Tさんを偲んで
「はがき通信」を通じて親しくなった福岡のE.Tさんが、8月に亡くなられました。 数か月前から、車椅子に座っていることやベッドでのギャッチアップさえ辛いと言っておられ、しばらく入院をされていましたが、特に原因は分かっていなかったようでした。 それでも少し前に退院されたと聞いていましたので、急な訃報に涙があふれるばかりでした。 Tさんと出会ったのは、私がまだ受傷して間もない頃でした。「はがき通信」の存在を知り、妻が購読し始めて(私はまだ読むことさえ拒絶していました)投稿したようです。妻の投稿に返事を下さったのが、Tさんの奥様でした。 当初は妻と奥様だけが親しくしていましたが、私が在宅療養を始めてからは、年に1、2度お互いの家を訪ね合うようになりました。 Tさんは、積極的に表に出る方ではないようでしたが、奥様いわく「Iさんと会う時だけは喜んで出かける」と言ってくださり嬉しく思いました。 昨年の福岡での「はがき通信」懇親会に久しぶりに出席しましたが、Tさんも珍しくお昼だけ出て来られました。一緒に食事をする時に、今までにないほど頻繁に車椅子を倒してもらって辛そうでした。 その時お会いしたのが最後になりました。 Tさんは病気による手術の後遺症で頸損になられ、30年近く精一杯生きて来られましたが、その苦しさから解き放たれて心身ともに自由になったことと思っています。 安らかにお眠り下さい。心からお悔やみを申し上げます。 熊本市:K.I. 盲腸ポート造設の経過報告
私は頸損歴30年(C-4.5、辛うじて両肘を曲げることができます)、53歳、ちょうど震災の翌年、昨年(2012年)の1月に盲腸ポートを造設してきました。頸損者の排泄障害、排便困難はよく耳にします。その改善策として、人工肛門と盲腸ポートが、私の中では頸損者や関係者なら大方ご存じに違いないくらいの身近な情報として頭に入っていました。人工肛門に比べれば盲腸ポートのほうが格段に自然体に近く、ケア管理も簡単です。なによりも「ダメだったら元に戻せば良い」というのは気持ち的にもとても楽です。このように魅力的に思える盲腸ポートなのですが、実際には情報はとても少なくて、私の地域のドクターは「盲腸ポート」という言葉すらご存じではありません。 「盲腸ポート」を検索するといくつか出てきますが、その中でも最も分かりやすい情報源となるのが以下の東西2大サイトかと思います。 ◇大阪頸損連の『頸損だより 2005 春(№93)』 「特集1 排便の悩みを解消!?」盲腸ポートについて知ろう〜高槻病院 家永先生に聞く〜 http://www.okeison.com/kd/093/003.html ◇盲腸ポートの仕組み図・病院のホームページの解説図によると http://www.grn.janis.or.jp/~chuchan/mouchouport.htm ここでも説明されているように、盲腸ポートはアメリカ生まれの新しい治療方法で日本では2002〜2003年に手術が始まったばかり、2005年時点でですが、実施している医療機関はまだ限られているとのことです。「Q31 将来的に他の病院で行われる可能性はあるのか。」の回答として、「今、日本で主にしているのは4カ所。去年(2004年)学会で発表したので、ある程度は広まるだろう。実際には他の病院ではまだ取り組まれていないと思う。今までされていない治療なので、最初のコツとか感じとか、ある程度慣れていないとできない面がある。」 この情報から10年近く経っておりますが、その後の広がりと経過情報はまったくわかりません。私の場合、盲腸ポート造設を真剣に早急に決断しなければならないという時に、幸運にも身近に造設された方がいらっしゃって生の声を聞くことができました。その方からの情報も、一歩踏み出す大きな力となったのは間違いありません。盲腸ポートに関しては、「術後直後は大半がバラ色、それが時間経過とともにどう変化するのかが重要」という課題が指摘されております。私は反対に、術後直前までは良い情報ばかりが頭にありましたので、術後直後は目の前真っ暗という意外な展開がありました。計画的排便がよりスムーズになるための排便時間の短縮、介助者の労力と時間の軽減が私の大きな目的でしたのに、盲腸ポート造設後の第1回目排泄に半日もかかってしまって相当愕然(がくぜん)としたのを覚えております。もちろん最初からうまくいくはずもなく、一人一人個人差があるのは当たり前のことです。今回はそこのところも含めまして、まだ術後2年足らずですが、私の盲腸ポート造設の経過報告をさせていただきます。 <以前との比較と今の状況> 私は、特別頑固な便秘ではありません。腹痛も自律神経過反射もひどくなるので、下剤も服用いたしてはおりません。普通の感覚と同じとは言えませんが、便が出るのも、溜まって苦しいのもわかります。苦しいという以外に、日常的に下行結腸なのかS状結腸なのか左脇腹が異常に痛く感じるので、食事時間も調整して1日置きに排便いたしております。それは今も変わらずですが、以前はベッドの上での排便で、浣腸して摘便という形で60mlの浣腸液を3〜4本使用、1時間半から2時間くらいかかっておりました。介助者もまた大変だったと思います。 盲腸ポート造設後ですが、前述しましたように、すぐにスムーズな排便が実現したわけではありません。自分の排泄スタイル・リズムを作っていくのには数ヶ月かかるのだそうです。とにかく、せっかくの盲腸ポートを無駄にはできないという思いもあり、数ヶ月かけてもいられないという焦りもあり、退院翌日からベッド上で試行錯誤開始、1日置きの排泄で5回目くらいに「もうトイレへ行っちゃえ」と。この日からおいおいに、ベッド上で盲腸ポートから浣腸を入れ(60mlの浣腸液1本半くらい)、苦しくなってきたらリフトにぶら下がってトイレへ直行、リフトにぶら下がったままトイレに座り、そこで排便、戻ってくるまでに約1時間、という私の排泄スタイルが定着してきました。「トイレで排泄」は受傷以来30年ぶりです。ただ、上から押し出されてスムーズに簡単に出る、というわけではなく、大腸の流れに沿ってお腹をよく擦りますし、以前ほどではありませんが摘便もします。 術後半年ほどしてからか、ガストロボタンのところから肉芽がどんどん盛り上がりはじめたのには驚きました。擦れて出血するのでとても困惑しましたが、近くの先生に診ていただき、硝酸銀処置をしていただきました。ほぼ月1回ペースで3度ほど処置を繰り返したところ肉芽はこぢんまりと落ち着いた状態になり、そのまま再度盛り上がることもなく現在に至っております。 <客観的にメリットとデメリット> まずはメリットですが、一番の目的である「排便時間の短縮、介助者の労力と時間の軽減」が実現しました。浣腸液も、ガストロボタンから入れる方がとても簡単です。本数もかなり減りました。トイレで排泄するために、汚物処理も簡単になりました。普通に流してしまうだけです。疣痔(いぼじ)が小さくなりました。 デメリットですが、やはり異物が入っているということで違和感はあります。肉芽もきれいに消えてはおりません。2〜3年置きくらいにガストロボタンを交換していただくのですが、近くに盲腸ポートをご存じのドクターがいらっしゃらないので東京まで通うことになります。身体的なことですが、トイレで排泄は貧血状態にもなり、ちょっとしんどいです。私は全介助ですので、リフトでトイレに直行できる、という環境が必要になります。 <なぜ人工肛門ではなく盲腸ポートを選択したのか> 最初にも申し上げましたが、できるだけ自然体に近い盲腸ポートのほうがたぶん身体的なダメージも少なく、ダメだったら元に戻せるというのは気持ち的にも楽であり、ケア管理が簡単であるということが全介助の私には必須条件であったから、ということでしょうか。ただ、それだけでもなく、幸いにもなんとか通える範囲にある東京に盲腸ポート造設手術をしている病院があった、ということが私にとっては重要な決断理由となりました。人工肛門は、あくまでも最終決断という思いが私にはあります。 実は、私の中で一番先に思い浮かんだのは、全国頸髄損傷者連絡会の機関誌「頸損」102号で詳しくご紹介されたばかりの、最も自然体に近いと思われる「経皮内視鏡的盲腸瘻(ろう)」でした。これは排便管理の原理、適応ともに盲腸ポートとまったく同じで、「経皮内視鏡的盲腸瘻を本邦導入された札幌時計台記念病院消化器センターの宇野良治医師によると、内視鏡で行うためいわゆる外科手術を必要としないのと、使用するチューブが細いのが盲腸ポートとの違い」とのことです。現在、国内で表立って経皮内視鏡的盲腸瘻造設を実施しているのは北海道の札幌時計台記念病院だけで、術後、定期的な受診およびチューブ交換(年1回)が必要となるのですが、私にはとても通院できる範囲ではないので諦めました。 経皮内視鏡的盲腸瘻造設(PEC;ペック)と順行性浣腸(ACE;エース) http://www.tokeidaihosp.or.jp/syoukaki/benpi/benpi03.html <最後に> 盲腸ポートを造設してからまだ1年と7ヶ月、外来で可能だというガストロボタンの交換もまだ一度も体験いたしてはおりません。経過情報としてはまだまだ未熟なものですが、たったこれだけの期間でも日々変化はあります。私の場合は年齢的にも体力的にもぎりぎりの時の決断でもあり、すでに老いとの戦いが始まっている我が身を実感いたしているので、これから、高齢化に伴うさまざまな異変、障害も同時進行で加わっていくものと覚悟し、試行錯誤は続くのだろうと思います。とても不安ではありますが、最近、「藤田恒夫の名著『腸は考える』(岩波新書)を読むと、腸の超能力に驚嘆するばかりです。」という言葉を目にしました。私はまだ拝読いたしてはおりませんが、腸には驚嘆するほどの超能力があるのかと思ったらちょっと不安が払拭(ふっしょく)されました。遅ればせながら、これから、第2の脳と言われる腸自身の働き、腸の超能力を引き出せるよう心掛けながら奮闘していきたいと思っております。 ※参考までに、私が盲腸ポート造設手術をしていただいた「青梅市立総合病院」からの説明を加えます。 【盲腸ポートとは】 脊髄損傷、鎖肛、二分脊椎等の先天性疾患、脳神経障害などが原因で起こる高度便秘の場合は、下剤・浣腸・摘便等の通常の内科的治療法を用いても排便のコントロールが困難です。このような腸管の神経障害が原因である高度な便秘・便失禁を改善する目的で行っているのが盲腸ポート手術です。大腸は口側から盲腸・上行結腸・横行結腸・下行結腸・S状結腸・直腸(大腸を専門的には結腸と呼びます)と連続していますが、盲腸ポート手術は盲腸に逆流防止弁のついた長さが約5〜6cmのガストロボタンというチューブを埋め込みます。埋め込んだチューブを盲腸ポートと呼んでいます。 個人差がありますが、体重あたり1〜2mlのグリセリン浣腸液をこのチューブから盲腸に直接注入し、強い刺激を与え、強制的に排便を促します。 【入院・手術について】金曜日手術 <手術2日前>入院し、採血・レントゲン・心電図等の検査を行います。昼食は普通ですが、夕食より手術に備えた食物繊維の少ない食事になります。腸からの感染を予防するために2日間、薬を飲みます。看護師より病棟の案内・入院生活と手術の流れの説明、麻酔科・主治医より麻酔・手術の説明を行います。 <手術1日前>おなかをからにするための下剤を服用します。 <手術当日>手術は全身麻酔。夕方から飲水が可能になります。 <手術後1日目>食事開始。点滴もあわせ行います。 <手術後2日目以降>点滴は徐々に減っていきます。通常3日目に盲腸ポートより浣腸液を注入し、排便を促します。この後は体調にあわせて浣腸液を使用します。 <手術後7〜10日>退院。 【退院後について】 身体の状態に応じて盲腸ポートより浣腸液を注入し、排便を行っていただきます。使用する浣腸液の量が少ないと排便に時間を要し、効果が不十分であり、多すぎる場合は下痢となります。個人個人で浣腸液の使用量・使用間隔は異なっており、安定するまでには数ヶ月から半年程度を要すると思われます。 盲腸ポート手術を受けた後は右下腹部にガストロボタンが常に存在することになりますが、入浴等の日常生活は普通に行えます。多くの方にボタン周囲の肉芽形成と浸出液が見られます。たいていの場合はガーゼ交換を行うのみで済みますが、なかには切除・焼灼の必要となる場合があります。このような軽い処置は当院よりの紹介状をお持ち頂き、お住まいの近くの医療施設にお願いしています。盲腸ポートに使用するガストロボタンはシリコンでできており、将来的には交換が必要になります。この処置は外来で行えます。 ※保険適応手術ではありませんので、費用は60万円ほどかかります。 2013年8月30日 福島県:T.S. ムカデと私
先日、ある出来事から十数年前のムカデ事件(笑)を思い出しました。 この事件の詳細は、「はがき通信」にも当時、投稿した覚えがあるのですが、思い出せる範囲で今一度書きたいと思います。 そのころ母はまだ現役で働いており、ベッドから車イスに乗せてもらったあと、母は出勤。朝食は祖母に用意してもらい、その後は自分のペースで洗面等の身だしなみを整え、自宅内でそれなりに過ごす……といったルーティンで日々過ごしていました。 そんなある日、洗面をしようとタオルを取ると、黒い物体が膝の上に落ち、サササッと素早い動きで腰の方へ這(は)って行ったのです。 サササッ…… ほんの一瞬でしたが、その正体が何であるかはすぐに分かりました。だって、ヤツは10cm×1cmくらいの黒々としたムカデちゃんだったから。「ムカデが頭の方に上って来たらどうしよう……」と思うと一気に血の気が引き、動悸(どうき)がしてきました。 しばらく凍りついた後、このピンチをどう切り抜けるか頭をフル回転。高齢の祖母に言ったところで心配をかけるだけなので、自宅から会社までの距離が近い、母に助けを求めることにしました。 いつもなら一こぎ二こぎでたどり着く自宅固定電話まで、ケイ損特有の腹式呼吸でヤツを刺激しないよう息を押し殺し、腕も大きく動かさず小きざみに車イスを進めて行き、母の会社にささやくような声で電話を入れました。仕事柄、会社の外に出ることが多い母ですが、その日は運良くつかまり、事情を話すとそれは大事とばかりに、思っていたよりも早く帰って来てくれたのでした。 それから、ムカデの攻撃におびえながら私をベッドへ移乗させ、捜索開始。私をベッド上であっちに向けてもこっちに向けてもムカデの気配なし。ではヤツは車イスか!と、ROHOクッションを持ち上げると、車イスの側面とクッションの間にヤツ発見!! 退治!!! 二人で胸をなでおろした次第です。 そんなムカデ事件から十数年たった今は、母は仕事を定年して家にいることが多くなり、私は家の外に働きに出るという、以前とは逆転した生活になりました。 というのも、私は社会福祉士という資格を取得後(参考:「はがき通信」№129〜131)、就労支援施設に行くようになったからです。 最初は、自宅から電動車イスで出勤可能な就労支援施設へ。施設長に「主に相談援助業務に携わりたい」と話すとウェルカム的な対応を受けましたが、実際に行ってみると、就労支援員とのやり取りで就労移行支援の利用契約を結ぶことになりました。 福祉的就労はじつのところ考えてはいなかったのですが、希望していた業務に携わらせてもらい、車での送迎や何かの時の介助をあまり気兼ねせずに頼める利点もあったため、「支援外雇用までの試験期間ととらえればいいや……」と契約を取り交わしました。 しかし、いざ行き始めると、これまでまったく手の付けられていない書類のデータ整理を頼まれ、「それらが終わったら次のステップに行きましょう」とのこと。私は「しっかりこなして確実にステップアップしよう」と思い、文句を言わずにデータ処理を完了しました。 そこで“おっしゃった仕事はちゃんとやり遂げましたので、次に進めてください”とばかりに交渉に入ると、「利用者が利用者の相談に乗るのは問題がある」「ウチはそれでなくとも(行政から)目を付けられている」と言い出しました。「ではなぜ私と支援契約を結んだんだ!(怒)」と思いながらも、ただ単に文句の多い障害者扱いされないよう、そこの施設で学べると思っていた就労支援のノウハウを自宅で独学(これまでやってきたことと変わらんやん!┐(-。ー;)┌)し、正攻法で交渉をしても、ぬらりくらりとした対応しか返って来ませんでした。「そういえば、その昔、物言う障がい者は嫌われる……って誰かが言ってたなぁ〜(と、遠くを見つめる)」 結局、この施設が薄気味悪くてたまらなくなり、とっとと退散しました。 その後、リハビリ施設に入所していた時の友達の紹介で、他の就労支援施設に行くことにしました。そこでも「まずは移行支援で……」という形で入ったのですが、今は支援から外れて臨時職員として働いています。しかも送迎付き♪ 仕事の内容は、利用者の話し&相談相手や、仕事のサポート、事業の事務作業etc.です。ここに来て、あの薄気味悪い施設でつちかったパソコン(主にExcel)スキルがメチャメチャ役に立っちゃったりして。“人生に無駄はない”とはよく言ったもんだ! ハッハッハァ〜。 さて、根は無口で無愛想な私ですが、職場ではテンションアゲアゲで人と関わっています。これはけっこう疲れるので、家に帰り着くや否やアゲアゲスイッチは切ることにしています。 そんなある日、仕事から戻り玄関に入ると、母が満面の笑みを浮かべ、目をパチクリしながら出迎えてくれました。玄関を開けた時点でアゲアゲスイッチを切っていた私は、一瞬の間を置き「あぁ……ハイ、ハイ……」と無表情であしらいました。 翌日、出勤前にいつものようにトイレへ行きました。私は膀胱瘻(ろう)をほどこしており、自分で尿捨てができるように小さな集尿器を膝の上に置き、家にいるときはミニタオルを膝にかけて集尿器を隠しています。(ちなみに、外出時はズボンの色に近い巾着を集尿器にかぶせます) 汚物流しに近づき、いつものようにミニタオルを外すと「ひぃぃいいっ!(声にならず)」心臓がキュッと縮みました。悪夢再び!! 集尿器にヤツ(ムカデ)がへばりついているではありませんか!!! でも、なんだか変。気を落ちつかせてよく見ると、それはヤツではなくツケマ(付けまつ毛)でした。このツケマ、前日に仕事から帰った私を、母が満面の笑みで出迎えた時にパチクリお目々に張り付けていたやつです。(爆!) 「ま〜た、どこやらそこやら置きっぱなしにして!」と腹が立ち、「キャー! お母さん、ちょっと来てぇ〜」と叫びました。母はトイレに飛んできて、私の指差すソレを見た途端、きびすを返して掃除機を取りに行きました。(吸い込むつもりか!(驚)) 掃除機を手に戻ってきたところでネタバラし。ふたりで十数年前のムカデ事件も思いだし、大笑いしました。 以前から母はツケマを付けてみたいと言っていたのですが、その時が初挑戦で、今のところ2度目がありません。今度は、私も母と一緒にツケマしたいと思いま〜す♪ おしまい。 福岡県:K.H. |
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