌いが出てメニューを考えるのに苦労するんではないかと心配をしていました。ところが、桃太郎ときたらそんな心配お構いなしに、幸せいっぱいの顔をして何でもお利口に食べてくれました。妻は、「作り甲斐があり嬉しい、もっと美味しい物を作るね」と楽しそうに離乳食作りに精を出していました。私は、念願の桃太郎に食べさせることができるようになりました。毎日、「はい、あ〜んして」と言いながら口の中に運んでいました。桃太郎の、ニコニコした顔や幸せそうな顔をしながら食べている様子を見ながら食べさせることはとても楽しく、幸せな時間でした。
離乳食も日に2回朝、晩に増やす時期になりました。「増やして大丈夫かな?」「どのくらいの量から始めようか?」「吐いたりして具合が悪くならないかな?」など心配がつきませんでした。最初は、少し少なめにあげましたが「ウェー!」「ウェー!」と叫んで超不満顔。もっとちょうだいとおねだりする始末! 私たちの心配は、桃太郎には無用だったようでした。笑顔いっぱいの顔で、何の問題もなく食べていきぷくぷくのまん丸顔になりました。
私の悩みは、朝、晩ヘルパーさんが入ることからくる気疲れ、子育てや家事、私の介護などからくる妻の疲労やストレスをどう解消するかでした。妻と話し合い、妻がリフレッシュするために頻繁に実家へ帰ることにして、様子を見ることにしました。その間、私は10日ぐらい1人暮らしです。朝、晩ヘルパーさんが来てくれますが、昼間は1人です。買い物(ちゃんと栄養を考えてお惣菜を選ぶ)や昼、夕飯の支度(電子レンジで温め、お惣菜のラップを開ける)などを自分でしなればなりません。また、私が病気などにならないように気をつかうなど結構大変です。
大変な中、自分もリフレッシュし、疲れを取ることができますが、4日ぐらい経つと桃太郎に会いたくなり、とても寂しい気持ちになります。今でもそうですが、私にとってはそれが一番辛いことです。離乳食が始まると桃太郎の腹持ちが良くなり、夜起きる回数が減り少し楽になりました。桃太郎が成長していく中、親として何ができるか考えてきました。しかし、私がどうあがいてもできないことが多いのが現実でした。『できない歯がゆさ』や『障害に対しての後悔・憎しみ』など、負の思いが込み上げては落ち込んでいました。しかし、それでは何の解決にもなりません。子育ては待ったなしなのです。親として、何ができるのか考えなければなりません。桃太郎のつかまり立ちは、バランスを崩したときに対応できないのでできませんでした。離乳食を食べさせるのは、小さいスプーンを何とか指に引っ掛けて持てたのでできました。工夫すればできることもあります。
悩みは尽きませんが、成長に合わせてできることを探すことだと気付きました。そうすることで自分に自信がつき、少しずつ前向きな気持ちになりました。その後、離乳食を食べさせるのは私の担当になりました。
パパさん
重力3分の1の世界
この海の中に私は潜るのか。船の上から見渡す海は青一色。キレイという言葉の最上級。
1年間プールで週5回泳いできたのだから大丈夫。きっと大丈夫。頸髄損傷になってからの初めての挑戦だ。体温調整ができない私のダイビングは15分。たった15分ではなくてスキューバダイビングを許可して診断書を書いてくれた主治医の勇気や、毎日プールに付き合ってくれたヘルパーさんたちの顔が浮かんで感謝の気持ちで胸がぎゅーっと締め付けられた。みんなのおかげで私は沖縄の海までやって来れたんだ。
15分潜っていっぱい目のフィルムに焼きつけよう。見たことのない水深10mの世界はどうなってるんだろう。みんなに見せるためのカメラのシャッターのボタンうまく押せるかな。右の肺がなくっても、頸損C3でもやろうと思えばきっとなんだってできる。それを1番に証明したかったのは自分にだった。
船に30分揺られ、いよいよ潜る時がきた。
行ってきます!!
まだまだ半分もきていない。
もっともっと!
着いた—————————!
かわいい——?
カップルかな——————!
かわいい輪っか?
うわ——————!
海の中はこんなに自由なんだね!
私の身体も軽い。手足がこんなに自由に動くなんてね—————
ハリセンボン発見!
ちょっと怖—い・・・・
見て見て!
クマノミだよー。かわいいよー?
なんだこれ——————!
海のつくしかな? 後で聞いたら珊瑚の養殖だった。
日本中で売られているほとんどがここの珊瑚なんだって。
タイムリミットの15分がきてしまった。
手もかじかんできて、身体は冷凍庫に入っているかのように冷えきっていた。
海の大冒険楽しかったなー。
また来るぞ!
帰りの船からの海は夕日でキラキラ輝いていた。
私は感無量で言葉を失っていた。
みんな、みんな、本当にありがとう!
感謝。
ミーシャン
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