はがき通信ホームページへもどる No.130 2011.8.25.
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 腰折れ俳句(20) 


海の日は波の日砂と渚の日

背泳ぎの見知らぬ海へ出てみたし

争ひにもっとも遠き水中花

夏雲のひしめく音の聞こえさう

砂の城崩れて秋の兆しかな



          イラスト/K.S.

 カメレオンをイメージしてみました。イメージですから図鑑とは違います。絵について思ったり作品を仕上げたりしていると自分の知らなかった自分に出会います。自分は自分を知らない。ましてや自分以外の何も分かっちゃいない。ひとことで云うと「外は広く内は深い」。自分を掘り起こす作業はおもしろい。だからヤメラレナイ! 西瓜がおいしい。

熊本県:K.S.



 しばらくご無沙汰してる間に……〈中編〉 

C5−Bレベル

 ここで簡単に、私が入学した通信制大学の授業の受け方を説明すると……。
 (1)テキスト科目(T)
 学校指定のテキストを使って自宅学習をし、添削課題(レポート)と、年に4回行われる科目単位認定試験をクリアして単位を取得。
 (2)スクーリング科目(S)
 指定会場での面接授業。1科目を3日間(3日目の最終時間に単位認定試験を実施)で修得できる短期集中型の学習。
 (3)メディア科目(M)
 パソコンおよびブロードバンド環境を利用し、インターネットの「ビデオ・オンデマンド」を受講した後、科目単位認定試験を受ける。
 (4)実習(J)
 指定の社会福祉施設で23日間以上かつ180時間以上行う現場学習(社会福祉士の指定科目)。
 ……と、大まかに分類するとこのような形態の科目があり、これらを履修し、正科生として124単位(内S科目30単位)を満たせば卒業となります。
 次に、これらを受講した感想を述べると……。
 (1)テキスト科目
 卒業単位に占める割合が多い。添削課題をクリアしないことには科目単位認定試験を受けることができないため、計画を立ててコンスタントにこなしていかないと、一度にたくさんの教科の試験を受けなければならなくなるという泥沼状態に。
 ……科目単位認定試験は福岡市内の会場で13:00から開始。試験時間は1教科45分×自分が申請した教科数(最大8教科まで)で、その時間内であればどの教科からでもよいのでとにかく解いていきます(例えば2教科受ける場合、ある教科に60分割いたとしても、他の教科を30分で解ければセーフ)。
 ※私の中で母に頼ってもいいと思える回数、年に最大3回まで。
 (2)スクーリング科目
 私の住む北九州市の小倉から指定会場のある福岡市までは、車で1時間ちょっと。朝6時前にヘルパーさんに来てもらい、ペッドから車椅子への移乗や更衣などを済ませ、その間母は食事の準備。7時に自宅を出発し9:00〜19:30ごろ(うろ覚え)まで授業、21時過ぎに帰宅する×2日間(後に終了時間が少し前倒しの3日間に変更)。
 ……これが通信制大学の醍醐味でもあり、私の不安要素の一つでした。通学は母に頼み、授業中は施設内やその付近で時間を潰してもらい、何かあった時には呼び出せるような態勢をとりました。というのも、母が私にべったりと付き添っていたら、新しい仲間を作れそうになかったからです。唯一、昼食の時だけは母も加わり、おしゃべりに花を咲かせました。
 ※私の中で母に頼ってもいいと思える回数、年に2回まで。
 (3)メディア科目
 メディア科目は2教科履修したが、当時使っていたPCのブロードバンド環境では通信回線の速度も遅く、1コマ30分ほどの授業を見るのに1時間以上かかってしまうことも。
 ……「またフリーズ!?」と思ったら、授業を担当する先生の方がフリーズしてしまっている時があり、笑わせてもらったことがしばしばあります。そりゃ、カメラに向かって一方的に講義をしなければならないので、先生も大変だったことでしょう。
 余談ですが、課題が添削されて戻ってくる際に、点数だけ書いてよこされるのと、点数の他に“good”の一言でも添えてよこされるのとでは、その教科に取り組むモチベーションに違いが出ました(もちろん後者の方が上)。ですから、見えない相手とやり取りをする通信教育の中で、唯一相手がどんな人なのかを知ることができたメディア授業では、担当教員に愛着(!?)も湧き、課題作成やテスト勉強も他の科目よりは熱が入った覚えがあります。
 (4)実習については後ほど……。
 結局、私は4年間、科目等履修生として過ごし、2006年に正科生として入学しました。
 なぜ、4年間も科目等履修生としてやってきたのか……という理由はいろいろとありますが、その答えを出すには、なぜ正科生としてやっていこうと決めたのか……という理由を述べた方が早いです。
 この科目等履修生としての4年の間に、家庭生活では母が勤めている会社を定年退職し、祖母も自宅で看取ったこと。勉強面では、2級まで取得した福祉住環境コーディネーター検定試験の1級を取っておきたかったことと(一次試験は突破したけれど二次試験で落ちて、結局後回しにすることに)、卒業に必要なスクーリング単位(30単位)の半分を取り終えたこと(1年に2回しかスクーリングには出ないと決めていたので、1科目2単位×2回×4年=16単位を取得)。これらの理由が“正科生”になる大きなきっかけとなりました。
 2006年、科目等履修生で取得した単位(約30単位)を持ち込んで正科生となってからは、スクーリングの参加回数は1年間に2回で済んだものの、テキスト科目の履修数はこれまでより増え、けっこう忙しい日々を過ごしました。また、社会福祉士の受験資格を得るためには避けて通れない“実習”が、私の大学生活の最難関となりそうだったので、4年次に現場実習関連のすべての教科を充てるつもりで、3年次までにその他すべての単位を取りにかかったので、なおさらでした。
 そして、この計画通り、3年次でほぼ単位を取り終え、4年次、ついに現場実習に入ることに。(後編へ続く)

福岡県:K.H.



 故中島虎彦さんの故郷を訪ねて〈前編〉 


 故中島虎彦さんの文学展示館が虎彦さんの故郷・佐賀県嬉野町にできたと、彼の短歌集の出版などを手がけたYさんからお聞きし、松井先生といつか訪れてみたいねと話していた。本当は虎彦さんの生前に嬉野に行き、虎彦さんが愛した歌にも詠まれている“散歩道”を一緒に電動車イスで走ってみたかったのだが……叶わぬ夢となってしまった。「いつかいつか」と思っているだけでは旅行はなかなか実現できないので、今年の冬に「春になったら行くぞ!」と決め、松井先生にご相談した。そして、4月下旬の連休前の日程(2泊3日)で予定を立てることにした。
 新幹線にするか、飛行機にするか、宿泊先は、現地での移動はどうする?……などなど、決めてゆかなくてはならない。観光は文学展示館を見学することをまずメインに考え、後は当日のお天気にもよるし最初からあまり深く考えなかった。私自身は、佐賀には一度も行ったことがない。調べると、新幹線と在来線利用ではかなり時間的ロスになること、1日の佐賀空港発着便がとても少ないことがわかった。そこで、福岡空港から佐賀に行くことにした。




 以前から、もし佐賀に行くならH口さんに!と思っていた。頸損当事者で「はがき通信」の購読者でもあり、佐賀市内で「お世話宅配便《http://www1.bbiq.jp/npoosewa/》」というNPO法人の役員をされ、「移送も宿泊もお任せください」と言っていただいていたからだ。さっそくH口さんにメール。
 そして、所有されているリフトカーをお貸しいただけること(運転は瀬出井の介助者のIさん)になり、福岡空港まで送迎もしていただけるということで願ったり叶ったり。宿泊場所もご紹介いただき(嬉野温泉:和多屋別荘《http://www.wataya.co.jp/index.html》)、松井先生が楽天トラベルの会員になっていらっしゃって検索すると和多屋別荘も佐賀の宿泊施設一覧に含まれており、航空券+宿泊の格安パックにすることができた。結局、2泊とも宿泊は、和多屋別荘の展望風呂付きユニバーサルルームにした。頸損になってまともな(?)温泉に入れるのは初めてで、とても楽しみだった。
 2月に旅行計画を立てたのだが、3月11日に東日本大地震が起こった。事態が落ち着かないなか無事に行かれるのか心配でもあり、またこんなときにのん気に旅行になど行ってよいのか……一時は複雑な心境だった。しかし、九州でも地震の影響で宿泊客(特に海外)が減っていると聞き、個人個人が日常を取り戻し、経済活性化のためにも出かけることはよいことと思い、行くことに決めた。
 その後も計画停電や余震が続く不安な日々が過ぎ、旅行まで1ヶ月を切った4月初旬、ナント頸損になってから初めての39度超えの高熱を出してしまった。咳などもあり、インフルエンザと思いきや、受診した個人のクリニックでの検査は陰性。でも、おそらくただの風邪じゃなく、インフルエンザだったと思う。処方された抗生物質で下痢はするし……今年、初めてインフルエンザの予防接種を受けたというのに……でも、長引かなくて幸いだった。そんなこともあり、体調を整えるために、旅行までにこんなにも緊張した日々を過ごした旅行は今までになかった。
 フライト時間が早朝のため、羽田のエクセルホテル東急《http://www.haneda-e.tokyuhotels.co.jp/ja/》に前泊した。ここの車イス対応部屋は広く快適。第2ターミナルに直結しているのでとても便利だ。行く日は家を出るときは大雨だったが、羽田にさえ着いてしまえば何の問題もない。フライト時間に合わせて、朝、荷物を取りに来て運んでくれた。今回は電動車イスがパンクで修理が間に合わず、手動で行った。松井先生、Mさん、瀬出井、介助者のIさんの4人旅。
 さて、ほぼ定刻どおりに福岡空港に着くと、雨は降っておらず薄日が差すまずまずのお天気。待ち合わせ場所で、リフトカーを配車してくださったFさんにご挨拶とお礼を言い、リフトカー操作の説明を受けていざ出発! カーナビを付けていただけたので助かった。




 中島虎彦さんの文学展示館は、嬉野の肥前吉田焼窯元会館内にある。長崎自動車道に入り、途中のSAで軽い昼食。昼食を含めて現地には、1時間半くらいで着いただろうか。会館は、市街地から外れたのどかな田園風景が広がる集落の一角にあった。今回は、福岡からK.H.ちゃん親子とも会館で待ち合わせて合流することになり、久しぶりにお会いできるのが楽しみだった。Kちゃんたちを待っている間、販売・陳列されてある吉田焼を見ていた。その中から、取っ手が大きくて持ちやすそうなマグカップを記念に購入。現在、毎日の食事で愛用している。
 文学展示館のコーナーは、20cmくらいの段差がある15畳ほどの和室だが、きれいな場所だった。嬉野町吉田出身の文学者3人を集めた、「吉田ふるさと文学展示館」という名称になっている。作品集の他に愛用されていた、眼鏡・扇子・カメラ・ワープロなどが展示されている。中央にちゃぶ台のような机があり、そこにみんなで座ってお茶を飲みながら展示館とは思えない、なんだか虎彦さんのお宅にお邪魔をしているような、くつろいだ感じで楽しくおしゃべりしてきた。松井先生が、「よい供養になったのでは」とおっしゃっていた。
 虎彦さんの故郷で、再び彼に会えたような気がした。パンフにも使われている飾ってあるお写真、虎彦さんのお部屋のようだが、少し微笑んでいる穏やかな横顔のモノクロでとても素敵なお写真だった。どなたが撮ったのだろうかと……。改めて、虎彦さんが文学を通じて文筆家のお仲間や地域の方たちに愛され親しまれ、地元に根付いて頑張ってこられたのだなと、しみじみ感じることができた。(後編へ続く)

編集委員:瀬出井 弘美



 『臥龍窟日乗』  −キツネそばとタヌキうどん− 

C3−C4

「あ〜、キツネそばぁ? なんでっか、それ。ウチそんなんやってまへん」
 カウンターの奥で立食いうどん屋の親父は怪訝(けげん)な表情をした。
「おたくうどん屋じゃないの?」
 私の口調も詰問調になっていたに違いない。
「ほんなもん聞いたことおまへんわ、他の店行ってくれはる?」
 親父はうどんをかっ込んでいた常連らしき男に同意を求めた。男は目だけで私を一瞥しくすっと笑った。「失礼なことを言うな、この田舎もんが」 捨てぜりふを残して暖簾を払った私の背に、「どっちが田舎もんや。次のお客はん、なにしまひょ」
 と皮肉っぽい声がかぶさった。
 東京から大阪へ転勤して1ヵ月とたたないころの話だ。東京弁を使うだけで胡散臭がられることが何度か続いた後だから、今回も嫌がらせであろうと気にもかけなかった。
 しばらくたった酒の席、この話を同僚にしてみた。
「そらアカンわ。ええか、薄揚げ(油揚げ)ちゅうのがあるやろ、あれを素うどん(かけうどん)に乗せたんがキツネ、そばに乗せたんがタヌキや。キツネそばちゅうんは明らかに矛盾しとる。いわれた方もおちょくられた思うとるで」
「そんならテンカスかけたそばはなんちゅうの」
「ハイカラそばや。関東からきたんで敬意を表しとるわけやな」
 ホントに敬意か揶揄(やゆ)なのかは分らない。
 ちなみに関東では、甘く煮た油揚げをかけうどんに乗せたものをキツネうどんといい、かけそばに乗せたものをキツネそばという。またかけうどんにテンカスを乗せたものがタヌキうどんで、かけそばに乗せたものがタヌキそばである。
「ワシなあ、東京のうどん食うたことあんねんけど、あんな甘辛いちゅうかだだ辛いもん人間の食うものとちゃうで」
 言わずもがなのことを同僚は付け加えた。この辺が大阪人のやらしいところだ。確かに大阪のうどんは旨い。淡口醤油をベースにしたつゆは深みがあり味わいもある。さすが大阪はうどん文化だなと認める。
 例えば立食いのうどん屋でさえ丁寧に味をとっている。うまくなければ大阪人は2度とその店にはいかない。だからつぶれる店も少なくない。300円のうどんであっても真剣勝負なのである。
 私がよく通った店は鶴橋の居酒屋なのだが、湯豆腐がめっぽう旨い。昆布だしに淡口醤油、味醂(みりん)を少々加えたもので、湯豆腐にとろろ昆布と柚を添えて出す。薄口を信条とする大阪料理の極め付きで、これはもう絶品といってよい。湯豆腐のかわりにうどんをいれると素うどんになる。名物料理というとぶったくりが相場だが、この湯豆腐は300円くらいであった。
 だが蕎麦となるとそうはいかない。塩っ辛くて濃いあの味でなくては締まらない。
 1年間の大阪勤務中、難波の中心街にある蕎麦屋に入ったことがある。大阪では珍しいもりそばである。食べ終わった後、給仕のおばはんにそば湯を所望した。ところがこれが通じない。
「そばを湯掻(ゆが)いたお湯があるでしょ」「そんなもん、どないしはりまんの」「そばつゆを割って飲むんだよ」
 まさか湯桶(ゆとう)でくるとまでは期待しなかったがなんとキリンビールの景品コップにそばゆを掬(すく)ってもってきた。
「ま、こんなものか」
 と気分を転換して蕎麦ちょくに注いでいると、さきほどのオバハンをはじめ3、4個の雁首が、調理場の暖簾(のれん)の隙間から凝視しているではないか。それはまさにラッキョウの皮を剥くオランウータンの生態を観察する眼であった。
 有線放送が切り替わり「負けたらアカンで東京に〜♪」と演歌が…。なんで食いもんにまで東京に張り合うんや、大阪人は、とケツの穴を穿(ほじく)りながらオランウータンは店を去った。

千葉県:臥龍





【編集後記】





 暑さ対策のため今夏より、屋根のひさしから簾(すだれ)を下げました。少し薄暗くなっても、昨年まで直射日光が入り朝一番でヘルパーさんにエアコンのスイッチを入れてもらっていたのが入れる時間を遅らせることができ、窓際に熱気がたまらずに今までよりエアコンの効きもいいように思います。こんなに効果があるなら早くからしておけばと思いました。ただ推奨されているエアコン設定温度28℃は、どうしても(マヒにより発汗できず)熱が身体に籠(こ)もるため断念しました。
 そしてSさん(享年63歳)が6月15日に膀胱ガンにより逝去されました。いつも奥さんともども気にかけていただき、頸損の大先輩として生きる知恵を教えていただき大変お世話になりました。「はがき通信」を知ったのも、向坊さん宅でSさんから教えていただいたことがきっかけでした。謹んでご冥福をお祈りいたします。
 次号の編集担当は、瀬出井弘美さんです。


編集委員:藤田 忠







………………《編集委員》………………
◇ 藤田 忠  福岡県 E-mail:fujitata@aioros.ocn.ne.jp
◇ 瀬出井弘美  神奈川県 E-mail:h-sedei@js7.so-net.ne.jp

………………《広報委員》………………
◇ 麸澤 孝 東京都 E-mail:fzw@nifty.com

………………《編集顧問》………………
◇ 松井和子            
◇ 向坊弘道  (永久名誉顧問)

(2010.4.1.時点での連絡先です)

発行:九州障害者定期刊行物協会
〒812-0069 福岡県福岡市東区郷口町7−7
TEL&FAX: 092-629-3387
E-mail: qsk@plum.ocn.ne.jp

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